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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

試し書きシリーズ・他者(1)

2012年01月27日 | チラシの裏
「色々書いてはいるのだが纏まらなくてちっともうpできない」と前々からぼやいていたりするわけだが、何を書いているのかのサンプルくらいはうpしてみることにした。まあ他にネタがないので、その埋め合わせみたいなものである。



哲学者というのは何かというと「他者が存在するとなぜ言えるのか」ということを問題にしたがるが、これは愚問の最たるものではないのだろうか。何かよほど変わったビョーキでもない限り、いったい誰が、他者が存在しないなどというのだろうか。あるいは他者が存在しないかもしれないなどということを疑ったりするのだろうか──と、これは、普通の人が哲学の議論に対して言いたがることの典型的なひとつではないだろうか。

もちろん、他者は存在しないとか、他者は存在しないかもしれないといったことを、真顔の本気でそう思っている哲学者は、まずいないはずである。もしいたら確かに「よほど変わったビョーキ」の持ち主だし、そのビョーキは哲学の解決すべき課題ではないのである。

じゃあ何しに、と問われた場合に、わたしは通常は人工知能やロボット工学を引き合いに出して答えることになっている。確かに我々は、つまり人間の意識を持っている人間は誰でも、よっぽど変なビョーキでもない限り、他者が存在することを確信している。けれどもその確信はそもそも何に由来しているのか、それを強いて考えてみると、これが実はよくわからないのである。どのくらいよくわからないかといえば、人工知能やロボットに「他者が存在することの確信」を組み込もうとしても、それがどうやってもできない、誰もできたためしがない、それどころか、今後ともできそうな気配がちっともしない、という程度には、それはよくわからない、わかっていないのである、と。

この答え方はたいていの現代人を納得させるはずのものだとは思っているのだが、本当言うとこの説明には重大な欠陥がある。どういうことかというと、上のように説明すると「じゃあ、それができるようになれば人工知能やロボットが他者の存在を理解するようになるのだな」という風に理解してしまう人が(たぶん、たくさん)いるわけである。確かに「それができるようになれば」そうなるのだが、実のところそれがそうなることはありえないということも、だいぶ前からはっきりとわかっているわけなのである。つまり人工知能やロボット工学の研究について、存在しえない出来事への期待、文字通り「あらぬ期待」を抱かせてしまう可能性があるということが、この説明のはらむ重大な欠陥なのである。

困ったことに、それを認めると、話は振り出しに戻ってしまって、「じゃあ何で哲学は今もなおそれを考えているのか」ということになってしまうわけである。もちろん別の答え方はできるのだが、わたしの考えではたぶん、たいてい誰もが納得できるというほど単純明瞭な説明は、ほかにはないのである。いいかえれば、哲学によってかなり違う答え方をすることになるのではないかという気がする。

そうは言ってもまあ少しやってみよう。もうひとつの説明は、たとえば物理学を引き合いに出すことである。物理学の方は哲学ほどには、世間の人から不審がられることは少ないわけだが、それにしても物理学だって、普通の人から見ればずいぶん珍妙な問題に取り組んでいたりするわけである。つまり、物理学は他者の存在こそ問わないけれど、たとえば「ニュートリノに質量はあるか」とか、「ヒッグス粒子は実在する粒子なのか」とか、そういうことは大いに問うのである。なんでそんなことを問うのかと物理学者に問うたら、物理学者は頑張って答えてはくれるかもしれないが、誰にでも理解できるように答えるとなるとひと苦労するはずである。

ニュートリノに質量があるかないか、ヒッグス粒子がそもそも存在するかどうかといったことは、もちろん重要な問題なのである。その答えがどっちに傾くかで、この宇宙の成り立ちや行く末の描像が、まったく天と地ほども違ってきてしまう可能性があるわけである。まあこのくらいは、そのへんの啓蒙書にでも書かれている。けれども、それはいいとして、宇宙の成り立ちや行く末の描像がどうであろうと、そんなことは俺らのジンセイにとっては一切何のかかわりもなさそうなことじゃないか、どうしてそんな、憂き世離れした大袈裟な(ひょっとしたら本当にただの大ボラかもしれないじゃないか)ことの研究に、俺たちは結構な額の税金を払わされているんだ、などと問われたら、よほど優秀な物理学者でも冷や汗くらいは流すのではないだろうか。さほど優秀でない物理学者は「税金は物理学ではない」くらいのことを言って済ましてしまいそうな気がするだけに、なおさらである。

(ノンブルは振ったが、続くとは限らない(爆))

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謎の雑文

2012年01月26日 | チラシの裏
いつも不思議に思うことなのだが、盆暮に帰省して1週間ばかり実家で過ごし、東京に帰ってきて最初に山手線に乗ると、車内の光景がひどく異質な(異様と言ってもいい)感じがするのはなぜなのだろう。

そりゃあ、帰省している1週間の間はずっと実家に閉じこもっていて(実際、帰省している間は、ひとりで外出することはほとんどない。外出したって何もないくらいの田舎だ)、実家の家の中の光景に目が慣れてしまったからじゃないのか、と言われるかもしれない。まあ、まずはそう考えるところだろう。実際、最初のうちは、わたし自身もそう思っていた。どんな場合でも翌日までにはすっかりもとに戻っていることだ。

けれども、どうやらそれは違うのである。たとえばもの書き仕事をやっていたころ、アパートの部屋の中に1週間閉じこもりっぱなし、ということは普通にあったわけだが、ようやっと原稿が出来上がってそれを届けに(通信回線で原稿のデータを送るなどのことは、わたしはしていなかった。やろうと思えばできたのだが、原稿を届けるついでに担当者と雑談するとか、そんなことを口実にでもしないと、本当に誰とも会うことがなくなってしまうからだ)山手線に乗ると、その場合には上のような変化は決して、また少しも生じないわけなのである。

なるほど、アパートの部屋の光景は実家の居間の光景とは違う。けれども、当たり前のことだが、それは別に山手線の車内の光景を異質と感じさせないように調度をしつらえたりした結果ではないわけである。

