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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

試し書きシリーズ・理解するということ(1)

2012年02月20日 | チラシの裏
日本語の「理解する」という言葉は、そもそもこの言葉の中に「解」という字が含まれているのを見てもわかる通り、大なり小なり「分析する」ということを含んでいる。

ちなみに「分析」と「解析」は英語ではどっちもanalysisで、実はどっちに訳しても構わないのである。大雑把に言って理論的(数学的)な分野では解析、経験的な分野では分析と訳されることが多いような気がする。精神分析なんかはそれ自体は理論だが、その理論は専ら「臨床」に支えられているところが大きいので「分析」なのだろうと思われる。違うかもしれないけど(笑)。

まあ何にせよ分析というのは、まずはバラすことである。ひとまとまりの全体を複数の部分に分けることである。とはいえ、ただバラすだけではない。「理」に沿ってバラすから理解であり、理解することを目指して対象を解剖することが分析とか解析と呼ばれるわけである。

さて、この「理」とは何だろうか。あるいは「理に沿って」とは何に沿わせるということなのだろうか。こちらは、文字からだけでは意味を推察できない。理科の理だが、すべての理解が科学的理解だというわけではない。他人の気持ちを理解するというとき、その他人の気持ちというのは科学的な対象すなわち物質ではない。あるいはまた「理」とは、理屈の理だが、すべての理解が理屈っぽいものだというわけではない。我々は誰でもときどき、何かを一瞬で理解することがある。その理解はあとで冷静に点検し直してみると間違っているかもしれない(笑)。けれどもそこで「わかった!」という感じがある、その感じの経験それ自体は確かにあるものである。

この「理」とは要するに系ないし体系(system)のことである。もっとも、理科系の人間は体系という言葉だけで理論的なものを想像してしまうのだが、この場合の体系は、理科系の語法に沿って言えば点を線で結んだもの、つまり「グラフ」とか「ネットワーク(網状組織)」のようなものである。要は「網の目」である。そもそも「系」という字は何かを糸で結んだもの、つまりグラフやネットワーク一般を表す文字である。

理解するというのは、そのように名づけられたアタマの中の体系に、対象をぴったり当てはめる(当てはまる)ことである。あるいはその網の目で対象をすっかり掬い上げることである。ぴったり当てはまる、あるいはすっかり掬い上げる、その「ぴったり」や「すっかり」の感じが「わかった!」の感嘆符に相当している。逆に、どうも当てはまりが悪い、あるいは掬い上げてもいろいろポタポタと零れ落ちていそうな感じがあると「よくわからない」ということになるのである。

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思いつきの言い訳(2)

2012年02月18日 | チラシの裏
けどまあ、その程度のことだったら何も「デタラメ」とまで自己卑下する必要もないのではないか、と思う人がいるかもしれない。ある意味では社会構成を2軸に沿って9区画に分割整理しただけで、その分割と整理が適切かどうかは別として、ある意味当たり前すぎるというか、いっそ凡庸と言っていいくらいの図式ではないのか、というように。

なんでわざわざ「デタラメ」だと念を押しておくのかの理由は、このモデルのもうひとつの起源にかかわっている。

すぐにわかった人もいるかもしれないが、一応自分でバラしておけば、このモデルの構成というかトポロジというか、それは精神分析学の構造論をほぼそのまんま横滑りさせたものなわけである。精神分析の構造論なら三極は「イド」「自我」「超自我」だし、三層は「意識」「前意識」「無意識」である。ね、簡単でしょ?パタパタパタ(刷毛を払う音)

昔ならともかく、今のご時世、精神分析学というのはあんまり評判がよくないわけである。いろいろに批判されている。バカみたいな批判もあれば、妥当かもしれない批判もあるわけだが、何にせよそうしたものを横滑りさせて即席に作ったものであるからには、そして、もとのトポロジを多少とも保存している(連続性を考えている)限り、それらの批判は当然このモデルについても妥当したり、バカみたいだから否定しなければいけなかったりするわけである。

元ネタはあるにしても自分で作ったものだから、そういうことはおいおい考えて行かなければいけないし、考えて行くつもりだ、という意味で「なーに、こんなもの、ほんのデタラメだよ」と言っておくことの方が、わたしの好みには合っている。こういう態度は学者には取れないわけで、しゃっちょこばる必要など毫もない素人だから平気でやっちゃうのである。



あんまり評判よろしくないモデルをわざわざ横滑りさせて使ってみるというのは、この種のモデルが「動力学(dynamics)」を含んでいるからである。

「dynamics」は精神分析学の本なら力動性とか力動的とか、あるいは経済学や社会学だと動学などと訳すわけであるが、英語なら全部dynamicsである。物理なら「力学」と訳すか、カタカナ語のままダイナミクスと呼ぶ(複雑性のような分野だと後者が多い)。わたしはもともとは理科系の人なので、本来なら物理屋にしたがっておきたいところだが、そうしないというのは、これが物理の話ではないからである。三極は物理的実在ではないし、物理的な力学法則に沿って動くものでもない。少なくともそう前提していい根拠はない。法則性はあるとしても何か全然違ったものでありうるということで、一応日本語で動力学とかく。

現実には違いないが非物理的なもの、また形式的にも微分方程式系として(つまり、物理数学の形式を援用できそうな範囲で)記述できそうにないものの動力学をどう考えるべきか、そもそも考えることができるのかということでは、参照して意味のありそうな伝統はふたつくらいしか考えられない。ひとつはヘーゲル哲学である。あの弁証法論理というのはつまり、精神現象の動力学に記述を与えようとして作り出されたものだと言って、たぶん相違ないものである。マルクスの「資本論」はその唯物論的応用である。そしてもうひとつの伝統が精神分析学だとわたしには思える。

前者はさておき、後者のモデルは形式として、不思議と個人の心的領域以外のものに応用されたことが、あまりなさそうな気がする。どうしてなのかはよくわからないが、精神分析がもてはやされていた時代には、勝手に使うと叱られるから(笑)であったのかもしれない。特にフロイト派の人はマジで怒るわけである。しかもその道のプロだから「防衛」とか「攻撃」とか「退却」・・・じゃない「退行」か、まあそういうことのメカニズムに(理屈はさておき臨床的に)通じていて、相手の逃げ道まで塞いだり、先回りして待ち伏せ攻撃したり、すっげータチ悪そう(笑)である。

