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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

書かない読まない人の物語論(20) ── 束縛論(4)

2014年04月24日 | チラシの裏
ここから先は書いているわたし自身が必ずしも経験しないことを扱うことになる。

物語を読まないと言って全然読まないわけではない(もしそうだったら太宰治や源氏物語の一節を引いたりすることもできない)が、それでも普通の人に比べたら圧倒的に読んでいないし、特に長いものや陰惨な話は、前回書いたような理由でわたしは読めないわけである。

前回の末尾に書いた「あたかも献身的な宗教家の抱く使命感のように」というのは必ずしも皮肉ではない(皮肉を含んでいないというのでもないが)。ひょっとしたら、わたしが物語を苦手にしているのは、これの逆で、宗教的な理念に束縛されるということがほとんどないバチ当たりだからかもしれないわけである。束縛されなければ、それによって動機づけられることもまたない道理である。

そこでまず、そもそも束縛されることが他方では強い動機づけでもあるというのは、どういう機制によるものだと言えるであろうか。

わたしの考えでは、根源的な動機づけとはやはり根源的な脅威すなわち死(自然的宇宙)の脅威に触れることから生じるものである。

動機づけの理論と言えば、多くの人がA・H・マズローの著作を思い出すであろう。そのマズローにとって動機づけとは成長への動機づけである。そして、これはマズローのまったく書いていないことであるが、わたしに言わせれば、成長することは死の欲望に達成を与えること、すなわち次の成長に向かうための道具を死(自然的宇宙)の最近接領域から切り取ってわが物とする(支配下におく)ことにほかならないのである。

実際、そう思って読んでみれば、たとえばマズローの有名な欲求5段階説は、段階の分け方が恣意的で実証的根拠のあるものではない(そもそも実証ということがありえない)というだけで、欲求が段階として分節化されること自体は、一般に道具を獲得することと、そいつを敵の頭めがけて振り下ろすことは同時的な行為ではありえない、そのことを思えばたやすく理解されよう。

また晩年の『完全なる人間』のような神秘性の強いとされる著作にしても、とりたてて神秘的でも何でもない(むろん、マズロー自身が本来そう望んでいた「科学的」な心理学でもないとわたしは思うが)、成長する人間の心理学的な考察あるいは内省の書として読めるはずである。

後者がどう見ても神秘的な暗示に満ちた記述のように読める(あるいはもともとマズロー自身がそのような書き方をしている)というのは、「成長する人間」という存在様態に対応する理論的な模型の枠組みがもともと存在しないからである。存在として同一性を保ちながらなお成長もするといった対象の概念は科学的な対象の概念ではない。実際、電子も陽子も成長はしないわけである。

生物の発生過程のように、遺伝的にプログラムされた過程、つまり予め記述された内容にかんして閉じた成長過程であると見なせるならば、それを文字通りの時間発展(time-development)とみて力学模型も作れるが、マズローが言うような意味での人間の(精神的な)成長は本質的に未知に開かれた成長過程である。こうした過程を、対象の同一性を前提として記述できる科学的な理論模型は存在しないし、ありえないのである。そこで無理して科学を装おうとすればほぼ必然的に神秘を招きよせることになると言ってよい。わたしは複雑性の科学研究でたくさん見てきたことである。

話が逸れたのでもとに戻す(笑)と、根源的な動機づけが根源的な脅威と結びついているのはそういうことだとして、根源的でない、つまり副次的な動機づけには副次的な脅威が対応するわけである。物語の基本的な展開が問題(紛糾)の発生とその解決ということにおおよそ帰着させられるのはこれを反映したものであると考えられる。主人公は問題解決に動機づけられる一方、主人公に半ば同一化した読者はページをめくり続けることに動機づけられる(笑)というわけである。

ここまでは見やすい理屈だが、読者の主人公に対する「半ば同一化」ということが、主人公の問題解決が読者のページめくりに変換されることの鍵にあたっている。その対応関係の構造的な詳細を解き明かすことは容易ではない、というか「書かない読まない」者の手に余ることであるのは明らかである。だがもう少し粘ってみる。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(19) ── 束縛論(3)

2014年04月23日 | チラシの裏
前回述べた「心を動かされる」ことの定義はどちらかと言えば「現実世界において」の場合を念頭に置いたものである。現実世界でボールが自分に向かって飛んできたら、誰でも反射的にそのボールを受け止めようとするか、身をかわして避けようとするかするわけである。

そうだとすると、動かされているのは心ではなく身体という機械──生得的にプログラムされた感覚系と運動系の連合──ではないだろうかと疑う人は、いまどき多くいるに違いない。

それはひとまずもっともな疑いであるが、でも人間の場合は大なり小なり身体運動の前に心が介在している。「自分に向かってくるもの」が野球のボールであれば、その介在の度合いはさほど強くはないであろうが、沈む夕日を見ているうちに我知らず落涙してしまうというような存在は、人間のほかにはありえないというべきである。後者はまさしく「心を動かされ」ていると形容されるに相応しい典型的な場面であろう。

ただ、これらはいずれも現実世界の経験である。虚構であることがはっきりしている物語世界の経験がどうして「我が事」であり、読者がそれに束縛されるということが起こりうるのか。

わたしの考えでは、その束縛を実際に引き起こしうるということこそが、(15)で述べたような、「登場人物の内的な意識の経験であるはずのものが語り手によって明かされうる」という、現実世界では決してありえない特徴を物語世界がもっていることの理由であるということになる。この特徴的な仕掛けによって、読者はあたかもじぶんがその登場人物の主観の場所から物語世界の対象の存在や有様を事態として直接経験しつつあるかのように、つまり我が事であるかのように受けとめることが可能になっており、したがってその事態に束縛されてもいるのである。

ところで、メロドラマを読んで落涙したりはしない人でも、たとえば任意の文章の末尾に感嘆符(!)が打たれているのを見て「どきり」とすることはあるのではないだろうか。たとえば主人公が他の登場人物の誰かから「死ね、馬鹿野郎!」と罵倒されていると、どういうわけか自分の心が痛むということは、ないだろうか。

