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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

言葉と意味(7)

2011年07月31日 | チラシの裏
さて・・・これを日をまたぐまでにうpできるかどうか。できなかったらどうだということもないけれど。

言葉と意味に関係のなさそうなことばかり書いているが、つまりは言語が常識や習慣を介して意味を与える一方、同じ言語が行為をも導くというような連関を考えようとしているわけである。(6)はその行為が、個々の意識とは切り離されて別次元の組織化を行うようなところへ、うっすら関係しているのかいないのか、というような、今のところ頭の中でも全然つながらない展望をメモしただけのことである。

もっと直観的に言えば政治の嘘は我々自身の常識的な判断が仕方なく伴う嘘の疎外されたものだとか、だいたいそんなようなことを考えようとしているわけである。つまり言語の本質は嘘である。もちろん嘘だからなくせというようなことを言おうとしているわけではまったくない。そんなことを言いたがる(それしか言うことを知らない)のは反原発の左翼テロみたいな連中だけである。超越性(要は神様)を仮定しないとき、嘘以外の何が我々に本能以上の行為を可能にし、社会の中に利害の交通整理を導入することができるというのか。

こんなことを考えている理由のひとつは、言語哲学のようなものに本当はどこから切り込んで行ったらいいのか、その自分なりの切り口を見つけたいわけである。

そこで「言語の本質は嘘である」なんて言い出したら言語哲学が木っ端微塵にならないか。いやいや、そんなことにはならんだろうと思っているわけである。ただ、サールせんせいを含めて言語哲学のテキストはどれでもそうだが、こんなこと大真面目に、それも、どれひとつをとってもひどく脆そうな論理の上でちまちま論じ上げること自体が、いったいどれだけ信用の置けることなのか、誰だってそう思うはずだと思うのだが、わたし自身も疑問で仕方がないわけである。

理科系の世界でもたとえば数学のやってることは、数学というのはもともとそうだというところがあるのだけれど、この議論はいったいどこへ向かっているのだろうと思うことが多々あるわけである。

まったくの純粋数学はまったくの抽象パズルだと思えばそれで済むところがあるからまだしも、たとえば経済学者という人がゲーム理論の数学について、まさに数学そのものの議論をやっているところに出くわすと、これは確かに数学には違いない(実際ハンパなこっちゃないのである。あのへんは全部途方もなく数学である)けれど、こんな話が本当に経済に関係あるのだろうかという疑問はどうしてもつきまとうわけである。実際やってる本人も、肩書こそ経済学部なんたらの人であっても、ご本人はどう見たって数学屋そのものの顔をしているわけである。その人物が得々と板書している背中を見ながら、この人があるときみんなに向かって「実はわたしはただの数学者です。正直言って経済とかどうでもいいんです」とか告げたとしても、たぶん周囲の誰も不思議なことだとは思わないで「いや、あの・・・それは知ってたし」とみんなから言われるに決まっているとしか思えないわけである。

そんなことでいいのかと言って、数学の場合は実はそれでも構わないのである。確率微分方程式の伊藤清センセイ(故人)という人は、そもそもあの理論を統計局務めの傍らに作り上げたわけである。それははじめ物理屋が、あるいはロケットを含む制御工学の人達が注目し、後にはそのロケット屋がスピンオフした先の金融工学で応用することを思いついたのである。どこで何が役に立つのか、どうせ判りはしないのだから、所属だの肩書だのといったことは数学者とその研究にとっては、もともと大した問題ではないし、大した問題だと思うべきでもないと思われているはずである。実際「経済とかどうでもいいんです」という意味のことを、晩年の伊藤センセイは力説すること頻りであったと言われている。

だから分析哲学だって、と分哲屋がひょっとして言いたがっているのだとしたら(そんな印象もないけど)、それは違うだろうと思うわけである。数学の融通無碍は数学が現実である必要は必ずしもないという本質から来ているわけで、哲学が現実を失うわけには行かないはずである。物理屋が実験を失うわけには行かないように。

もちろん物理学でも数理物理の、ヒモだとかどMだとかの怪しい領域になると、もう実験もへちまもない(実際、実験できないし!)世界であったりするが、それでもそれが物理学だと言えるのは、それをやってる人達の間に、物理学として組織された専門家の集団の一員としての自覚があるからだろう、とわたしは思っている。分哲もたぶん一緒のことで、そうでもなければ可能世界意味論みたいな議論を真顔のままずっとやっていられるとは、到底思えないことである。

そしてすべての素人は、だから、それらを真顔では眺めていられないわけである。この種の議論のいったいどこに現実がかかわっているのか、字面や論理をどう追ってみたところで皆目見当もつかないのである。たまにポロッと現実的なことを喋ったりするとだいたいろくなこと言わないことからしても、事態はさらに怪しいと思えてくる。素人がこれらを、そうは言っても無意味ではないに違いないと思って眺めるとすれば、だから、何か自前の道具が必要になるはずなのである。

・・・おお、なんか今日中に埋まった。

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言葉と意味(6)

2011年07月31日 | チラシの裏
以前「政治」について考察していたとき、考察の軸に置いていたアイデアは、(人間の社会に関してそれが合理的な存在理由を持つとした場合、その)政治の本質というのは交通整理のような利害の調整だということだった。それが必要になると言えるのは、十字路のあらゆる方向からとめどなくクルマ(個々の利害)がやってくると言えるからである。たまにぽっかり来ない時間帯はあったとしても、永久に来ないと考えることはどんな場合でも妥当とは言えない。放っておいても来るのである限り交差点で利害は衝突しうる。衝突するだけならともかく、事故が起きればクルマの流れは阻害されてしまう。

「交通整理」を誰がどんな目的で発明したかはわからない。ただそれが自然に、あるいは偶然に生じうる何かだと言えないことは、計算機プロセス間のデッドロックの例を見れば明らかである。プロセス同期機構は個々のプロセスの論理を超えたところから導入されるより仕方のないものである。きわめて小さな確率でそれが偶然生じ得るとしても、その偶然は無数にある交差点のひとつひとつにおいて反復される保証のないものである。つまり進化的な積み重ねということは、こうしたことに関する限り自然には生じえないと言っていい。とはいえ、もちろん魔法があるはずはない。

利害の同期ということは、動物一般において、単純な行動については自然に生じることがある。少なくとも現に自然に存在する。人間以外のたいていの動物に存在する繁殖期というのがそれである。極端な場合それは1年のあいだのある特定の1日の、そのまた数時間、いや、ほんの数分ばかりの極端に短い期間でありうる。こうした同期が存在することについては進化的な説明が可能であると思う──詳しい記述は忘れてしまったがE・O・ウィルソンの「生命の多様性」という本の中でそれを読んだ記憶がある。あるいは読んだ上で本職の生物屋さんから話を聞いたのであったかもしれない。また自然選択=自己組織化という観点から自分のアタマの中で勝手に複雑性の補足説明をつけたのであったかもしれないが、いずれにせよあらかた忘れてしまった(笑)。ま、とにかくそれは可能である。ただそれは、生殖行動のような、最も基本的なという意味で単純な行動に限られる。ある種の鳥がメスを誘うために途方もなく手の込んだ形態(極彩色の体色や特定部位の肥大化)や行動(歌と踊りとその舞台装置の製作)を発達させるとしても、それらの形態や行動の進化を駆動しているのは、ただひたすら交尾交尾交尾交尾交尾ということだけである(笑)。