まあそういう意味でも、わたしみたいな素人が勝手にやるのに適しているわけである。素人が勝手にやってしまう分には、それにいちいち文句をつけてくるとか、そんな大人気ないことはできないだろう。しかもわざわざ「デタラメ」の看板を掲げてやるわけである。これに文句をつけたらデタラメが「逆転移」を起こすはずである。

どうして全然違う形式を考えなければならないのかと言えば、それはもちろん、人間は意志を持つ存在だからである。物理数学の形式ではどうにも扱えないものがこの意志である。無理して扱おうとすればそれは相空間上の特異点になってしまう。また、そうした点がせいぜいひとつやふたつならともかく、いたるところにあるとなったら、それはもう理論モデルとして意味をなさなくなってしまうのである。

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試し書きシリーズ・「ウソ」論(5)

2012年02月18日 | チラシの裏
猶予ということは余裕ということに類似している。その場合の余裕は「ゆとり」「あそび」とも言いかえられる。

そういえば「猶予」の語にそんな感じがあるように、「ゆとり」「あそび」の語にもどこか不吉の影がつきまとっているように思う。「ゆとり」「あそび」は必ず有限である。それが尽きたら一巻の終わりである。尽きなければいいと言って、尽きることがありうるものは有限の未来において必ず尽きる。そしてそうであるなら実は、命運はいますでに尽きているのと同じである。誰もがそう考えるわけではないが、そうした考えは誰にでも生じうるもので、いったん生じると退けるのは容易でない。「ゆとり教育」が(わたしに言わせればほとんど理不尽なまでに)嫌われたことの背景には、ひょっとしてこのこともあったのだろうか。



ちなみに、反(脱)原発テロリズムの思考法というのが典型的にこれなのである。いま仮にM9の地震と、それに伴う大津波にも耐えられる安全装置を拵えたとしよう。そして彼らにそう告げたとしよう。そうすると彼らは間髪入れずに「M10が起きたらどうする」と言い出すのである。ほとんど必ずそう言い出すものだと思っていい。

そんな地震は起きないのかと言ったら、記録にある限り起きたことはない。とはいえ、起きないということはありえない。また地震として起きなくても、それに相当する規模の地殻破壊は、小惑星の衝突などで過去に何度も起きていることが知られている。だからそれは起こりうる。有限の未来において必ず起きると言ってもいい。で、そうである限り、彼らのアタマの中には、いますでにM10の地震が起きてしまっているかのようなイメージが忽ち出現するようなのである。もちろんこれは病気である。病的ではなく、はっきりとした病気である。

一方で、エンジニアというのはまったく同じ思考を病的でなしに実行しなければならない仕事ではある。百万年に一度しか起きない事象は、百万年後まで起きないのではなく、次の百万年のどの瞬間にでも起こりうるのである。それがもし絶対に起きてはならない事象であると言えるなら、エンジニアはあたかもいまそれが起きているかのように、そのつもりで対策を考えなければならない。そのイメージを作れるかどうかは結構重要である。ないよりはあった方がいい資質である。ただし、エンジニアたるものは病気としてそれを実行しない。事故を起こす可能性のあるものは、その可能性がどんなに小さくても作ってはならないと言い出したら、人間は何も作ることはできなくなる。それはエンジニアリングの否定であり放棄である。これに服することはエンジニアの倫理に反する。

魚屋は魚を売るのが仕事であるように、エンジニアはエンジニアリングを売るのが仕事である。いいかえれば、エンジニアの倫理はたったひとつ、エンジニアリングを売ってエンジニアリングならざるものを売らないことである。魚屋の倫理は魚を売って魚ならざるものを売らないことである。つまり魚屋は魚を、エンジニアはエンジニアリングを実践的(現実的)に定義する責任を負っているし、かつ、その責任だけを負うのである。負いきれないとか、負い損ねたということがあったらどうするのか。魚屋なら魚屋を廃業すること、エンジニアはエンジニアを廃業すること、それだけである。個々の職業人にそれ以上を求めることは、人間にはできないことを要求することになるという点で、そもそも人倫に反している。魚屋に求めえないことでエンジニアには求めていいということなど存在しない。逆も同様である。

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試し書きシリーズ・「ウソ」論(4)

2012年02月18日 | チラシの裏
ウソだウソだ全部ウソだと思いながら、しかしこれを書いているわたしも生きてはいるわけである。よくぞ性懲りもなく50年近くも長らえてきたものである。どうやって、と言われると確かに不思議である。

わたし自身が辛うじて自覚できているのは「猶予」ということだけである。モラトリアムである。ウソはとっくにバレている。だがまだ猶予はあるように思える。いつまで?知らない。それを知らないことによって堪えているような気がする。何を?



辞書を引いてみると「猶予」に対応する英単語は結構たくさんある。手持ちの辞書だとcredit, delay, grace, moratrium, probation, reprieve, respite, stayなどと出てくる。

まず興味深いのはcreditである。「信用」である。確かに似ている。猶予も信用も量的概念である。時間に沿って減りもすれば増えもする。ただし一度でも底を打ったら、そこから先は時間そのものが存在しなくなる。

delayというのもまた別の意味で興味深い。「遅延」である。執行を遅らせるということで猶予の意味が出てくる。ここで、理科系の人間なら「遅延は記憶と等価である」という事実を想起する人もあろう。すべての遅延素子は記憶素子になりうるし、逆も同様なのである。そうすると、記憶と猶予の間にはどんな関係があることになるのだろうか?

graceというのは意外な感じだが、これはつまり「恩典」が転じて支払猶予を意味するようになったものらしい。そういえば通信回線を切断する際の手順のあり方として「graceful shutdown」というのがある。まず双方が送信を止め、受信バッファが空になったことを確認して回線を切断する。「お上品な」くらいの意味かと思って読んできたのだが、ひょっとしてこのグレイスフルも猶予という含みを持つものであったのか。

あとはまあいいだろう。probationは刑の執行猶予で、probabilityと関連する語のようである。reprieveは主に死刑の執行猶予ということ。aggrieveには虐げるという意味があるので、その逆か。respiteも死刑執行猶予だが、もとは「休憩」の意。stayは「待機」。シビレを切らすまでが猶予。

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試し書きシリーズ・「ウソ」論(3)