決してそうならないという人もいるらしいのだが、これを書いているわたしはそうなる(笑)、というか、あまりにも簡単にそうなってしまう。「うっわーひっでえ」くらいで済ませられたらいいのに、本当に心を傷つけられている。あまりのことに本を閉じても、その日一杯、ほとんど何ひとつまともに手につかないといったことが、若いころにはしばしばあったことである。

そうした性質は今もほとんど変わらないし、たぶん死ぬまでこんなものだと思うから、トシをとるほどにそうしたことを避けるように、つまり心を揺さぶられそうな物語は「書かない読まない」ようになったと、たぶんそう言って間違いない。

もちろんこれは、自分のこととはいえ、言うまでもなく極端な例である(笑)。これをわざわざ書くのは、そもそもこのシリーズの題名からしてそうなのだが、そういう自分の性質を逆手に取って分析に利用してくれようという下心があるわけである(笑)。

この場合で言えば、そういう極端な性質のわたしは常に意識してしまうことで、普通の人はたぶんほとんど意識せずにやっていることがあるのではないだろうか。すなわち、程度の差こそあれ物語を読めば誰でも心を束縛されはするし、束縛された結果が不快な気持ちをかきたてられることである場合も珍しくないはずであるが、たいていの読者はそんなこと意識もしないし、意識することがあってもめげることはなく(笑)、むしろそれによって(かつ、それによってのみ)物語の先を読み進むことを動機づけられていないだろうか、ということである。あたかも宗教の献身的な信徒達が抱く使命感のように、である。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(18) ── 束縛論(2)

2014年04月23日 | チラシの裏
何がしたくてこんなことを考えたり書いたりしているのか。

もとをただせばごく簡単なことで、物語として書かれた(語られた)言葉によって読者が「心を動かされる」ことがあるのはなぜか、またどんな風にであるか、ということである。

だいぶ前に「リンゴ」という単純な名詞でさえ、それを読む者の心像を拘束してしまうことについて述べた(→(10))が、もっと複雑な動きはどのようにして作り出されるのか、ということである。

実際、心像の拘束ということだけでは、「心を動かされる」と呼ぶに相応しい作用を説明できるとは思えない。紙の上に「感動」と書いてあったら、それだけで感動してしまう人はあまりいない(笑)。「感動」に相当する心像が浮かんだとしても、そのような心像が浮かぶことそれ自体は感動ではあるまい。あるいは他のどんな言葉からどんな心像が浮かんだとしても、「言葉から心像が拘束的に浮かぶこと」はどんな場合でも感動ではありそうもない。言葉が心像を拘束することは、言葉がそれを読むものの心に因果的な作用を及ぼすことがある、つまり言葉で他人を操ることができるということの証拠のひとつにはなるが、ただそれだけなのである。

ごくごくつまらないメロドラマであっても、それを読んだ人の中にはしばしば落涙するほど心を動かされる人がいる。これ自体はつまらないメロドラマと同じくらいつまらない、ごく月並の振る舞いであろうが、その背後にはどう考えても心像の拘束とは違う動きが伴っているはずである。それはどうして起きるのか、その機制(メカニズム)に包括的な説明を与えることは、それほどつまらないことではないであろう。※

さて、人がある対象から「心を動かされる」とはどういうことかを簡単に定義してみると、まず

  (1) 対象それ自体(対象の存在)、あるいは対象の有様から強い印象を受ける

ことがなければならないが、その上で、たいていは

  (2) 何らかの不随意的な身体的・生理的反応が引き起こされる

ということもなければならないように思われる。落涙するというのはその典型である。

ここで(1)(2)の両方とも、それが生じるためには、その人がその対象に束縛されていることが必要であるように思える。つまりその対象は単に対象(の存在ないし有様)としてあるのではなく、ほかならぬ自分の方へ(あたかも獲物を見つけた猛獣のように)向かってきた対象(の存在ないし有様)としてある、いいかえれば、それは単に対象の存在ないし有様が直接経験されることではなく、その対象の存在ないし有様という事態に自分が抜き差し難く関与している、事態に巻き込まれているということが直接経験されているのでなければならないように思われる。

要は普通の言葉であっさり言えば、それは他人事ではない、我が事でなければならないということである。我が事でなければ自分の身体の上に、意識的な反省を経ることなしに反応が及ぶということもありえないであろう。

(つづく)



※以下に続けてつい書いてしまった脱線。削除しようかと思ったが、なんとなく残しておいてみる。

そもそも、つまらないメロドラマに金を払ってそれを買い求めることだって月並のことであろうが、それを書いて稼いでいる者にとってはいつでも死活問題である。どうしたら不特定多数の読者にそのような行動を、自分の書く言葉によって、かつそれのみによって因果的に引き起こすことができるのか、無数の物書きが長いこと知恵を絞り続けてきたし、これからも人類滅亡の日までは絞り続けるであろうことである。

そう、この課題に限って定まった(standing)正解はおそらくない(あれば作家はとっくの昔に楊枝の尖端ほどの小さな計算機で置き換えられ、巨大な出版社は全体がまるごとIBM製サーバのラックひとつにおさまってしまっているであろう)わけであるが、とはいえ、もしいかなる意味でも正解がないとしたら、人間の書く任意の言葉はサルにタイプライタを打たせた古典的な思考実験の結果と変わりないでたらめな文字の並びでしかありえないはずである。目下の現実がそうなっていないことは、改めて言うまでもないことであろう。

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書かない読まない人の物語論(17) ── 束縛(コミットメント)論(1)

2014年04月22日 | チラシの裏
コミットメント(commitment)は分野と文脈によって異常なほど多様な訳され方がなされている、また実際、分野によって非常に異なった意味や含みをもつ言葉である。訳そうにも訳しづらいということで、近年はカタカナ語のまま使われることも増え、もともとわかりにくい言葉であるものが、個々の分野の門外漢にはいよいよチンプンカンプンのことになってしまう、その元凶となりがちな言葉である。

