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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ハイデガーのかわりにマクダウェルを読むべきか

2011年10月20日 | チラシの裏
・・・とりわけマクダウェルはまさにこの「対象(存在)依存的意義」という考えを心の哲学に応用することによって、意味と心的内容について、ハイデガーと同じ意味で「特異」な外在主義を提案していると思われるからである。すなわちマクダウェルの外在主義は、

(1) 意味と内容は頭の中にはない
(2) 意味と内容は心の中にある

このいずれをも抱懐するのである。したがってマクダウェルの立場からは当然、「心は頭の中にはない」というテーゼが帰結する。そして私(荒畑)は、本質的に脱自である現存在というハイデガーの考えは、まさにこのテーゼの省略形であると考える。

荒畑靖宏 「脱自としての心的生─ハイデガーとマクダウェルの「特異」な外在主義─」
より抜粋

そうそうこれこれ、である。詳細に踏み込もうとすると今のところサッパリ判らぬ(笑)マクダウェルであるが、ナナメ読みしている限りだと、どうも自分と同じようなことを考えているような気がしてならないというのは、こういうところである。

で、上の引用が(厳密に、でなくてもだいたい)正当な読みだとすれば、原書まで遡って読むのは(わたしのドイツ語の能力では)とうてい不可能なハイデガーのかわりに、わたしはマクダウェルを読めばいいのだということになるわけである。安易かな(笑)。いやハイデガーも翻訳なら読まんではないのだけどさ。

上の「心は頭の中にはない」というテーゼは、字面だけいきなり読むと「そんなバカな」と思ってしまう人が多いことだろうが、わたしに言わせればこのテーゼはわたしがこのblogの開設当初から掲げている「脳はどうでもいい」ということと同値である。それは「どうでもいい」のであって、脳(頭)が心と関係を持たないということを意味しない。大なり小なり関係を持っている可能性は排除されないし、だいたい常識的に考えて大きく関係していることは間違いなさそうなことである。それでも「どうでもいい」というのは、ことを頭の中に限った場合、心の内容が「指示的にそれが『ある』と言うことができない」し、逆に心の内容が「ある」というとき、その動詞に対応する主語は有限な記述に帰着しない、物質系として言えばコンパクト(有界かつ閉)な延長を持たない。その意味において「心は頭(脳)の中にはない」のである。

興味深いのは、この論文の著者の言うことを信ずるなら、こうした枠組みで考えられているハイデガーやマクダウェルの外在主義は、外在主義と呼ばれる態度の中でも「特異」なものだということである。つまり普通に外在主義という場合のそれとは根本的に趣が異なるというのである。その違いの根本はどこにあるのか。今日のところは上掲論文をナナメ読みしただけなので、いずれ(とはいつのことになるのやら・・・)考えが進むことがあったら書くことにしたい。

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マクダウェルかマクダウエルか

2011年10月19日 | チラシの裏
「Mind and World」を読んでみている、というか、読んでみようとしているわけだが、案の定というか何というか早速「なるほど、わからん」状態に陥っている(笑)。語彙はそれほど難しくはないのだが、この英語も哲学もむっちゃムズい。18世紀に書かれたヒュームのTHNが中学校の英語教科書のように思えてくるくらいムズい。

ほかにすることがなかったら例によってこれを私訳スケジュールに入れたいところなのだが、今そんな暇は全然ないから。THNでさえ滞り気味なのに、もっとムズイ、しかも他者の参照があちこち入っているMWをちゃんと読もうと思ったら、これはただ訳すだけでは全然駄目だというか、訳文が訳文にならなさそうである。デイヴィドソンとかアンスコムとか、実は未読なセラーズとかもそれなりに読み込まないとどうしようもない感じである。どれひとりをとっても厄介至極なのに。

そういう時はどうするかといって、他人が読んだところのメモ書きなりサーヴェイなり論文なりをWeb上からかき集めてきて、まずはそっちから読んでみる、というようなことを始めている。もちろん完全な訳文とかはないのだが、探せば結構資料がある。

ところでJohn McDowellという名前の日本語表記だが、今のところ「マクダウェル」派と「マクダウエル」派に二分されているようである。Davidsonは「デイヴィドソン」でほぼ統一されているのにこっちはまだのようである。

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連休のつれづれ(3)

2011年10月10日 | チラシの裏
人間の行為はすべて何らかの欲望に発するものだとしても、その内容は思考や判断によって修飾(modify)される。もとの欲望はごく単純なものであるから、人間の行為の内容の大部分は修飾された内容だと言っていい。いくらいいクルマでもガソリンがなければ動かないように、欲望がなければその行為は実行されないし達成もされないのだが。

