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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

アトランダム(1)

2011年07月16日 | チラシの裏
以下はもともと私訳メモで書いていた「俗衆で悪かったな」のスピンオフであったものが、さらにあらぬ方向へ膨らんでいったものである。

「英文味覚異常」ネタは時々書いてみたくなるもののひとつなのである。

普通に言う味覚異常というのは、体内の亜鉛欠乏で味覚細胞がまったく機能しなくなった状態のことである。その状態では何を食べても口の中一杯に砂か何かを詰め込んだような感じにしかならないらしい。そうなるとものを食べること自体が苦痛この上もないことになってしまうわけで、それなりに怖い病気である。とはいえ、原因は上記の通り亜鉛欠乏ではっきりしていて、治療も単に亜鉛製剤をしばらく服用するだけ、それでごく短期間のうちに治るらしい。

いっとき妙に流行った病気だが、亜鉛製剤というか亜鉛成分を含有したサプリメントがコンビニで簡単に手に入るようになってからは耳にしなくなった。とはいえ、よほどの偏食家でもまずならない、昔はついぞ聞かなかった症状が、それなりにまとまった数で出てくるというのは、現代日本人の食習慣が、というよりも本当は家庭生活のイメージみたいなものが、何か根本的なところでぶっ壊れてきていることの反映ではあるのだろう。

三度の食事と三時のおやつの区別がついてないんじゃないかというような感じの人は、見ていると結構いる、というか、見てなどいなくてもわかるわけである。勤め先の社内食堂のメニューが年々再々、これはいったい、おやつかオモチャかと言いたくなるようなわけの判らないものになってきているからである。客(従業員)だけではない、もはや食堂のオバチャンも献立係も栄養士も皆々壊れているのである。お前も壊れてしまえと言われているようで気味が悪い。

家庭生活のイメージと言って、正しいイメージがあるとか、古きよき時代にはあったとか言いたいわけではない。実際、そんなものはない。そうじゃなくてイメージが、その統覚が壊れている、どうかすると喪われてさえいるのではないかと言いたいのである。ソライティーズ・パラドクスというやつ、食事とおやつを区別する厳密な境界線のようなものが客観的に存在するわけではない。それは個々の主観の、その統覚の中にしかない、その統覚がぶっ壊れているのである。

そういう人々は不健康そうに見えるかと言えばとんでもない、外面で眺める限り体格もオツムも実にしっかりしたものである。むしろ健康そのものに見えるところが不可解というか、いっそ愉快と言いたいくらいである。たぶん彼らは、自分の心身を内側から蝕んでいるらしいものが、いったい何であるのか判らないに違いない。その不安にかられて何やかやの健康・不健康のリストをたくさん作っては、自他にそれを強要しあうようになっているのではないだろうか。そんでWHOとか厚生労働省とかは、そのリスト作成の尻馬に乗ってお役所仕事を稼ぎまくっている。いい迷惑である。

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商店街

2011年07月09日 | チラシの裏
「哲学」とか「思想」とかで検索してもろくなのが出て来ないので、最近は、というか専ら震災以来のことであるが、時々、自分が長年住んでるところの近所にある商店街の名前をキーワードにして検索をかけてみたりするようになった。わざわざそういうことをしてみたくなる程度には名が知られていて、事実例外的といっていいほど活気のある商店街である。わざわざ遠くからワカモノの人達が訪れてくる程度に、と言えばたぶんそれだけで、どんなに活気があるか理解されようことである。

特に昨今のような猛暑の中でもさほど客足が衰えないのだから凄いわけである。節電々々とうるさいわけで、最寄駅の構内はもちろん、商店街の各店舗だって大なり小なり、照明を消すとか減らすとか、店内冷房を控えめにせざるを得ないとか、客商売にとって下手すれば致命傷になりかねない、非常に苦しい対応を迫られているわけである。そんな中でも周辺住民はもちろん遠くから客がやって来るのである。どれだけ愛されているかよくわかるという話である。

今日検索したところでは、誰かは知らないがあるワカモノ(たぶん)が「これぞ地域力だね!こんな商店街を地域に創る事が行政の仕事だぜ!」とかtwitterで呟いていた。

ホメてくれているわけだろうから変なケチはつけたくないのだが、無茶なこと言っちゃいけない。こういう商店街を「行政」が「創る」ことができるんだったら世話はない。そんなこと地域行政はもちろん、この世の誰であろうと、いかなる組織集団であろうと、できるわけがないのである。

難しいことを言えばそれは、商店街に活気のあることが無条件にいいことだとして(もちろん、だいたいは無条件にいいことだと思うわけだが)、その活気のあることは本質的に誰の意図によっても決定されえない、強いて言うなら商店街それ自身に帰属する生命に似たものであるから、ということになる。