2012年02月18日 | チラシの裏
あるいはこんな言い方をしてもいいかもしれない。わが国の婚姻率は低下している。その原因の全部ではないだろうが、一部は確かに「結婚して何かいいことあるとは思えない」と、男女ともにそう思う人が増えているということであるように思える。

「何かいいことあるとは思えない」いかにもその通りなのである。結婚どころか、生きていて特にいいことがあるわけではないのである。あると思ったら、それはウソである。ウソなのだが、しかしそのウソによってたいていの人は生きている。そうでなかったら、ほんの少しばかり躓いただけでも死んでしまうか、死なないまでもうつ病くらいにはなってしまうことだろう。いいことないのは確かなんだから。

そのウソが、しかし壊れかかっているわけである。壊れかかったものは修復するか、新しく作って交換するかしなければいけないだろう。そんな気がする。「だが、どうやって?」ということである。

ウソだと判っているウソを信じ込ま(せ)なくてはいけないのである。信じたふりをすることは誰でもできるが、それは外面ということである。かくべつ利益もないことのために外面を取り繕う人はいない。一方、内面が信じ込んでそれをウソと思わなかったら、それは詐欺である。詐欺はそんなに長持ちするものではない。バレる前にトンズラしないといけない。

長持ちするのは「ウソだと判っているウソを信じ込」んだという場合だけである。そしてそれは、普通にはどう考えても両立しえないのである。少なくとも両立するということを合理的に導出する、あるいは維持することは、この枠組みの中では不可能であるように思える。つまり、個人がただ個人であるというだけの枠組みの中では。

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思いつきの言い訳(1)

2012年02月18日 | チラシの裏
昨日の「思いつき」モデルは、直接的には米国社会のようなものが想定されているわけである。なんで米国なのかと言ったら、この思いつきの起源のひとつは、例のあのM・サンデルの政治哲学の議論にあるからである。

非常にわかりやすく簡略化して言えば、いわゆるリバタリアニズムは「経済」単極モデル、ロールズ的なリベラリズムは「経済」と「政治」の双極モデル、そしてサンデルのコミュニタリアニズムでいう「共同体」というのは、少なくともその一部は間違いなく「宗教」極を志向してはいる、そういう意味では三極モデルに近いものではないかということになる。

べつに三層×三極の構造を持つことが理想だと言いたいわけではない。だいたい、いまどき米国人以外の誰が米国社会を理想だなどと言うだろうか。

そうではなくて、たとえばいまの日本社会の現実を範型として普遍的なモデルを構想しようとすると(それができれば、それに越したことはないのだが)、うまく行かないところがあるわけである。その最たるものが政治と宗教で、わが国ではこれらは今や、ぶっちゃけ何しに存在するのかわからないくらいのことになっているわけである。つまり存在はしているが、社会の現実的な動態に関する限りほとんど不活化されてしまっていると言っていいわけである。

それがいいことであれ、そうでないのであれ、なぜそうなってきたのか、また、よくはない(問題がある)というのならどう考えなければならないのか、そういうことを考えるための普遍的なモデルが必要だと思うわけである。



「宗教」極をそう呼ぶのは、ほんとはたとえば「文化」極と呼んでもいいわけなのだが(実際、哲学とか、近々にゼニにはならなさそうな基礎科学とかはここに含まれる)、そう呼ぶとどうも「恐ろしさ」が足りない、という気がするわけである。たとえばわが国で政治や宗教が不活化されてきた背景には、その恐ろしさということが当然あったわけである。

恐ろしいものを不活化したら、本来は不活化する必要はなかった哲学や科学まで一緒くたに不活化されてしまったようなところがあるのではないか、と思う。

哲学はともかく、科学研究それ自体が不活発になったというのではない。この場合の「不活化」というのは、コドモやワカモノの「理科離れ」が顕著になってきたとか、本屋に行くとまっとうな科学書があからさまなオカルト本と同じ棚に、結構区別もなく放り込まれていたりして、今や科学なんていうのは世間の人からどうでもいいと思われるようになったようだとか、そうした傾向をもたらした動き、というほどの意味である。

話を戻すと、もちろん哲学や科学にもある種の「恐ろしさ」の領域がないことはない、とはいえ宗教的なファナティシズム(熱狂)のような要素はそんなにないし、必要ともされないことである。哲学は理性と論理、科学は実験と観察を方法の要にしているわけで、そういうのはもともと、あんまり熱狂するとよくないわけである。

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ある思いつき

2012年02月16日 | チラシの裏
以下はまったくの思いつきである。

もともと全然別のことを考えているうちにふと思いついたもので、その「全然別のこと」についてもメモ書きを作っているのだが、あまりにもデタラメくさいので、あらましだけを述べるにとどめて、全部を公開するのは控えておく。

それがデタラメならこの思いつきがそもそもデタラメだろうと言われれば、まあそうなのだが(笑)、わたしの素人哲学は十代のころからいつも裏側にデタラメを貼りつけたまま進行してきたものなので、久々に思いついた新鮮なデタラメだということで、せっかくだから記しておくのである。

その思いつきというのは社会構成のモデルに関する思いつきである。

ふたつの軸を考える。ひとつの軸は「経済」「政治」「宗教」の三極で構成され、もうひとつの軸は「生活」層と「統治」層、その間に「中間」層を置く三層で構成される。この三極×三層が社会の静態(構造)、動態はそれぞれが三層にまたがって存在する三極の内的および相互的な動力学として眺められる。

ざっとこんな思いつきである。

で、途中まで書いたメモ書きの「デタラメ」のあらましをまとめると、わが国すなわち日本の社会は、封建時代を通じて「宗教」極が不活化され、第二次大戦後には「政治」極も不活化され、結局「経済」極だけが残された、きわめて特異な単極構造の社会とみるべきではないか、そしてそれが高度成長期からバブル期までの経済的成功、先進国でも類のない消費主導経済の発達と、それ以後現在まで続いている、ほとんど窒息したかのような全社会的な停滞ということの両方が、このモデルから説明できるのではないか、というものである。

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試し書きシリーズ・「ウソ」論(2)

2012年02月16日 | チラシの裏
(1)をうpした直後にちょっとだけ思いついたので追記程度に。



この考察で「ウソ」という日常語をそのまま使っているというのは、事実それらはしばしば文字通り「ウソ」であって、つまり我々自身が日常においてその取り扱いに悩まされている、うっかりすると命を落とす人さえいるような、それなりに重大な事柄だということがあるわけである。