この図式の上で「自由」はどこにどのようにあると考えるべきだろうか。最初の欲望はその存在も(ごくわずかな)内容も、自由なものではないはずである。そうすると自由は修飾の側に、つまり思考や判断の側にあるのだろうか。そうではないと思える。思考や判断の内容は確かにある程度自由に動かすことができるけれども、間違った思考を行う自由があるから自由は大切だとは言えない。何が「正しい」思考や判断であるかを客観的に定める基準があろうとなかろうと思考や判断は正しかったり間違ったりするものである。そして正しさの基準がどのようなものであるかに関係なく、正しい思考や判断はひとつしかない。つまり、いま仮に正しい(と思える)思考の結果がふたつ存在して、両者が互いに矛盾すると思われたら、それらの結果の持ち主は再考を促されるはずである。つまり、その基準がどのようなものであれ、「正しい」結果が複数存在して互いに矛盾するという結果は、思考の本性において受け入れられない。

結局修飾とその内容の方にも「自由」はないと言える。ではどこにあるのか。原点に戻ってみれば自由とは普通は何らかの行為の自由のことである。我々は赤信号で止まることもできるし、それを無視して前進することもできる。

同じような自由は、まったく物理法則にしたがう事象について「考える」ことまでは認めることができる。実際、未知の物理現象を解明しようとする場合、物理学者は可能ないくつかの場合について実験を行って検証する。物理法則に基づく現実の結果はひとつだけだが、可能性は複数考えることができる。

(未完)



人間の意識は命じられた通りに何かをすることを何もかも嫌うものでは、必ずしもない。たいていのことは、いざやってみると嫌なことである(笑)が、それはやってみてわかることで、常にやる前からわかっていることではない、とは言えそうである。人間の意識が命令を嫌悪したり拒絶したりするのは、命じられた事柄や命じられること自体が「無体」だと思われる場合である。

・・・いま手持ちの辞書を引いてみたら「無体」という日本語に対応する英単語が見当たらない。無体というのは「ひどい」ということだとも言えるから、それで引き直してみると「wrong」である。つまり「間違っている」ということである。確かに、間違って何かを命じられたり、あるいは命じられた何かが間違っていると思われたら、我々は誰でもその命令を拒絶しようとするか、あるいは拒絶できないとしたら、命令の内容や命令してきた相手を嫌悪したり憎悪したりすることになるわけである。

そうだとすると「自由」とは間違って命令されないこと、また命令の内容が間違っていないことだと言えるだろうか。つまり命令されることも、命令の内容も間違っていない(正しい)と思われる場合、我々は自分のことを自由だと考えるだろうか。どうもそうではなさそうである。命令されることもその内容も正しい(間違っていない)と思われる場合、その命令に従って行為することは特に不愉快なことではないし、積極的に愉快だと感じる場合さえありうるように思われる、が、それにしてもそれは「自由」ということとは違うし、関係がなさそうに思える。

(これも未完)

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連休のつれづれ(2)

2011年10月10日 | チラシの裏
どんな場合でも、相手しなくていいならしない方がいい相手というのは「何をしてくるか判らない相手」である。底が知れないと言って、本当に底が抜けている相手というのが存在するわけである。その最大の最悪の例は天然自然だということになる。福島の原子力発電所はそれでしてやられたのである。まさかM9クラスの地震と大津波をぶつけてくるとは思いも寄らなかったのであるのに違いない。計算上、M8クラスの地震ならあの大惨事はなかっただろうと考えられる。

けれども結局我々はその最悪の天然自然との戦いだけは避けて回るわけにはいかないのである。いかにも、天然自然というのは底の抜けた相手で、「最悪の場合」ということを有限の範囲で想定することができない何かである。

とはいえ、そのことは人類がこれに立ち向かうことをやめてしまう理由にはならない。底の抜けた大自然はいつの日か直径百キロクラスの小惑星を地球に激突させるだろう。人類はそれで終わりである。勝ち目のないことは一切やるなというなら、今日すでに人類の歴史は終わっていると言って構わない。いずれケチな小惑星ひとつですべてが跡形もなく吹き飛ばされてしまうのに、今それをする意味があるかと問うてみれば、意味のある行為など何ひとつ存在しないことは明らかである。何をどうしようと、地球まるごと真っ黒焦げの未来を変えることはできないのである。

もっと小さなところで言ったって、我々は誰もがそのうち死んでしまうのである。それで終わりである。どうせ死んでしまうのに、今それをする意味があるのかと言って、「死」に関する限りは意味のあることなどひとつもない。何をどうしようと、自分自身が死体と化す未来の結末それ自体を変えることはできない。何か変なクスリを飲むとか、シリツするとかによって、死ぬのを少しばかり遅らせることはできるかもしれないが、そんなに大きく遅らせることはできない。苦痛を減らすとか、生の尊厳を保つという点でなら、それらの行為も大きな意味を持ちうるけれども、死の運命それ自体に関する限りは無駄な悪あがき以外の何かではないと言っていい。