ところでこの例で利害をクルマに例えていることは、それは必ず動きを伴うものだということの反映でもある。クルマの動きは利害にもとづく人間個人の(あるいはたかだか非常に小さな協調的集団の)行為になぞらえられる。クルマがとめどもなくやってくるというのはつまり、人間は生きていれば何かしら行為しないでは済まされないような存在だということの比喩である。人間ならずとも動物はたいていそうである。ほとんどの動物は食べ物を、交尾する相手を、場合によっては休息を求めて始終動き回らずには済まされない何かである。まあ、ナマコやコアラや年老いたネコのように、ほとんど動かない動物もいるのだけれど。

人間の特徴のひとつは、その行為を、やや古くさい語彙だが「本能」すなわち生物学的な意味での機械論的な原理に基づいて行うのではなく、意識において行為を構成する存在だということになる。人間は「本能」以上の行為理由を持つのである。構成される行為は愚かな行為であるかもしれないし、自殺的な行為であるかもしれないが、いずれにせよそれは人間に特徴的なものである。普通の動物は愚かな行為もしなければ将来を悲観して自殺したりもしない。それは機械がそれをしないというのと同じ意味でしないのである。

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自註の続き

2011年07月30日 | チラシの裏
下の「自註」がいささか尻切れ気味なのは、そこまで書いたところで土曜の昼飯の時間になってしまったので、いつもの通り近所のファミレスに出かけ、おっと、その前に本屋に寄って「土曜日の本」を買い、食って読んで帰ってきて続きを書き出しているのである。

さっきの記事ではさておいた「哲学書は原書で読め」ということについて改めて書いてみる。そもそもこのblogにしてからがサールやヒュームの本の私訳をやっているくらいだから、原書で読むことに意味がないなどとわたしが言うはずはない。わたしがイチャモンをつけてみたくなるのは「まず原書で読め」とか「原書以外読むな」といったたぐいの言い草である。以前実際にイチャモンをつけた経済学者のように「Kindleならタダで読める」とかいうような隠微な言い方をしている場合も含めてである。

専門の哲学科の学生だったらそれは、どうせ先々まで読むべきテキストのほとんどは外人の書いたものばっかりなんだから、最初から原語で読めるように練習しておけ、という意味合いもあろうことで、それに文句をつけようとは思わない。abstractと、せいぜいsummaryくらいをさらっとナナメ読みして「はいはい、次々」と放り投げることを覚えなければ、プロの研究者なんてやっていられないわけである。いまどきは哲学だって、また相当にマイナーな主題であってさえ、ネットで検索してみれば、仮に全部きちんと読んでいたら一生かかっても絶対に読み切れないほどの文献が出てくるわけである。ちまちまと翻訳なんかやっていたら研究やら考察どころではない、ましてやディベートなんぞ夢のまた夢だということに、どうしたってなるはずである。

そういう意味では、だからと言うべきなのか、ひょっとするとこれから先の世界では、外人の書いた文献を自国語に翻訳することは、専ら素人哲学(場合によっては素人科学ないし工学)のやるべきことだという風になるかもしれない。そんな、ある意味でアホみたいなことやっていても食いっぱぐれずに済むのは、食い扶持を別に稼いでいる、あるいは親が大金持ちか何かで食うのに困らないような、いずれにせよ素人だけだからである。このblogでやってる私訳もそのつもりだなどとは、実は全然言うつもりがないのだが、ただ実際にやっているとそんな気がして来ないでもないということである。

そしてそのことは逆に、素人がわざわざそんなことをすることの根拠は、本当はというか究極的にはどこにあるのか、という問いを招き寄せることでもあるはずである。そのことの方はわたし自身は明確に意識している。それをいま言葉で指し示すことはできないとしても、わたしは明瞭に知っているからである。パソコン屋というのは素人計算機科学もしくは工学の別名で、わたしはそれを30年かそこらやっているからである。・・・変に恰好つけて言わないとすれば、要するにそれは公私ともにそろそろ廃業かしらという気配が漂ってくるようになったので、わたしは次第に哲学の方にシフトしつつあるのである(笑)。幸いほとんど誰も手をつけていない(笑)というか、なんか色々やってるうちに気がつくとこっちの方に押し出されて来ちゃったよ、というか。PCと違ってこいつはろくな銭にもならないことは判り切っているのに、まったく困ったものである。

話をもとに戻せば、実はパソコンのパの字も存在しなかった小学生のころでも、たぶんその言葉にならないイメージだけはわたしの中に明瞭にあったのである。「英和辞書を使うな」の類にいちいち突っかかるのは、その種の言い草の何かがそのイメージの核心に抵触するからである。それは、パソコン屋の文脈に逆翻訳すれば、GNUプロジェクトのRMSみたいなど阿呆が、linuxの連中に改めて担ぎ出されるまでは頻りに「パソコンを使うな(由緒正しいUNIXマシンを使え)」などと言い散らかしていた(担ぎ出されたとたん、ぴたりと言わなくなった。まったくもって最低の野郎だ)ことに、そっくりそのまま重なることだったのである。今日気づいたのはそういうことだった。

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自註

2011年07月30日 | チラシの裏
何でも書いてみるものだ。このblogの「高速哲学入門」というのは、半分くらいはtwitter検索した呟きの中からなんとなくわたしの気に障るようなことを(笑)呟いてるのを拾ってきては、それをテキストエディタにコピペしてじっと眺めて、思い浮かんだことを書き並べてみる、そういう即興であるわけである。

ブルースの即興みたいに前もってコード進行とかがおおよそ決まっていればまだしもなのだが、正直そんなグワイのいいものはないのでフリーダムの滅茶苦茶になってしまうことも時々ある、そのかわり、書く前にはあまり考えたこともなかったようなアイディア(笑)、ないしは記憶のインプレッションが、そこから生じてくることもたまにある。

たとえば(196)で「翻訳文化というのは大衆的な基盤があるところでなければ本当は成り立たない」と書いているのは、書いた本人がびっくり仰天した(少なくともわたし個人にとっては)前代未聞の見解なのである。この一文は一文まるごと、どこからともなくテキストエディタの画面上に現われたのである。びっくりしたまま「それはなんでだ?」と考え込んだ結果がその下の記述なのである。

「哲学書は原書で読め」云々はさておいて、世の中には英語のテキストを読むのに「英和辞書を使うな」と宣う人が時々いることになっている。たいていは教師だが、教師でも何でもない人の中にもたまにいる。そしてわたしは、コドモのころから、その種の言い分を耳にすると、相手がほとんど何者であろうとオートマティックに反発することになっている。事実そうしてきたのである。学生のころ、出張ゼミの後の雑談で尊敬する老教授が言った時でさえやらかしたことである。そしてその都度、どうしてこの種の言い分に自動的に突っかかってしまうのか、自分でもその理由がよくわからないと感じてきた。

