「ウソップランド」というのは1980年代の中頃にやっていたテレ朝の深夜番組である。「子泣きジジイ」とか「松本小雪」とか、まあ、同世代で当時首都圏に住んでいた人なら覚えている人も多いのではないだろうか。あの番組をやっていたお笑い芸人のユニット「怪物ランド」の3人は今でもそれぞれの分野で活躍している。赤星昇一郎は戦隊ものから大河ドラマまで、テレビドラマでしょっちゅう見かける顔だし、郷田ほづみは主に声優として、平光琢也は音響監督として、あちこちのアニメ番組のスタッフロールに名前が出てくる(もっともわたしはここ数年テレビを見ていないのだが、調べた限り活躍していることに変わりはないようである)。
それでこの、もと怪物ランドの3人の名前のどれかを目にするたびに、どうしてかわたしが思い出すのは「ブリザード・プリンセス」である。といっても遊戯王カードのキャラのことではない。そんなものがあるとは、これを書くために検索して初めて知ったことだ(笑)。そうではなく、同じ時期に少年サンデーで連載していた鈴宮和由(わゆ)作のギャグマンガの題名である。どんなマンガだったのか詳しく説明はしないが、要はいまどきの、ロリキャラを主人公にした萌えアニメのようなギャグ・コメディを、いかにも(というか、かなり露骨に)1980年代の前半に流行だった絵柄で描いたマンガだったと言えば、だいたい合っているはずである。
今と違っているのは絵柄の標準だけだと言いたいわけだが、たぶん今のワカモノがあのマンガを読むことがあったとしたら、当時の連中はこんな絵に「萌え」を感じていたのかと思って呆れるのではないかという気がする。そうではないのである。現に当時は「萌え」なんて言葉はなかった。言葉はなくても概念や心情ならあったのか。わたしの記憶に関する限り、そういう心情も概念もなかったはずだということになる。わかりやすいところで言って、絵に描かれた美少女と現実の美少女を見比べて、前者の方が(美的に)いいなんてことは絶対にありえなかったということだ。そういう逆転が生じるようになったのは、わたしの記憶にある限り「早くて」1990年代も後半以降、基本的には今世紀に入ってからのことである。
つまり現在あるような、そのユーザがしばしば「惨事イラネ」と言い切るまでに発達した「萌え」文化というのは、完全に現在の日本のワカモノが作り出したものなのである。個々のマンガやアニメ作品の作者はそれよりずっと年上だったりするだろうが、特にこういう娯楽文化の場合、作者とユーザの関係は言わば生物体の形態形成機構と自然選択機構の関係に最もよく準えられると思う。生物体の形態とその機能をブツとして作り出しているのはあくまで生物体の分子化学機構だが、それを「まさにその形態や機能」に至らしめているものは、つまりその(生物学的な)意味の作者は自然選択機構の方なのである。分子化学機構の方は生物体それ自身を実体として括ることもできるわけだが、自然選択機構は文字通り機構であって、特定的な何かを実体として括ることができない。けれども実体として括れないからそれが存在しないということにはならないのは、生物進化もそうだし、「萌え」文化の発達もまたそうなのである。
熱を出して仕事を休んで、じっとして寝ているだけなのも辛いから思い出話をぽつぽつ書いていたら、何やらとんでもない方向へ話が飛躍してしまった。
それでこの、もと怪物ランドの3人の名前のどれかを目にするたびに、どうしてかわたしが思い出すのは「ブリザード・プリンセス」である。といっても遊戯王カードのキャラのことではない。そんなものがあるとは、これを書くために検索して初めて知ったことだ(笑)。そうではなく、同じ時期に少年サンデーで連載していた鈴宮和由(わゆ)作のギャグマンガの題名である。どんなマンガだったのか詳しく説明はしないが、要はいまどきの、ロリキャラを主人公にした萌えアニメのようなギャグ・コメディを、いかにも(というか、かなり露骨に)1980年代の前半に流行だった絵柄で描いたマンガだったと言えば、だいたい合っているはずである。
今と違っているのは絵柄の標準だけだと言いたいわけだが、たぶん今のワカモノがあのマンガを読むことがあったとしたら、当時の連中はこんな絵に「萌え」を感じていたのかと思って呆れるのではないかという気がする。そうではないのである。現に当時は「萌え」なんて言葉はなかった。言葉はなくても概念や心情ならあったのか。わたしの記憶に関する限り、そういう心情も概念もなかったはずだということになる。わかりやすいところで言って、絵に描かれた美少女と現実の美少女を見比べて、前者の方が(美的に)いいなんてことは絶対にありえなかったということだ。そういう逆転が生じるようになったのは、わたしの記憶にある限り「早くて」1990年代も後半以降、基本的には今世紀に入ってからのことである。
つまり現在あるような、そのユーザがしばしば「惨事イラネ」と言い切るまでに発達した「萌え」文化というのは、完全に現在の日本のワカモノが作り出したものなのである。個々のマンガやアニメ作品の作者はそれよりずっと年上だったりするだろうが、特にこういう娯楽文化の場合、作者とユーザの関係は言わば生物体の形態形成機構と自然選択機構の関係に最もよく準えられると思う。生物体の形態とその機能をブツとして作り出しているのはあくまで生物体の分子化学機構だが、それを「まさにその形態や機能」に至らしめているものは、つまりその(生物学的な)意味の作者は自然選択機構の方なのである。分子化学機構の方は生物体それ自身を実体として括ることもできるわけだが、自然選択機構は文字通り機構であって、特定的な何かを実体として括ることができない。けれども実体として括れないからそれが存在しないということにはならないのは、生物進化もそうだし、「萌え」文化の発達もまたそうなのである。
熱を出して仕事を休んで、じっとして寝ているだけなのも辛いから思い出話をぽつぽつ書いていたら、何やらとんでもない方向へ話が飛躍してしまった。