似たようなことはほかにもある。普段からどんなに慣らしていても、キーボードをまったく打たずに1週間も過ごしてしまうと、タイピングの勘をいくらかは失うわけである。指が思い通りに動かないというか、何かがいちいち引っかかるような感じになる。この微妙なタイピングの勘を取り戻すまでには、ちょっとした時間がかかる。たいていは1時間ばかり、何でもいいから打ち続けていれば戻ってくるのだが、たまに半日近く戻らなかったこともあった。これの程度も、実家で1週間過ごした後と、東京にいてただなんとなく1週間何も打たなかった場合とでは、勘の失い方の程度がはっきり違うのである。

つまりどうも、知覚に対する特定の型の刺激入力が一定期間失われたことで感じ方が狂ったとか、そういうことではなくて(それも少しは影響しているようだが)、その間「実家で親兄弟と一緒に過ごした」という事実の方が何か無視できない影響を及ぼしているようなのである。

これはどう解釈すべきものかというと、ひとつは、というかたぶん多くの人が真っ先に思いつくであろうのは「フロイト式」の解釈である。つまり、わたし自身が親兄弟に対して抱いている、というか潜在的に抱きながら抑圧している(笑)無意識の願望が(あるいは複数あるうちのどれかが)、山手線の車内の光景や、あるいはキーボード・タイピングの行為が帯びている性的な含意(笑)と何らかの干渉を起こしているのだというように。──(笑)とつけているのは、つけた方が書きやすい(笑)からである。「そんなわけねえだろゲハハハ」という意味では、この場合はない。フロイト式の解釈が一般的に有効かどうかとなると大いに疑問だが、個別的には決して侮れないところが今でもあると、わたしは思っている。

もうひとつの解釈は、というかまだあるのかと驚く人もいるだろうが、あるので、これらの現象を言語相関的な現象とみる解釈である。そう、わたしは実家にいる間は普通に地域語(方言)で喋っているわけである。これはこれで非常に奇妙な経験である。東京に長く住んでいると、東京にいる間は地域語(方言)の喋り口を、再現してみろと言われたって正確にはできないくらいになってしまうのだが、どういうわけか帰省して親兄弟の顔を見たとたん、すべてをすっかり思い出しているのである。そして東京に戻ってくると再びキレイさっぱり忘れている。切り替わりは本当に一瞬である。この経験が謎めいていることの度合いは、山手線の車内の視覚的な光景やキーボード・タイピングの触覚や運動感覚のかすかな変化が謎に思える、その度合いに見合っているように思える。

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適当憶測入門(1)

2012年01月23日 | チラシの裏
作ったものがとにかくだめとか言ってくる人,そもそもだめだから何が悪いかは自分で考えて次はいいものを作れとか言う,いい意見をくれたつもりでいるのか,とにかくだめという意見を発表することでだめなものを作る人に今後何も作らせないようにしてるのか,意味ないのに腹立つしやる気なくなるし迷惑
(hitode909の日記・2012-01-22)

言われてみればそういう人はいるな。いるいる。理科系の世界にすらたくさんいる(笑)。そういう人が何考えてんのかは、俺にもサッパリ判らん。サッパリ判らんのでこの文章は「高速哲学入門」にはできない。できないが、興味深いネタだから無理して考察はしてみよう。

無理すると考察はできるというのはつまり、実をいうと、俺はあんまりこの手のタイプの被害を蒙ったという記憶がない。絶無とは言わないけど、平均よりはずっと少ないような気がしている。周囲がさんざんこの手でとっちめられているのに、たいして違わないことやってる俺がなぜかやられないということを、過去に時々経験してきた。これはつまり「手に負えない」と思われているということだろう。逆に言えばやられている人は「まだ希望がある」と、少なくともとっちめている当人の主観的にはそう思われているはずだ。

ちなみに、俺自身はそもそも人の上に立ったことがほとんどないので、人の仕事にダメ出しするという機会もほとんど持ったことがない。あったとしても俺ならたぶんダメ出しはしない。面倒くさいからだ(笑)。ダメ出しして感情的に面倒くさいことになるくらいなら、面倒くさくならない手段を用いる。ダメっぽい部分は黙って勝手にやり直しちまうとか、ダメな部分を逆手に取って勝手に全然違うもの作ってしまうとか。そんなことするとそれはそれで相手が嫌そうな顔しそうだから、「こうしようと思うんだがどうだろうか」くらいの了解はとりつける。これらはすべて、相手を気遣っているわけでは全然ない。何か変に衝突して「オレ様」の感情が害されるのが死ヌほど嫌だってだけだ(笑)。

そう。発達障害というほどではないにしても、俺はもとから他人と感情的に交流することがひどく苦手だ。他者と感情を通わせる、時には激突させることで生産的な何事かが生じるということを頭からまったく信じていないし、また信じられない。さらに明確に言えば、感情の交流は非生産的なこと、極端に言えば「悪事」に振り向けられてこそ、双方にとって愉しい(笑)結果が生じるのであり、かつ、それ以外に他人と感情を通わせる意味などないと、本気でそう思っている。それが人間の態度として正しいかどうか(笑)は、この場合問題ではない。肝心なのは、そのことがたぶん俺の顔にそう書いてあるということの方だ(笑)。上の日記に出てくるようなタイプの人ほどそれを敏感に読み取って「こいつには何を言っても無駄だ」と思うのではないだろうか。実際、無駄だぜ(笑)。

以上をひっくり返すと、この日記の主は──日記の文面からはまったく普通の人だと俺には思えるが──つべこべ言っても感情の生産性を心のどこかで信じているか、少なくとも信じたがってはいるのではないだろうか。そして、ある意味ではそれにつけ込んで無体なダメ出しを繰り返す輩は、この主が普通の人であることにおいて、それに対応するようにたくさんこの世に存在するのではないだろうか。そうした人たちもまた感情の生産性を信じていることは、いっそう間違いのないところだろう。そしてひとつ余計なことを書くと、なんとなく、この日記の主はそれを感知しながら半ば無意識で拒絶しているような気がしなくもない。つまり、ダメ出ししているのは(イケメンかどうかはともかく)男で、この主は女性なのではあるまいか?