あるいはもっと簡単で、しかも明瞭なことを言えば、この商店街がわが国わが首都の「失われた20年」の中でもずっと活気を維持できてきたことの事実の中には、たとえば、この商店街にはそのど真ん中に「女性用ファッション下着」の店があったりすることが、ひとつの現われとしてある(あくまで結果であって原因ではないよw)わけである。

今ではその気配がほとんどわからないくらいになっているが、この街にはもともとそういう猥雑な要素があって、それがこの街の存在とか活気とかに微妙なアクセントを与え続けているのである。今はないが、わたしが移り住んだ頃にはポルノ映画館なんかもあった(もっと昔には普通の映画館だったらしいのだが)し、長年住んでるわたしでも怪しすぎて入れない店が(さすがに表通りにではないが)あったりするわけである。

考えてもみてほしい、地域行政などというものは、そうした店舗が商店街に存在することを、少なくともその商店街に活気のあることに関連する限りでは、まったくどうすることもできないものであるはずである。「指一本触れることはできないし、また触れることは許されない」ことであると思う。ポジティブなことだろうとネガティブなことだろうと、である。街にはちょっと猥雑なところがあるくらいがいいのだと言って、その「ちょっと」というのがどのくらいのことなのか、それを決定する資格も権利も、本当は誰にもない、地域行政などにはもちろんないのだということである。

地域行政に可能なことは、自らがそれを認識する、その見識を保ち続けることだけだとわたしには思える。

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分析家はネット羊群の夢を見るか?

2011年07月03日 | チラシの裏
ネットの世界を中心に、原発事故にのめり込んでいる人たちがいます。彼らの多くは、知的レベルが高く、情報収集に熱心で、いまの世の中の趨勢を注意深く見ている人たちです/彼らは、企業社会やアルバイト先で、会社人間としての振る舞いや低俗なオヤジギャグに会話を合わせることに耐えられません/一面では純粋な理想主義者たちなのです。

彼らは、こころの病を患っているわけではありません/それなりにやる気もあり、優秀で学習意欲も高く、知的好奇心も強い人たちです。それなのに、どこか歯車が咬み合わず、社会にうまく溶け込めない。自分でも社会が受け入れてくれないと思い込んでいるのです/そんな彼らが、いま原発問題に向かっています。ファンタジーの世界ではなく、現実のなかに逃避を正当化できるテーマが出てきたからです。彼らにとって、これほど学びがいがあるテーマはありません。

とはいえ、彼らが行動するのはあくまでもネットの世界に限定されてしまいます。熱狂する彼らがネット上で喧々囂々の議論をしても、現実に起こっている原発問題は何も解決しません/現実に動いている体制には、大きな影響を与えることはできないのです/小出(裕章)氏が世間の注目を浴びるようになったことで、奇しくもネットの社会に引きこもった人たちの存在を再発見することになりました。これらの人の力を、いまの社会はうまく活用できていない現実が浮き彫りになったのです。

香山リカの「こころの復興」で大切なこと/第12回・抜粋
(ダイヤモンド社・書籍オンライン、Jul.1,2011)

いわゆる「左翼」が反原発などというのは前からのことである。左翼言説業界というのは構造上、貧民(もしくは貧民のイメージ)が存在しないところでは成り立たないのである。だから人々を貧困にする(可能性のある)ことなら何でも賛成するし、そうでない(可能性のある)ことには何でも反対することになっているわけである。

ところがこの震災後は、どういう風の吹き回しか、ネット右翼のたぐいまでその尻馬に乗ったようなことを言い出しているわけである。掲示板にしろtwitterにしろ、どこの馬の骨とも知れないのが左右入り乱れて暴れ回っている。

いったい何で検索しても左右の狂人の戯言を目にしないで済むということがないものだから、ここ1,2か月、わたしはこれらをほとんど見ていない。くだらないことで激越な字句を、それも集団で並べたてるのだから、精神衛生に悪いことおびただしい。わたし同様、この間にこれらから足が遠のいてしまった人も少なくないのではないかと思われる。1年後にはどちらもすっかり閑古鳥が鳴くようになっていたとしてもわたしは驚かない。

この奇妙な風景がどこからどうして生じたのか、わたしにはよくわからない。震災直後くらいまではtwitterは毎日眺めていたのだが、気がつくと左右まとめてぶっ壊れていたというのが率直なところである。わからないことは不気味だから不気味に思っている。上は、何はともあれ分析を試みてみたのであるらしい文章を適当に抜粋したものである(全文はリンク先で読める)。

引用までしておいて言うのは何だが、決していい分析だとは思わない。削ってしまった中には「ネオむぎ茶」とか「エヴァンゲリオン」とかの語彙が並んでいたりして、第一ネタが古すぎるわけである。