だから多少の語弊には目をつぶって、ここでは敢えて訳語を統一してみる。おおよそ何にでも通用しそうなところで、たとえば「束縛」というのがいいかもしれない。たとえば約束することはその内容に束縛されることである。共同体(宗教)にコミットすることはその掟(戒律)に束縛されることである。犯罪にコミットすることは、取り返しのつかないその行為に束縛されることである。データベースをコミットすることは、(コミットしようとする)その状態に束縛されることである。

最後のは少々苦しいが(笑)、犯罪の場合と同様、束縛ということのひとつのあり方は「取り返しのつかないことをしてしまった」状態なわけである。そういうことをすると、以後のすべてはその「取り返しのつかないこと」と無関係ではなくなってしまうという意味で束縛されてしまうわけである。データベースをコミットすると、コミットする以前の状態には(バックアップや操作記録を使って復元(restore)したり巻き戻(rollback)したりしない限り)戻せなくなるのである。

束縛というのはまた「紐づけ(binding)」を意味する言葉である。これも上の例のすべてに当てはめて故障がなさそうである。実際、たとえば約束することは、その内容に紐づけられることである。約束は一端がその内容に、他端が約束した当人の首に縛りつけられた1本の紐のごときものだということである。このようにどこか惨たらしい死を予感させるような訳語でなくては、どんな文脈であれcommitmentの訳語としては相応しくないであろう。

それにしても、commitmentという言葉は、もともとは宗教用語である。その手の文脈で用いられている場合に一番ぴったりする訳語は「献身」である。つまり「命がけ」ということである。「束縛」という訳がなお不十分だと感じられることがあったら、そこで示唆されている含みはこれだと思っていてまず間違いない。

つまり、何かに束縛されることは一面で非常に嫌な、惨たらしい死を予感させることである一方で、さもなくば不可能かもしれない行為への強烈な動機づけ(motivation)をその(束縛された)人がもつことでもあるということである。いかにも、ある人(それは自分自身かもしれない)に何かの行為を強制しようという場合に、惨たらしい死の脅しを用いて動機づけることは、たいてい最も効果的なやり方である。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(16) ── 食ふべき言葉

2014年04月22日 | チラシの裏
前回書いたように、文章というのはどんな文章でも、本来は書くことも読むことも大変な労苦である(書くことの肉体的労苦は作業がキーボード操作中心になったことで大幅に軽減されたが、ここで言ってる労苦はアタマの労苦である)。重要なのは、労苦であることそれ自体は仕方がないとしても、それが労苦であるがゆえに、書くことや読むことが続かなくなったり、(ついつい間をすっ飛ばしてしまうなどして)いい加減になってしまったりする、ということである。

たとえばわたしにとって英語の文章を読むことはほぼ純粋な労苦である。原文を読み、それを日本語文に訳して、訳したものを読み返してみると、なんでこんなに経験の質が違うんだということに訳した自分が驚かないということがない。その落差が、昔ものの本で読んだ味覚障害の症状、その経験の報告に書かれていたこととまるでそっくりなので、いつか「英語味覚障害」と自称するようになったものである。

食えと言われれば食えないことはない。食べているのが毒ではない栄養であることも、まあわかっている。しかし味覚のすべてを奪われたものにとって、食べるという行為の純粋なそれ自体は実は凄まじい痛苦の連続で、強いられでもしない限りまったくできない、ひと口はできても後がまったく続かない何かだということに気づかないではいられないのである。

すべての言葉はそれを読む場合においてはもちろん、書く場合においても、何らかの意味で「味」をもっている。語には語の、句には句の、文には文の味がある。その味が甘いか辛いかしょっぱいかということは一義的な問題ではない。問題はそれではなくて、言葉はその意味からは独立した「味」の質的な経験の次元をもつことによってはじめて、読む/書くの継続的な行為を現実に可能なものにしているという事実である。

それは読む/書く行為に本来伴う激痛を覆い隠しているだけなのか、中和して無化する効果をもつものなのか、激痛でない別の経験に変えてしまっているのか、あるいはこれら全部の効果を少しずつもっているのか、それはいまのところよくわからない。

もうひとつ重要なことは、行為の継続的な実現を可能にするという観点から言って、読むことの味覚経験と書くことの味覚経験は一般的に言って全然違う、互いに何の関係もない別次元の味覚経験だということである。

それは、ある料理を食べることが好きな人が、それを作ることも好きだとは限らない、一般的に言ってふたつの味覚経験の間には何の関係もないということと同じである。何より料理を作る人が、もしも、それを作りながら食べる人のそれと同じ味覚経験をもつものであるとしたら、料理が出来上がるころにはすべてが作り手の腹の中におさまっているということしか意味しないはずである(笑)。

何にせよ我々はこの「味」のことを、言葉にかんする広義の美と考える必要がある。つまり、我々が考えようとしているのは「言語にとって広義の美とはなにか」ということである(笑)。

普通の意味で美というと、有名な吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』がそう規定しているように、言葉なら言葉の芸術、つまり文学作品における美ということになるしかないのだが、ここで述べたことからも明らかなように、母国語の経験に関する限り「味」はどんな種類の言葉やその作品も必ずもっていて、それなしにはそれを読むことも書くことも正常にはまったく行えないわけである。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(15) ── ただいと真のこととこそ思うたまへられけれ

2014年04月21日 | チラシの裏
実際にはほとんど可能ではないが、絵画的な物語を考えてみる。絵画的というのはつまり、虚構世界の風物をあたかも現実世界の風物のように描いた、つまりすべてが言葉を用いた(擬)自然的描写と(擬)歴史的描写だけで成り立っているような作品という意味である。

実際、絵画であれば、現実には決してありえない、時として対応づけもできそうにないような、まったくの虚構世界の風物を描いて、それが一個の作品になってしまう、またそうした系列の作品を売り物にする作家ということは普通に成立しうるわけである。