もちろん以上はまったくの憶測で、哲学も論理もへちまもない話だ。でも、どうだろうか(笑)。

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女の鼻柱をこうして折る

2012年01月14日 | チラシの裏
以下はたまたまtwitterで流れていた「女子にイラッとされる「理系男子特有の話し方」9パターン」というページに書かれていたその9項目。コメントはわたしがつけたもの。ちなみに上の題名は関根宏という人の詩で「女の自尊心にこうして勝つ」のパロディ。

1.「要するに」と他人の話もまとめてしまう
これって、女だって「ていうか」ってやることじゃないか。

2.「違う」と小さな間違いでもいちいち訂正する
「アテクシってA型の人だからあ」「違う」

3.「化学反応だから」などロマンチックなことにも根拠を述べる
つまんないことをいちいち素敵がる女には科学的根拠を詳細に述べてげんなりさせよう、というか、させるべきである。放っておくとホメオパシーとか青汁とか飲まされる羽目になるぞ。

4.「仮に」など自分の専門分野でたとえたがる
これは確かに自分の専門分野だけで終わってはいけない。理工学の専門分野でたとえた後は、それを直ちに哲学でひっくり返し、さらにそれを科学哲学でひっくり返し、最後にもう一度専門分野でひっくり返してトドメを刺そう。

5.「具体的には?」と曖昧な表現でなく数字を知りたがる
数字くらいはスイーツ女でもテキトーなこと答えるやつがいくらでもいる。「ディメンジョンは?」「方程式は?」「パラメータとバリアブルは何?」等々とたたみかけよう。

6.「データがあるから」と他人の意見を受け入れない
「データがあるから」と言って他人の意見を受け入れないのは、どちらかというと禁煙ナチスの女党員に顕著な傾向である。いちいちデータなど取るまでもないことである。

7.「わかる?」と難しい説明の後で上から目線の確認をする
なるほど、これをやると「上から目線」だとか言って文句垂れられる。説明するときは最初から「よく知られているように」とか「高校の微積分でさんざん習わされた通り」とかの前置きをつけて話そう。

8.「ありえない」など決めつけて断言する
「ニュートリノが光速を超えたんだからタイムマシンだって作れると思うの」「ありえない」

9.「だから?」とオチを先に聞きたがる
経験的に言って、女の長話にオチというほどのものがついていたためしがない。いっそのこと黙って座布団を取り上げてやるべきか。ボギー、あんたの時代はよかった。

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「元個人」についてのメモランダム(1)

2012年01月07日 | チラシの裏
メモランダムだし、初っ端から変なことを書くと、吉本隆明が例の週刊新潮の記事で言い出した「元個人」って、英訳するとどうなるのだろう。individual of originとでも訳すことになるんだろうか。あるいはoriginal individualityか、individualnessか。くどいな。「週刊新潮」の絡みで言えば山本夏彦が「もとの個人にして返せ」って言ったことがあったな。もちろんそれとは違うけど、文脈の双対性としての違いのような気もすることだ。両方の読者である俺に言わせると、夏彦老がタテノリでまくしたてていたようなことを、吉本「超」老人はヨコノリで超出しようというようなところがあるわけなんだ。



それがだいたい何をどうすることなのかは、わたしは30年来の読者だから、こまごま説明されなくても判るわけである。「元個人」について言われていることというのは、たとえば

危機においては孤立することが重要なんだ。そんなとき身のまわりに味方を集めたがるのは、ほんとの意味での知的な弱者だよ。内省的な弱者の自覚のないつまんねえ、奴だ。追いやること、解き放つこと。それだけのことだ。誰の答えがあっていたか。そんなことは答えがでるまえに、また問いを発したときすでにわかっていることだ。
(吉本隆明「情況への発言」、『試行』vol. 69,1990)

これの変奏、2011年末バージョンなのである。吉本の読者なら上の引用だけで吉本が何を言わんとしているのかは判るし、20年近く経った後で基本的に同じことを「元個人」と言われても「あれだな」とすぐ思いあたる。要は「孤立」ということだ。

だったら何でわざわざ「元個人」なんて新語を作って違う言い方をするのかと言えば、上の引用のような言い方は、初出誌である「試行」の読者や、そうでなくても──実際、わたしは「試行」誌の定期購読者だったことはない──吉本を読みなれた読者にとってはすぐ納得できることだが、これまで縁もユカリもなかった「週刊新潮」の読者、あるいは年末年始の帰省列車やヒコーキの中のヒマ潰しのために同誌を買ったというような、つまり普通の人でも直ちに腑に落ちる言い方なのかというと、そうではないからである。

第一、普通の人にとっては「孤立」なんて普通は思いも寄らないことである。もちろん上の「孤立」は思想的な孤立無援ということで、無人島にひとり取り残されたとかいうような種類の孤立無援とは違う、けれども普通の人はそれだけを括り出せるような形で「思想」ということを意識したりはしないし、そのようにある必然性もない。だから、思想的な孤立無援ということもありえないわけである。

ではいかなる意味でもそうなのかというと、そうではないわけである。不安や恐怖の煽りにあってその通り動揺させられてしまうというのは、心が弱いとかそういうことではなくて(それもあるだろうが)、揺るがないと思っていた大地が揺らいだ(揺るがされた)ことによってである。

(つづく)

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素描 ──存在のファイナンス論、他──

2011年12月25日 | チラシの裏
肝心の哲学がなかなか進まないわけだが、もともとそんなにホイホイと進むものではないわけである。

とはいえ、はっきりした結論を得るまでは何も書かないとか言い出すと、永遠に何も書かないことになってしまう。また、書かないことは速やかに忘れてしまう(笑)。それで、時々は自分の考えの素描らしいことを書いておく。