どこまでもウソばっかり、というのは世の中のことばかりではない。普通に男女の間にあるものでさえ、そのほとんど全部はウソである。表明された愛情もウソなら、表明された憎悪も同じくウソである。むかしビートたけしが好んで使っていた言い回しを借用すれば、要は「ポコ○ンが出たり入ったりするだけ」、あとは全部ウソである。

この言い草それ自体は、品はないにしても「本当」なのである。そもそも「品」などというのは全部ウソなのだから、とことん品のないことを言うほど「本当」に近くなると考えておいても、それほど大きく間違うことはないものである。ただ、そうは言っても、こういうのは自明(trivial)な「本当」にすぎない。だからこの「本当」によって男女の現実をウソまで含めて全部掬い取ることはできない、ということもまた明らかなのである。

つまり、仮に、いまのワカモノの間にこの手のミもフタもない認識を徹底させたとしたら、いまどき低下するばっかりの婚姻率や出生率が上昇に転じるか(あるいは、そうした帰結をもたらすような言葉を構成できるか)、ということである。転じるはずはないのである。ひょっとするといっそう激しく低下しはじめるかもしれない(笑)ことである。

フロイトが、あるいはそれ以後の精神分析学が偉かったと思うのは、だから、自明でミもフタもない「本当」を根本に置くとしても、そこで終わりにしないで、現実に人の口から、あるいは行動として出てくるウソが、何がどうしてそのウソが出てくるのかというところの静的あるいは動的な構造に踏み込んで考え、少なくともその「分析」という目的に限ればかなりな程度まで有効なモデルを作り出してみせたことである。「治療」のためのモデルとしては、必ずしも十分に成功したとは言えなかったとしてもである。

(いやホント、次がいつなのかは保証できない)

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試し書きシリーズ・「ウソ」論(1)

2012年02月16日 | チラシの裏
この場合のウソはもちろんウソのことなのだが、場合によっては虚偽とか欺瞞とか、あるいは錯覚とか幻想とか呼ばれたりすることもあるものである。最初からあまり厳密な定義はしないことにする。



たとえばフロイト派精神分析学者の岸田秀は「唯幻論」というのを唱えていた(最近この人の本は読んでいないのだが、たぶん今も唱えてはいるだろう)。それをここでの語法に沿って言いかえれば「(この世のことは)ウソばっかり」ということになるわけである。

読んだことのある人ならお判りだろうが、あれはなかなか厄介な論理である。言ってることが妥当かどうかはさておいて、そもそもこの論理はどうしてこんなに厄介そうな貌をしているのか、わたしにはそれが長いこと不思議だったわけである。

割合最近になってわかったことは、たとえば哲学というのは、この世の事物(ないしはそれを記述した命題)の中から「本当」のことだけを取り出して、それを論理の糸で結びつけることによって、この世界と現実を単一の体系として、そしてできれば網羅的に、つまり世界と現実のすっかり全部を理解の腹中におさめようとする試みだということである。自然科学というのも「本当」ということの基準が違うだけで、極限において志向するところは同じである。実際、自然科学はもともと自然哲学だったわけである。

そうすると、この世が「ウソばっかり」、つまり「本当」のことなどひとつもない、ということを最初に掲げてしまった論理とは、哲学や科学はどうやっても、少しも折り合いをつけることができないということになるわけである。厄介どころの騒ぎではなかったのである。

しかし「本当」のことなどひとつもない、というのは本当なのだろうか(これが奇妙な文だというツッコミは控えてもらうことにしよう)。哲学にしろ科学にしろ、その体系の要にはだいたい誰がどう考えても本当のことだと思われるような命題が置かれているわけである。「ウソばっかり」という人たち(べつに岸田秀だけではない、その読者も含めて、おんなじようなことを言う人はたくさんいる)にしても、本当にそれらもまた「ウソばっかり」だと本気で思っているかというと、たぶん思ってはいないし、思うことはできないのではないかという気がする。

実際、哲学もそうだし、科学も結局はそうなのだが、この世界や現実が(本来ならば)ウソをまったく含まないものだという風には、必ずしも考えないのである。現実にウソはたくさんあるし、ウソの方がずっと多いかもしれない。それは認めても構わない、というか、それは当然認めなければ、それこそウソになってしまいそうなことである。だが、論理の糸を「本当」の結び目で結んで網カゴを編んでみれば、ウソも含めた全体を漏らさず掬い上げるような編み方が常に存在するはずだというような、そうした考え方が根本にあるわけである。

たとえば自然数の集合は無限集合である。その中には人類史上かつて誰も実際に数えてみせたことはない数が無数に存在する。それらは、言ってみれば、ここでいうウソに対応している。けれども、すべての自然数は偶数か奇数のどちらかに分類される。つまり偶数か奇数かという観点から、誰も数えたことのないウソの数まですっかり含めた無限集合の全体を掬い上げる、あるいは理解の腹中におさめることはできるわけである。もちろん自然数の性質を考えるのに偶数と奇数の区別しかないというわけではない。けれども、どんな性質を考えるにせよ、同じようなやり方で全体を掬い上げる区分けのやり方は必ず存在するはずだ、と、そう考えることは、そんなにおかしな考え方だとは言えないわけである。

だから「ウソばっかり」の考え方はおかしい、最初からできっこないと決めつけた臆病な心理の正当化にすぎない、などと言いたいわけでは、実は全然ないのである。第一、その程度のことでは「ウソばっかり」の厄介さということを述べつくしたことには、たぶんならないはずである。

自分で書いておいて言うのも何だが、簡単なことで、その「ウソ」が水みたいな液性のものだったらどうするのだ、ということである。哲学にしても科学にしても、文字通りザルで水を掬っているだけではないのか、という根本的な疑問があるわけなのである。

もちろんそのザルは相当に目の細かいものであるし、ウソの方にもそれなりの粘性や表面張力はあって、全然何も掬えないということはなさそうである。そこで、ゲル状を呈するまで煮詰めた現実の中にザルを沈めて、漏れないようにそろそろと引き上げ、捧げ持って「これでよし」とばかり前を向いたとたん、実はもうその時には大部分がずるり、ぼっとりと落下してしまっていて、しかもザルを手にした方はそれに気づかなかった、というような、どうもそういう情けないシナリオが、知的な探求の世界では時々展開されてはいないだろうかということである。