ただ、若者ばかりかいい齢こいた言論人までがこの風潮に乗ったのか乗せられたのか、あちこちのメディアで愚劣な題を並べて知的な壊滅状態を呈している、その中で、ということを考えてみれば、分析家らしく分析にとどまろうとしているだけましな方だと思えなくもない。

つまり、上の一文をネットウヨサヨのワカモノの話だとは思わないで、左右の、また文系理系のインテリ言論についての話だと思って読んでみれば、むしろそっちの分析としてなら当たっているところがあるのではないだろうか、ということである。そう思ってみれば、ネタの古さもかえって適切に思えてくるわけである。

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詩人とフォント

2011年05月13日 | チラシの裏
ちなみに。フォントって侮れないなと思ったこと。本を読んでいて、読みやすさだけでなく、とっつきやすさにも関係していると感じた。著者は編集者に任せっきりにせず、気にするべきだと思う。もちろんー本文だけでなく装丁もそうなのだが。若い人ならわからないが、老眼が入り始めて気になり出した次第
(tohsetsu)

詩人の人で視覚芸術にもゾーケイが深い人だとそれなりに気にしているかもしれない。とはいえ、普通に著者が自著の本文書体まで気にすることに意味がある(編集者に言えば配慮してもらえる可能性がある)ようになったのは割合最近のことであるはずだ。

昔は本文に使える書体なんて限られていたし、またそれぞれに癖があって、文字組はそれ専門の職人がいたりしたわけである。大きな出版社にしてみれば書体は自社の出版物の個性の一部であったし、小さな出版社には選択の余地がなかった(笑)。そういうことを気にしなくてよくなったのはDTPが普及してからのことだと思う。そうしてみると、昔は専ら編集者が気にするものであった書体が、今では編集者はほとんど気にしなくなり、かえって著者が気にする時代になったのである。

あと、同じ詩が雑誌掲載時と詩集になったときで書体が違って、書体が詩の印象まで大きく変えてしまうとしたら、それってどうよ、という考え方も昔はあったはずである。

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言語という嘘(3+) ─ ムナシイモノデヨ ─

2011年05月10日 | チラシの裏
(3)を書き直すとか追記するのは面倒くさくなったので新たに何か書く。

創出というのはMSWの私訳で「creation」の訳語として使い出したもので、これを書いている今もそのつもりで書いている。創造とせずに創出とするのは、とりあえずゲージツ的創造とは切り離して考えたいわけである。どうしても創造の方がいいという人は、経済学でいう信用創造(credit creation)のことでも思い浮かべていてもらいたい。あれも「ない金をあることにして手形を発行する」という、嘘と言えばなかなか凄い嘘である。それをストレートに嘘と呼ばせないために「信用」という嘘の語、いや語の嘘までも創出したわけだから、考えた奴が凄いと言わざるを得ない。「一度失った信用は容易に回復しない(キリッ」という偉そうな言い方があるわけだ。あれも要は「バレちまっちゃあしょうがねえや」という小悪党の開き直りの裏返しにすぎないわけである。

こんなことを考えていると、欧米人ならきっとそのうち「天地創造」という最大最悪の嘘に言及しなければならなくなると気づいて戦慄したりもするのだろうが、わたしはてんから無宗教の日本人なので戦慄しない。「はじめに言葉ありき」が「嘘ありき」であったとしてもわたしは困らない。だいたい「言葉ありき」だとどうしてそれが「ある」ことができたのか不思議に思えてくるわけだが、「嘘ありき」なら不思議でも何でもない。真実はひとつしかないが、嘘は無尽蔵だ。嘘で電気が起こせたらよかったのにと、昨今はつくづく思う。残念ながら、わが国にあるのは電気で嘘をつくやつらばかりである。可哀そうな中部電力!


電気の武者+8 T.レックス / USMジャパン; Amazon


  今までのことを
  みな嘘にしてみれど、
  心すこしも慰まざりき。 ──啄木


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言語という嘘(3) (中途)

2011年05月10日 | チラシの裏
※マジで疲れているらしく、書いてる途中で寝オチしてしまった。以下はまったく書き直すかもしれない中途版ということで。

以前に「政治とは何か」について考察したことを、いま漫然と思い返してみると、アタマの中に確からしく残っていることは、それは利害のディレンマ、特に計算機プロセスのデッドロックにも似た、直接的な当事者間で相互的に調整することの不可能なディレンマについて、それを超越的な次元から調整し、とにもかくにも現実の流れを回復する手段だということだけである。もちろん実際にそんなことが可能かどうかが示されたことではなく、社会において政治ということが有意味であるとすれば、それは少なくともそうした役割を果たすものでなければならない、という必要条件のひとつにすぎないわけである。仮にそんなことがまったく不可能なら、政治などというのはたかだか人類史上の伝統芸能くらいの役割しか残らないことになる。あちこちにある交差点の交通整理が政治家の専管事項だというのならともかく、そんなことは政治家の誰もやらないし、やることを求められているわけでもないことである。