人間個人の意志と行為はいかなるものであれ、自身の誕生と死に対する効力をほとんどまったく持っていない。ただしこれを裏返せば、誕生や死は個々人が生きる上でもつ意志や行為について効力をほとんどまったく持っていないということでもある。いまわたしがカツ丼を食べようとしている、あるいは食べていることは、わたしが死ぬ運命にあるかどうかということとは、事実、ほとんどまったく関係がないのである。つまり「どうせ死んでしまう」ことを前提として意志や行為を判断したり価値づけしたりすることは、そうした判断や価値づけは単に形式的に構成可能だというだけのものであって、実は意味がないのである。

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連休つれづれ

2011年10月09日 | チラシの裏
勝海舟の父親、勝小吉の自伝「夢酔独言」を読んでいる。昔から読みたいと思っていたもので、しかし本屋通いをしていたころにはどうしてかまったく見つけることができなかった。たぶん探し方が悪かったのだろうが、いまインターネットで検索すると、というか普通にAmazonで古書でも新刊でもいとも簡単に手に入る。それはそれとして今ではすでに原文なしの現代語訳しか載っていない本さえあるということを、検索してみて初めて知った。これは、あとなん十年かしたら教科書にも載りそうだな(笑)。

有名だろうからくわしく書かないが、中身の方は要は「幕末バリバリ伝説」とか「ビーバップ八百八町」とでも言ったらいいようなものである。それをさんざん書いておきながら「こういう大人になってはいかんぜ」の前書きがついている。己がケンカ一代記を書いてみて(それを書くまではろくに字も書けなかったらしい)初めて後悔の念を抱いたとしか思われぬことである。

その小吉が亡くなったのは数えで四十九歳のときだと巻末資料で読んではっとなった。数えで四十九なら、それはほぼ今のわたしの年齢である。小吉が「夢酔独言」を記したのはさらにさかのぼって厄年の頃だという、つまり、その頃にはほぼ隠居していたわけである。早逝を惜しんだり怪しんだりする記述に会ったこともないから、人の寿命としては普通だと当時においては受け止められたのだろう。日本人の平均寿命が伸びたのは専ら乳幼児の死亡率が劇的に低下したからだ、とは時々言われることだが、江戸の頃くらいなら四十で隠居して五十前に死ぬ(楽隠居というのは不思議に長生きしないものである)人も、やはり実際にたくさんいたのである。

どうしてそんなに早く死ぬかと言ったら、コドモのころからろくなもの食べていなかったからに決まっているわけである。幕末や明治の頃の写真を見ると、写真だから縮尺はわかりにくい、特に背景に比較するもののない肖像写真はわかりにくいはずなのに、ひと目で「背ェ低っくいなあ」と感じる。つまり、現代から見れば誰でもひと目でわかってしまうほどに、当時の人々の栄養状態はきわめて悪かったのである。大人の背丈があれだけ低いのは、コドモのころからろくに食べさせられていなかった何よりの証拠である。

ほかに、風が吹けば吹かれっぱなし、雨雪が降れば降られっ放しで、自然の暴虐はほとんどそのまま人の心身を蝕むものであったはずである。わが国の気候は表日本なら夏、裏日本なら冬が殺人的に多湿である。温度の変化もこたえるが、人間の心身を本当に蝕むのは湿度と気圧の変化だとわたしは思っている。今日なら簡単に治る病気でも簡単に死んでしまったのは、それだけの衛生医療もなかったからということのほかに、もともとささいな病気も押し返せないほど人々の抵抗力や自然治癒力が弱かったということを示しているのではないだろうか。

その短命だった日本人の寿命が今や世界一になったのは、だから、決して医療の発達だけではないとわたしは思っている。それはむしろ補足的な事柄で(医療が発達したのはわが国だけではない。ましてやわが国において最も発達したわけではない)、一番の原因は物質的に豊かになったこと、つまり栄養がよくなって、特に夏冬の苛烈な気候の影響を和らげるような室内環境が整ってきたことである。後者はつまり冷暖房除湿の空調設備である。栄養は高度成長期の時点で行きわたるようになって、むしろ当時から過剰が言われて久しいのである。それでもなお平均寿命は伸び続けている。それは多く空調設備のおかげだとわたしは見ている。

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べき乗則と再分配

2011年10月09日 | チラシの裏
昨日はblogの記事も書かずに題名の2語をキーワードにして調べたり、調べて見つかったものを読んだりしているうちに終わってしまった。

とりあえずこれまで調べてきてわかったことは、所得の分布がべき乗則になることのモデルやそれにもとづく説明、あるいは各種の経済社会パラメタがその係数(格差の激しさや貧困の苛烈さ)にどのような影響を与えるかといったことは、実証的にも理論的にもそれなりに研究されてきている、ということである。しかし今のところ探しても見当たらないのは、再分配によって格差や貧困を是正できる一方でそれが「社会や経済の活力を削ぐ」とされていることについての研究である。