素描だから単刀直入に言えば、わたしの考えでは、他者とか社会といったものは、人間の意識にとって一次的なものとしては存在しない。人間の意識は非コンパクトという意味で無限の物理的外延に対応している。わかりやすく言えば、人間はひとつの個体としてその巨大な、茫漠とした身体のまま振る舞うことがそのまま世界を制することになるように振る舞おうとする存在である。

世界の中で好き放題に振る舞おうとすれば、その最も確実な方法は世界の全部を(あるいはできるだけ多くを)自分の身体として統制下に置いてしまうことである。大雑把に言って、それは大きければ大きいほどいいわけである。それは人間の前にも、生物学的な身体そのものを巨大化するという形で、多くの生物種が試みてきたことである。人間の場合は生物学的身体を巨大化するのでなしに、内的な意識の次元を持つことによって、いわば存在の無限手形を創出し、その手形を振り出したり回収したりを繰り返しながら、自己資本(生物学的身体)以上の行動と達成を実現する、という、地球生命の歴史上にかつてなかった斬新なやり口を作り出したのである。

突拍子もない、と思われるかもしれないが、こういう考え方は実は専門の計算機科学の領域では意外とお馴染みの考え方である。アルゴリズム解析、つまり計算量解析の手法のひとつで、ループ内の計算量が反復ごとに一定しないようなアルゴリズムの場合、形式的に「計算量の貸し借り」を導入した上で均一化し、最後に帳尻が合うようにしてスパッと解く、という、うまくはまると実にカッコイイ方法(その名も「出納法」という)があるのである──と、大学の学部でそう教わったのだが・・・まあ計算機科学者というのは本来あんまりファイナンシャルなことには縁がない人達である。そもそもファイナンスという言葉の本来の意味は「融通(やりくり)する」ということなのだから、いつも資金のやりくりに苦労している人であれば、ごく自然に思いつく考え方のように──そういう人が、なぜか突然計算量理論の課題に直面したとすればの話だが──わたしには思われる。

問題は、それは無限だと言っても手形には違いないので、裏書きすることができなければ意味がない。言いかえれば地面の上に線を引いて「世界のこっからここまでは俺の存在だ」と主張するとして、その範囲にあるものが実際に彼自身として振る舞ってくれなければ、ただ言ってみたというだけで何の意味もないわけである。つまりどうやってそのようなことを実現するのか。生物にとって直接の統御の埒外にあるもの、つまり生物学的な身体の外にあるものを、どうやって好き勝手に操ることができるのか、である。

基本的には単純なことで、道具を手にしてそれをするわけである。他者というのは何よりもまず最も便利な道具として登場する。この場合意識が意識であるか、つまり志向的であるかどうかは問題ではない。つまりここまでは、意識はまだ意識ではなく、物理過程に密着したままでありうる。手に持っているのが棍棒だという意識はないかもしれないし、そもそも手に何かを持っているという意識もないかもしれない。なぜなら、ごく素朴な道具を使うことまでは、人間以外の動物でもするものはあるからである。人間以外の動物でも、その存在はほんのわずかばかり、しかも希薄に、生物学的身体の外に漏れ出してはいると考えることはそれほど無体なことではないだろう。人間はそうした、もともと動物が動物として存在するために希薄ながら備わっている特徴を集中的に強化しはじめたのである。

・・・テキトーに書いてたらしっちゃかめっちゃかのことになってきたので強引に約めてしまうと、人間の意識を意識らしくしているものはやはり志向性だということになるのだが、その志向的な意識が無からポロッと出てくるわけはない。はじめに非志向的な他者(と認識はされない他者)との間で非言語的・非伝達的な「同期」に基づく、そういう言い方をすれば「非分離的」な状態が成立する。言ってみれば家族の間で貸し借りするのに(普通は)借用証など書かないのと同じように、帳簿をつけない存在のファイナンスが成立するのである。志向的な意識はこの存在の原始的なファイナンスを基体として、人類の初期の文明の段階のどこかで初めて登場してくるのである。存在の出納簿をつけるための言語、存在の会計方式を定めるにいたる制度的現実とともに。

そして、我々が今日普通に他者だと思っている他者は、最後の制度的現実の成立によって初めて登場してきたもののはずである。



余談とはいえせっかく出納法のはなしを書いたので、詳しく書かれている本を紹介しておく。

アルゴリズムイントロダクション 第2巻 アルゴリズムの設計と解析手法
Thomas H. Cormen , 他
近代科学社
Amazon / 7net

ただし正真正銘の計算機屋限定である(こんなむつかしい本を「イントロダクション」とはよくも言ってくれたものだ。今や伝説の名著名訳なんだけど)。素人がうかつに読んでアタマの血管が全部切れても知らないぞ(笑)。

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低速抑鬱入門(6)

2011年12月05日 | チラシの裏
あさイチでうつ病特集やってるけど、私に言わせれは、怠け病としか思えない。一生懸命、全身全霊をかけて仕事や他の事に取り組んでくれ!!うつになんかなるヒマはないはずだ!! ただ単に仕事がやりたくないだけだと思う。世の中そんなに甘くない。とてもムカつく。甘えてんじゃね~よ!!ボケ!!
(kazusano0119)

「一生懸命、全身全霊をかけて仕事や他の事に取り組んで」いる奴などはいつでもどこでもほんの例外としてしか存在しない。ある時期はそうでも、ずっとそうだという人間はもっといない(もしいれば過労死するからだ)。いつでもどこでも山ほどいるのは、単に「自分ではそのつもり」でいたい奴だ。そしてそういう奴に限って二言目には「世の中そんなに甘くない」と言い、ことのついでに「とてもムカつく」と吐き捨てるか、そう言わなくてもそういう顔はするわけだ。本当に「一生懸命、全身全霊をかけて仕事や他の事に取り組んで」いたら、他人が怠けていようが何しようがそんなのは目にも留まらないものだ。目には留まってもいちいちムカついてる暇なんかないはずだ。