途中まではうまく行っているように見えても、気がつくといつの間にかほとんど全部が「ずるり、ぼっとり」零れ落ちてしまっているかのような感じは、特に人文的な分野の知識はそうならずに済んだことがないのではないかと思えるくらい、しょっちゅう感じられることである。学者研究者はともかく、その研究対象にされているところの我々の日々は、特にその細部こそは、途中でぼっとり零されてしまう方に、たいてい属しているわけである。とり零されて落ちたところの地べたの上でこん畜生とばかり怒鳴ってみたくなったことが、まったくない人の方が珍しいのではないだろうか。



ウソをウソとしてそのまま取り扱う方法はないものか、ということは、そういうわけで、時々いろんな人が考えてきたことである。ウソの総体を「本当」の網の目で掬い取ることは、まったくできないとは言わないにしても、結局はほとんどできないらしいということは、これだけ何度も失敗が繰り返されてくると、ほとんど確実なことのように思われる。だったらもうウソをウソのまま扱うことを考えるよりほかないのではなかろうか。

それが複雑性の科学なんかだと、たとえば「複雑なものを複雑なまま」という言い方をする人がいるわけである。感性的には、確かにそういうことなのである。問題は、改めて言うまでもないことだが、それが科学である限りは「複雑なものを複雑なまま」というのは端的にナンセンス(つまり、無意味)でしかありえない、ということである。複雑なものを単純なものの組み合わせ(体系)として理解するということが科学的探求の目標なのだから、複雑なものが複雑なままだったら、それはいったい何をやっていることになるのかサッパリ判らない(つまり、無意味)わけである。

(このシリーズはどれもそうだが不定期に続く、または続かない)

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電子出版についてのメモランダム

2012年02月14日 | チラシの裏
いよいよamazonが本格的な電子出版物の流通販売に乗り出すということで、たまには電子出版のことも考えてみることにする。

実際問題として現時点では、もとから出版業界の人間だとか、商業出版物の著者として生計を立てているというのでもない限り、電子出版というのは何ほどのものでもないわけである。電子出版の時代になったら科学書や哲学書の内容が急に向上したとか、そういうことはさしあたっては起こりそうもないことである。

ここらへんは電子出版の泣き所のひとつではある。LPレコードがCDになった時はほとんど誰が聴いても直ちにわかるような音質とダイナミック・レンジの向上があったわけである。それが(ポピュラー)音楽の表現力を増しもしたし、テクノロジの進歩も生み出して行ったわけである。電子出版にはそういうものは特にない(笑)のである。

電子出版になったらアルファベットが倍になったりするわけではないし、逆に半分に縮約されるということもない。紙の印刷物では不可能だった文章表現が可能になるわけではないということである。どっちかと言えば検閲がやりやすくなって、かえって表現の幅が狭められてしまうということさえありうる、というか、こちらはたぶん確実にそうなってしまうだろう。

だいたい、文字情報のディジタル化とその伝達ということであれば、普通のWebページだけがあればいいじゃないかとも言えるわけである。どうして「電子出版」というシステムが新たに別に作り出されなければならなかったかというと、何のことはない「インターネット上の文字コンテンツで『まっとうに商売を成り立たせる』ことはできなかったから」なのである。

この「まっとうに」というのは単に収支があうということだけを意味していない。収支が合えばいいというなら、メールマガジンのような、ごく小規模に閉じた形でなら、どうにかこうにか成立している事例は、ごく少数とはいえ存在するだろう。ただそれは商店で言えば個人商店、それも屋台とか露天商のようなものだと言っていいはずである。それ以上の規模にはどうしてもならないのである。

どうしてと言われたって、ならないものはならない、ならなかったのである。Webが一般に普及して約十年になろうとしているが、「ネット上の文字コンテンツだけ」を商売してそれ以上の規模まで発展し、安定して運営できているという事例は、世界中で見てもほぼ皆無ではないだろうか。少なくともモデル化できるほど数多くないのは確かだと思える。

屋台のラーメン屋だって、このさき一生屋台を引いているしかないという認識でやるのは、きついことであるはずである。商売にも発達の最近接領域というべきものがあって、それを想定できないと「まっとうに商売を成り立たせている」とは言いにくいのである。商売はこつこつやるものだと言ったって、こつこつ発展するものでなかったら、少なくともその展望を描けるものでなかったら、どんな我慢強い人間でもいずれは腐ってしまうのである。

判ったように書いているが、今だからそう書けることである。社会の中で商売を営むこと、それで生計を立てて行くとは本当のところどういうことなのか、それを、世界中の大部分、いやほとんどすべての人が、こうなってみるまではそんなに、いや、ほとんど全然判っていなかったのである。情報の数値化と網伝達の技術がこれだけ発展して、従来の世界とはまったく違う情報伝達のトポロジを持つに至った世界の上に話を置き直してみて初めて少し判ってきた、あるいは判りかけてきたことだと言っていいのである。

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「近頃のワカモノ」についてのメモランダム

2012年02月14日 | チラシの裏
「近頃のワカモノ」の動向ということで興味深いことのひとつは、ワカモノがクルマに以前ほど関心を示さなくなったと言われていることである。これとてどこまで事実なのか判らない気もするのだが、仮にかなりの程度で本当のことだとすれば、他の色々の現象と整合するように思われるところがあるわけである。

そもそも、昔のワカモノはどうしてあんなにクルマを欲しがったのか。当時だって別にまんそくな収入も駐車場もなかったはずなのに、無理して買ってヒーヒー言ったりしながらも、誰もクルマを所有することを(ほぼわたしひとりを除いて)やめもしないし、諦めることもしなかったのはなぜなのだろうか。

実のところ、わたしは当時からひとつの仮説を持っていた。それは「クルマを所有することは異性とつきあうための最低必要条件だから」というものであった。

もし、その最低必要条件が最低でも必要条件でもなくなったとしたら、つまり「異性とつきあう」ということが命題として根底から消失してしまったとしたら、それこそクルマなんかあったって仕方がないということに、たちまちなるに決まっているわけである。事実、わたしにはその命題が最初から存在しなかった。だから実際、クルマを所有することの意欲も何も一度も生じたことがないのである。

・・・まあ、そうは言ったってこんなことになっているのは俺くらいのものだろうと、ずっと思ってきたわけだが、巷間言われるところを聞いていると、ひょっとしてそれが本当に大規模に起きたのかもしれないと、ここ数年来わたしは怪しんでいる。