それはそれとして、このシリーズでは法や政治の現実について、その言語における嘘という別の方向から考察しようとしているわけである。この場合の嘘というのは、普通に欺瞞と呼ばれるもののことで、国政にかかわる政官財の、あとマスメディアの偉い人のほとんどは、直接的には国民主権者の利害とはまったく何のかかわりもない行為に明け暮れている、にもかかわらず、国民大衆なかんづく有権者の前ではあたかもそうでないかのように装うことにかけては一致結束しているなどのことである。国政がそうなら地方政治だって基本的には同じことで、国政よりは規模が小さいだけである。

これって一体何なんだということは、文明社会に生きている誰もが一度は真面目に考察しておくに値することである。なぜならこの嘘は、学校にせよ何にせよ公共的次元からは決して教わることのないことだからである。学校で教わることなら、学校でも学習塾でも市民講座でも何でも、そこで教わればいいのであるが、教えてもらえない、教える方も教えるすべを持たないことは、個々人が納得できるまで考えるしかないのである。

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言語という嘘(2) ─ コトバ ハ オレヲシバル ─

2011年05月09日 | チラシの裏
念のため書いておくことだが、このシリーズは道徳を志してはいないのである。つまり、つかなくてもいい嘘をつかないようにするにはどうすればいいかとか、そういう問題を考えようとはしていない。第一それは問題だとは、わたし自身がそれほど思っていない。言葉自体がひどい嘘だという場合もないことはないが、たいていの嘘はむしろ人間にとっての言語の本質から生じるもので、それ自体をつけつけ槍玉に上げるようなことではないと思っている。そんなに嘘がキライだったら何も喋らなければいいのである。

そうではなくて、たとえば例の「アイラブユー」のように、言葉としては真っ赤な嘘であるにもかかわらず、というか、まさにそれが嘘であることによって何かを創出している場合があるわけである。創出しているということは、そうと言われる以前にそれは存在しなかったということで、存在しないものを突然存在すると言い出したら、それは言葉としては嘘なわけである。しかもそこには意図が介在している。言ったことがたまたま事実に関して誤りだったということではなく、はっきりと事実ではないと思っていることを意図的に事実として言うのが嘘なわけである。

そしてその種の嘘はそれ自体として機能を持っている。実に奇妙なことに、それを口にする方も嘘だとわかっているし、聞かされる方も嘘だと心得ている、にもかかわらずそうと口にされた瞬間から、その嘘は両者を行動において、あるいは行動の選択肢において拘束しはじめるのである。個人的な体験を想起してもらってもいいし、そんな体験がなければ(笑)どこかの恋愛小説の一場面でも想起してもらって構わないことである。あからさまな嘘が、その嘘にかかわった全員を、行動やその選択肢において拘束するということは、物語の上でも、現実においても、確かにしばしば起きることである。そしてその場合、それは何かの創出にかかわっているという点で、言葉としては必ず嘘でなくてはならないのである。

・・・寝よう。

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言語という嘘(1) ─ コトバダト ウソニナル ─

2011年05月08日 | チラシの裏
法や政治の嘘について書いているうちに、そもそも話されたり書かれたりした言語は何でも、相当な割合で嘘だ、ということを言うべきだという気がしてきた。


©2006 竜騎士07/ひぐらしのなく頃に製作委員会・創通

全部ではないが、普通の人が普通に喋っている言語だって何割かはきっぱりと嘘なわけである。一番わかりやすいところで言えば、そう、「アイラブユー」というのは嘘なわけである(笑)。たぶん同じ理由で「おはよう」「ありがとう」の類もたいていは嘘である。嘘でもいいからそう言え、というくらい、最初から嘘と決まった嘘である。これ嘘だからと言って嘘を言うとなぜか喜ばれる、言わなければ殺されるかもしれない文句としてこれ以上のものはなかなかない、かもしれない。

わたしはカントの域には遠く及ばないが、それでも嘘をつくのは苦手であるしキライな方である。つまり、刃物を手にした盗賊相手なら平気で嘘をつくはずだ──言う前に刺されているような気もするのだが・・・まあそれは詭弁だな──が、上のような「アイラブユー」はたぶん、たとえ殺されても言わないくらいのことであるはずである。カントはどちらも言わないし言えない人であったのだろう、だったら生涯未婚で過ごしたのは当然だと思う。そのかわり死ぬ間際には「これでよし」と言い切ることが、カントにはできたわけである。

どうしてわたしに後者が言えないのかははっきりしている。わたしは「心にもないこと」は言えない方なのである。だから前者なら平気で嘘をつくと言っても、見て来たような嘘はたぶんつけない。どうかするとうっかり「そこの戸棚の中に隠れてなんかいませんよ」などと、マンガじみたヘマをやらかすかもしれない。まあそれでも嘘はつける。「隠れている人をみすみす盗賊の手に渡すわけにはいかない」という「心」なら、そこには確かにあるだろうからである。