そういう連中のムカつきは何なんだと言ったら、要は「一生懸命、全身全霊をかけて仕事や他の事に取り組んでいる俺カコイイ」と思いたいし、それを身近な他人や社会から承認してもらいたい、その願望にとりつかれているんだ。仕事でも何でもそのためにやっている「つもり」なので、仮に承認さえ得られれば実際に仕事してるかどうかなんて実はどうでもいいはずだ。そういう人物にとってうつ病者の存在や振る舞いはそれ自体が自分の願望を打ち消し、本当はそのふり作ってるだけで実はたいしたことはやっちゃいない努力の実態を暴くもののように思われるからムカつくわけだ。

本当はうつ病対策なんかよりこの手の承認欲求の病の方がよほど「対策」されるべきであるのかもしれない。こんなのが世間にゴロゴロしていて実態以上に「世の中そんなに甘くない」などと煽っているうちは、国家や自治体が、あるいは企業が、どんだけうつ病対策に取り組もうが、ちょっとした情勢の変化ですぐもとの木阿弥に戻っちまうのは目に見えているからだ。

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発達心理学を読む(2) スネークとキャタピラの挿話

2011年11月27日 | チラシの裏
前回はあくまで真面目な話だったわけだが、今回のは一応ネタである。前回紹介した本の中に次のような記述があった。

・・・さらに、子どもはピアジェ理論が予想したメタ認知的知識のある部分に欠けている。たとえば、5歳の平均的な子どもは、ある単語が何を意味するのか知らないことがある。「snake(ヘビ)とcatapiller(キャタピラー)」のどちらの単語が長いか聞かれると、「snake(ヘビ)」と答える。・・・

(バターワース「発達心理学の基本を学ぶ」p.289)

え?snake(ヘビ)の方が長いんじゃないのか、と、わたしは大真面目に1分ほど考え込んでしまったわけである。

・・・そう、ヘビとイモ虫のどっちが長いかではなくて、ヘビ(snake)とイモ虫(catapiller)のどちらの単語が長いかなのだから答はcatapillerでなくてはならないわけである。問題文の肝心な個所を読み飛ばしたというか、ほとんど目に入っていなかったので間違えて、しかもまるまる1分近くもそのことに気づかなかった。いかん。俺のオツムはやっぱり5歳未満だ(笑)。

笑い話ではあるが、自分のボケっぷりに暗澹たる予感を抱かないでもないことである。

そしてこの話には続きがあるのである。何にせよ我ながらいい自虐ネタじゃないか、という芸人根性(笑)で、ある人と会った折にこのネタを披露した。果たして相手は爆笑してくれて「バカだな、そりゃキャタピラの方が長いに決まってるじゃないか、なんでそんなことに気づかないんだよ。おめえホントに5歳児並だな」と言われた。

そんで「いやあ、だってこうふたつ単語が並んでるとさ、アタマの中はヘビとイモ虫のイメージで一杯になっちまったんだ」と答えたら相手が怪訝な顔をする。

「は?イモ虫?キャタピラってイモ虫のことなのか」
「でなきゃ何だ。青虫もキャタピラかな。それだってヘビよりはずっと短いだろ」
「え・・・俺はまた戦車とかブルドーザーとかのあれかと思ってた」

相手は一応発達心理学の専門知識を持っている人物である。確証はないがこの相手も、問われているのが単語の長さだと気づかずに「ヘビと無限軌道」の長さを比較していた可能性が高い(笑)。

結論はこうである。わたしとその人物の両方のオツムの程度が実際には5歳児未満ではないとしたら、このことは日本人の(伝達的な)言語能力の低さということによってのみ説明可能である(笑)と。

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苦情にとって美とはなにか(2)

2011年11月17日 | チラシの裏
Heart-Shaped Box - Nirvana / from YouTube

     She eyes me like a Pisces when I am weak
     I've been locked inside your Heart-Shaped box for a week
     I've been drawn into your magnet tar-pit trap
     I wish I could eat your cancer when you turn black

     Hey! Wait! I've got a new complaint
     Forever in debt to your priceless advice (x3)

     Your advice ...

このシリーズ題は、(1)で拾い上げたふたつの呟きというのがもともと「吉本隆明」でtwitterを検索した結果からたぐったものであったからである。そしてこの題をつけてみると真っ先に思い出されるのが上のNirvanaの曲というかその歌詞なわけである。complaintは苦情というよりはこの場合は不平不満のことだが、まあええやん。わたしの知ってる中ではこれが一番美しい苦情の歌である。

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苦情にとって美とはなにか(1)

2011年11月17日 | チラシの裏
工場のがっちゃんがっちゃんいう機械は、どんどん人を要らなくしていった。オフィスのコンピューターも、黙って人の数を減らしている。ほんとに必要な人の仕事は、「ほんとに機械にできない(ような)こと」になるはず。それは「芸術」に似たものなのではないか。
(itoi_shigesato)

糸井ダーリンはこう仰言るが、機械化できる仕事を機械化した結果、残ったのはイレギュラー=苦情処理で、そのことが多くの働くひとの心をすりへらしているのだと思う。朝から悲しい話ですまん。おはようございます。
(radio_rimland)

ふたつを合わせて考えると、途方もなくややこしい問題であるように思えてくる。ややこしい上に、いまわたしは熱を出して寝込んでいるわけで、以下は必然的にとりとめもないメモ書きになる。

糸井重里氏が言っていることは、わたしのようなパソコン屋が35年近く前に夢想したことのほぼそのままであると言っていい。念のため言うと35年前(1976年)にはまだパソコンは存在していなかったのだが、TK-80のようなワンボード・マイコンはあった。つまり中学生のわたしはまだ実物のないところでそれを考えていた。

後者の呟きも、これはこれで本当のことである。現にわたし自身がハケンのプログラマをやっていて、製造現場ですらこれを実感するのだから間違いないというか、仮に「そんなことはない」と強弁したとしたら、それは自分自身に嘘をつくことになると思われてならないので言えない、それほど強くこのことを感じている。

いやなことが連想される。「芸術(作品制作)」とは実は「苦情処理」のことではないのか。それだけだとか、それが本質だとかいうのではなく、ある意味ではもっとひどい話で、特定のパラメタを少しばかり動かすだけで「芸術(作品制作)」が「苦情処理」になったりその逆になったりするという意味で同じものなのではないかということだ。