その要因としてわたしが最初に念頭に思い浮かべるのは、わが国ではこの20年くらいの間に、人間関係のトポロジというかメトリック(空間の距離構造)が根本的に変化してしまったのではないかということである。

それが変わってしまったのだとしたら(そうと決まったわけではない)、その最大の要因は携帯電話であるというのは間違いないと思う。人間はもともと物理的なメトリックに沿って人間関係の体系を作り出してきたのだが、携帯電話はそのメトリックを根本から変えてしまったのかもしれないわけである。

ミもフタもないことを言えば、ある物理的な面積の中にある閾値以上の密度で男女を放り込んでおくと、単にそれだけで放っておいてもいずれ対合(笑)が生じるわけである。本当は笑い話ではなく、これは「社内結婚の定理」とでも言うべき、よく知られた事実である。

メトリックが変わってしまったことでその密度が希薄化して対合しにくくなったということは、ありうると思える。本来ならば放っておいても異性と対合したがる(笑)人間の本性がそう簡単に変わるわけはない。変わったとしたらメトリックが変わったと考える方が理に適っているわけである。

もちろん単純に任意の男女間の平均距離が増大したというだけではない。いくらなんでもそんな単純な話ではない。化学反応系だってそんなに単純ではなくて、分子反応の発生確率は平均分子間距離だけではなく周辺環境にも影響されるわけである。

男女が対合するという場合、空間上のあっちとこっちから男女がやってきて衝突して、などというド単純なものではないわけで、だいたいはまず数人から十数人程度の曖昧な小集団(サークル!)が形成される。そしてその集団の雰囲気(まさに雰囲気だ)に沿って男女がいっそう「異常接近」する機会が生じる、その頻度が高くなるわけである。化学反応だって一定以上の温度と圧力がなければ生じないのと同じように、男女の対合が生じる以前に、一定の温度と圧力が保たれてあるような小集団の環境が形成されていなければならない。

たぶん実際にそうしたものなのだということは、この機構が男女の個々人の意志とはほとんど関係なく作動する本性を持っていること、そしてそうした小集団の中にいて実際に起きることを眺めているとわかることだが、普通に人間について言われるような倫理性の要素はいとも簡単に踏みにじられるように見える(あるいは感じられる)ことからして明らかである。集団が機械のように作動しているとき、その中の個人の振る舞いは(そうと意志したものではないのに)反倫理的に見えるということがありうるというわけである。

この仮説的描像の中で我ながらまだ不明だと思っていることがひとつあって、それは、そもそもワカモノは何で携帯電話をあれほど選好したのだろうかということである。

わたしがワカモノだったころは小集団の形成動因というのはそれなりに強くあったのである。わたしが携帯電話を好まない理由のひとつは、特に異性にモテなくたってそういう小集団の中にいるのはそれ自体が割と愉快なことだったという記憶が強く残っていることである。その記憶からする色眼鏡をかけて眺めれば、携帯電話それ自体に小集団を形成する力がそもそもないし、どちらかと言えば破壊的に作用することは明らかである。

けれども、どう見ても携帯電話を選好するワカモノはそうあることを選んだとしか思えない。つまり以前からあった小集団の文脈それ自体を忌避するかのように、彼らは携帯電話を選んできたように思えるのである。

もちろん誰が何をどう選好しようと勝手だし、わたしには結局どうでもいい事柄である(笑)から、どうするつもりなんだろうねェと思って眺めていると、だいたい思った通りのことが生じているわけである。

つまり携帯電話がこの状況を作り出したというよりは、もともとワカモノの個々人の欲望の志向と構造が変化したことの方が先にあって、携帯電話はただその欲望の志向と構造にぴったり適合するように出現してきたというだけなのかもしれないのである。

実際、携帯電話の爆発的な普及が起きる前に、その前駆的な現象としてポケットベルの流行があった。携帯電話はすでにあったが、十代が普通に所有できるほど安価なものではまったくなかったので、ごく短いけれど文字情報を送信できるポケットベルが使われていたということだ。

やってることは携帯電話のmail交換とほぼ同じ、違うのは電話が別に必要だったということだけである。あれも不思議な現象で、不思議なことだと思っているうちに携帯電話が普及しはじめ、じきに会話そっちのけのmail交換が始まったわけである。

(未完)

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試し書きシリーズ・どうしてこんなに円高なのか

2012年02月13日 | チラシの裏
実際、不思議と言ったらこんな不思議なことはないわけである。日本経済はとっくにズタボロだと思えるのに、なんで世界経済の上に何か起こると、「相対的に安全」な通貨だと言って円が買われる(したがって円相場が上昇する)ことになるのだろうか?

考えられることはたったひとつだと思える。つまり日本の経済社会が「相対的に安全」である、つまり世界に何が起きようとその社会全体が何か急激に変化するということが「まず、そんなことはなさそうな」経済であり社会であるという風に、世界経済からは見なされているということである。実際のところ、ほとんど毎年のように政権は交替するし、あるいは去年の大震災のようにしょっちゅう大きな自然災害にも見舞われている、にもかかわらず、日本の経済社会は全体としてみればまるで何事も起こらなかったかのように静かである。人々は朝になれば粛々と勤めに、あるいは学校へと出かけて行き、その通勤電車の中で恭しく怪物狩りのゲームをやったり、スマートフォンで他人の無意味な呟きを漫然とくりくりして暇を潰している。それ以上のことは本当に何も起こらなそうじゃないかと言って、確かに、外から見れば本当に何も起こらないのと同じだと見えているのかもしれない。

結構なことではないか。そう、結構なことなのである。「だから」その結構な経済社会の通貨たる円が買われるのである。その結果、なるほどその国の製造業は製品を輸出できなくなって壊滅するかもしれない。年金制度は崩壊するかもしれない。少子高齢化も一向に歯止めがかからず、自殺率は世界最悪水準で高止まりしたままであるかもしれない。だが、それでもこの社会には「おそらく何も起こりはしない」のである。何も起こりはしないが、とにかくGDP5兆ドルになんとする経済大国には違いないのである。あくまでマクロに眺めた場合に、これほど豊かで、高度に文明的で、しかも安定・安全な経済社会が、世界の他のどこにあるだろうか。