物語の場合はどうもなかなかそれだけで一個の作品が成り立つことはなさそうに思える。ごく短い、物語の舞台の背景世界を説明するための描写として、そうした描写にひとつないし複数の段落を費やすということはあるだろうが、それだけで一個の作品が成り立つということはまずなさそうに思える。

なぜと言って、読まされる方はたちまち飽きてしまうからである(笑)。絵画はどんな細密画でもほぼ一瞬で全体像が目に入るが、物語は基本的に線形な順序で言葉を連ねて行くよりほかにない。書く方だって大変だが、読む方だって言葉を追って読んで行くのは、結構くたびれることであって、普通に思われているほど正確に言葉を追って読解しているということは、ほとんどないものである。

どのくらいいい加減に読んでいるものか、本当に正確に読もうとしたらどれほど手間がかかり、疲労し、飽き飽きしてしまうことかは、外国語文献のほんのひと段落でも読み込んでみようとすればすぐわかる(笑)。ひと段落読み終えるごとに疲労と倦怠で死にたくなる(笑)。

絵であれ言葉であれ、ひとつひとつの対象像はそれ自体がどんなに魅力的であっても、その魅力の効果はそんなに長くは続かない。食欲を喚起するうまそうな画や言葉があったとしても、その画や言葉が喚起する像の魅力だけでは、目の前に置かれた食べ物の実物や、それを実際に味わうことの直接経験には、はるかに遠く及ばないことは明らかである。

ではいったい何が物語をして、それを読む(聞く)ものを虜にして離さないほどの強烈な魅力をもつことを(常にではないが)可能にしているのかといえば、それは登場人物(キャラクタ)と場面展開(ストーリー)であるはずである。たぶん誰でもそう答えることになるであろう。これらのふたつは現実世界とその直接経験にはまったく存在しないふたつのカテゴリである。

そんなバカな。作られたものと現実のものの違いはあるにせよ、現実世界にも人物はいるし、その世界の経験も一枚の静止画のようなものではない、時間とともに変化して行く何かで、それは物語の場面展開に相当するものではないだろうか。そう思うかもしれない。確かにそうした対応づけは可能であるが、けれども、たとえば物語の登場人物は現実世界の人物とは根本的に存在様態が異なるのである。

どう違うのか、実は前回のハナシはその違いについて書いたわけである。物語の登場人物は「メロスは激怒した」というように、語り手(ナレータ)によってその内的な意識の経験内容が(通常は不可疑的に)明かされうるように、そのような様態で存在しているわけである。言葉で作られた物語の場合、語り手によって登場人物の内的な意識の経験内容が明かされることは、それを読む側からは、あたかもじぶんがその登場人物の主観の場所から物語世界を直接経験しつつあるかのように受け止められることになる。

それは錯覚(illusion)の経験には違いないが、対象的に記述された自然や歴史の記述の対象的な了解よりはよほど現実世界の直接経験に近い、つまり自明な真理に近い経験でありうる。「蛍の巻」の玉蔓がふくれっ面で「ただいと真のこととこそ思うたまへられけれ」と主張し、源氏のからかいを退けたのも、このことを言おうとしたものではないだろうか。

物語を読むことの経験が特異な経験であり、それゆえに特異的な魅力をもつことが可能であるというのは、したがって、その世界が閉じた虚構であるとか、現実には存在しない語り手の存在によってであるというよりは、ひとえにこの錯覚が作り出されるからであり、世界が虚構であるとか語り手が存在するのは、それを達成する手段としてあると考えられる。

なぜなら、物語ではない、つまり専ら言葉で作られたものではない作品の場合には、世界の閉じた虚構性とか語り手の存在といった条件は、作品が作品として成立するうえで少しも絶対的な要請ではなくなるが、作品を経験することの魅力が現実世界で経験することの魅力を(一時的にせよ)しのぐものとなるためには、どんな作品でも大なり小なりこの錯覚は生じていなければならないからである。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(14) ── 「メロスは激怒した」ふたたび

2014年04月21日 | チラシの裏
たとえば「メロスは激怒した」という文は、(仮構された物語世界における)自然的事実の記述でもなければ(仮構された物語世界における)歴史的事実の記述でもない。現実の世界の事柄についてこんな断定文を書くことは、少なくとも文字通りの意味では可能ではない。

文字通りでなければ、つまり「激怒した」という表現がたとえば「声を荒げた」という振る舞いの描写であるとすれば可能である。けれども、この『走れメロス』の冒頭の一文がそうではないことは、引き続く一文(「必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」)からも明らかである。この「激怒した」はまさに「内的に強い怒りの感情を覚えた」という意味で書かれている。

いま仮に実在する誰かが「声を荒げた」としたら、「荒げた」という形容が相応しい特徴的な調子をもつ声を耳にしたことの直接経験を断定的に記述することは可能である。けれどもその人物が声を荒げたということが「激怒した」、つまり内的に強い怒りの感情を覚えたからであるかどうかはわからない。誰も他人の心の中を覗くことはできないからである。それが手に取るように判るかのように感じられることはあるとしても、当人がその通りに内的な意識を経験しているということの事実は、当人以外の誰にも確認できないことである。

現実世界で「激怒した」の主語になりうるのは、それを喋るか書くかしている当人つまり「わたし」だけである。それが「メロス」という(少なくとも「わたし」ではない)作中人物が主語になっているという時点ですでに、この文は現実世界における不可能な文、すなわち非現実世界の文である。そして、そうと気づかずに読者がこれを有意味な文として受け取った時点で、読者はすでに転倒された世界に心を誘い込まれているのである。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(13) ── 心の囚われた状態とは何か

2014年04月20日 | チラシの裏
前回あたりはいささか途方もない話になりすぎたので、原点回帰してみる。

(成功した)物語と(成功した)詐欺の間の、他にどんな差異があるにせよこれだけは見逃すわけにはいかない絶対の共通点は、それを聞く者を虜にすること、つまり聞き手を「心の囚われた状態」(a captured state of mind)にすることである。ここ20年ないし30年くらいの流行語で言えば「ハマる」ということである。