自分でも理由がわからずに突っかかっているのだから、議論になったとしても言い負かされる以外のことを経験したことはない。相手の方は当然ながら不思議そうな顔をしている。その人なりに苦労して英語のテキストを読むことを覚え込んできた、その体験的な事実なり実感なりに基づいて言っているだけなのに、この男(わたし)はいったい何を、というか自分はろくに英語なんか読めもしないくせして、いったい何が気に食わなくて突っかかってくるのだ、という、だいたいそういう顔をしているわけである。少なくとも突っかかっているわたしの方からはそう思われている。つまり何か間違ったことを、明らかに間違った相手に言っているらしいことが自分でもわかっている。わかっていても突っかからずにいられない。これはいったい何なのだということがずっと不思議で、謎だった。

この長年の謎が(196)を書いて氷解した。どう氷解したかは(196)の通りである。何でも書いてみるものである。

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プチ狂人日記

2011年07月29日 | チラシの裏
いま仮にひと桁の足し算の問題を1000問とか10000問とか解いたとする。時間制限その他は事実上ないものとしておこう。そういう設定で、わたしがそれをやったとしたら、たぶん、そのうちの10問くらいは確実に間違えるはずである。

え、それ多くないか、と思われたら、そうなのだと言いたいわけである。これはもうコドモの頃からで、足し算なんかは小学校1年からやるわけだから、小学校1年の時から自分で気づいていることである。小松左京氏の追悼文で小学生のとき優等生だったと書いたが、優等生のくせになぜか百点がなかなか取れない、それも、誰も間違うはずがないような突拍子もないところでころっと間違えてしまうような、我ながら変な優等生だったのである。

答案にはたとえば「3+4=9」などと、事実そう書いてある(当然バツがついている)。自分の字である。7の書き損じでないことは、自分で見ればわかる。どう見ても、その瞬間においてわたしは3足す4は9だと確信してそう書いたとしか考えられないのである。この例だけだと数字の読み取り間違いという可能性もあるわけだが、同じような間違いを口頭でしでかすことがある。九九を暗唱させられて突然「サンゴジュウロク」と言ったりする。そういうわけで、全部とは言わないまでも何割かは確実にアタマの中がおかしいのである。

「いったい、何をぼんやりしていたのだ」と親からも教師からも叱られるわけであるが、別にぼんやりなどしていない。第一、そんなにぼんやりしていたら、そもそも数字を書くことだってできないではないか。「じゃあ何かいらんことを考えていたんだろう、どーせお前のことだから野球とかラーメンとか」無茶言うな。試験の最中にそんな素敵なことを考えていられるものか。「だったら、これは一体何なんだ」さあ。「さあとは何だ。わけを言え。言わないか」・・・・・・

本人がわからないと言っているのに「わけを言え」である。何か隠し事をしていると思われているのだろうか。足し算を間違えた理由に隠し事なんてあるわけないじゃないかと思うのだが、必ずそう問われる。まさしく「小一時間問い詰められる」のである。ほとほと往生させられた、というか、そういうことになった場合の通例として、あとはひたすら黙り込むよりほかないわけであった。何でもいいから謝っちまえばいいと考える人もいるかもしれないが、そんな手は通用しない。言下に「ゴメンで済むならケーサツはいらん」などと言われるだけである。

足し算ひとつ間違えただけで死刑にされかねないくらいのことを言われる。コドモの意味論にとってケーサツとは直ちに(immediately)タイホのこと、タイホとは直ちに留置場のこと、留置場とは(中略)直ちに死刑のことだからである。つまり、コドモのわたしにとってそう言われることは実際に死刑判決を告げられたのと同じ意味を持っていた。場合によっては言葉の意味が死刑執行そのものですらあった。そう考えると小学校にいる間だけでも、わたしは何百回となく殺されていた。相手の方は疑いもなくコドモの意味論が硬直的にできているのを知ってて、つまり意図的に言葉を行使していたからだ。仮に(仮にだ)いまわたしが死刑制度廃止に賛成するとしたら、人権擁護とか何とかはまったくうわべのことで、究極的にはそれが根拠だということになるような気がする。学校も勉強も心底大嫌いだった。本当に。

若干話がそれた。色川武大の「狂人日記」、あるいはバロウズの「ジャンキーもの」の小説やなんかにはときどき、作者の意図なのかそうでないのか、記述の流れに不連続性があったりする。作中の時間がすかっと飛んでいる場合もあれば、あるいは作中人物の意識や論理の流れが突然中断されて、何か全然別のところに接続されていたりする。他の人はどうだか知らないがわたしがそれを読むと、なんとも言えない怖気を感じる。場合によっては震え上がる。いいトシこいて夜中にトイレに行くのが億劫だと感じるほどに。

本物の狂人やジャンキーにはそんな瞬間が頻繁にあるのだとして、自分の場合はその頻度は何桁も小さいわけだが、とはいえゼロではない、これが狂気の瞬間だというなら、確かに自分もプチ狂気を経験しているということになるらしい。幸いその頻度が増えるということはなかったが、正直言って減りもしていないことである。

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言葉と意味(5) ─余談─

2011年07月28日 | チラシの裏
これは哲学もそうだと思うのだが、科学(さらには工学)においても体験的に間違いなくそうだと言えることは、いまわが国で普通に学問と呼ばれるようなものは、その制度的な基盤においてまったく西欧的な階級社会を前提としているようなところがある、ということである。わが国の中でもときどき、「教養」がどうしたとか「エリート教育」がこうしたとか、時代錯誤というか、まるっきりトンチンカンなことを大真面目な顔して言いだす「知的な」人物が出現するゆえんである。そこまでトンチンカンではないにしても、大学教師が何か言うと口を揃えて大学生の「学力低下」などということを、まるで自分には何の落ち度も責任もないかのように言ったりすることも、たぶんそのうちに含めていいことである。制度を不変な実体と考え、あたかも自然の限界のように錯覚されているところでは、必ずそんなことが言い出されるというだけである。

最初に言っておくと、そうしたあり方は根本的に変革されなければならない、というたぐいのことを、わたしは言おうとしていない。もちろんそれは変革された方がいいに決まっているのだが、吉本隆明の口真似して言えば「だが我々は冗談を言いたいのではない」である。

制度的な基盤がどんなものであれ、個々の学者や研究者は単に自分の知的な興味関心を追及しているだけだし、個々の学生は学生で、大多数は自分の就職先(将来)を心配しているだけである。そこに齟齬があって、齟齬は制度的基盤から必然的に生じているのだが、だからと言ってそれが解消する方向に向かうような必然性のモメントは、研究者の方にも学生の方にもまるっきり存在していないわけである。こういう場合齟齬はいつまでも齟齬としてあり続けるということは、制度的なものの本性についての定理と言っていい。どう考えたってその齟齬をなくすことに余計な努力を傾注するよりは、研究者の方も学生の方も、その齟齬は適当にやり過ごすか誤魔化すかして通り過ぎた方が、彼ら個々人の本来の目標にとって合理的な行動であるのに決まっているわけである。書いたって何の意味もないことが判り切っているレポートも、教師は「いいから書け。書かないと単位はやらんぞ」、学生は「適当に書いちまうか。おいちょっとお前の見せろ」で、その間にある種の均衡が保たれていれば、それでいいわけである。丸くおさまると言って、本当におさまるのだから仕方がないのである。

