「色々書いてはいるのだが纏まらなくてちっともうpできない」と前々からぼやいていたりするわけだが、何を書いているのかのサンプルくらいはうpしてみることにした。まあ他にネタがないので、その埋め合わせみたいなものである。
哲学者というのは何かというと「他者が存在するとなぜ言えるのか」ということを問題にしたがるが、これは愚問の最たるものではないのだろうか。何かよほど変わったビョーキでもない限り、いったい誰が、他者が存在しないなどというのだろうか。あるいは他者が存在しないかもしれないなどということを疑ったりするのだろうか──と、これは、普通の人が哲学の議論に対して言いたがることの典型的なひとつではないだろうか。
もちろん、他者は存在しないとか、他者は存在しないかもしれないといったことを、真顔の本気でそう思っている哲学者は、まずいないはずである。もしいたら確かに「よほど変わったビョーキ」の持ち主だし、そのビョーキは哲学の解決すべき課題ではないのである。
じゃあ何しに、と問われた場合に、わたしは通常は人工知能やロボット工学を引き合いに出して答えることになっている。確かに我々は、つまり人間の意識を持っている人間は誰でも、よっぽど変なビョーキでもない限り、他者が存在することを確信している。けれどもその確信はそもそも何に由来しているのか、それを強いて考えてみると、これが実はよくわからないのである。どのくらいよくわからないかといえば、人工知能やロボットに「他者が存在することの確信」を組み込もうとしても、それがどうやってもできない、誰もできたためしがない、それどころか、今後ともできそうな気配がちっともしない、という程度には、それはよくわからない、わかっていないのである、と。
この答え方はたいていの現代人を納得させるはずのものだとは思っているのだが、本当言うとこの説明には重大な欠陥がある。どういうことかというと、上のように説明すると「じゃあ、それができるようになれば人工知能やロボットが他者の存在を理解するようになるのだな」という風に理解してしまう人が(たぶん、たくさん)いるわけである。確かに「それができるようになれば」そうなるのだが、実のところそれがそうなることはありえないということも、だいぶ前からはっきりとわかっているわけなのである。つまり人工知能やロボット工学の研究について、存在しえない出来事への期待、文字通り「あらぬ期待」を抱かせてしまう可能性があるということが、この説明のはらむ重大な欠陥なのである。
困ったことに、それを認めると、話は振り出しに戻ってしまって、「じゃあ何で哲学は今もなおそれを考えているのか」ということになってしまうわけである。もちろん別の答え方はできるのだが、わたしの考えではたぶん、たいてい誰もが納得できるというほど単純明瞭な説明は、ほかにはないのである。いいかえれば、哲学によってかなり違う答え方をすることになるのではないかという気がする。
そうは言ってもまあ少しやってみよう。もうひとつの説明は、たとえば物理学を引き合いに出すことである。物理学の方は哲学ほどには、世間の人から不審がられることは少ないわけだが、それにしても物理学だって、普通の人から見ればずいぶん珍妙な問題に取り組んでいたりするわけである。つまり、物理学は他者の存在こそ問わないけれど、たとえば「ニュートリノに質量はあるか」とか、「ヒッグス粒子は実在する粒子なのか」とか、そういうことは大いに問うのである。なんでそんなことを問うのかと物理学者に問うたら、物理学者は頑張って答えてはくれるかもしれないが、誰にでも理解できるように答えるとなるとひと苦労するはずである。
ニュートリノに質量があるかないか、ヒッグス粒子がそもそも存在するかどうかといったことは、もちろん重要な問題なのである。その答えがどっちに傾くかで、この宇宙の成り立ちや行く末の描像が、まったく天と地ほども違ってきてしまう可能性があるわけである。まあこのくらいは、そのへんの啓蒙書にでも書かれている。けれども、それはいいとして、宇宙の成り立ちや行く末の描像がどうであろうと、そんなことは俺らのジンセイにとっては一切何のかかわりもなさそうなことじゃないか、どうしてそんな、憂き世離れした大袈裟な(ひょっとしたら本当にただの大ボラかもしれないじゃないか)ことの研究に、俺たちは結構な額の税金を払わされているんだ、などと問われたら、よほど優秀な物理学者でも冷や汗くらいは流すのではないだろうか。さほど優秀でない物理学者は「税金は物理学ではない」くらいのことを言って済ましてしまいそうな気がするだけに、なおさらである。