いわば心の井戸みたいなものである。いったん「ハマって」しまうと、何か偶然の外力が作用しない限りは、自力では脱出できないような状態、あるいは複数状態の閉集合である。語り手(詐欺なら「騙り手」か)はカモの心を操ってその心的状態の井戸に誘い込む。うまい具合にその穴に落ちてくれればしめたものである。あとはどうでも好き勝手にすることができる。金を出せと言えば出てくるというくらいにである。

文字通り略奪するとか、搾取するためにそれをすれば犯罪である。犯罪でなかったとしても、たいてい「悪どいやり口」だとは言われることである。

しかし、全部が犯罪か犯罪に類した悪行為かというと、必ずしもそうとは言えない。べつに物語でなくても、何であれそれを人にそれを読ませて、書かれた内容を理解させることを目的として書かれる文章は、大なり小なり読者がそうなってくれることを求めなくてはならないものである。

読者というのは、もし何もしなければ、テキストの前で心をじっとさせてはいないものである。大きくも小さくも、どんなスケールで眺めても全然じっとはしていないのである。内容の理解ということとはまるっきり無関係にランダムウォークしているような、本来はそうした存在だと言っていい。そのように、読者の側に心的などんな拘束もかかっていなければ、ほとんどどれほど簡単なことであっても、有限の言葉によって何か内容のあることを伝えることは──経験的に言って──不可能である。たぶん、何の拘束もかかっていない自由な心の空間は(もし線形空間として近似すれば)かなりの高次元で、ランダムウォークの原点回帰確率は限りなく0に近いのである。

「蛍の巻」でも、源氏は「仏教の経典にさえ方便ということがある」と言っていたことである。つまり言葉の語り手あるいは書き手は、伝えたい内容を文字の並びに変換して書き下すことの課題とはまったく別個に、多少なりとも、あるいはほんの一時的にであれ、読者を心的に拘束された状態、つまり「心の囚われた状態」ないしその近傍に落とし込まなければならない、それも前者の課題を実行するために使うのと同じ言葉によってそれを達成しなければならない、そういう、言葉に関して二重の課題を、書くことにおいて負っている。後者がなければ読者の方で「腑に落ち」てくれるということもないのである。しつこいようだが、たとえそれ(内容)がどれほど簡単なことであってもである。

(つづく)



本文がいくぶん短くなったので、おまけとして怪しいことをひとつ書いてみる。以上のことは読む側にとっても同じことが言えそうな気がするということである。つまり、いま何かを新たに学ぼうと思った(その必要が生じた)として、教師や学校の程度に依存することなく、かつまた制度権力の目論みにうかうか乗せられることもなしにそれを達成するための、ほぼ唯一かつ最善の方法とは、目的に合った拘束を自分で自分にかけられるかどうかということである、ように思える。

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書かない読まない人の物語論(12) ── 言語進化論の素描の試し書き

2014年04月20日 | チラシの裏
ここで「言語進化論」と呼ぶのは、言語は人類が個々において死(=自然的宇宙)の脅威に対抗し、これを克服(conquer)してゆく、その「方法の生態系」において進化し、次第に支配的になって現在にいたったものである、という、もっぱら仮説的な筋書きのモデルである。

別の言い方をすれば、死の脅威を克服してゆく上で最も有効な道具とは──少なくともこれまでの人類史においては──対象化された人間、すなわち(対象化された自己を含む)広義の他人であり、自然言語はその「プログラミング言語」にほかならないということである。

この筋書きそれ自体を疑う必要はないとしても、これだけだと図式的にすっきりしないところが残るわけである。この図式だと人間は他人を道具として使役するものであると同時に、他人から道具として使役されるものでもあるということになる。

誰だって他人から道具として使役されることは愉快なことではない(笑)。常に不愉快であるとは限らないとしても、たいていものすごく不愉快である(笑)。それは無視できるはずがないことである。つまり、その不愉快は道具としての有効性を阻害しなかったのか、総計すれば利害はおおよそ相殺されてゼロではないだろうか、という当然の疑問があるわけである。

そういう疑問はあるけれど、現に人間は言語で他人を指図する一方、他人から指図されもする存在であるということは、疑う余地のない事実である。言語進化論はこの事実がどこからきたものかをよく説明する。

また、人間の死の欲望は、根源的には自然の脅威に向けられたものであるとしても、現実には直接的に天然自然に働きかけるということは、それほどないのであって、特に現代の文明世界における人間のそれは多く人間の脅威に向けられているものである。いいかえれば、自然の脅威は人間の脅威に転換される一方、後者を克服することが前者を克服することにつながっている。

個々人がそうと意識はしないにしても、というか、個々人が通常それほど意識しないものだとすれば、明らかに個体とは別の、集団としての人間、すなわち個体相における闘争の総計ではない、個体相を超越(transcend)した集団相が存在して、かつ、その集団相において固有な(自然との)闘争が繰り広げられていることになる。言語はこの集団相それ自体と、集団相に固有な闘争を成り立たせる根拠にもなっているように思われる。

いいかえると、言語進化論を考えるということは、その集団相における進化ということを考えるということである。

しばしば誤解されていることであるが、進化論は無から有が生じたり、有が無に帰するということはありえないということを前提のひとつとしてもつ理論である。生物種の進化論で言えば、個々の生物種はあたかも無から生じたように突然生じ、時間の経過に伴って個体数を増減させ、絶滅すると永久に喪われるもののように見えるけれど、本来の進化論の見方はそうしたものではなく、可能な生物種すべてからなる集合を基底とするスペクトラム表示の時間発展を考えることにほかならないのである。

・・・何言ってんだか全然判らないって?それは仕方がない。副題の通り以上は試し書きである。「チラシの裏」である。ほとんど昨日今日思いついたに近いことをメモ書きしている(しかもなかなか、思いついたことの全部が上記のうちに尽きているような気もしない)ので、時間をかけてより判りやすい、またもっと包括的な書き方を作り出して行くよりほかにないのである。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(11) ── なぜ経験は語られるのか