全部がそうだというのでもないが、世の中で制度や制度改革(笑)それ自体を論じるという人に限って、制度の内幕というのは要するに上のようなインチキのほかにはほとんど何も存在しないくらいのものであることを、どうしてかまったく考慮することさえしないものである。自分だって学生だったことがあるはずだし、現在は教師であるかもしれない、何にせよ過去においてか現在においてか、そのインチキにかかわってきた、あるいは現にかかわっている当事者のくせして、それは忘れているのか、忘れたふりをしているのか、そういうことを論じようとするとなぜか思い出せなくなるのか、何なのかは知らないが皆そうである。内実の過半がインチキでできているような制度をどう改革したって、インチキの色合いが多少変わるだけのことにすぎない。インチキというのは制度から見た場合のことで、現実的な観点からはそれこそが実質なのである。もちろんわたしが学生や教師でもそんなに違う振る舞いをするとは思えない、ということは前提として言うことである。どうにも不思議で仕方がないのである。

一番露骨な例を挙げるなら、歴史教科書の記述が自虐的だから生徒が愛国心を持たなくなるとか、あんなことよく真顔で言えるものだ、ということである(もちろん、逆の立場の連中にも同じことが言えるし、言いたいことである)。歴史の教科書なんてものは顔写真の額に「肉」と書いたり、無駄にぶ厚い本の余白にパラパラマンガの一大長編を描いたりするためのもので、実質としては概ねそれ以外の何でもないわけなのである。こんな基本的で明白な、しかもほとんどの人にとって実体験でもあるはずの事実を踏まえないで、歴史教科書のあり方などを議論することに、いったい何の意味があるのだろうか。

この「余談」で書いていることは(1)(2)の話ともちろん関連を持っている。ただ微妙にレベルが違うから「余談」ということにしているわけである。このシリーズがそもそも言葉とその意味の、さらにその嘘とかインチキということに、主としてかかわっている考察だということは、このあたりで書いておいた方がよさそうな気がする。言葉の嘘やインチキというものに、わたしはどうしても関心があるわけだが、このシリーズではその言葉の嘘やインチキの真に由来するところが何かを、倫理的にではなく考えてみようとしているわけである。

書き出した話に収拾をつけようということを、このblogはあんまりやらない、というか、そもそもそれがわたしの文章の「どうしようもない構成力のなさ」ということの最大原因のひとつではあることである。こんな内容の話を書いていても、書いているわたしの心を占めているのは、どうしてか「理想的に言えば、ほとんど一文ごとに読者を笑わしたい」というような、ただひたすらそんなことであったりする。

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言葉と意味(4) ─(3)への補足─

2011年07月27日 | チラシの裏
(3)では唐突に心身問題の解を書いてしまったが、これはこのblogの、つまりわたしの素人哲学の核心なので、blogの開設当初から──本当はもっと前から──何度も書いていることを、改めて書き直してみたというだけである。中身は以前から書いていることと変わってはいないけれど、最初からコンパクト性を言うのではなく「内的にみた人間と外的にみた人間とでは物理的外延が異なる」というのを間に挿んでみたわけである。世にいう「身体性」の議論の多くが(哲学であれ、そうでない場合であれ)言わんとしているのは、せいぜいこの程度のことなのである。

だったらそう言えばいいじゃないか、と、わたしとしては言いたいところがあるわけである。物理的な外延が異なる、ということが本質なのに、それを「身体性」などと言ったりするから、身体つまり肉体の問題なのだという、まるで体育会系の哲学みたいな話に勘違いされやすいのである。だが哲学はひとつである。文科系も体育系もない。

もっとも、「身体性」を云々する議論がどうしてそこに終始することになるかと言えば、これにはこれで理由があるとわたしは思っている。それが第一のテーゼ(心身問題の半解)と第二のテーゼ(同じく真解)の間のスキマ(gap)である。実のところ哲学における重要な問題のすべてはこのスキマ(gap)の中に、ギチギチに詰まっているのである。つまり、言いかえると、第二のテーゼは厳密に言えば哲学的な解とは言えないのである。これはわたしが理科系の世界に半身を残しているから躊躇わずにあっさりそう言ってしまえるという種類のことなのである。つまり、ちょっとしたズルをやっているのである。

ズルをやっているとは言っても、これは正しいのである。ほかに解がありうるなら言ってみろと言いたいくらいのことである。この真解は哲学的な議論がどこへ向かっているのかの内容を理解する上で大変便利なのである。逆にこれがないと、哲学の議論というのは、普通の人にはいったい何しにそんな阿呆みたいなことを延々ちまちま論じているのかサッパリ判らぬ何かでしかありえないということになるのである。

「だったら最初からそう言えばいいのに」とは、誰しも言いたくなるところなのだが、専門の哲学はこれを最初に言うわけにはいかないのである。だって哲学の命題ではないのだから。だいたい、どこの落語家が開口一番「あー熱いお茶が一杯恐い」なんて言うものか(昔、ビートたけしがシャレでそれをやって満座の顰蹙を買ったものだ)。オチを最初に言っちゃあいけないよ、という芸人心得の問題もあることである。

それはそうだが、しかし考えてみると素人哲学、素人芸においてもその順序は遵守されなければならないものだろうか。別にそうする必要はないのではないかとわたしには思える。大事なことは、専門家の芸と素人芸は順序から異なる、ということを踏まえた上でそれをすることであって、それが踏まえられている限り素人が玄人のマネしなきゃならないという法はないのではないだろうか。

素人は素人のやりいいようにやればいい、というか、素人は玄人の哲学者みたいにギリシャ語やらラテン語やらの語学学習から、また明らかに一生かかって千万分の一も読み切れなさそうな、うんざりするどころではない膨大な古典を読み破るところから始めるわけには、もともといかないわけである。そうしない限り哲学は絶対にできないというなら、それは、むしろこの社会に哲学は不要であることを証明するだけのことにならないか。

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言葉と意味(3) ─唐突に心身問題の解─

2011年07月27日 | チラシの裏
※前に書き散らかしていたメモから文章のつながっているところを抜き出しているので、ハナシの前後がつながらないと感じられたら、それはそういうことである。このシリーズは文字通り「チラシの裏」なのである。

人間は意識を持つものであるが、その意識はただ持っているだけのものではない。人間はその意識において行為を構成し、実行するものである。

なぜなのか?

この場合の「なぜなのか」は、どうしていちいちそんなことをするようになったのか、というような意味である。機械はたとえ自動機械であったとしてもそのように動くことはない。つまり意識において行為を構成し、実行するというような不可思議な手順を踏んだりしない。機械が動くことはどんな場合でも「そのまま」のことである。ただそのままに動いている。生物も生物機械と見なした限りにおいては、その行動はそうしたものであるし、人間もまた、同じ見方を(つまり機械論的な見方を)適用する限りは、他の場合と少しも違わない。

このことは一見すると矛盾のように思えることだが、実は矛盾でも何でもない。言ってしまえばまったく単純なことであって、機械論的な見方を適用する場合の人間と、意識において行為を構成するという場合の人間は、そもそも物理的な外延からして異なっているのである。いわゆる「心身問題」の解とは、まずはたったこれだけのことである。

物理的な外延のまったく等しいものが真に異なる動作の様式を二重に持つというなら、それはもうどう取り繕ったって矛盾だとしか言いようがない。けれども、もともとそうではない、外延が異なるのである。それならその動作につけられる様式も別のものであって不思議はない。宇宙の法則も乱れないし(笑)、古代ギリシャから現代にいたる哲学史全体がまるごとひっくり返るようなこともない。