だったら相手を気遣う「心」があれば「おはよう」くらいは言えるだろうと言って、あれば確かに言えるだろうが、そんなもの金輪際ないから言えないのである。わたしが嘘でも「おはよう」と、口籠ることもなく言うことがあるとしたら、そこにいる他人が何らかの意味で自分である場合だけである。そうであったことが過去にあったかどうかは思い出せない。それほどめったにないことであるのは確かである。どうしてもできないが挨拶はしなければならないというので、一計を案じて真昼間から「こんばんわ」と挨拶していた時期がある。これはできた。理由はよくわからないがたぶん「ウケを狙う心」がそこにはあったのだ。しかし互いに学生だからできたことで、社会人の立場でできることではない。仕方がないから黙って一礼する。言葉にしなくてよければできるらしい。

哲学というよりは特異な内観心理学のようになってしまっているが、しばらく続けてみよう、というか、明日からはまたTHNの翻訳も再開したいところであるし、続きはあるかどうかは判らない。

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ババ抜き

2011年05月08日 | チラシの裏
一応下の記事(「・・・またろくに根回しもしないで」云々)の続きである。

わたしは法とか政治とかが基本的にキライだというところがある。念のため言うと、そういう自分を必ずしも肯定してはいないのである。できればそういう風ではありたくない、法とか政治とかいうのが結局は何だということを、それなりに見定めた上で嫌っていたい(笑)のだが、嘘つきゲームに実質を認めるということの基本がわからないわけである。

まったく同じ理由で「恋の駆け引き」の類も苦手であるしキライである。ワカモノだったころはそれなりに人づきあいがあったから、たとえば高校の部活とか大学のサークルとかに所属していれば、その内輪のあっちこっちでその手のゲームが進行しているのを、薄気味悪いと感じながら知らぬふりして見過ごしていたりした。

そんなもの自分には関係ないと思い決めてしまえばある意味で楽なことではある。特にわたしのような計算機屋は、つべこべ言っても自分が世界の実質と向き合っているという感じを持っている──当時のハナシだ──わけで、その実質に面白いところがあると思える限り、この世の別次元で繰り広げられている嘘つきゲームなどに参加したくもないし、しなくたって気にならないわけである。

あれこれ嘯きながらも、しかし内心では「問題はろくに儲からねえってことだわな、実質というのは」という風にも思うわけである。儲からないだけじゃない、というかそこに大きく関係していることなのだと思うが、自分のことを棚に上げて言えば、ああいう実質的な世界はツマンない奴が多いわけである。そりゃそうだろう、ふたこと目には「ごちゃごちゃ言ってないで手を動かせ、手を」とか言ってる世界が誰にとっても愉快なものであるのなら、この世界には貧困も戦争も生じるわけがないのである。第一に、そういう世界にはいわゆる「美人」の存在理由がない。理由がないから事実においてもほとんど存在しない。そんなものが理想か?冗談じゃない。

ヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」ということを言ったわけだが、そんなお上品そうな名前をつけるからいけないのだ、と思う。要は嘘つきなのである。体系的な虚偽の双対として張られる人間や制度の関係性の空間構造のことが本当は法とか政治とかいったものの本質だということである。ご丁寧にも、だからそれらについて社会科の教科書やら参考書やらに書いてある説明も全部、ひとつ残らず嘘なのである。

たとえば国会とかで議論なんて何ひとつしてやしない。彼らの言ってることは全部、それが事実であるかどうかは究極的にはどうでもいいことだという意味で嘘である。その嘘をババとしてババ抜きをやることが議論ということの本質なのである。だから変にもっともらしい、実質のありそうな主張よりは、「日本は天皇を中心とした神の国」だとか「浜岡原発の運転停止を要請する」だとかいうくらいのデタラメを並べてくれた方が、それは間違いなく忌避すべき嘘だからババ抜きがやりやすいわけである。

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「PV数5000倍」の意味するもの(4)

2011年05月03日 | チラシの裏
ある組織なり体系なりの性質や特徴を見定めようとするとき、例外的な事例に着目すること自体はおかしなことでも何でもない。たとえばわたしが仕事でやっている信号処理の分野では──この場合は信号処理というよりは符号処理だが──誤り訂正符号(ECC; error-correcting code)というのがある。現代のIT技術の要と言ってもいいくらいの重要な技術である。

これのアルゴリズムを評価したり、作ったプログラムが正常に動作しているかどうかを検証したりする場合、当然ながら訂正後の出力に含まれるごく少数の誤りに着目することになるわけである。場合によってそれは百万分の一とか千万分の一とか、そういうオーダーのごくわずかな誤り確率である。理論が千万分の一だというときにプログラムの出力した結果が百万分の一であった場合、つまり理論の十倍も誤りが多いということは、プログラムのどこかが間違っている可能性が高いわけである。