何十年か先には一度にすべてが崩壊するようなことが、ひょっとしたら起こるのかもしれない。その相転移を引き起こすであろう秩序パラメタの値は、じわじわ上昇し続けていることは間違いあるまい。あるいはすでに「過冷却」状態であるのかもしれない。だがミリ秒単位で取引している外為相場にとってはどうでもいいことである。そんな秩序パラメタと経済社会システムの相転移現象が実在するかどうかもわからないし、実在したとして何がそのパラメタであるのかも、本当は誰にもわからないことだからである。だいたい「過冷却」状態だとしたら、あの大震災の後でさえ、言うほどのことは何も起こらなかったというのは理解しがたいことである。震災直後に円はむしろ急上昇した。原子炉の施設の外壁が水素爆発で吹き飛んでも、別にどうということは(マクロな現象としては)起こらなかったからである。

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試し書きシリーズ・デモクラシーの嘘と未来(2)

2012年01月29日 | チラシの裏
相対的に最良だろうと何だろうとデモクラシーが嘘のかたまりであることに違いはない。それを「いい」というのは、本当はそれが嘘かどうかということと独立に言っていいことではないはずだ、という考え方はたぶんありうる。このあたりはもう少し丁寧に追ってみる必要があるだろう。

あるいはまた、(1)を読んだ人の中には、わたしは結局「嘘でない(政治的な)意思決定の体制などは存在しない」と、ただそれだけを言いたがっているのだと思う人もいるに違いない。そうだとすればそれは結局(政治的な意思決定の体制についての)虚無主義ではないのだろうか。

そうではない。このシリーズの題名に「未来」と入れてあるのは、端的に虚無主義でないことを言おうとしていることの表示である。虚無的なことを言おうとするものならば別に未来のことなど語る理由もない。今日ある嘘は何億年経っても、体制がどのように変化したり、あるいはひっくり返されたりしようとも、嘘はずっとありきたりの嘘としてあり続けるに違いない。だったらそれは、今日すでに語るに値しないことである。

デモクラシーが「いい」というのが仮に本当のことで、さらに疑う余地のないことであったとしても、政治的(意思決定の)体制の虚無主義に沿って言うならば、それは偶然いいだけ、あるいは偶然いい時代や社会に生まれてきただけのことで、そしてそれは何をどうすることもできないという意味でも偶然であるしかない。嘘はいかなる合理的な思考や判断によっても、あるいはそれに導かれた行為や行動によっても、まったく左右することができないものとしてあるものだからである。つまりそれは偶然我が身に降って湧いたということと同じように、おなじ偶然によってある日突然消え去りうる何かにすぎないということになろう。

デモクラシーは、他のあらゆる体制が固有の様式でそうであるように、やはり嘘である。それが規定している種々の概念──(政治的な)自由とか、平等とか、他者への尊重(友愛)とか──も、それを嘘と呼ばないのならフィクション(作りごと)と呼ばれるしかないような何かである。結局はそうである。

けれども本当に何もかもが嘘なのだろうか。決してそうではないわけである。体制が、その根本理念が嘘であろうと何であろうと、その嘘に沿って予算が組まれ、一切が茶番じみた喧騒と決議の末に予算案が採択され、役人どもが鼻クソほじくりながら作文したうさんくさい理由のもとで執行されてゆく、この過程の上でヒト・モノ・カネの現実は事実として確かに動くのであるし、動いているのである。そこにくっつけられた理屈が、ひとつひとつが悉くまったくの屁理屈で嘘っ八にすぎないというだけで、動いている事実の事象のひとつひとつは、それ自体としては嘘でもフィクションでもないのである。

昨年の収入を確定申告したら、税務署の役人が税金がこれこれの額だけ還付されるといったら、その理由が何であれ、あるいはどう説明され、正当化されるものであれ、確かにこれこれの額が銀行預金口座等に振り込まれるわけである。その額面それ自体は嘘でも茶番でもまやかしでも何でもないはずである。少なくとも、預金残高の額面を政治家や役人の言語と同じ水準で疑う人が、宇宙的な迫害妄想にとりつかれたキチガイのほかにいるだろうか。いないと思える。

そしてまた、そうした現実的な事実の動き方には、漠然と、それぞれの体制(の嘘)に固有の特徴が伴っているように思われる。これもその特徴を政治的体制の言語(概念)によって説明したとすれば、ことごとく嘘とまやかしの説明にしかならないわけだが、仮にその嘘とまやかしを全部取り除いたら特徴がその存在ごと消えてなくなってしまうことになるかというと、そうは思えないわけである。デモクラシーの嘘は確かに、それ以外のどんな体制の嘘よりも、我々の個々人にとってよりましな現実を、嘘がその嘘であることによって帰結させているように思える。

(つづく)

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試し書きシリーズ・デモクラシーの嘘と未来(1)

2012年01月28日 | チラシの裏
この場合の「デモクラシーの嘘」というのは、ごくありきたりの意味である。つまり、デモクラシーということを一番簡単に言うならば、それは人間の集団の政治的な意志を「みんなで相談して決める」こと、また「それ以外のどんな(政治的な)意志決定も正当な(政治的な)意志決定とは認められない」ということだと言っていいはずである。

で、たとえば今の日本がデモクラシーの国であるとするならば、上は真っ赤な嘘である。あるいは逆に、上はデモクラシーの定義であって、したがって嘘ではありえないというのなら、今の日本がデモクラシーの国だということの方が真っ赤な嘘だということになる。

まあ要するに、(少なくとも)わが国で、あるいはわが国の中のどのような集団であれ、その政治的な意志決定が「みんなで相談して決める」という言葉の意味に正しく該当するような形で決められているというようなことは、ただのひとつとしてないわけである。あまりにも幼くてまだほとんど何も知らないコドモとか、大人の場合ならよっぽどひどい世間知ラズだとか、何かそういうのでもない限り、これはほとんど誰でも知っていることだという意味で「ありきたりの」嘘である。

もちろんこうしたありきたりの嘘が横行しているのは、自称デモクラシーの集団の内側に限らない。封建的な集団には封建的な集団の、全体(社会)主義の集団には全体(社会)主義の集団の、その他もろもろ、任意の体制の集団に対してその体制に固有の嘘の様態があるわけである。それらはまた、様態としてはそれぞれの体制に固有であっても、ありきたりの嘘であるという点においては、どれもまったく同じであるといっていい。これも、まあ大人ならたいてい誰もが知っているという意味で「ありきたりの」真実である。