もちろん外延が異なるというだけでは、心身問題の核心において完全に答えたことにはならない。外延が異なったとしても、「意識において行為を構成する」という場合の人間の物理的外延が、結局のところは機械と見なせるような何かでしかありえなかったとすれば、心身問題は本当には解かれたことにならないわけである。単に現在普通にあるような「人間の機械論的な見方」が不十分である、もしくは不正確であるというだけのことである。それだけでも十分問題提起にはなるだろうが、真の解答ではない。

もうひとつ重要なのは、「意識において行為を構成する」という場合の人間の物理的外延は、その本質において機械とは見なされえないような何かだということである。これもちょっと聞くと神秘的に響くかもしれないわけだが、別にそんな怪しい話のつもりではない。機械と見なされるすべての物理系が満たしていなければならない条件を、それが満たしていないというだけである。その条件は何かというと「コンパクト性」である。機械と見なされる物理系は何であれ時間・空間的にコンパクトな台をもつ実現であって、かつ、そうでなければならない。そして「意識において行為を構成する」人間は、このコンパクト性条件を満たさない物理なのである。

このことは実は第一のテーゼを包含している。物理的外延の記述をどのように修正しようと、それが「機械論的な見方」の枠内にとどまるものである限り、その外延は「意識において行為を構成する」人間のそれとは決して一致しないわけである。

つまり本当はこれだけを言えばたくさんなので、だから以前は頭からこれを言っていたのだが、どう書き直しても「コンパクト性」というのは常識的な概念とは言い難い(解析学では初等的もいいところの概念だけれど)ので、不完全だがずっと簡単な理解を先に書くことにしたのである。

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動くものと動かないもの(2)

2011年07月26日 | チラシの裏
しんどいネタのマンガを題材にしているわけだが、実のところ書こうとしていることはそれほどしんどい話ではない、つもりである。

(1)の最後の部分をまとめ直すと、自分の作品に肯定的な感想がつけば誰でも(内面では)手放しで感激してしまうものだが、自分自身について肯定的なことを言われても、それは感激するような何事かだということはまずない、ということである。これは「承認欲求」ということでは説明がつかないことではないだろうか。屁理屈をつけようと思えばつけられないことはないとしても、である。

他人や世間から、あるいは社会制度から認めてもらいたくて何かの能力を身につける、あるいは一段と向上させようと努力する人は、実際たくさんいるに違いない。そこに「稼ぎのため」というようなことを含めれば、今の世の中でそれをまったくしないで済む人はめったにいないであろうことも確かである。けれども、それが首尾よく実を結ぶことがあったとして、感激して涙まで流すことなんてあるだろうか。そういう動機に限って言えば、べつに感激などさせてくれなくていいから、さっさとカネを寄越しやがれ(笑)というだけの話ではないだろうか。

だから、そうではなくて、こうした体験の根底にあるのは、自分の意図を原因として動くものが、自分の身体(だと思っているもの)の外に、確かに存在する、少なくともその気配とか予感のようなものがはっきりとしてあることの認識だと言うべきではないかと思うわけである。自分自身は意図を持つものではあっても、自分自身の存在それ自体はその意図とは関係のないものである。だからそれを肯定されたってべつだん嬉しくもない。けれども自分の作品なり、作品ではなくても意図して起こした行為であれば、それに肯定的な反応が生じることは、意図の先に動くものがあるということの手ごたえ、紛れもないその証明である。また、仮に誰が認めてくれなくても自分ひとりは認めることができる、そう思うことができるという意味で、それは確かに自分のものである。自分の身体(だと思っているもの)にも等しい自分の一部になっているのである。

「動くものと動かないもの」という題名はもちろんメルロ・ポンティの「見えるものと見えないもの」の単なるパロディである。動くものの話だけで動かないものの話はしてないわけだが、それはまた別の機会に書くことにする、というか、本当は書かなくても判るだろと言ってみたいくらいのことである。とはいえ素人哲学に対話はないから、いずれは書かなくてはならない。

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動くものと動かないもの(1)

2011年07月25日 | チラシの裏

(対人関係断絶系少女その2(1/25)
makotoji様)

以下のハナシは上のマンガ(全部で25コマあるうちの1コマである。全体はリンク先でどうぞ)に触発されて書いてみたくなったことを書いたものだが、中身は上の画像とは必ずしも関係がないかもしれない。

奇妙な話ではある。さすがにこんな風に泣きはしないが、自分で作ったものをネットにうpして、それにちょっとでも肯定的な反応があったりすると、大なり小なり手放しで感激してしまうところまでは、わたしでも一緒である。絵描きだろうと物書きだろうと、また素人だろうと玄人だろうと、作者というのはだいたい誰でもそうだという気がする。

いや、言葉の通常の意味では作者とは呼べない場合ですらそうだ。世の中にはときどき、他人の著作物だということになっているものをp2pとかロダとかを介してタダで横流しして、それが次第に度が過ぎるようになってタイホされてしまう人もいるわけだ。タイホされるかもしれないのを半ば承知で、しかもそれをタダでやるというのは、そうすると喜ぶ人がいるからだ、とその人が思っているからだろう。ほかに理由はなさそうに思える。

やってることが横流しだろうと何だろうと「自分が意図して行った行為によって喜ぶ他人が存在するという事実の認識」は、人間にとって他にかえがたいところを持っているのではないだろうか。その「認識」を反芻したいばっかりに、というか、それ以外にはその認識を噛みしめる手段を自分は持っていないと思い込まれたところでは、人間は、それが自分の心身をひどく傷つけるようなことだと半ば判っているような場合でも、また、ほとんどどれほどひどいことでもやってしまうように思える。

心理学の人とかに言わせるとそういうのは「承認欲求」だということになるわけである。他者から、あるいは世間(共同体的なもの)や社会とかから自分の存在を承認してもらう、あるいは何らかの制度や組織の中で一定の位置を合法的に占める(つまり、占めることを許される)ことを、人間はいつでも強く欲しているし、その欲求が満たされることは他にかえがたい満足をもたらすものだというわけである。

だがそれは絶対に間違いだとわたしには思える。本当にそうなら、それこそ上の画像のマンガの主人公のように、身近な範囲の他人にリアルで接することはほとんど拒絶反応と言ってもいいくらいの激越な拒否反応を示してしまう、そうでなくても何とはなしに周囲から孤立してしまう、その非常に強い傾向を持っているというような人が、一方では自分の作品──自分自身にではなく──に対して現われた感想の、重みも何もないほんのきれっぱしみたいな文字列に滂沱の涙を流すというのは、これはいったい何なのだということになろう。

(もう少し続く)

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言葉と意味(2)

2011年07月23日 | チラシの裏
我々は、時として裏切られることはあるとしても、通常は言葉の意味を常識的に、あるいは習慣に沿って読み取っている。その読み方が正しい(もしくは、ある有限な誤差範囲について閉じている)ことを証明するものは、読み取るものが対象の内的な(とはもちろん、物理的な内側という意味ではない。対象が人間なら「心的」あるいは「意識」ということにほぼ等しい)事実に属するものである限り、本当は一切ない。しかし、そうと知った後でさえ我々は常識的な、あるいは習慣に沿った解釈ということをやめない。やめるべきだとさえ思わない。多少うんざりした気分になることはあるかもしれないが、とにかくそれをやめることはない。

なぜなのだろうか?