誤り確率がそれほど希薄である場合、複雑な(この手のプログラムは、コードそのものはさほど複雑ではないが、理論がひどく複雑なのだ)プログラムそれ自体をいくら眺め返しても間違い(バグ)を見つけられないということは、結構あるものだ。そういうときに検証実験の結果からバグをつきとめたことが、わたし自身何度もある。たとえば百万ビットのバッファがあって、そのうちの末尾の1ビットだけを実はクリアし忘れていたとする。そうすると出力の誤り確率はほぼきっかり二百万分の一だけ増えることになるわけである。バッファサイズはそれを作った人間なら覚えているわけで、ひょっとするとあそこかと思ってチェックすると、果たしてそこが間違っていたりするわけである。

ちなみに──この分野に詳しくないプログラマの人が上を読んだとすると、「バッファのクリアミスなら誤りは周期的に出るはずだ」と思うかもしれない。でもそうはいかない。信号処理とか符号処理とかはそこがややこしいわけで、バーストノイズの影響を最小化するためにデータをインターリーブ(「シャッフル」と言った方が判りやすいかもしれない)することが多いわけである。そうすると出力側の誤りもシャッフルされて、目で見てわかるような周期性はなくなってしまうのである。

以上はもちろん「機械」についての事例である。同じことをただちに、たとえば人間の社会とか、そういったものに適用することができないのは、言うまでもないことである。人間が自殺するのは社会や制度のバグによって自殺するわけではない。そもそも特定の社会構成のある特徴を「バグ」に、その中の個人の自殺を「誤り」に準えていいものかどうかも、そう簡単には言えないことである。言えたとしても機械におけるそれのように決定的な何事かとして言えることはまずない。何と言ってもそれは物質の体系ではなく、おおもとのところでは個々人の観念(主観)に由来する規則の体系だからである。

そうは言っても、わたしのような理科系の人間が、たとえば自殺率の増大に着目するというときには、大雑把に上のようなモデルをアタマの中で描いていたりすることは否めない。ただわたしの場合は生物学や複雑性の知識もあることで、人間の社会とか個人の観念(主観)といったものの構成は──それが「構成されたもの」であったとしてであるが──外側から解読するのに都合のいい形で構成されている保証はまったくない、つまり、ひとつの帰結に対して膨大な数の原因が存在しうるし、その膨大な数の原因の全体は、ほとんどどのような帰結でも可能性として内包している、ために普通の意味での因果的な解析がほとんど意味をなさない形で構成されているということが、いくらでもありうるということも、アタマの片隅にはいつも置かれているわけである。

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「PV数5000倍」の意味するもの(3)

2011年04月30日 | チラシの裏
しばらく間があいてしまったが、一応続きを。

人によっては、というかほとんどの人にとってはたぶん何とも思わないことなのだろうが、たまにblogのアクセスランキングの上位を眺めていると、わたしは溜息が出るわけである。震災の被災者とかを別にすれば、実のところほとんどの人にとっては今般の大震災も「すごい地震だった!」とか「どこのコンビニ行っても××がなくてムカつく」とか、ごく大雑把に言ってその程度のところで受け止められているわけである。

哲学とは現実について考えることだというのが、わたしの哲学についての一番簡単な定義だということになる。で、そうだとすれば哲学は上のようなことも事実として考えに入れなければならないのである。そしてこれが、専門的な哲学の多くについてわたしが抱く一番の不満である。専門の哲学者はそれなりに用心深い構えを持っていることは判っているが、それでも現実の社会や個人の振る舞いについて何か言ったりすることがあると、この種のことで何かしら錯誤を持っていない人はまずめったにいないわけである。ましてや哲学は二次的なことでしかない社会学者とか心理学者のような人達になると、実証的には絶対ありえなさそうなことを言ったりすることがあるわけである。

そこまでひどいのはめったにないが、極端な例で言えば、女子高生の援助交際がメディアで話題になったりすると、あたかも日本中の女子高生がみんな援助交際かそれに類したことをやっている、やっていなくてもそんな動機と願望を抱いているかのように語ってしまう人がいるわけである。そういうことを、ただ言ってみるだけならまだしも、かなり図に乗って言っている場合があって、それがつまらない統計実証主義の研究者とかから「××だというが、そんなこと統計的な裏付けも何もまったくない、ただの思い込みじゃないか」と指摘されると、反論にもならない屁理屈を並べてみせたり、あるいはまったく頬っ被りを決め込んだりしているのを見るにつけ、わたしはどうにも面白くないなと感じるわけである。