自分の受け取る賃金はつまり「メーワク料」なのだと言い切る水商売の女性のことが思い起こされる。それを言うのが(言われる側がそう思っているところの)イケメンかそうでないかで、愛情表現の言葉がどうしようもないセクハラ犯罪になったり、あるいはその逆になったりするようなものである。

苦情処理が芸術に近くなることがありうるのかと言えば、それはある。苦情処理とだけ言ってしまったらどうにもならないことだが、それはもともとは〈顧客〉の要望に応じることである。応じることはそれ以前に応じようとすることであって、つまり〈顧客〉とかその要望とは何かを考えることを含んでいる。結論を出すより先に答が存在しているわけでは実はない、という意味でその「考えること」は、その結論は大なり小なり創出されたものとしての性格を帯びているものである。機械はそれ自体として創出的であることはできない。「ほんとに機械にできない(ような)こと」だ。

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サリーとアンの挿話

2011年11月15日 | チラシの裏
  1. サリーとアンが、部屋で一緒に遊んでいました。
  2. サリーはボールを、かごの中に入れて部屋を出て行きました。
  3. サリーがいない間に、アンがボールを別の箱の中に移しました。
  4. サリーが部屋に戻ってきました。
  5. 「サリーはボールを取り出そうと、最初にどこを探すでしょう?」と被験者に質問する。

  正解は「かごの中」だが、心の理論の発達が遅れている場合は、「箱」と答える。
  (Wikipedia)

「心の理論」というのは発達心理学に固有の術語で、個々人が自分の内側に持っている「心とはどういうものか」についての体系的な信念のことである。上の「サリーとアン課題」を間違えるのは、その心の理論が十分獲得されていない、特に「他者が存在して、自分がもつような心をもつ」という信念が欠けているために間違えるのだ、と、そういう風に説明されるわけである。

奇妙な言い分だと思わないわけにはいかない。この場合、サリーもアンも挿話の登場人物である。つまりフィクションの中のキャラクターである。少なくともこのふたりが実在の人物だという前提は上の5項目の中に現われてはいない。フィクションだと断られているわけでもないが、これだけを提示されたら普通は作り話だと思うところだろう。はて、フィクションの中のキャラクターが心を持つわけがないではないか。

通常は(つまり大人は)この課題に間違えずに答えることができるというのは、べつに「他者が存在して、自分がもつような心をもつ」という信念を持っているからではなく(そういう信念は持っているだろうが)、挿話の中に「サリーは」と書かれていれば、それはその挿話の中の自分だからである。5.の問いはだから「自分だったらどこを探す?」と問われているのと同じである。それで「箱」だと答えるのはアタマがどうかしている。俺はさっきカゴの中にボールを入れたんだ、カゴの中にあるのに決まってるじゃないかである。

おとぎ話の中に他者はいない。いるのはそのオハナシの世界における自分(正義)と、その自分に対して暴虐をはたらく天然自然(悪魔)だけである。後者は本来、形を持たないという意味では「存在」とは呼べないが、細かいことにこだわらなければ「いる」には違いない何かである。

・・・と、唐突にこんな話を書いたのは、今日は朝から熱を出して寝込んでいるからだが、ここのところ少しずつ関心を向けつつあるところの発達心理学の、まさにその「心の理論」という本を、さっき注文してきたからでもある。せっかくだから読む前に、有名な「サリーとアン課題」についてのわたしの違和感のありどころを書いてみた。読んだらそれが変わるのか、あるいは変わらないのか、それは読んでみてからまた書いてみることにする。

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「人生」に替わるもの(3)

2011年11月08日 | チラシの裏
前回述べたことは、実際、機械制御の課題、それも古典的な制御理論の枠組みにおいてさえ、普通に考慮されることである。

機械制御というのは、単純に言えば要するに、制御対象(object)を制御目標(reference; 対象の状態もしくは状態の時間発展)から外れないようにすることである。もちろん相手は機械だから、制御対象も制御目標も予め十分定義されたものであって、そこは人間とは違うわけであるが、ある課題を達成するために考慮しなければならないことの内容までまったく違うというわけでは、必ずしもない。

制御の基本は現在の状態と制御目標の差を取った上で、差が0になる方向へ状態を操作することである。いわゆる「フィードバック(帰還型)」制御である(フィードフォワード制御というのもあるのだが、それはここでは考慮しない)。どう操作するかは差分から逆算して求めるわけである。

これは、単純な機械の理想的な状況ならまったく単純な話だが、そんな理想的な状態を現実に求められるくらいなら制御理論はいらないわけである。理想的な状況とはこの場合、「現在の状態」あるいはその観測についてノイズ(外乱)がまったく入らないような状況である。そうした理想的な世界があったとして、その世界のロケットは方角を決めて点火さえすればまっつぐに、推力さえあれば月まででも飛んで行くのである。そしてそんなうまい状況は現実の世界には存在しない。

ノイズ(外乱)がないとはいえない、それどころかノイズの方がずっと大きいような状況で制御課題を達成する、という、見ようによっては離れ業とも言えるようなことを実現するのが制御である。ノイズは単に観測される情報をかき消すだけではない、ランダムにつけ加わった誤情報でもあるわけで、扱い方を間違えれば制御そのものを破綻させる、制御しないよりわけの悪い結果をもたらしかねない何かである。

正しく制御する上で重要なもうひとつのことは、古典制御の場合はシステムの応答特性である。もともとゆっくりとしか動かない機械を、状態が目標から外れ気味だからというので急激に動かそうとすれば、機械の動作に不可解な「振動」が生じたり、それどころか意図した方向と反対に動き出すというようなことさえ珍しくはない。

制御理論は古典制御でも現代制御でも何らかの意味でフィルタの理論である。古典制御の場合は線形フィルタに帰着する。現代制御は、そういうと奇妙に感じる人もいるかもしれないが、やっぱりフィルタの理論なのである。「カルマン・フィルタ」と言うように。