(ノンブルは振ったが、続くとは限らない(爆))
哲学者というのは何かというと「他者が存在するとなぜ言えるのか」ということを問題にしたがるが、これは愚問の最たるものではないのだろうか。何かよほど変わったビョーキでもない限り、いったい誰が、他者が存在しないなどというのだろうか。あるいは他者が存在しないかもしれないなどということを疑ったりするのだろうか──と、これは、普通の人が哲学の議論に対して言いたがることの典型的なひとつではないだろうか。
もちろん、他者は存在しないとか、他者は存在しないかもしれないといったことを、真顔の本気でそう思っている哲学者は、まずいないはずである。もしいたら確かに「よほど変わったビョーキ」の持ち主だし、そのビョーキは哲学の解決すべき課題ではないのである。
じゃあ何しに、と問われた場合に、わたしは通常は人工知能やロボット工学を引き合いに出して答えることになっている。確かに我々は、つまり人間の意識を持っている人間は誰でも、よっぽど変なビョーキでもない限り、他者が存在することを確信している。けれどもその確信はそもそも何に由来しているのか、それを強いて考えてみると、これが実はよくわからないのである。どのくらいよくわからないかといえば、人工知能やロボットに「他者が存在することの確信」を組み込もうとしても、それがどうやってもできない、誰もできたためしがない、それどころか、今後ともできそうな気配がちっともしない、という程度には、それはよくわからない、わかっていないのである、と。
この答え方はたいていの現代人を納得させるはずのものだとは思っているのだが、本当言うとこの説明には重大な欠陥がある。どういうことかというと、上のように説明すると「じゃあ、それができるようになれば人工知能やロボットが他者の存在を理解するようになるのだな」という風に理解してしまう人が(たぶん、たくさん)いるわけである。確かに「それができるようになれば」そうなるのだが、実のところそれがそうなることはありえないということも、だいぶ前からはっきりとわかっているわけなのである。つまり人工知能やロボット工学の研究について、存在しえない出来事への期待、文字通り「あらぬ期待」を抱かせてしまう可能性があるということが、この説明のはらむ重大な欠陥なのである。
困ったことに、それを認めると、話は振り出しに戻ってしまって、「じゃあ何で哲学は今もなおそれを考えているのか」ということになってしまうわけである。もちろん別の答え方はできるのだが、わたしの考えではたぶん、たいてい誰もが納得できるというほど単純明瞭な説明は、ほかにはないのである。いいかえれば、哲学によってかなり違う答え方をすることになるのではないかという気がする。
そうは言ってもまあ少しやってみよう。もうひとつの説明は、たとえば物理学を引き合いに出すことである。物理学の方は哲学ほどには、世間の人から不審がられることは少ないわけだが、それにしても物理学だって、普通の人から見ればずいぶん珍妙な問題に取り組んでいたりするわけである。つまり、物理学は他者の存在こそ問わないけれど、たとえば「ニュートリノに質量はあるか」とか、「ヒッグス粒子は実在する粒子なのか」とか、そういうことは大いに問うのである。なんでそんなことを問うのかと物理学者に問うたら、物理学者は頑張って答えてはくれるかもしれないが、誰にでも理解できるように答えるとなるとひと苦労するはずである。
ニュートリノに質量があるかないか、ヒッグス粒子がそもそも存在するかどうかといったことは、もちろん重要な問題なのである。その答えがどっちに傾くかで、この宇宙の成り立ちや行く末の描像が、まったく天と地ほども違ってきてしまう可能性があるわけである。まあこのくらいは、そのへんの啓蒙書にでも書かれている。けれども、それはいいとして、宇宙の成り立ちや行く末の描像がどうであろうと、そんなことは俺らのジンセイにとっては一切何のかかわりもなさそうなことじゃないか、どうしてそんな、憂き世離れした大袈裟な(ひょっとしたら本当にただの大ボラかもしれないじゃないか)ことの研究に、俺たちは結構な額の税金を払わされているんだ、などと問われたら、よほど優秀な物理学者でも冷や汗くらいは流すのではないだろうか。さほど優秀でない物理学者は「税金は物理学ではない」くらいのことを言って済ましてしまいそうな気がするだけに、なおさらである。
(ノンブルは振ったが、続くとは限らない(爆))