そう言われているだけで実は削がれないのだとしたら問答は無用で、再分配はいくらでもやればいいということになる。極端な話、経済活動の結果生じた収益はいったん全部国庫に納めた上で各人に公平に(せいぜい労働の拘束時間に応じて)分配すれば、経済的には完璧な平等が実現するわけである。もちろん非現実的でバカ気た話だ。けれどもそれが非現実的だというのはともかく(国庫なるものがそれほど信頼に値するかといって、値するわけがない、という問題が別にある)、それを別にしたとしてもバカ気ているように思えることの本当の理由は何だと言ったら、それは理論的には必ずしも明確ではないのである。

理論でなくてよければ感覚的に「なんかやる気起きなさそうだ」ということは誰でも思うはずのことだが、実のところその「やる気」というのは、あるいはそれを集合的にみた場合の「社会の活力」と称するものは本当のところ何なのだと言ったら、それは誰も知らないのである。それを考えることができるとしたら哲学にしかできないわけである。そしてその哲学においてさえも意志とか欲望とか(まとめて「意欲」だ)それに関係する行為といったことは、必ずしもよく論じられてきてはいないのである。

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モデル構築のためのメモ

2011年10月07日 | チラシの裏
ふたつの異なる意識の間で起きているのはmutual acceptance(相互承認)などという結構なものなどではなく、mutual exploitation(相互利用もしくは相互搾取)とでも呼ぶべきものである。

あくまで機能主義的にみた場合の意識の問題はふたつの領域に分けられる。ひとつはまったく単独の意識の領域である。もうひとつは相互利用的な領域である。言語は確かに後者の領域の成立と不可分なものとして発達したはずである。

この双方の成立にかかわって重要なのは意識が像(image)の過剰次元(surplus dimensions)を持つことである。同様に行動においても過剰次元を持つものとする。行動は像の関数として一意に決定されるものとする。過剰次元を持つ像は過剰次元を持つ行動に写像される。

これらの過剰次元は文字通り過剰であって、個体の利害にとって本質的に有益な本性を何も持っていないものとする。ただし何の影響も与えないのではなく、平均的に中立な影響を与えるものとする。平均的には中立なので、仮に個体の行動が各々独立であるとすれば、集団的な帰結はそれに影響されないはずであるが、独立でない場合、つまり大なり小なり行動の一致性(coherency)が生じている場合には集団的な帰結に影響が現れうるし、個々の個体もそれに伴って帰結の変容を被りうることになる。このような設定のもとで、像と行動の過剰次元は集団と各個体の利害に関して何か意味のあることを引き起こしうるであろうか。

注意すべきことは、これらの過剰次元は意識の次元を意味するわけではまったくない、ということである。ここで考えている個体はあくまで機械的な、つまり自身と近傍の状態から一意的に行動を決定するような存在であって、過剰次元はその内部状態や出力の過剰次元であるにすぎない。

このモデルではたとえば経済格差の形成ということを考えることはできない。「所有」とか「富裕」とかいった概念を(恣意的ではない形で)定義しようがないからである。あくまでも相互利用とか過剰次元という考えに機能主義的な意味があるかどうかを検証するためのモデルである。

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メモの補足

2011年10月03日 | チラシの裏
下のメモは題名通り、なんとなく「脅威(threatening)」ということを考えていた時に思い浮かんだことのメモ書きである。そもそもどうしてそんなことを考えていたかというと、政治ということを考える場合、これまでは専ら「競合する利害の調整」ということを考えてきたわけだが、ただの調整だけで済むわきゃないんだよなということがあるわけである。政治的な調整は超越的な第三者の存在を必要とするわけだが、この「超越的な第三者」というのが言葉の普通の意味で善意の存在であるとは限らないわけである。競合する二者のどちらか、あるいは両方に対して脅威を及ぼすことが、あるいはその脅威の効力そのものが超越的な第三者であるかもしれないわけである。

このあたりの考察でしきりに比喩として用いている「交通整理」だってある意味では脅威を用いているわけである。赤信号は走ってきたクルマを停止させるどんな効力も持っていない。クルマが停止するのは、そのまま走り続ければ高い確率で事故を起こす「自然的な脅威」についての因果的な推論を運転者が行うからである。(まあ、減点とか免停とか、交通法規として人為的に作り出された脅威もあるわけだが、それはおおよそ自然の脅威の効力を強化したり、結果をより確実にするためのものだと言った方がいいわけである)。

何にせよ「事故る可能性」という脅威をケーサツが作り出しているわけではない。とはいえケーサツはその脅威を信号灯の点滅で修飾することで、その流れを作為はしていることにはなる。人為的な脅威や権力の効力はもとをたどればすべて自然的な脅威にゆきつくかどうかは、さしあたってよくわからない(まだ考えを詰めていない)。