2014年04月19日 | チラシの裏
言葉はもともと自他を道具(機械)として操るために作り出されたものだといって、何しにそんなことをしなければならない(ならなかった)のか。

もとをただせば、道具は人間にとって根源的な脅威、つまり死の脅威を克服(conquer)するために必要とされる(今も常に必要とされている)わけである。つまり死の欲望ということで、これが人間の意識の本質であるが、死=自然的宇宙から対象として道具を切り取り、獲得することはそれ自体が克服の目的であるとともに、獲得された道具はさらなる克服の手段になるわけである。将棋で敵方の駒を取ったら、それは味方の駒になるのと同じことである。

先に示した3つの問いのひとつ、

(1) そもそも内的な意識の経験はなぜ記述され(語られ)なければならないのか。なぜそれは内的な意識の経験のままであってはいけないのか。

この問いの答はここ(脅威を克服することの死の欲望)から導かれる。内的な意識の経験でなくても、ある種の経験は、脅威に対抗する行為として記述され(語られ)る理由をもっているというべきである。経験が自覚されるとは脅威が自覚されることにほかならないということである。もちろん自分の手足(身体)であるとか、文字通り「手にした」棍棒みたいな道具の範囲でその脅威に対抗する行為が達成されるのなら、わざわざ語るべき言葉が創出される必然性はないが、その道具が人間(基本的には他者ということだが、対象化された自己もある種の他者である)であった場合には言葉を用いなければならない。

人間を道具にしなくてもよかったかもしれない。また言葉によらなくても人間を道具としてそれなりに有効に使役することは可能であるかもしれない。特に人類史の初期においてはそうであったかもしれない。

けれども言葉は人間という道具を(脅威の克服という目的に関して)より有効に使役することができる、つまり他の方法に優越する方法であったことによって、進化的に発達を遂げ(「方法の生態系」を支配し)、他の方法はたかだかマイナーな補足的手段の(「方法の生態系」における)地位しか占めなくなってしまったという筋書きは十分ありえよう。言葉は話し言葉でも音素を記号とし、規則(文法)に沿って構成される列であり、他のいかなる方法よりも小さなコストで(笑)事実上無限の表現(文)を作り出せるからである。

わかりやすく言えば、「道具としての人間」や「人間を道具として使役するための言語」は、人類が作り出した最古の計算機(ロボット)とその(万能)プログラミング言語であったということである。

そこでさらにふたつのことが問われるべきである。

(4) 話し言葉と書き言葉はどのように違うのか。
(5) 物語の言葉とそれ以外の言葉はどのように違うのか。特にこの場合はどのように分離して行ったのか。

前者について、書き言葉から話し言葉から分離してできたものである(つまり、言葉の本性としてその必然性をもつ)かどうかは、さしあたって「よくわからない」としておく方が無難であるように思える。有史以来書き言葉を持たない文明・文化はいくつも存在したと考えられているし、今も存在するからである。それでも、話し言葉と書き言葉の両方を持つ文化、典型的には有史以来の我々の文化のことを考えても、両者の言葉としての性格はずいぶん違うものだということは、たぶん誰でも容易に認められることであろう。

後者については、この問いについて考える前に、先だって考察しておいた方がよさそうなことがもうひとつある。それは、

(5') あらゆる経験のうちで内的な意識の経験はどのような特徴によって区別されるのか。

ということである。

これらの新たな問いもそのうち考察することになるが、その前に、言語が人間を道具として使役する手段として(「方法の生態系」における)支配的な地位を得るにいたる進化的な筋書きを、もう少し詰めて考えてみたい気がする。なぜならその過程のうちのどこかには自然の脅威が人間の脅威に転換される契機があったはずだからである。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(10) ── 言葉の強制力・拘束力

2014年04月19日 | チラシの裏
たとえば「リンゴ」と文字で書かれているのを読むと、我々はリンゴの像(イメージ)を選択的かつ反射的に思い浮かべることになっている。果物のリンゴがどんなものかを知っていて、かつそれが日本語(母国語)で「リンゴ」と呼ばれることを知っている限り、ほぼ必ずそうなることである。

ここで、「選択的に」というのはつまり、「リンゴ」という言葉からリンゴでない何か別のものの像を思い浮かべることは、わざとやろうとしてもなかなかできないくらい困難だということである。

また「反射的に」とはこの場合、不随意的にということで、つまり「リンゴ」という言葉からリンゴの像を思い浮かべないということも、やはり、わざとやろうとしてもなかなかできないくらい困難だということである。

このように、言葉はしばしば像の想起を、あるいは想起される像を強制し拘束する、非常に強い作用を持っている。

人間は言葉を発する側としては、それを自分の意志や意図に沿って操り出すことができる存在であるが、その一方で、言葉を受けとる側としては(少なくとも像を想起するまでのところでは)、ほぼまったく機械であって、(自分自身を含む)任意の誰かが発した言葉によってなすすべもなく操られてしまう存在でもある。

人間がそういう「言語」を作り出したことの事実は、いったいどうやってそれを達成したのかということは、考えてもなかなかよく判らないことだが、言葉が自他を道具(機械)として操るために作り出されたものであることは、このことを考えてみれば、どうやら確かである。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(9) ── 「思い」が記述される別世界

2014年04月18日 | チラシの裏
「蛍の巻」の物語論を読んでみて一番面白いと感じたのは、物語とは何にもまして語り手の「思い」なのだという、そのことである。そう語ったのは源氏だというように書かれているわけだが、それはもちろん『源氏物語』全編の作者紫式部の考え、そのものであったか、少なくともそれを強く反映したものであったと見てよいものであろう。

その「思い」とは、現代の心の哲学風に言えば「内的な意識の経験」ということになるであろうか。意識のうちに内的とそうでないものがあるのではなく、意識はもともと内的なものだという意味での「内的な意識」、その経験ということである。