ひとつには(ふたつはないかもしれないが)「そうでもしないと都合が悪いから」である。いかにも、言葉に対応する対象の内的な事実を知る方法は一切ないかもしれない、というか、ない。それはそうだとしても、それを知らないと、あるいは知ったことにしないと、我々はそこから先では何もできないことになってしまう。

世論調査の結果による管政権の支持率が55%だとして、そのことは個々の有権者が管政権を実際に内的に「支持している」かどうかということとは、厳密にまったく何の関係もない。支持していることの証明にもならないし、その反対の証明にもならない。それどころか他のいかなる内的な命題の証明にも反証にもならない。けれども、そうなると、我々が管政権について何かを言ったり言わなかったり、あるいは何かの行動を起こしたり、起こさなかったりする上で、この世論調査の結果は何も提供しないことになる。それどころか、世論調査だろうと何だろうと、任意の対象に関する内的な何事かを証明しうるものは何もないのであって、ゆえに、我々が管政権について何かを言ったり言わなかったり、あるいは何かの行動を起こしたり、起こさなかったりすることの原因ないし理由を、少なくとも自分の外側から与えるものは何もないということになるわけである。

唯一、まったく純粋に自分の内側からそれ(原因)が生じるということはありうる。ただ普通は、そうした純粋に内因的な言動が生じるのは、もっと単純な状況であるはずだと考えられる。ここでネタに使っているような「政権を支持するかしないか」あるいは「他の有権者はどう思っているのか」といったことに関連して引き起こされるような言動、自分自身のほかに、つまり外側に、たくさんの異なるものが存在するとか、するであろうといったことを前提として初めて導き出されるという意味で「ややこしい(complex)」言動の原因が、純粋に自分の内側から生じてくるということは、絶対にないとは言わないにしても、そうそうあることではないと思われる。

話が錯綜したのでまとめ直すと、つまり、我々が普段常識や習慣にそって言葉の意味を読み取るのは、我々はその「意味」を入力のひとつとして自分の言動を決定する、あるいは、何かの言動をなすことそれ自体から作り出すからである。その決定や作成は常識や習慣によって、あるいはそれらの存在を認識することによって促されるのであり、あるいは、まったく新たに創出されるのである。いいかえると、何かの言動を出力するためには、なんでもいいから入力が必要なのである。

こうしてみると常識や習慣は、一面においてはそれ自体が紛れもなく茶番である。これらは何かを知る(言葉から意味を取り出す)ための道具であるよりはずっと、何かを「知ったことにする」ための道具だということである。知ったことにした上で、我々はそこから自分の発話なり行為なりを演繹し、実行する。仮に常識や習慣のようなものをまったく持たなかったとすると、それは実は一義的には何ら困ることではない、けれどもその場合我々はほとんど何も話さないし、生物学的な次元のそれを別にすれば、行為というほどのものは何も行為しないことになるのではないだろうか。

「知ったことにする」というと、それはまるで「知る」ということが何か立派なことのようだというか、「知ったことにする」は「知る」の堕落した、あるいは洗練されない形態だ、というような勘違いが生じそうな気がする。堕落とか洗練とかはどうでもいいとして、「知ったことにする」は「知る」ことの二次的ないし派生的な形態にすぎないという風に考えることは、たぶん間違っている。本当は逆で、我々は本来が持つ能力はもともと「知ったことにする」ことだけであって、それをあたかも「知る」ことのように偽ることが「知る」ことの元なのである。

偽りだと言ってもこの場合は必ずしも倫理的な意味を帯びてはいない。この、ある意味では確かにインチキな仕掛けの上に「知る」という仮想的な次元を作り出した、そのことによって、我々は自然的な事柄については偽りなく「知る」ことができる体系を作り出す可能性を持ったのである。それが実践されたところの帰結が自然科学である。

もちろん自然科学はインチキなどではない。自然科学的に「知る」ことの体系が現実の総体に一致すると言ったらインチキになるだけである。現実のリンゴは重力の法則に沿って落下するとは限らない。空気抵抗とか何とかの話ではない。それを含めたとしても、の話である。現実のリンゴは誰かが途中で受け止めるかもしれないということである。物理の教科書に書かれていないことはたくさんあるが、この「誰かが途中で受け止めるかもしれない」ことは、ただ書かれていないだけではなく、書くべきかどうかが判断されたこともないことである。それは当然書かれないことなのである。

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言葉と意味

2011年07月20日 | チラシの裏
以下はどっかそこらにいくらでも書いてありそうな話だという気はするわけだが、なんか書いてしまったのでうpする。「こんなことはとっくに知っているしわかっている」という人には、今更な話ですまん、と言う。



ある意味で言葉はすべて嘘だ、ということを一番典型的に示すとしたら、やっぱりアンケート調査、それも政権支持率の調査みたいなものの例から入るのがいいかもしれない。

そういう調査と調査結果にはどんな意味もないというわけではない。常に何かは意味している。ただ、その意味が何であるのかについて、確かなことは何も言えないというだけである。たとえばその調査の結果が55%という数字であったとしよう。それは文字通り「有権者の55%が管政権を支持している」ということを意味するのかと言えば、それは違うわけである。

この場合の「違う」というのは「実は支持されていない」ということではない。そうじゃなくて、その数字は調査対象である有権者集団の内側の真実に関して、本当は何を意味しているのか、まったくわからない、論理的にはもちろん数量的にも確からしいことは何も言えない、何か言ったとしてもそれが確かである(あるいは確からしさの度合いをもつ)ことを示す手段がまったく、全然、これっぽっちもない、という意味で「違う」のである。

いくぶんミもフタもない書き方をすれば、その55%という数字はつまり、その調査を行った時点で任意の有権者がアンケート用紙に「支持する」と書かれた項目にマルをつける、そのような行為を遂行する確率の推定値にすぎない。なぜその項目にマルをつけるのか、それは文字通り「支持している」からだとは言えない。そうであることを証明するどんな証拠もないからである。単にそっちが利き手からみて近い方にあったからかもしれないし、むしろ遠い方にあったからかもしれない。何であっても、その項目にマルをつけたという事実は、単にその事実があるということそれ自体のほかには、厳密に言えば、本当は何も証明しないのである。

証拠がないなら証拠を得る方法はあるのかと言って、よく考えてみれば、その証拠を得る方法も実はないのである。行為aが信念bに基づいて(またそれのみに基づいて)行われたと証明することは、どんなに方法を工夫しても不可能である。きっかりbではなかったかもしれないがbを含む有限な近傍Bが存在して、その中のb'ではあったはずだということも証明できない。つまり、本当のところそれが何であったのかは全然わからない。

じゃあ支持率調査はまったく無意味なことをやっているのかというと、そうとも言えない。たとえばそうした調査のひと月後に選挙が行われて、それが毎度のことであったとして、選挙の得票率は調査の数字の±10%以内に、95%以上の確率でおさまるとか、そういうことは、同じことを何十回かやって集計すれば示されるということは、ありえよう。仮にそうした結果が出れば、選挙前の調査結果は選挙結果に関する意味のある予測を与えるものであるとは言える。また、それは実証的な根拠のある予測だということも言える。

