goo blog サービス終了のお知らせ 

惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ウソップランドとブリザード・プリンセス

2010年12月09日 | わけの判らぬことを云う
「ウソップランド」というのは1980年代の中頃にやっていたテレ朝の深夜番組である。「子泣きジジイ」とか「松本小雪」とか、まあ、同世代で当時首都圏に住んでいた人なら覚えている人も多いのではないだろうか。あの番組をやっていたお笑い芸人のユニット「怪物ランド」の3人は今でもそれぞれの分野で活躍している。赤星昇一郎は戦隊ものから大河ドラマまで、テレビドラマでしょっちゅう見かける顔だし、郷田ほづみは主に声優として、平光琢也は音響監督として、あちこちのアニメ番組のスタッフロールに名前が出てくる(もっともわたしはここ数年テレビを見ていないのだが、調べた限り活躍していることに変わりはないようである)。

それでこの、もと怪物ランドの3人の名前のどれかを目にするたびに、どうしてかわたしが思い出すのは「ブリザード・プリンセス」である。といっても遊戯王カードのキャラのことではない。そんなものがあるとは、これを書くために検索して初めて知ったことだ(笑)。そうではなく、同じ時期に少年サンデーで連載していた鈴宮和由(わゆ)作のギャグマンガの題名である。どんなマンガだったのか詳しく説明はしないが、要はいまどきの、ロリキャラを主人公にした萌えアニメのようなギャグ・コメディを、いかにも(というか、かなり露骨に)1980年代の前半に流行だった絵柄で描いたマンガだったと言えば、だいたい合っているはずである。

今と違っているのは絵柄の標準だけだと言いたいわけだが、たぶん今のワカモノがあのマンガを読むことがあったとしたら、当時の連中はこんな絵に「萌え」を感じていたのかと思って呆れるのではないかという気がする。そうではないのである。現に当時は「萌え」なんて言葉はなかった。言葉はなくても概念や心情ならあったのか。わたしの記憶に関する限り、そういう心情も概念もなかったはずだということになる。わかりやすいところで言って、絵に描かれた美少女と現実の美少女を見比べて、前者の方が(美的に)いいなんてことは絶対にありえなかったということだ。そういう逆転が生じるようになったのは、わたしの記憶にある限り「早くて」1990年代も後半以降、基本的には今世紀に入ってからのことである。

つまり現在あるような、そのユーザがしばしば「惨事イラネ」と言い切るまでに発達した「萌え」文化というのは、完全に現在の日本のワカモノが作り出したものなのである。個々のマンガやアニメ作品の作者はそれよりずっと年上だったりするだろうが、特にこういう娯楽文化の場合、作者とユーザの関係は言わば生物体の形態形成機構と自然選択機構の関係に最もよく準えられると思う。生物体の形態とその機能をブツとして作り出しているのはあくまで生物体の分子化学機構だが、それを「まさにその形態や機能」に至らしめているものは、つまりその(生物学的な)意味の作者は自然選択機構の方なのである。分子化学機構の方は生物体それ自身を実体として括ることもできるわけだが、自然選択機構は文字通り機構であって、特定的な何かを実体として括ることができない。けれども実体として括れないからそれが存在しないということにはならないのは、生物進化もそうだし、「萌え」文化の発達もまたそうなのである。

熱を出して仕事を休んで、じっとして寝ているだけなのも辛いから思い出話をぽつぽつ書いていたら、何やらとんでもない方向へ話が飛躍してしまった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「誰も言わないことを言う」(2)

2010年11月30日 | わけの判らぬことを云う
「誰も言わないことを言う」というのは、ある意味では、普通に創作することだと言えば言える。

創作は難しいことのようでそれほど難しいことではない。いや全然難しくないわけである。なまじ模倣するよりはずっと易しいことだというのは確かである。実際、創作は3歳のコドモにでもできる。ああいう時期にはむしろ何をやっても創作にしかならない(笑)。絵なら絵を描いている本人にしか意味をつけられない、他人が見ればどうせ幼稚なラクガキである。

けれどもその幼稚なラクガキが、描いた本人にとってだけは固有の意味を持っているわけである。それがなかったら描かないのである。

そうは言っても絵を描くだけならチンパンジーでも描くわけである。もっともああいうのは本当に絵を描いているのか、本当はクレヨンを握って画用紙の上で手を動かしているとバナナが出てくる(笑)から動かしているだけではないかという気が、いつもするのだが、そうと証明することもできない話だから何とも言えない。

はっきりしているのは、チンパンジーが自分を持っていないと仮定すれば、言葉を使ってそれをすることは決してないだろうということである。絵を描くということは単に何かを祝福することでありえて、それはチンパンジーならバナナであるわけだ(笑)が、言葉はそんなわけに行かないからである。

言葉はその「意味」という不思議な何かを帯びている。あるものが何かの属性を帯びているということは珍しくもないことだが、言葉の意味はただ言葉に付随してあるだけではなく、それを付随させた当人を拘束するというわけのわからないものである。