もちろんわたしも他人のことをことさらに挙げつらう気はない。このblogで時々やってる「自殺統計のはなし」というのも、基本的にはその種のことのひとつである。いまわが国では年間の自殺者が3万人超だと言ったって、それは日本の総人口の0.1%にも満たない、本当に例外的なごく少数例でしかないわけである。そんな少数例に着目して時代や社会の性質や特徴について何か考えたり、あるいは言ったりすることに、本当のところどれだけ意味があるのか、いやそもそも少しでも意味があるのかどうか、そうしたことにこれといって根拠は何もないわけである。最初からそれは承知の上なので件のシリーズには「机上の空社会学」というカテゴリ題をつけてあるわけだ。根拠があろうとなかろうとわたし自身が漠然とした関心を持っていること自体は嘘でも何でもない、本当のことだから、やること自体を咎められる理由はないわけである。

(つづく)

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「PV数5000倍」の意味するもの(2)

2011年04月26日 | チラシの裏
ベストセラーとべき乗則のハナシはさしあたってどうでもよいのである。話が変な方向に逸れてしまって、書こうと思っていたことを書きそびれていた。

少年ジャンプが毎週600万部も売れていたころ、「それでも日本の総人口のたった5%だぜ」という話を、よく友達としたものである。マンガ雑誌は回し読みもされるだろうから実際にはその倍の人数が見ているとしても10%である。一方で、たとえばその時の首相や政権がよっぽど嫌われていても、その支持率が10%を切ることなんかまずないのである。

何が言いたいかというと、哲学者はもちろん、文明国ではたいてい誰でも、また大なり小なり、人間の普遍的な性質とはこういうものだという考えを持っているものだが、普遍性ということはよほど気をつけていないと勘違いするぞ、ということである。

たとえば少年ジャンプの読者なら「好きか嫌いかは別として、人間なら誰でも『北斗の拳』は知っているはずだ」などと無意識に思い込んでいることがあったりするわけである。そう思っていたら実は家の母ちゃんですら知らなかったということが往々にしてあるのである。「毎週オレがテレビで見てるじゃないか、なんで知らないんだ」「いや、だって・・・何それ?」ネタは「北斗の拳」ではなかったが、小学生のころわたしは実際にそんなトンチンカンな会話を、母親としたことがある。わたしの方はそれくらい、アタマの中はマンガとテレビと野球のことしかなかったのである。

(つづく)

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「PV数5000倍」の意味するもの

2011年04月24日 | チラシの裏
なんだそんなにショックだったのか(笑)、とは思わないでいただきたいことである。一番人気のblogとこのblogとの間では、アクセス数にそのくらい規模の大差があること自体は、従来のアクセス解析からでもおおよそわかっていたことである。そうではなくて、ちょっと面白いことに気づいたのである。

わたしは昔売れないライターをやっていた時期があるわけである。で、そのころわたしが書いた本は、一番よく売れた本でも(何年もかかって)数万部、多くは数千部の初版刷り切り(増刷なし)であった。その数字は、その時代のベストセラーと比較すれば、部数にしてだいたい1/1000だったということになる。当時はバブルで、書店売上のランキング上位に並ぶベストセラーは軒並み百万部超、という時代であった。

なるほど、時代は変わってもオレの書くものは「数千分の1オーダー」であることに変わりはないわけであることだなあ、と思ったわけである。



出版業というのはつべこべ言っても水商売みたいなものだとはよく言われることである。ほとんどの本は営業が苦労してあちこち押し込んでやっと数千売れるか売れないかであったりする一方で、内容はもちろん見てくれだってそうした有象無象の駄本と大差はなさそうなのに、売れる本はなぜだか数百万部も売れてしまうことがあるわけである。

典型的なのは歌人の俵万智さんの「サラダ記念日」の出版にまつわるエピソードである。編集者はその本にぞっこん惚れ込んでしまって、編集会議で「1万!初刷1万行きましょう」とぶちあげたものであったらしい。途方もない数字である。当時はまったく無名の歌人の歌集である。詩集や何かとおんなじで、普通は千部も売れたら大喜びというものである、にもかかわらず初手から「1万部」と言ったのだから、その編集者がどれだけ惚れ込んでいたのかがよくわかる。編集長は肝を潰し「バカ言うなッ!1000部!」編集者も惚れた勢いで負けずに「5千!これ以上は譲りません!」編集長は気押されながらもすんでのところ踏み止まって「わ、わ、わ、わわ判った。よーし死んだ気になって3千でどうだッ!」で決着したらしい(笑)。

結局どうなったのかと言えば、「サラダ記念日」はその年最大のベストセラーの一冊になって、その年だけでも確か250万部以上、現在までの累計ではいったいどれだけ売れたか判らない凄まじいヒットになってしまったのである。フタを開けてみれば数百万部の大ベストセラーも、開けてみるまではみみっちい数字で押し問答をやっていたのだから、本の売れ行きなんてホントに判らないというか、結果にそんな途轍もない落差がありうることで会議する意味なんてあるのだろうか、という、当時業界ではよく知られたエピソードではあった。

ぞっこん惚れ込んだ編集者が狂気の沙汰でやっと「1万」と言ったものが、現実はそれがさらにン百万部に化けたりするのである。この世の現実とはいったいどんだけ狂気なんだと見るべきなのか、そうではなく、もともと編集者の見立てや思い入れなんぞには言うほどの意味なんてないのだと言うべきなのか、である。後者はつまり、本の売れ行きというのも地震や津波と同じ「べき乗則」にしたがう何かであって、本当は典型的な売れ行きの規模など存在しない、あると思ったらそれは幻想にすぎないのだという意味である。

(つづくのか?)

