ここから先は書いているわたし自身が必ずしも経験しないことを扱うことになる。
物語を読まないと言って全然読まないわけではない(もしそうだったら太宰治や源氏物語の一節を引いたりすることもできない)が、それでも普通の人に比べたら圧倒的に読んでいないし、特に長いものや陰惨な話は、前回書いたような理由でわたしは読めないわけである。
前回の末尾に書いた「あたかも献身的な宗教家の抱く使命感のように」というのは必ずしも皮肉ではない(皮肉を含んでいないというのでもないが)。ひょっとしたら、わたしが物語を苦手にしているのは、これの逆で、宗教的な理念に束縛されるということがほとんどないバチ当たりだからかもしれないわけである。束縛されなければ、それによって動機づけられることもまたない道理である。
そこでまず、そもそも束縛されることが他方では強い動機づけでもあるというのは、どういう機制によるものだと言えるであろうか。
わたしの考えでは、根源的な動機づけとはやはり根源的な脅威すなわち死(自然的宇宙)の脅威に触れることから生じるものである。
動機づけの理論と言えば、多くの人がA・H・マズローの著作を思い出すであろう。そのマズローにとって動機づけとは成長への動機づけである。そして、これはマズローのまったく書いていないことであるが、わたしに言わせれば、成長することは死の欲望に達成を与えること、すなわち次の成長に向かうための道具を死(自然的宇宙)の最近接領域から切り取ってわが物とする(支配下におく)ことにほかならないのである。
実際、そう思って読んでみれば、たとえばマズローの有名な欲求5段階説は、段階の分け方が恣意的で実証的根拠のあるものではない(そもそも実証ということがありえない)というだけで、欲求が段階として分節化されること自体は、一般に道具を獲得することと、そいつを敵の頭めがけて振り下ろすことは同時的な行為ではありえない、そのことを思えばたやすく理解されよう。
また晩年の『完全なる人間』のような神秘性の強いとされる著作にしても、とりたてて神秘的でも何でもない(むろん、マズロー自身が本来そう望んでいた「科学的」な心理学でもないとわたしは思うが)、成長する人間の心理学的な考察あるいは内省の書として読めるはずである。
後者がどう見ても神秘的な暗示に満ちた記述のように読める(あるいはもともとマズロー自身がそのような書き方をしている)というのは、「成長する人間」という存在様態に対応する理論的な模型の枠組みがもともと存在しないからである。存在として同一性を保ちながらなお成長もするといった対象の概念は科学的な対象の概念ではない。実際、電子も陽子も成長はしないわけである。
生物の発生過程のように、遺伝的にプログラムされた過程、つまり予め記述された内容にかんして閉じた成長過程であると見なせるならば、それを文字通りの時間発展(time-development)とみて力学模型も作れるが、マズローが言うような意味での人間の(精神的な)成長は本質的に未知に開かれた成長過程である。こうした過程を、対象の同一性を前提として記述できる科学的な理論模型は存在しないし、ありえないのである。そこで無理して科学を装おうとすればほぼ必然的に神秘を招きよせることになると言ってよい。わたしは複雑性の科学研究でたくさん見てきたことである。
話が逸れたのでもとに戻す(笑)と、根源的な動機づけが根源的な脅威と結びついているのはそういうことだとして、根源的でない、つまり副次的な動機づけには副次的な脅威が対応するわけである。物語の基本的な展開が問題(紛糾)の発生とその解決ということにおおよそ帰着させられるのはこれを反映したものであると考えられる。主人公は問題解決に動機づけられる一方、主人公に半ば同一化した読者はページをめくり続けることに動機づけられる(笑)というわけである。
ここまでは見やすい理屈だが、読者の主人公に対する「半ば同一化」ということが、主人公の問題解決が読者のページめくりに変換されることの鍵にあたっている。その対応関係の構造的な詳細を解き明かすことは容易ではない、というか「書かない読まない」者の手に余ることであるのは明らかである。だがもう少し粘ってみる。