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「脅威」についてのメモ

2011年10月03日 | チラシの裏
因果的な推論は疑いようもなく個々人の意識の内側で生じる現象である、にもかかわらず、その自由な意図の外側に置かれているという意味で自由ではない。そもそもそれを使って外側の世界のありようを把握するために用いる道具であるから、むしろ本性的に自由であってはならない。それは刃物と同じ、自由な意図にとって両価的な道具である。

人間の意識の推論能力はそれを道具として用いるために自由な意図からは切り離されて動くように、もともとできている。そしてこのことは、その道具的な能力が外側から、別の誰かの自由な意図に沿って間接的に操作されてしまう危険を常に潜在させることを意味している。刃物で傷つけなくても、ただ目の前で刃物をチラつかせるだけで、チラつかせた相手の行為を制御するという意味で支配することができてしまう。

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物理屋が慎重なのはいいことだが・・・

2011年09月28日 | チラシの裏
今日も今日とてニュートリノの話。昨日書いたバカ話に少しは脈があるのかどうか知りたくてあちこち検索をかけてみたのだが、まあ、アレだね、複素質量というだけで筋が悪いというか、基本的にトンデモ扱いで頭っから相手にされないと考えていいようだ。実際、検索にかかったサイトのざっと7割方はひと目で判るようなトンデモだった。そのうちのひとつが自分の記事なのだから嫌になってくる(笑)が、こんだけトンデモ比率が高かったら、まともなところがあったとしても忌避されてしまうのは仕方がない。

わたしのバカ話というのも複素質量ということにキモがあるわけでは本当はなくて、相対論と今回の実験結果がどちらも正しいと仮定して、さらに超新星爆発やその他のニュートリノ観測結果も併せて考えると、今回の結果をもたらす正当な原因があるとすれば地磁気の影響くらいしか思いつかないということがあるわけである。短距離でなら影響が現われるが、超新星くらい遠くから飛来したニュートリノでは影響が相殺されなければならない。また地球上の場所によっても変化しうる(カミオカンデ実験では目立った速度差は検出されていない)、それってどんなものだと考えているうちに昨日のトンデモを思いついた次第だ。

そこから一足飛びに複素質量などと言いだすのが筋が悪いわけで、それを言うならまずニュートリノ振動と混合のモデルや実験結果の方に目を向けるべきだったのである。で、それを扱っているサイトもいくつか眺めてみたのだが、これは、さすがにわたしの手には負えない(笑)。少なくともアタマの中だけで適当に考えているだけでは駄目で、このあたりの理屈をじっくりベンキョーしてかからないといけないようだ。しかし今のわたしにはその余裕などない。

一連の記事でわたしが言いたいのは自分のトンデモ理論の主張などではなくて、物理屋の人達はただただ慎重に再実験結果の報告を待ってるだけではなしに、今回の実験結果が正しいとした場合の理論的影響について素人にもわかるような説明をやってほしい、ということである。「そんな暇はねえ」などと突っぱねられることだとすれば、わざとトンデモ理論を書いてでも引きずり出したいわけである。

物理屋は俗世を超越している人が多いもんだから、世間でこういう騒ぎが起きても長いこと無視していて、それが最後に「相対論は間違っていた」本のたぐいがブームになったりしたくらいになってようやく出てきて何か言う、というパタンが多すぎるわけである。それでは遅すぎるのである。

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よーしパパ、トンデモ理論書いちゃうぞー

2011年09月27日 | チラシの裏
パパじゃないんだけどさ。

例のニュートリノのスコルツェニー現象(と勝手に命名する)を今日つらつら考えていて、質量を複素で考えたら説明がつかないだろうか、という気がしてきた。もちろん無知な素人の思いつきである。間違っているのは承知の上で書いている。これを書いておけば誰かが読んで真っ青になって、そうではありえないゆえんをきっちり説明してくれるかもしれないではないか。

複素質量といって、いわゆる質量が複素なのではなくて、ある複素量の絶対値二乗が質量として観測されると見なすわけである。位相成分は変化しても質量は変化しない。長い目で見れば平均化されて相対論は破れないが、ごく短い距離でなら「位相ワープ」がありうるのではないかというわけである。

肝心なのは、その複素質量の位相成分は勝手にふらつくわけではなく、何かの定常的な作用によって変化するのでなければならないということである。そうでなければ15000回計測して6σ以上の有意差が光速を超える方に生じるわけがない。この場合のその何かとはどう考えても地球である。地球の何なのか。わかりやすい候補がふたつ。地球の質量か、もしくは地磁気である。前者は普通に相対論の効果を及ぼすわけで、これはとっくに計算に入っているだろう、とすると後者だろうか。これが今日考えたトンデモ理論である。