フィルタは多様な成分から特定の成分を選択的に拾い上げる、もしくは不要な成分を除去(抑圧)するものである。古典制御の場合は文字通り(帰還型の)線形フィルタで、特定の周波数成分を拾い上げたり、不要な周波数成分を除去したりする。微分回路とか積分回路というのも、微積分に関連づけるよりは後者を低域通過フィルタ、前者をその逆と思った方がいい何かである。現代制御の要は「最小二乗法」である。バラバラに見える観測データの上に最小二乗法を適用して回帰直線を求めたりする、あれをもっと高度にしたものが現代制御だと言えばそれほど間違った理解ではないはずである。

肝心なのは状態観測がフィルタだというのではなくて、制御器を含めたシステムの動作全体が一個のフィルタになっているということである。素朴な意味での制御というのは上述したような「制御目標との差を0にする」というイメージだが、実際の制御はそう見るよりもフィルタとして、制御目標に合致する動作を選択的に拾い上げ、合致しない動作を除去(抑圧)する、結果として制御目標通りの動作が自然と浮かび上がってくる、というようなイメージのものになるわけである。生物種の自然選択というのも、だからあれもフィルタなのである。

上の話を人間が「生きること」に無理矢理関連づけていえば、たとえばカネがないからというので近視眼的に三度の食事まで切り詰めたり、あるいは逆に後先を考えずに(あるいは遠大な目標のみを考慮して)借金しまくったりするようなのは、どちらも適切なやり方とは言えないわけである。貸借対照表で言えば「上下のバランス」である。現金が足りなければ何かにつけて「首が回らない」ことになるし、一方で現金だけがあっても生産財の固定資産がなければ利益は生み出せないのである。そしてお金は文字通り「天下の回りもの」である。

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「人生」に替わるもの(2)

2011年11月06日 | チラシの裏
わたしが結論として言おうとしていることを真っ先に言ってしまうと、つまり自分が生きる上で「人生」という考えがどうしても不都合に思えたら、それに替えてみるのはどうかと(少なくとも自分に対して)考えているような「生きること」の考え方は、いたって単純なものである。普通の人はその時その時だけを生きているのでもなければ、誕生と死で括られたいわゆる「人生」だけを生きているのでもない。状況に応じて都合のいい方を選んで生きているのでもない。端的に言って両方をひとつの現実として統合するようなひとりの「自分」として生きているわけである。

単純のためにふたつだけを取り上げたが、本当は時間スケールに沿って無数の(無限かどうかはわからないし、可算であるかどうかもわからないが、数えきれないほど多くの、ということだけは間違いない)生の(線形とも限らない)重ね合わせを生きていると言っていいはずである。いわゆる「人生」はその(線形とも限らない)重ね合わせを構成する中間的なスケールの要素のひとつでしかない。

そんな難しいことできるわけがない、ではなくて、現にたいていの人は実際にはそうしているはずだ、とわたしは考えているのである。仮にすべてをいわゆる「人生」に収斂するように生きるとしたら、どんな風になるのかを考えてみればすぐわかる。それはほかでもない、保険屋が「ライフプラン」などと称して提案してくるたぐいの予定表というか計画表の、その内容そのものである。

それを了解して契約するかしないかは別として、目の前の保険屋からそれを示されて内心ムカムカした気分にならない人は、あまりいないのではないだろうか。当の保険屋でさえ、それを自分のこととして考えたら、どうにも胸糞の悪い計画表、いな、これはもはや「工程表」ではないかということになるはずである。しかもその工程表に沿って製作されるものは「無」でしかありえないのである。どんな手順をどのように踏もうと最後に死んだ結果のアウトプットは存在しない。つまり、何も残らないのである。どんなイカレた職人だって「無」を作るために精進するなんてバカなことはしない。職人というのはカタチのあるものを作る人(職業)である。

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「人生」に替わるもの(1)

2011年11月03日 | チラシの裏
たぶんそれ自体は哲学にはならないのに、哲学にそれを求めてしまう人の非常に多い事柄のひとつに「人生の意味」あるいは「生きる意味」というのがあると思う。誰だって無意味なことはやりたくないわけだが、普通に考えれば明らかに、どう考えたって人生に意味はないわけである。何をどうやろうと、またそこから何を得ようと、死んでしまえば全部パアである。つまり、自分の誕生と死の境界を含めて括られた「人生」を前提として、その上にある行為なり事物なりの意味を考える限り、無意味でないということは明らかにひとつもないわけである。それが哲学にならないというのは、このことがあまりにも明らかなことでありすぎるので、わざわざ哲学として論じる意味もないということなのである。

けれどもこのことにかかわっていかなることも論じる意味がないかと言うと、そうでもない、という気がわたしはする。それが人生であるとすれば無意味であるはずなのに、世の中の人は普通はそのことに絶望して自殺したりはしないのである。たまにそういう人がいないわけでもないし、わが国では明治のむかし、華厳の滝から投身自殺した哲学志望のワカモノもいたりしたわけだが、いずれにせよ、そういう人や行為を哀れだと思う人はいるだろうが、彼らが正しい考えのもとで正しい行為に及んだとは、普通は誰も思わないのである。なぜだろうか?これはたぶん哲学になるのである。このことは現実であって、かつ、自明ではないからである。

もちろん自明な解がないわけでもない。ひとつは「自分が信仰している宗教では自殺を禁じているから」というものだ。そういう宗教ではたいていタマシーの永遠ということが抜き差しがたい信仰の中核にあって、人生の意味というのもその上で定義されたり考えられたりしているわけである。そこへもってきて人生が無意味だから自殺するというのでは、その肝心要の中核を否定することになってしまうわけである。

まあだから、そういう信仰のある人はそれはそれで結構なのだが、わたしのようにそういう信仰のもとからない人もいるわけである。わたしなどは特にバチ当たりなので、その種の話を聞かされると、そもそもタマシーの永遠なんていうのは、普通に考えたら無意味な人生をあたかも意味があるかのように見せかけるために作り出されたトリックだろうと思ってしまうわけである。つまり偽薬効果の類である。イワシの頭も信心からという。それはそれで結構だがイワシの頭がイワシの頭であることに変わりはない。それがイワシの頭にすぎないと判っている人間には、どんな偽薬も効き目はないのである。