歴史記述や科学(自然)記述のことを考えてみれば、これらの記述の世界に「内的な意識の経験」の入り込む場所は隙間もないのである。もしその「内的な意識の経験」を記述しようとすると、それは必然的に表現上の誇張や、記される内容の恣意的な選択といった修飾を受けることになるか、あるいはそもそも記述される内容自体が虚構であるといった形でしか記述されようがない、そしてそのように記述されたものが物語なのだと、「蛍の巻」の作者は主人公の口先を借りてそう述べているように思われる。

もっと簡単に言えば、いま誰それの振る舞いが「憎らしい」と思ったとすれば、その「憎らしい」という心情(内的な意識)の経験は、歴史記述の上にも自然記述の上にも書かれないし、それ以前に書こうとしても書きようがない、ということである。内的な意識の経験は歴史の構成要素としての出来事でもなければ、自然の構成要素としての対象物でもないからである。

もちろんたった今も書いたように、「憎らしい」という4文字のそれ自体は、いつでもどこでも書き並べることは自由にできる。けれどもそのように文字を並べただけでは、それを「内的な意識の経験」の記述として書いたことには、どうやらならないのである。なぜなら「憎らしい」という文字を並べただけでは、その4文字の上に憎らしさの心情は少しも再現されないからである。実際いまこれを書いているわたしが何度か書き並べた「憎らしい」の4文字を眺めて、その都度憎らしさの心情が自分の心の中にありありと引き起こされるように感じる人は、まずいないであろうし、いたとすれば病気か、その顕著な徴候であろう(笑)。

結局、内的な意識の経験を、それを読むものが確かに再現できるように書くためには、歴史的世界や自然的世界の言葉としてではなく、それらに修飾(modification)を加えて変成された世界か、あるいはまったく虚構として作られた別世界の言葉として記述するよりほかにないということである。

いくつかの謎が残っている。

(1) そもそも内的な意識の経験はなぜ記述され(語られ)なければならないのか。つまりどんな動機や願望が人をしてその記述に赴かせるのか。
(2) 物語の世界は現実世界の変成あるいは虚構された別世界であることを必要とするにしても、なぜその別世界でなら内的な意識の経験は再現されるのか。
(3) 物語の世界はまったく虚構である場合でも、大なり小なり現実の歴史や自然が反映されているし、また反映されていることを必要としているように思える。それはなぜなのか。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(8) ── 蛍の巻(源氏物語)(3)

2014年04月17日 | チラシの裏
紫の上も物語が大好きで、「娘に頼まれたの」とか言いながら物語を集め、自分が熱心に読んでいた。『くまのの物語』の絵をさして、

「この絵なんてほら、すごくかわいい」

という。あどけない幼女が昼寝している姿の絵であった。紫にとっては、幼いころの自分を思い出させる絵であったのかもしれない。しかし源氏の方は、また別なことを思うものであるらしかった。

「んん、こんなコドモどうしで、これは少しおませが過ぎるのではないだろうか。俺のコドモのころなんて真逆だったからなあ。我ながらあんな大人しいコドモはいなかった」

いかにも、この世でほかに例とてもない恋の数々を、好んでしてきた人の言うことは違うというか(笑)。

「こういう色恋沙汰の物語を読んで聞かせるのはよくないな。適齢期の娘にとってはすこしも変なことではないだろうが、幼いうちからこういう、男女の交わりということがあるのだといって、それに馴れてしまうのは、なんかやっぱ、よくないっつーか」

対の姫君あたりが聞いたら、どの口がそれを言うのかといって憮然としそうなことである(笑)。

「まあそういう、尻軽女の物語みたいなものは、さすがに読んでられないけど。『宇津保物語』の藤原の君の娘なんかはどう?とても慎重で、失敗とかしなさそうな人だけど。でも言葉がね、堅っ苦しいというか、ものの言い方に女らしさがないと思わない?一本調子で面白味がないっていうか」

紫はそう言って話を物語に戻そうとするのだが、

「一本調子で面白味がない。いるよなあ、そういう娘が。しゃちこばって建前ばかり言う。我が強いばかりで譲るということを知らない。どんな風に育てたらああなるのか、親の顔が見てみたい。分別も教養もある人が我が子のことは猫可愛がりして、無邪気で結構というようなことばかり言うからではないのか。他人の目にはただのお多福だろうに。

どんな人でもその人なりのよさということはあるので、親は育てた甲斐があったと思うのだろう、けれど、誰それちゃんは可愛いカワイイと親がホメ上げてみせるほどには、当人のしぐさや言葉にちっともそれが表れないし、世間の評判にもならないようでは、それはやっぱり残念な結果というものだろう。そういう、人を見る目のないやつには、うちの娘をホメさせたくはないものだ」

すっかり教育談義である。このように娘の将来ばかり案じている源氏であった。

ところで昔話の中には、継母が意地悪する話も多いことである。このごろの紫の上は、そうした話を、じぶんの気持ちを見透かされるようで嫌だと思うのか、娘に物語を読んで聞かせるにも注意深く話を選んでは、女房どもに書き写させたり、絵に描かせたりしているのだった。まったく揃って親バカである(笑)。

(私訳はこれでおわり、論考はつづく)

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書かない読まない人の物語論(7) ── 蛍の巻(源氏物語)(2)

2014年04月17日 | チラシの裏
それだけでは言い訳がし足りないと思ったのか、源氏は続けてこんなことを言い出した。

「思えば、これは誰それの話だといって、事実のままを語ればいいというものでもない。どうでもいいことだってたくさんある。そうじゃなくて、物語はなぜ語られるか、その動機は何かということだ。この世で起きる出来事のよいことや悪いこと、あるいは生きている人の振る舞いで、見飽きないと思う、あるいは聞き捨てならないと思うことがあって、その思いをじぶんひとりの心の中にとどめておけない、そう思われたことが語られるわけだろう。だからいいことを語ろうと思えば、いいことばかり選りすぐって語るし、悪党だと思えばありえないほど憎々しい人物として描く、それはこの世ならぬ物事を語ろうとしているわけではなくて、これをこそ語りたいという思いだろう。