もちろん素人考えの範囲でも危ういところはたくさんある。そもそも上述のごとき複素質量の概念がトンデモなのだが、それ以上に位相成分が電磁場の作用を受けるということには何ら理論的な根拠がない。状況からみてそれしか候補が見当たらないというだけである。そのトンデモがクリアできたとしても、もしもそうなら同じことは質量を持つたいていの粒子について(質量に逆比例して効果は小さくなるとしても)言えなければならないということになる。他の粒子についてこうした速度のふらつきが相対論や量子論の外で生じたという実験結果は、少なくともわたしは知らない。さらに、仮にニュートリノについてのみ成り立つ話だとしても、電磁場の作用でそれが生じるなら、粒子加速器の周辺を飛び交っているニュートリノの飛跡の中に同じような現象が見出されていてもおかしくないはずだが、そういう報告も、少なくともわたしは知らない。もっとも電気的に中性のニュートリノの飛跡は電磁場によって曲げられない。上が正しいとしても変化するのは(見かけ上の)速度だけである。飛跡から速度変化を読み取ることができるかどうかは知らない。

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ついに一条の線と化す

2011年09月26日 | チラシの裏
映画館の苦痛

ちょっとチケットをもらったので、先日、ひさしぶりに映画館に行った。(中略)大学の講義だって90分なのに、2時間も、いや、予告編だの入れると、2時間半近く座らされるなんて、こりゃ拷問だ。

とにかくとろい。撮ったカット、端から端まで、ぜんぶ使いやがる。こんな絵、前後、詰めちゃえよ、って命じる、ちゃんとしたプロデューサーがいないのだろう。水っぽい。そのうえ、女優の肌が汚い。(中略)早く、話、進まないかなぁ。って、時計ばかり見てしまう。

(中略)こりゃ、今後、客が増えるとはとうてい思えない。なのに、事実として、あんだけ、客がいるんだよねぇ。あんたら、ほかにすること、ないのかね。とっても不思議だ。
(純丘曜彰教授博士の哲学手帖)Sep.25,2011

若干眉を顰めながら、ではあるが途中まではフンフン言いながら読んだ。わたしにも身に覚えがある、というか、SWのエピソード3を見たとき「映画館で映画を見るのは、本当にこれが最後だな」と感じて、しかも実際にそれ以来映画館には足を運んでいないわけである。SWの場合この大学教師が言うような「とろくさい」ところはないし、ナタリー・ポートマンの肌が汚いということもなかった。とはいえ、とにかく長い。編集の達人ルーカスが作っていると判っていても長い。どうしようもなく長い。

そういうわけでひとつひとつの事実については「ホントにそうだな」と思ったのだが、最後に来て「あんたら、ほかにすること、ないのかね」と書いてあるのを読んで「大きなお世話だろ」と思ってしまった。映画館で映画、なんていうのはだいぶ前から「連れ立って見に行く」ものなわけである。恋人どうしか友達どうしか、何にせよ複数で連れ立って見に行くもので、ひとりでじっくり見に行くものじゃないのである。遊園地や居酒屋にひとりで行ったら苦痛なのは当たり前である。わざわざひとりで行って、遊園地のアトラクションが時代遅れだとか居酒屋のねーちゃんの肌が汚いとかいうのは反則なのである。

この人物は大学教師のかたわらテレスクリーン番組制作にも携わったりしているようだから言ってみると、これが旧テレビ屋の本音なのだとすると、テレスクリーンだって危ないぜと言っておきたい。テレビ/テレスクリーン用に作られた映像を動画サイトで眺めていると、上とそっくり同じことがたった30分ほどの番組についてさえ言えるからである。ひとりで見ながらじっとしていられるのは3分ないし5分が限度である。それも上に書かれたそのままの意味で「とろくさい」映像に、「こんな絵、前後、詰めちゃえよ、って命じる、ちゃんとしたプロデューサーがいない」のかと歯ギシリしながらガマンを重ねていたりするわけである。

わたしが不思議に思うのはむしろ、こうした傾向を無限に延長して行くと何になるのか、ついに一枚の絵になってしまうのではないかと思われてしょうがないことである。それはおかしな結論だが、論理的にはそうならざるを得ないのである。もちろん現実がそうなるはずはない。どこがおかしいのか不思議である。

上の題名はスリングショットの水着が初めて現れたとき(バブルのさ中のことだった)、故山本夏彦が写真コラムにつけた題名である。

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雑考

2011年09月26日 | チラシの裏
昔より『人前で、自分の意見が言えない人』が増えた。原因は『KY、クレーマー、モンスター、いじめ、多数決、出る杭は…、堅実な夢』など…。『おりこうさん』に育てられたから、真面目な人が『意見が言えない』『コミュニケーション不足』にされ、鬱病・適応障害が増えたのかなぁ?
(generatinoside5)