そして、これは重要なところだが、その種の見せかけが永遠に通用するということはありえないのである。イワシの頭がイワシの頭以上の何かだということがありえないということは、有限の未来tにおいて必ず証明されることである。それが「科学の進歩に後戻りはない」ということの究極の含意である。21世紀の現時点ではイワシの頭がどうであろうと、それほど抜き差しならない問題にはならないし、研究予算もそんなにつかなそうなことだから、誰もわざわざそんなことの証明に血道を上げたりはしないわけだが、それが何かの理由で抜き差しがたいことだと考えられるようになったとしたら、科学はたちまち総出でそれに取り組んで一切合財を暴いてしまうはずである。

たぶんその折にもつまらぬ応用倫理学のたぐいが存在して「イワシの頭の尊厳」などを主張するかもしれないが、無駄である。未来のイワシの頭について無駄なのだから、今日の生命についてもやはり無駄であるはずだとわたしは思っている。物質的な現象としての生命に尊厳などない。それを構成する物質のどこにもそのような属性を帰属させられるような性質はないからである。必要なら生化学の教師あたりをつかまえて一切合財尋ねてみればよろしいことである。

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この発達心理学というのがどうにも

2011年11月03日 | チラシの裏
先日「日本語は映像的である」という本を読んで以来、これまで縁もユカリもなかった発達心理学というのをどうにかして理解しようとしているわけである。最小限、その本の中にあった「三項関係」という(ある意味、謎めいた)考え方について自分なりに見極めておきたいと思うわけだが、これがなかなか思うにまかせない。まあ、まだ一週間と経っていないのだが。

幸いなことに、今や両手で数えられるくらいに少なくなったわたしの知人のひとりに発達心理学を知ってる人がいて、その人に尋ねてみた限りでは「三項関係」というのは確かに発達心理学において肝心要というか、学問分野としてのアイデンティティと言ってもいいくらい重要な考え方であるようだった。ふむ、それならなおさらそこから集中的に読んでみなくてはならない、と思って文献を探し出したのだがこれが見当たらない。そもそもGoogleやAmazonで「三項関係」で検索しても、題名にこの4文字が入った本はない。題名どころか章題レベルでもなく、やっと索引に載っている程度の語彙であるようなのである。これはいったいどうしたことか(洋文献ならそうでもないのかもしれないが、専門外の文献で外国語を読むのは、なるべくなら哲学だけにしておきたいことだ)。

そういえばその知人からは「ヴィゴツキーとか読んでみたらどうだ」と言って薦められたわけである。名前は聞いたことがあるが確かに読んだことはない、で入門書のたぐいを買ってみて何冊か読み散らかしていると、なるほど、どうやら「三項関係」の考え方の大元はこのヴィゴツキーにあるようなのである。ややこしい議論はさておいて、簡単に言えば、心理学の行動主義的な理解の基本が入力(刺激)と出力(行動)の直接的な(つまり関数としての)結びつきであるのに対し、ヴィゴツキーの人間心理に関する基本的な考えとして、両者が直接に結びつくのではなく両者は第三項たる言語によって間接的に、媒介的に結びつけられているのであり、そしてまさにそのことが「人間が人間の心を持つ」ということで、この枠組みを想定しないところで人間の心理学というほどのものは成り立たないはずだという考えがあるわけである。

つまり、普通に哲学で言う「志向性」の考えを、ヴィゴツキーは独立に、また独自の思考から見出していたわけである。入力と出力の間が密着していない、志向性の矢線が引ける程度のスキマ(gap)がたいてい存在するということが、確かに人間が人間の意識を意識として持つということの重要な特徴である。そしてその根拠を「言語」というところに求めたのだから、これはもうほとんど現代の言語哲学系統の発想そのものだと言っていいわけである。ヴィゴツキーが後期ヴィトゲンシュタインを読んでいたかどうかは、よくわからないのだが。

そうなのである。ヴィゴツキーはソ連の人だったわけである。共産主義がどうこうではなくて、ヴィゴツキーがそういう発想をどこから得てきたのかと言ったら、言語哲学でもなければ現象学でもなく、紛れもなくマルクスやヘーゲルの文脈、いわゆる弁証法的論理学の発想から得てきている、ということである。実際、だから、ヴィゴツキーの入門書を読んでいると、すっげー昔のマルクス主義の教科書か何かを読んでいるかのような錯覚に、しばしば陥る。ヴィゴツキーがそうだというのではなくて、入門書を書いている人がたいてい、(おそらくは)そういう時代にものを学んだ人だからである。そういう言い方をすれば、つまり、現代ではストレートに「なるほど」と言って済ますわけにはいかない思考や記述に満ち満ちているわけである。

別にそれらが間違っているというわけではない。そうではなくて、言うなれば現代のそれとは全然違うパラダイムのもとで考えられたり記述されたりしているので、読んでいると、大枠はともかく細部ではいたるところ「ちょっと待ってくれ、これは本当なのか。現代の言葉で言ったらどう言うんだ」という疑問符だらけになってしまうのである。これは厄介というか、1960年代生まれの俺には難物だぞ、と思いはじめているところである。

もとが何であれ基本的な哲学が現代のそれに通じているので、実際、ヴィゴツキーはソ連の心理学者だったからと言って西側で無視されたりはしていない。存命中はもちろん、今でも高く評価されているわけである。だったらその影響を受けた研究の伝統から遡って読み直すのがいいかと考えたりするわけだが、そう思って文献を探そうとすると、これが実に目ぼしいものがあんまりないのである。少なくとも日本語で書かれたものは少ないようである。せっかく見つけた「三項関係」というキーワードも、それについて集中的に論じた本が、少なくとも日本語で書かれたもののうちには、今のところ見つからないのである。なかなか大変である。

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