わたしは何か虚無的なことを書こうとしているわけではない。虚心坦懐に言って、わたしは自分が住んでいる日本という国が、おおよそのところその憲法の定めるところに沿ってデモクラシーの国であることをいいことだと思っている。そのデモクラシーは上に書いた通りの意味で嘘である。まったくもって明らかな嘘である。ゆえに、その嘘を塗り固めている憲法も塗り固めた嘘である。嘘でもいいというのではない。嘘だからいいというのでもない。単にデモクラシーはいいというだけである。それはそれとして、そのデモクラシーは嘘なのである。何もかもが嘘っ八なのである。

デモクラシー(という嘘)が集団の政治的体制(の嘘)に関する限り可能な最上の体制(の嘘)だとは言い切れない。なんと言ってもそれは嘘なのである。うんざりするようなありきたりの嘘のひとつである。けれども、少なくともかつて存在した、あるいは現存する、デモクラシーとは相容れない原則(の嘘)をもつどのような体制(の嘘)よりも相対的によいということまでは疑いようがないと思っている。仮にわたしの考えが全部間違っていたとしても、わたしがそう思っているということ自体に偽りはない。少なくとも自分自身に対して自信を持ってそう言うことができる。つまりわたしはわたしに対して嘘は言っていないつもりでいる。

そして、さすがに確証はできないけれど、わが国の人々のほとんどはやはり、わたしが上で言ったようなこととだいたい同じような意味で、日本がデモクラシーの国であることをいいことだと思っている、ように思える。中には額に青筋立てて俺は違うと言う人が、主に右翼とか左翼とかの全体主義者として少しはいるわけだが、まあ非常な少数派であろう、とわたしは思っている。多くの人もまた彼らをゴミかキチガイの類だと思っている、だろうと思っている。

(つづく)

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試し書きシリーズ・「機械を修理すること」

2012年01月28日 | チラシの裏
うつ病のような心の病を、たとえばクスリで治すというのは、早い話が機械を修理することである。壊れた機械は基本的には修理すべきものであるし、修理すればそれで済むものである。修理はだいたいどんな場合でも、部分的には完全に損傷した部品を、同一の新品の部品で交換することを含んでいるから、修理と言っても全体を交換してしまうことも当然含まれることになる。

そうしたことを含めて、機械の修理だというと強烈な抵抗感を覚える人が多くいるに違いない。ある意味ではわたし自身だってそうだ。機械やその工学についてほとんど何も知らない人でも、また人間の精神の学についてほとんど何も知らない人でも、誰だって明瞭に知っていることのひとつは「少なくとも自分の心は機械ではない」ということだからだ。

それはそうなのだが、他方にもうひとつ、誰もが必ず理解しておかなければならないことがある。簡単に言ってしまえば「この宇宙に物理(機械)でないものは何ひとつない」ということだ。人の心といえども、その内容や過程をどこまでも微細に追って行ったとしたら、物理(機械)でないものは何ひとつ残らない。これもまったく確かなことなのである。いやしくも自然科学を本当に学んだことがあるという人間なら、このことに反する物事の理解は絶対に認められないし、認めるべきではないし、どんな些細なことでも認めてはならない。

らしくもない厳格なことを言う、と思われることだろうが、実のところそう考えるのは厳格さのためではまったくないのである。逆なのである。一方で「少なくとも自分の心は存在して、かつ機械ではない」、他方で「機械以外のものは存在しない」というのだから、これは字面上は矛盾である。けれども現実的な物事についてどちらもまったく真だと思われるふたつの命題が互いにまったく矛盾するということは、両者を構成する要素のどれか、ないしすべてが、実は曖昧さを含んでいるということの兆候である。

このblogでの定番の説明をわざと避けて明確さを意識して言ってみれば、物理は壊れないということである。つまり物理法則にしたがう宇宙全体について「壊れている」と言うことはできないのである。「壊れている」と呼べるものは常に全体ではなく部分である。厳密に言えばそれ自体として閉じた形で規定される部分である。こうした意味で、実のところ「壊れている」という概念は、それ自体は物理ではないのである。あるものが機械であるなら、それは物理なのだが、逆は必ずしも成り立たないのである。

何が言いたいのかと言えばふたつのことで、ひとつは「自分自身を機械として、あるいはあたかも機械のように思いなして修理することを、過剰に恐れるな」ということである。それを過剰に恐れることの極限的な形態のひとつがあの「ホメオパシー」の類ではないだろうか。わたしにはそう思える。その信奉者たちはプラシボ効果とか何とか適当なことを言うわけだが、そんなものは「痛いの痛いの飛んでけー」式のオマジナイと同じなのである。

そんなオマジナイでも効果が生じえないかと言えば、生じることはありうる。それはどんな科学者でも医学者でも、それどころかナチス医師会や学術ナチス会議でさえ否定しない(はずの)ことである。けれども、だったらオマジナイを称えていればいいわけである。それをわざわざ成分希釈を繰り返し、ただの砂糖玉である以上のいかなる生理的作用もありえないことが確証された物質をわざわざ経口服用させる、さらにはそれに固執するということの意味は「(機械ではありえないところの心や魂の、その基体である)生体を機械的に修理すること」に対する過剰な恐れの心情と、その心情の倒錯的な正当化ということ以外ではありえなかろう。

言いたいことのもうひとつは「だからと言って『何の恐れもいらないし、ありえない』などとは思うな」ということである。これは、単に、投薬を含めたあらゆる医学的治療に伴う「副作用」のことだけを言っているわけではない。機械ならざるものを機械として修理するという行為そのものを含めた上でのことである。一般に、機械ならざる存在を機械として修理すれば、大なり小なりその存在そのものが不可逆的な変化を被りうる。少なくともその可能性は、どんな場合でも絶無ということにはならないのである。

もちろん上述の通り、それを過剰に恐れる必要はない。必要がないというより、多くの人にとって現実を生きることは、どんな些細なことでも──指先をケガしてバンドエイドの類を貼るだけのことだって──常に極微のリスクが伴ってあることで、それを承知しつつ、極微の勇気を奮って前進することである。この世で最も臆病な人を含めて、誰もがそうしていることである。それを否定することは、文明社会の人間として生きることの否定である。けれども、常にそのかすかな恐れをもち続けることと、それをまったくもたないことは、まったく別のことである。それがもともとないのか、前はあったけれどどっかでなくしてきたものの典型が、ナチス医師会であり学術ナチス会議の徒なのである。

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