まず「昔より『人前で、自分の意見が言えない人』が増えた」という事実は、おそらくは存在していないのである。昔も、たいていの人は、人前で自分の意見は言わなかった。そのかわり裏手の方で陰口を叩いた。今もだいたい似たようなものではないだろうか。twitterの上に流れているのはその陰口のたぐいだと考えた方がよほどわかりやすい無体さとデタラメさに満ちている。

鬱病が増えたのは、そういう統計もあることで、事実だ。もっともそれは文字通り鬱病が増えたということなのかどうかは、はっきりしない。本当の鬱病の人がしきりに訴えて言うことは「怠け病と間違えられる」ということだ。だったら、昔は全部間違えられていたのかもしれない。

仮に自殺率の数字が正味の鬱病の率と正比例しているのだとしても、その原因が「意見が言えない」からだということを示す明確な根拠は見出されていない。少なくとも1998年になって急に意見の言いにくい社会になったわけではない。どっちかというとカネを払いにくい(払うカネの足りない)社会になったという方がまだ説得力がある。

文字通りの病気としての鬱病が増えたというよりは、いまどきそう呼ばれている鬱病は表現行為の一種のようにも見える。普通の人が人前で自分の意見(心の内容)を開陳しても、日本の社会では(伝統的な社会でも現代的な社会でも)それは何をしていることにもならない、社会的に実質のある何事も構成しないという点でほとんど無意味だ。それよりは、個々人はまだ鬱病にでもなった方が、本人にとって肯定的にせよ否定的にせよ「意味を持つ」ように思われるようになったというところがあるのではないだろうか。

なんでこんなことを思うかというと、いっとき「鬱病は心の風邪」だという言い方が流行したわけである。風邪という病気は実際に病気であるよりも、要求されていることを拒否するていのいい口実だというところが(今は知らないが)昔はあった。つまりそれはそれで「意見を言う」ことの微妙な代用という側面を持っていた。風邪かどうかは別としてマンガ家が連載を休むときはたいてい「急病のため」と書いてあった。それを逆手に取って「都合により急病のため休載」というギャグまであった。

今が昔と本当に違っているような気がすることのひとつは、「風邪のため」というたぐいの虚々実々が次第に通用しにくい社会になってきたのではないかということだ。わかりやすい例で言うとプロレスみたいな虚々実々あってこその娯楽が、大きな規模では成り立ちにくくなったということだ。この次元になると、いったい何がそのような変化をもたらしたのかの原因も、たぶんまだ(世界中の)誰にもはっきりとは掴まれていないように思える。

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「オカルト」乱考(4)

2011年09月20日 | チラシの裏
もとより「乱考」の乱はアトランダムということで、予告はどこ吹く風で別のことを書く。もちろん予告したものもそのうち書く。

いわゆるオカルトではない、どっちかいうとまともな宗教の部類だが、昔、わたしの住んでるアパートに「エホバの証人」の人が頻繁に勧誘しに来ていた時期があった。もちろん勧誘に乗る気はなかったのだが、前々から聞いてみたいと思っていたことがあったので逆にこっちから訊ねてみたことがあった。ひとつは彼らが輸血を拒否している理由である。彼らに言わせるとそれは端的に「輸血は人食(カニバリズム)にほかならないから」ということであった。

もうひとつ、彼らに限らないが、一般に原理主義的な傾向のあるキリスト教の宗派がたいてい進化論を否定している理由も問うてみた。これの返答もなかなか見事というか明解なもので、ほとんど言下に「あなた、人間がサルみたいなものから進化してきたなんて信じられますか」という答が返ってきたのであった。この「サルみたいなもの」というところで、勧誘の人が一瞬、本気で「なんと汚らわしい」という表情を見せたのが大変に印象的だったのを今でも覚えている。なるほど、そこにこだわっていたのか(笑)。

もちろん人類はサルから進化してきたのではなく、サルと共通の祖先種から分かれて進化してきたと考えられているわけだが、そういう細かいことは言っても詮無いことだと思われた。サルだろうとサルと共通の祖先だろうと、彼らにとって「汚らわしい」別種のケダモノであることに、たぶん違いはないのだろうからだ。

この個人的な昔話がこのシリーズとどう関係するのかというと、彼らが信奉している教義は基本的に「人間の本性、特にその尊厳にかかわるようなことは、まったく生物体としての身体に内在する属性である」という命題を前提としているように思える、ということである。