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うーむ

2011年04月23日 | チラシの裏
気温が上がってきたせいか、機嫌を損ねがちなわが家のPCの機嫌を直すためにいろいろ努力しているのだが、どうもいまひとつ機嫌がよくならない。詳しいことは書かないが、こう文章を打っている最中ですら時々固まる。

おかげで翻訳作業も滞りがちである。THN私訳の続きをうpするのはたぶん明日になるだろう、と、要はそれが言いたいのである(笑)。



THNの中身そのものはとても面白いのである。現象学とは少し違うが、多少いじればこれってそのまま現象学じゃないか、という印象が、読む前よりずっと強くなった。今日たまたま読んだ「哲学個人授業」でも鷲田センセイが似たようなことを言っていたし、これはかなり確かな話ではないだろうか。

現象学ならフッサールを読めばいいじゃないかと思うかもしれないが、ご存知の通りフッサールの著作は読んでるうちに嫌になってくるのである。あれは必ずしも翻訳が悪いというのではなくて、いろいろな人の評価から推測するに、どうも原文からしてそうであるらしいのだが、どっちにしても原文はドイツ語だから原典にあたって確かめるという気にもならない。英語だったら辞書首っぴきで1日1ページは読めるとしても、ドイツ語になると1日に数行訳せるかどうか、しかも訳文が訳になっているのかどうかの判断すら、たぶん自分ではつけられない。

自分が正気なのかそうでないのかも含めて全部自分で判断しなければならない素人哲学にとって、そういうのは致命傷である。だからフッサールを真面目に読むことは諦めている。そんなことでいいのかって?いいのである。最新の海外産のデバイスは高くて買えない、買えたとしても説明書の英語が満足に読めない(笑)中学生がどうやって計算機を、プログラムを自作するかといったら、手持ちの部品と知識を組み合わせてそれらしいものを拵えるのである。そしてそれは、誰にでも可能なのである。拵えたものは不具合やバカみたいな勘違いも含めてすべて自分の一部である。

そういうのを車輪の再発明といって嗤う人もいるが、素人が何かするときは何だって車輪の再発明から始めるので、それはむしろ必須のことなのである。それが嫌なら受験勉強でも何でもして専門家の道に進むだけである。それは、わたしは別にさんざんやって(やらされて)きた。その上で「二度とごめんだ!」という結論になったことである。わたしはわたしの結論に従うだけである。

・・・ってこんな無駄話を書いてる暇があったらやれ、だな。やろう。

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吉本隆明の「『反核』異論」が古本で29800円だと・・・?

2011年04月20日 | チラシの裏
吉本隆明『<反核>異論』http://amzn.to/ijJJiWはいま読まれるべき本であると思う。原発がなくなるものならなくなるべきだと思うものの、現在の反原発に違和感を感じる人には、29年前に考えてくれている人がいることが貴重だと思う。だが中古価格で29,800円なのだ。
(kmrtwit)

そいつはいかんな。ひどすぎるボッタクリだ。吉本自身はその本についてこう書いていることを考えてもだ。

きみが「アジア的ということ」をやっているあいだに、さまざまな批判が『「反核」異論』をめぐってあったよ。きみは読んでいないだろうがな。
そりゃあ、ほとんど読んでいない。読んだって仕方がないもん。予想外の視覚からの批判なんて、ありうるはずがない。あの『「反核」異論』は、十年くらいの射程があるつもりだから、十年もたったらまた読んでくれればいい。それまでは捨ててもいいし、しまっておいてもいい。そんときになって、古本屋のゾッキ棚から、二束三文で買ってくれてもいいよ。いまは読んでくれなくってもしょうがねえや。

(「情況への発言」/「試行 vol.62」1984年5月)

十年どころか、もう30年近くになるわけだが、今になって古本屋で買おうとしたら「二束三文」どころか二万九千八百円の値段がついているというのだからひどい話である。いっそのことヒューム先生の翻訳を休んで、いつも手元に置いてある「『反核』異論」を、この際だから全部手打ちで丸うpしてやろうかな・・・それはそれで古本屋が商売できなくて、これまたひどすぎる話か。なんか考えたいところだ。

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