(つづく)
物語を読まないと言って全然読まないわけではない(もしそうだったら太宰治や源氏物語の一節を引いたりすることもできない)が、それでも普通の人に比べたら圧倒的に読んでいないし、特に長いものや陰惨な話は、前回書いたような理由でわたしは読めないわけである。
前回の末尾に書いた「あたかも献身的な宗教家の抱く使命感のように」というのは必ずしも皮肉ではない(皮肉を含んでいないというのでもないが)。ひょっとしたら、わたしが物語を苦手にしているのは、これの逆で、宗教的な理念に束縛されるということがほとんどないバチ当たりだからかもしれないわけである。束縛されなければ、それによって動機づけられることもまたない道理である。
そこでまず、そもそも束縛されることが他方では強い動機づけでもあるというのは、どういう機制によるものだと言えるであろうか。
わたしの考えでは、根源的な動機づけとはやはり根源的な脅威すなわち死(自然的宇宙)の脅威に触れることから生じるものである。
動機づけの理論と言えば、多くの人がA・H・マズローの著作を思い出すであろう。そのマズローにとって動機づけとは成長への動機づけである。そして、これはマズローのまったく書いていないことであるが、わたしに言わせれば、成長することは死の欲望に達成を与えること、すなわち次の成長に向かうための道具を死(自然的宇宙)の最近接領域から切り取ってわが物とする(支配下におく)ことにほかならないのである。
実際、そう思って読んでみれば、たとえばマズローの有名な欲求5段階説は、段階の分け方が恣意的で実証的根拠のあるものではない(そもそも実証ということがありえない)というだけで、欲求が段階として分節化されること自体は、一般に道具を獲得することと、そいつを敵の頭めがけて振り下ろすことは同時的な行為ではありえない、そのことを思えばたやすく理解されよう。
また晩年の『完全なる人間』のような神秘性の強いとされる著作にしても、とりたてて神秘的でも何でもない(むろん、マズロー自身が本来そう望んでいた「科学的」な心理学でもないとわたしは思うが)、成長する人間の心理学的な考察あるいは内省の書として読めるはずである。
後者がどう見ても神秘的な暗示に満ちた記述のように読める(あるいはもともとマズロー自身がそのような書き方をしている)というのは、「成長する人間」という存在様態に対応する理論的な模型の枠組みがもともと存在しないからである。存在として同一性を保ちながらなお成長もするといった対象の概念は科学的な対象の概念ではない。実際、電子も陽子も成長はしないわけである。
生物の発生過程のように、遺伝的にプログラムされた過程、つまり予め記述された内容にかんして閉じた成長過程であると見なせるならば、それを文字通りの時間発展(time-development)とみて力学模型も作れるが、マズローが言うような意味での人間の(精神的な)成長は本質的に未知に開かれた成長過程である。こうした過程を、対象の同一性を前提として記述できる科学的な理論模型は存在しないし、ありえないのである。そこで無理して科学を装おうとすればほぼ必然的に神秘を招きよせることになると言ってよい。わたしは複雑性の科学研究でたくさん見てきたことである。
話が逸れたのでもとに戻す(笑)と、根源的な動機づけが根源的な脅威と結びついているのはそういうことだとして、根源的でない、つまり副次的な動機づけには副次的な脅威が対応するわけである。物語の基本的な展開が問題(紛糾)の発生とその解決ということにおおよそ帰着させられるのはこれを反映したものであると考えられる。主人公は問題解決に動機づけられる一方、主人公に半ば同一化した読者はページをめくり続けることに動機づけられる(笑)というわけである。
ここまでは見やすい理屈だが、読者の主人公に対する「半ば同一化」ということが、主人公の問題解決が読者のページめくりに変換されることの鍵にあたっている。その対応関係の構造的な詳細を解き明かすことは容易ではない、というか「書かない読まない」者の手に余ることであるのは明らかである。だがもう少し粘ってみる。
(つづく)