世の中が変われば、記述のしかたも変わる。同じ日本の国の出来事であっても、昔と今の違いがある。これは奥深いことが書いてあるとか、こっちは上っ面だけだとか、そういう違いもある。何もかも一緒くたにして全部ただの作り話だと言い切ってしまうのは、間違いだろうな。仏教の経典だって、ああいう心の立派な人が書いた文章であっても、方便ということがあるものな(笑)。あちこちで矛盾したことが書いてある。『方等経』とかそういうのが多いよな。それでもよくよく考えて行くと、結論はひとつで、同じところに行きつくようだ。菩提だ煩悩だとむつかしく論じているが何のことはない、物語に出てくる善人や悪人のきわめつけと同じだ。まあつまり、ものは考えようというか、仏典でも物語でも、この世にあって無駄なものはないということだな(笑)」

ボーディだのクレーシャだのと、こんどは何か、物語というものを途方もない高邁なものであるかのようにもちあげて言う。かと思えば、

「ところでだな」

ふと玉蔓の方に顔を寄せ、

「ありとあらゆる昔物語といえども、俺みたいに律儀な愚か者の物語なんていうものはない。また君みたいに冷淡な、澄ました顔で可愛気ないことばっかり言うような、いまいち萌えないヒロインの物語もない。そこでこういう我々の奇妙な間柄を、世にもフシギな物語に書いて、世間に語り伝えさせる。どうでしょう編集長、このキカク。ざっと千年は読み継がれるロングセラーになるんじゃないかと」

などと囁いてくる。玉蔓は顔を引くと、

「却下します。こんな珍しい間柄は、単行本が出る前にまとめサイトの噂好きが放っておかない」

ぴしゃりとやったつもりであったが、

「ほーう、珍しいと。そうか、なるほど、言われてみれば、なんだか非常に珍しい気持ちがしてきたな」

源氏はそう言って悪戯っぽく寄り添ってくると、

  思ひあまり昔の跡を訪ぬれど親に背ける子ぞたぐひなき
  不孝なるは仏の道にもいみじくこそ言ひたれ
  (思い余ってググってみたが、こうも親の言うことをきかないコドモの例は見当たらない。
   そもそも親不孝というのは仏の道にも背いているというのに)

こう歌ってみせるが、玉蔓は顔も上げない。その髪を撫でながら、源氏はまだ何かブツブツ言っている。玉蔓はやっとのことで、

  古き跡を訪ぬれどげになかりけりこの世にかかる親の心は
  (こっちの方でもググってみたけど、我が子にこんな心を抱く親だって見当たらねえよ)

と返した。さすがに気恥ずかしくなったのか、源氏はそれ以上手を出すことができませなんだとさ。

はてさて、こんなおかしな二人の間柄は、この先いったいどうなって行くのでありましょう(笑)。

(つづく)

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書かない読まない人の物語論(6) ── 蛍の巻(源氏物語)(1)

2014年04月16日 | チラシの裏
物語論と言ったら、わが国では『源氏物語』のこのくだりに触れないわけにはいかない、というその個所を適当に(ホントに適当に)現代語訳してみた。結構面倒くさい上に長いので何回かに分ける(この間のみ副題に連番を振る)。なお、原文と訳文は以下のサイトを参考にした。

  源氏物語の世界 再編集版 第二十五帖 蛍
  (ホームページ



いつもの年より長雨が続いて、晴れる間もない日が続いていた。

人々はしかたがないので、絵や物語などを読んで過ごしていた。中でも明石の御方は、優雅な趣向を凝らした写本などを作っては、姫君に差し上げたりしておられた。

玉蔓はといえば、もともとこうした物語が大好きなので、毎日それらを筆写したり、同好の若い女房たちを集めて回覧したりしていた。いろいろと珍しい人の話などを、これは本当か嘘かと思いながらたくさん読んでいると、自分の身の上と同じような人はいないなと思うこともあり、あるいは『住吉物語』の姫君が、すんでのところ主計頭に奪われそうになるくだりを読み返すにつけ、自分に求婚してきたあの大夫監の恐ろしさと思い比べたりすることもあった。

さて源氏は、行く先々でこのように絵物語が散らかされているのを目にするたび、

「やれやれだな。女というのは、よくよく人に騙されるのが好きな生き物なんだろうかな。あんなたくさん書いてあったって本当のことは少ないだろうに、またそれは判っているだろうに、こんな作り話にウツツを抜かしては夢中になって、こんな鬱陶しい季節に、髪の乱れるのも構わず、その作り話をビデオに・・・じゃない、筆写したりしている」

そう言って笑ったりしていた。

「そらまあ、こんな長雨のどうしようもない中で日々の退屈を紛らすといったら、こういう古い物語を読んで過ごすに限るのだろう。とはいえ、こんなウソ話にだ・・・いかにもそんな風ではありそうな人の心の動きが、もっともらしく書き綴られている。他愛もないことと思いながら、どっかで心をそそられているのだろう、ヒロインがもの思いに沈んでいる場面では、一緒になって沈んだ顔をする(笑)。こんなんあるわけないだろと思うような大袈裟なことが書いてあれば『これはひどいww』とか言って、言ってる割には大喜びで読んでいる(笑)。さっきも幼い姫が女房に読ませているのを立ち聞きしてたんだよな。じつに口のうまいやつがいるよ、ああいうのは根も葉もない嘘を、つき馴れた者の口から出任せに喋っているのだろうが・・・」

玉蔓の前でもそう言ってブツブツぼやいていると、

「ええ、ええ、それは貴方様のように嘘をつくことに馴れた人は、そういうテキトーなことを色々とお考えになるのでしょうよ。どうしてもホントのことだと思っちゃうんだから放っといてくださいましよ」

ムッとした顔で硯を押しやるので、

「あ、いや悪く言うつもりはなかった。物語は神代の昔から世の中にあることを書いたものだと言う。してみると『日本紀』みたいな歴史書には、そのほんの一面しか書かれてはいないものだ。本当のことはむしろ物語の方にこそ詳しく書いてあるのだと、そう言わなくちゃいけない(笑)」

慌ててそう取り繕ってみせるのだった。

(つづく)

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