けれども、それでも、その場合の調査結果や得票率は55%なら55%という割合で「政権が支持されている」ことを証明するわけでも何でもない。選挙の投票は投票で、単に投票ボックスの中に並んだ名前からひとつ選んでその文字列を記入するだけである。支持しているからそうするのだと証明する何物も、依然としてまったく存在しない。政権をシジしているのではなく、○○会の××会長から暗にそうしろとシジされただけかもしれない。



こうした実証的な手法によって判るのは、どうやっても事態の外側だけである。むろん、そうありそうな内側について「たぶんこんなことなんじゃないか」の憶測を逞しくすることはできる。とはいえ、憶測はどこまでも憶測にすぎない。その憶測が実際にも真であるのか、あるいは当たらずとも遠からずといったところであるのか、いかなる基準を置くにせよその基準において妥当性を証明することは、一般的に言ってまったく不可能なのである。

「いやだけど、常識的に考えればさ・・・」と言うかもしれない。言いたいことは判る。

念のため言うとわたしはここで「常識破りのススメ」などを語ろうとしていない。つまり「だけどこうだろjk」のたぐいはデタラメな言い草だとか、そういうことを言おうとしていない。むしろ「それはその通りだ」と言いたいところである。我々は実際、支持率55%の数字を見て、いま管政権は有権者の約55%から支持されている、事態はだいたいそんなところなのだな、と「常識的に」判断し了解する。また、その「常識的な」了解を後から全然違う方向からすっかり覆されてしまうといったことは、全然ありえないとは言わないまでも、それはめったにないことだという風に思っている。そして、そうした思い方の中にも、特にこれといってひどい間違いはないと言っていい。

ただその「めったにないこと」は、そうは言っても時々は起こるわけである。Aという言葉は事実aを意味している、まあぴったりaではないとしても、だいたいaに近いことが言われているのだ、という「常識的な」理解が覆ることはめったにない。めったにないが、たまにはある。そして、そのめったにないことが起きた後で考え直してみると、Aという言葉はaを意味していると「常識的に」そう理解してきたことには、実際にはまったく何の根拠もなかったということが、これはこれで誰にでもはっきり判ってしまう。

これは、支持率調査よりは結婚詐欺みたいなもののことを考えてみる方が判りやすい話であるに違いない。詐欺師はたとえば、肝心の挙式当日になって初めて行方をくらますのである。そうなって改めて考えてみると奴の言っていたことには一切、何の根拠もなかったのだということは、もはや間違えようもなく明らかに、誰にでも判るのである。けれどもその前日までは、気の毒なカモの人と周囲の人々は、そんなことはありえないと「常識的に」理解し判断してきたのである。その理解や判断は「常識的な」ものとして何ら問題はなく、事実何ら故障を起こしてもいなかったのである。

つまりAという言葉と、その意味だと目されるaの間は、その決定的な瞬間までは疑問の余地がないほどぴったり随伴している。どう見てもそれは「くっついている」としか言いようがないくらいのことである。ところが、実はそれはくっついてなどいないのである。ごはんつぶか何かを糊に使ったので接着力が弱かったとか、手抜き工事のせいでボルトが落ちて、さらに金属疲労とかも積み重なって強度が低下していたのだとか、そういうことでもない、事実、単純に、全然、まったく、少しもくっついてなどいなかったのである。ある日それがポロリと落ちて初めてそれがわかるのである。実際に落ちてみるまでは、まるで疑いようもなかったことが。

こういう2者関係は、一般的に言って、物理にはないものである。少なくとも抜き差し難いものとしてはない。もしもあったとしたら困ることである。物理や数学の言葉で言えばそれは「不連続性」ということである。物理学の理論が物理現象の何かを予言することができるのは、理論に連続性があるからである。もしなかったら、あるいは失われたら、その点から先では予言も何もできない、理論はまったく役立タズ、屑籠直行である。幸い、確立されてきた基本的な物理法則はすべて、時間や空間についてなにがしかの意味で(厳密には「ほとんどいたるところ」)連続性を保っている、だから物理学の理論は役に立っている。



見方を変えれば、このような、言葉と意味の間の「くっついているのに不連続」な関係は、言語において特徴的な関係であると言うことができるかもしれない。くっついている間は全然離れないが、剥がれたときは跡も残さずぺろりと剥がれる。これはPost-Itのような製品にとっては理想的な糊だと、3Mあたりの技術者が悔しがりそうなことである。

そうは言っても、言葉を使う人間にとっては、たいていの場合これは困った性質である。Post-Itならばともかくも、Aとaは、一度くっついたら永久にくっついたままであって構わないはずである。それをわざわざ引きはがす必要などが、本当にあったためしがあるだろうか。Aとaがくっついたままで困る者がいるとすれば、気まぐれにAとbを、Bとaを交叉させてみたくなる阿呆じみた吟遊詩人くらいのものではないのか。それもまあアレだけどさ、詩人には好きに歌わせておけば、それでいいではないか。

誰もそんなことは望まない、なのにそれは時々、音もなくポロリと落ちる。まったく誰の断りもなしに落ちてしまう。

幸いなことに、リンゴを目の前にして「リンゴだ」というときのリンゴからその意味が落ちることは、そうそうない。それすらも簡単にポロポロ落ちてしまうようだと、それは何かの病気だと考えた方がよさそうである。

話が怪しくなってくるのは、ふたつ以上を関係づけようとするところからだ。AaとBbがしっかりくっついているとき、aとbの間に関係づけを認めると、それは連動してAとBの間に関係づけを生じさせることになる。ところが、言葉どうしを関係づけることと、意味(事実)どうしを関係づけることは、たぶん本当は同型ではない。a・bとA・Bの関係づけと、AaとBbの結合は両立しない場合がありうる。このとき結局はAかBのどちらかの意味が落ちるということが、あるのかもしれない。

(未完)

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フーコーのようなもの

2011年07月19日 | チラシの裏
これといった題名を思いつかないので上は適当につけている。

M・フーコーの発想を簡単に言えば、「たとえば『人間』というけれども、『人間』というときのその『人間』という言葉は嘘っ八ではないか」ということになると思う。ただしそれは「人間」という項目は物理学の教科書には存在しない、つまり観念にすぎないという意味で嘘っ八だという意味ではない。そうではなくて、それは観念としても嘘っ八である、いわば二重三重の嘘っ八なのだということである。

文字通りの嘘は人間がそれと意図して言うものである。そうでないという場合、それは、人間が意識を持ったものとしてある、ということと不可分のこととしてあるような、いわば仕方のない嘘である。普通の意味での哲学は、だから、この仕方のない嘘の体系として現実を理解することの試みであると言うことができる。嘘は嘘でも仕方のない嘘であるという、言ってみればひとつの「誠実性条件」を設定した上でなら、世界の現実は無限に正確に理解して行くことができるはずだし、またその理解の上に立って変革することも可能であるに違いない。だいたいそんな見込みのもとに展開されてきたのが、19世紀、いや20世紀前半までの哲学であったとするなら、フーコーは「いや、それは嘘だろ」と言ったことになるわけである。

嘘というのはそんな仕方のない嘘の次元につきるものではなくて、全然なくて、もっと全然違う系列の嘘が存在する、というよりも哲学が普通に想定してきた嘘は、ということはつまり上記の「誠実性条件」のようなものは、現実の総体を考えたときに本当は少しも普遍妥当などではない、もっと巨大な、あるいは思いのほか微小な嘘の、どっちにしろほんのローカルな部分空間にすぎないのではないだろうか。もちろんそれは閉じてさえいないのであって、だからそれは、まったく海岸の砂の上に描いた模様のようなものでしかない──