もちろんわたしはそうした命題を肯定しない。科学としても哲学としても認めないのだが、しかしこうした命題は、たとえばいわゆる「脳科学」、つまり脳神経認知原理主義の疑似科学においても共有されているわけである。脳神経認知原理主義の教義のうちに「人間の尊厳」という概念がそもそも存在するかどうか怪しい気がするが、とにもかくにもあの汚らわしい(笑)連中の考えによれば、人間の心は全部「生物体としての身体、それも専ら脳神経系に内在する属性である」ということになっているわけである。だから、それと深い関係にありそうな魂とか尊厳とかいったことも、それを認めるとすれば脳神経系の機能の一部だと言い出すに決まっているわけである。彼ら「脳科学」信者は輸血を拒否することはないだろうが、キリスト教原理主義の信者を前にしたとき進化論を政治的に擁護することは、おそらくできないはずである。

是非はともかく、そういう意味でこの命題は、原理主義的な思考に特徴的な命題であるように思える。こうした命題が根本的(fundamental)であるという考えがそもそもどこに発祥したのか、そしてどのように近代世界の人々の間に蔓延ることになって行ったのか、それを解明することは重要であると思える。

こうした思考はもちろん科学のものではないし、たいていの宗教でも根本的なものだとは見なされていなかったはずである。わかりやすく言えば、だいたいどんな宗教でも霊とかタマシーとかの存在を認めるものだとは言えるだろうが、それがどんな対象物に内在する属性であるのかといった問いは第一義的な問いではないし、そもそも正当な問いですらなかったはずである。なぜなら、もしそれが正当な問い(答が明解に存在するような問い)であるとしたら、その対象物が対象物として壊れてしまったら、それと一緒に霊もタマシーも当然消失するのでなければ話が合わなくなるからである。全部がそうではないが、たいていの宗教はタマシーの永遠とか再生とか、そういうことを言うわけである。肝心なのはそうしたタマシーが存在するということへの信念であって、それがどこにあるのかではなかったのではないだろうか。

いいかえれば、それをあたかも第一義であるかのように問わなければならなくなった事情が、原理主義的な傾向を持つ宗派、あるいは「脳科学」みたいな疑似科学の信奉者の間には存在しているのである。それを問い、明解に答えを与えられなければ、彼らの信仰つまりタマシーの存在(後者の場合は非存在)ということへの信念を擁護できなくなるのではないかという恐れを、いつかどこかで彼らが抱くようになったということである。

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「オカルト」乱考(3)

2011年09月18日 | チラシの裏
科学的には間違いなく根も葉もない、常識にすら反しているようなオカルトを頭から信じ込んでしまう、人の心がそのような反応を起こしてしまうひとつの重要な要因は、道徳的な正しさへの渇望であるように思える。「水からの伝言」を道徳の授業に使ってしまう教師の人の例はそれを示している。

もっともそう言っただけでは、「道徳的な正しさ」という字句それ自体が、我々の日常生活にとってはほぼ空語に等しいわけで、何も言っていないのと変わらない。そこでもう少し踏み込んで言ってみる。とりたててオカルトに傾倒していなくても、「道徳」などという嫌らしい単語を頻繁に口にしたがる人達は時々いるわけである。彼らはいったい何のつもりでそれを口にしているのか。

わたしの考えでは、その場合の「道徳」あるいは「道徳的価値(正しさ)」という言葉は、ほぼ機械的に「生きる意味」という5文字に置換できるように思える。ウソだと思うならM・サンデル先生がそれについて語っている本のどれでもいいからページをめくって、その中の「道徳的価値」という5文字を「生きる意味」ないしそれに相当するような字句に置き換えながら読んでみてもらいたい。多くの場合、故障は生じないはずである。

人間は確かに自由な存在だが、そうは言っても意味がないと思うことは決してやりたくない存在でもある。だから自由といっても、その行為の選択には大なり小なり「意味があるのかどうか」の制約がかかっているはずで、そしてその意味を創出している、あるいは供給しているのがコミュニティなのだ、という考え方が、サンデル先生の政治哲学の中心にあるわけである。

それはそうだとしてもその「意味」とは何なのか。この2文字は、このblogで以前書いたことがある通り「それは何をしていることになるのか」に置き換えて読めばいいことである。「人生の意味」なら「人生は何をしていることになるのか」であるし、「計算機プログラムの意味論」とは「そのプログラムは何を計算していることになるのか」である。だから、道徳のことばかり言いたがる人達というのはつまり、彼ら自身の生活なり仕事なりが何をしていることになるのか、それが不明瞭になることを恐れているのか、あるいは現に不明瞭であることの不平を述べているわけである。

そうした恐れや不平は、別に道徳家でなくても誰だってある程度は持つようなことである。道徳家はその感じ方が激しい人達なのだとしても、主張するのに都合がよければオカルトまで援用してそれを主張することも辞さないというのはなぜなのか。またそれを自分の内側だけにとどめておけなくて、というかほとんど必然のようにして外側の世界に、他人や社会にもそれを押しつけようとする、それも(本人は気づいてもいないことが多いが)しばしば独善的にそうしようとするのはなぜなのか。次回以降でその説明を試みてみることにする。

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