・・・とりわけマクダウェルはまさにこの「対象(存在)依存的意義」という考えを心の哲学に応用することによって、意味と心的内容について、ハイデガーと同じ意味で「特異」な外在主義を提案していると思われるからである。すなわちマクダウェルの外在主義は、
このいずれをも抱懐するのである。したがってマクダウェルの立場からは当然、「心は頭の中にはない」というテーゼが帰結する。そして私(荒畑)は、本質的に脱自である現存在というハイデガーの考えは、まさにこのテーゼの省略形であると考える。 荒畑靖宏 「脱自としての心的生─ハイデガーとマクダウェルの「特異」な外在主義─」 より抜粋 |
そうそうこれこれ、である。詳細に踏み込もうとすると今のところサッパリ判らぬ(笑)マクダウェルであるが、ナナメ読みしている限りだと、どうも自分と同じようなことを考えているような気がしてならないというのは、こういうところである。
で、上の引用が(厳密に、でなくてもだいたい)正当な読みだとすれば、原書まで遡って読むのは(わたしのドイツ語の能力では)とうてい不可能なハイデガーのかわりに、わたしはマクダウェルを読めばいいのだということになるわけである。安易かな(笑)。いやハイデガーも翻訳なら読まんではないのだけどさ。
上の「心は頭の中にはない」というテーゼは、字面だけいきなり読むと「そんなバカな」と思ってしまう人が多いことだろうが、わたしに言わせればこのテーゼはわたしがこのblogの開設当初から掲げている「脳はどうでもいい」ということと同値である。それは「どうでもいい」のであって、脳(頭)が心と関係を持たないということを意味しない。大なり小なり関係を持っている可能性は排除されないし、だいたい常識的に考えて大きく関係していることは間違いなさそうなことである。それでも「どうでもいい」というのは、ことを頭の中に限った場合、心の内容が「指示的にそれが『ある』と言うことができない」し、逆に心の内容が「ある」というとき、その動詞に対応する主語は有限な記述に帰着しない、物質系として言えばコンパクト(有界かつ閉)な延長を持たない。その意味において「心は頭(脳)の中にはない」のである。
興味深いのは、この論文の著者の言うことを信ずるなら、こうした枠組みで考えられているハイデガーやマクダウェルの外在主義は、外在主義と呼ばれる態度の中でも「特異」なものだということである。つまり普通に外在主義という場合のそれとは根本的に趣が異なるというのである。その違いの根本はどこにあるのか。今日のところは上掲論文をナナメ読みしただけなので、いずれ(とはいつのことになるのやら・・・)考えが進むことがあったら書くことにしたい。