──そうもちろん「人間」という概念もまた、と言ったときに、そうするとじゃあその嘘は誰がついているんだ、ということになるわけである。むろんそれは、誰でもない。誰かだというならその誰かを叩き潰してしまえばいいわけだが、誰でもない、存在するものとしてそれは存在しないのである。それは一体何であるのか。何であるとも言えないものを、いったいどう言えばいいのだろうか。

いや別に言わなくたっていいじゃないか、そんなことは。それは確かに何かであるというようにあるものではないだろう、けれども、その何かとも呼べないものが現実の上に及ぼしている作用、それが作用している場所とその時間、その特徴のようなものは、たとえばこんなところに(基本的には書かれたり話されたりした言葉の上に)このように見つけることができる、というようなことの繰り返しが、生きている間にフーコーがしつこくやっていたことだということになるような気がする。

この何ともつかみどころのない、つかみどころがない割には本当は何を言いたがっているのか妙によくわかる考え方を、フーコー本人は亡くなってすでに25年以上も経つわけであるが、いまだにどう扱ったらいいものか、基本的には扱いかねている、扱いかねているけれども妙によくわかってしまうので放っておくわけにもいかない、それが21世紀の現在の現状であると思う。

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わはは

2011年07月19日 | チラシの裏
今日は休暇、ということで何ということもなしに色々ググって遊んでいた、そのうちのひとつで「渡辺京二」でググろうとしたら、検索候補の中に「渡辺京二 小谷野敦」というのが出てきた。

まーた小谷野氏が何か無体なことを言って噛みついたんだろうかなあ、と思ってそのまま検索すると、案の定その通りで、渡辺の「逝きし世の面影」という本に、Amazonの書評で直々にこんなことを書いたのが一部で物議を醸したのであったらしい。

現代最大の悪書 2009/12/13 By 小谷野敦 (東京都杉並区)
名著扱いされていなければ、よくある「お江戸礼賛」本の一つだろうが、名著扱いのために現代最大の悪書となっている本である。
外国人、主として西洋人が、幕末・明治初期の日本を観察して描いた記録だけを読み、日本側の記録は一顧だにしないという偏った方法で、外国人が日本を褒めれば涙を流さんばかりに喜び、貶せば西洋人流の偏見だと怒る。だが朝鮮通信使もまた同様に日本を野蛮国として記述していたことは知らない(『申維録』)。また、日本人は裸体を気にしないという俗説は、同時代の川柳(渡辺信一郎『江戸の女たちの湯浴み』など)によって覆される。あるいは著者は無邪気にも、売春は明るかったのだなどと言うが、キャバレーのホステスであろうと、客を前にすれば明るく振る舞う。背後にどんな闇があろうとも。
近世および明治という、過去礼賛に耽溺し、現実を直視できなかった著作であり、その一方で、この著を正しく批判できない多くの左翼知識人にも大いなる責任がある。

「ああ、これはいかにも小谷野敦だ」と思った。この無体千万で、誤解を招くに決まっている噛みつき方が、である。

この書評自体はたぶん見当が外れている。渡辺京二が単なるお江戸バンザイのたぐいを書きたくてこんな本を書くわけがないじゃないか、である。わたし自身は「逝きし世の面影」は読んでないし、読む気もないので、事実見当が外れていることを穏健に説明しているページへのリンクを張っておく。

  中村隆一郎/「逝きし世の面影」と小谷野敦の批判

ただ、じゃあ小谷野氏の言うことはまったくデタラメなのかというと、そうとも言えないところがややこしいのである。小谷野の言うことはある意味でぴたり正鵠を射ている。ただ矢線がものすごく捩れている。だもんだから、普通に読むと無体千万にしか見えないというだけである。

わたしが読んだ限りでも、渡辺京二という人は、どうしてか維新前の日本人の生活について変に持ち上げたがる傾向を持っている。それは否定できないことである。ひとつ褒めるところを見つけたら、それと一緒に百は貶すネタが見つかるであろうようなことについて、渡辺氏はどうも後者を指摘するに控えめなところがあるわけである。別に、江戸の昔がよかったと言いたいわけではない、という意味のことが書いてはあるにしても、その文字の、行間の重みに、いまひとつ疑わしいところがあるわけなのである。バカな読者はこの仕掛けでさぞかし大量に引っ掛かることだろう、と小谷野が小谷野的に鼻白んだところが目に浮かぶようである。

それにしても、小谷野氏の捩れ具合というか反時代的な姿勢というのは、一方ではそもそも渡辺京二のテーマに重なるところがあるように思うわけである。小谷野敦は要するにひとりで比較文学の神風連をやっているようなものだと言えば、安易ではあるがわかりやすかろう。変に賛同すれば噛みつく、批判すれば猛然と噛みつき返すで、要は手に負えない人である。ただ実際、調べても渡辺京二やその読者が小谷野敦に本気で噛みつき返したという例は、それほど多くは見当たらなかった。要は小谷野の無体千万な捩れ批評の根拠に、それなりに目が届くところがなかったら、本当は渡辺の本を読む甲斐もないのだということである。

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考え続ける87歳

2011年07月17日 | チラシの裏
「思い描いていた大人に僕はなりきれていない」/「誰かが示した安易で簡単な答えに飛びつかないことが大切です」/「大震災後をどう生きるか。僕は考え続けて生きたいと思う」――今回の大震災で「原発はもうダメだ」と口々にいう社会。そんな言葉にすぐ引っ張られてしまう日本人に対し、“思想界の巨人”は、静かに「待った」をかけた。
(月刊ビッグトゥモロウ 2011年8月号 No.374)

吉本は青春出版社から何冊か本を出しているので、このインタビューもそのつながりということではあるのだろう。

本当言うと震災直後に出てきてもっとたくさん言ってもらいたかったところではあるのだが、まあ何せ87歳だから、天下に向かってものを言う程度に考えが整うまでにも時間がかかるようになってしまってはいるのだろう。

あるいは言論出版業界というのはいま本当にダメで、震災以来輪をかけてダメになっているから、こういう時に真っ先に吉本のインタビュー取りに行こうという人が、もうあんまり残っていないのかもしれない。残っていたのがビッグトゥモロウのたぐいであったというのは、皮肉というか、ある意味で「これぞ吉本」な展開であるとは言える。かの「『反核』異論」のときにしても、インタビューを取りに来た数少ない雑誌のひとつは「平凡パンチ」であったわけである。

こういう時に限って、わが国の文芸・言論・知識というのは全部、左右と文理とを問わずほとんど一斉に間違った方向で結束しようとするわけである。そしてそういうことが起こるたんび、それまで多少はまっとうなことを言ったりやったりしていた人までが全部巻き込まれて(少なくとも理念的には)ダメになってしまうのである。判で捺したように毎回そうだから、吉本は生き残るのに苦労はいらないし、吉本の読者の方も吉本が何言うかだけに注目していればよかったわけで、しかし、それはそれで困ったものなのである。何が正しいのか何も考えなくてもわかってしまうというのは、よろしくないことである。

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