存在しないものを拘束することはできないから、言葉に意味を認めるということは、音素や記号の並びにそれを付随させた何かが存在することを裏書きしている。

その何かのことは、たとえば17世紀の哲学者マルブランシュは(もっぱら視覚についてであるが)神様のことだと考えた。現代の我々なら普通それは「自分」のことだと思うわけである。マルブランシュの言うようにそれが神様のことだとすると、神様というのはひどく幼稚でふざけた奴だということになってしまう(笑)。誰がどう考えたって、その言葉に意味を付随させるものとしての「何か」の姿は自分自身に一番似ているわけである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「誰も言わないことを言う」

2010年11月29日 | わけの判らぬことを云う
「人生のある人ない人」シリーズの派生としてこんなものを書いてみたくなった。

人生がないのでそのかわりに自分を持って生きるというのが何をどんな風にすることなのか、そのちょっとした神秘哲学入門である。神秘哲学というのはこの場合、思弁だけではなく「実践」「修行」がどうしても必要になる領域、というほどの意味である。

言い換えれば、本当はわたし以外の誰がやっても無意味なことである。

で、まずはこの題名の通りのことから。誰も言っていなさそうなことなら何だっていいのである。よくよく調べてみると実は誰かがすでに言っていた、ということは何にだってありうるのだが、本当によくよく調べないと判らない、悪意の他人──他人と社会はいつも悪意だ──が執念深く探さないと見つからないという程度なら可としよう。

とはいえ「1+1=3」という程度ではまるで駄目だ、ということは言うまでもない。そんなのは昔っから世界中で算数できないバカがたくさん言っていることにすぎない。しかもそれは、いちいち調べてみなくてもなぜか(なぜだろう?)明らかなことである。

この「誰も言わない」というのは過去から現在までに限らない。どんなに遠い未来であれ、いずれ自分以外の誰かが言いそうなことは言ってはならない。全人類の全歴史の中で自分だけが言うはずのことだと確信できることだけを言わなくてはいけない。

やってみればなかなか難しいことだというのがすぐにわかる。けれども肝心なのはそれではなくて、世の中で他人が喋ったり書いたりしているようなことのほとんど全部は過去現在未来の誰かが言っている、あるいは言いそうなことの、退屈でぞっとする反復にすぎない、ということを知ることの方にある。

昔だったら身近な他人やテレビのニュースキャスターやコメンテータくらいしか実例を見ることはできなかった。今であればインターネット越しにたくさん実例を見ることができる。ほとんど誰もが誰かの喋ったことを録音して再生しているかのように喋っているだけである。

そういう意味では、人間が喋る言語という意味での自然言語には、実は、一般的に言ってまったく情報が含まれていない。情報は言語が形式言語(機械言語)である部分にだけ存在しうる。

寓話的に言えばこうだ。原始人が野獣に追われて後ろを指差しながら「野獣だ!逃げろ!」という。そんなこと言われなくたって見りゃ判るじゃねえか(笑)。

言わなくても判るはずのことをわざわざ言う、言ってしまう、言わずにおれないということが自然言語の謎であり本質である。

自然言語の本質は伝達ではない。伝達するのは形式言語の部分だけ、つまり人間が機械であるような部分だけだ。では自然言語は何をしているのかと言うと、それは誰にも判らないのである。つまり言葉の本来の意味におけるオカルトである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

見合い結婚

2010年08月29日 | わけの判らぬことを云う
児童虐待なんかも含めたDV関連のニュースに接しているうちにふと思えてきたのは、いわゆる「見合い結婚」というのは、こうしたことを抑止ないし制御(どっちにしても英語はcontrol)する装置だったのではないかということだ。

DVが厄介なのは、根本的にはそれが家庭内の、つまり私秘的な領域にある行為だということである。DVの疑いがあったら直ちにケーサツが介入すればいい、などというのが暴論にしかならないゆえんだ。公的な領域が公的な領域として成立する根拠のひとつは、昔風に言えば本領安堵、いまで言えば私秘的な領域の保護ということにある。だから、公的領域が私秘的領域に無造作に介入することを許すことは、究極的には公的領域そのものの存立根拠を否定することになってしまう。

一方でDVの問題が露わにしていることは、現代的な家族、つまり夫婦間の愛情に基づいて営まれる核家族というものが、マクロに見ればきわめて不安定で脆いものだということにほかならない。いったんギクシャクしだすと歯止めをかけるものが実は何もないので、どんな凶悪なことでも起きてしまうということである。

そうは言っても核家族というのは人間存在にとって生の意味の基底をなすものだ。人間は単独で自由な意識を持つとは言っても、この意味での自由は生きることの意味を構成するものではないように思える。自由はむしろ生きるということそれ自体である。生きているものが存在しなければその意味ということもありえないので自由は最も大切だが、だからと言って、それだけではニッチもサッチもいかないということもまた確かなのである。

そういうわけで、安定であろうとなかろうと人間は核家族を本源として各々の生きる意味を創出しはじめるのだが、これはどうも、それ自体としては本当に脆くて不安定でどうしようもないのである。人類の歴史は、だから、次第に核家族の外側に、それと肌着のように接するような制御装置を作り出すようになって行ったのかもしれない。それが最も原始的な(とはこの場合、基礎的なという意味であって、野蛮なという意味ではない)共同体だったのではないだろうか。

重要なことは、この図式の中には文明の進歩とか物質的な豊かさといったものを保証するものは何もないということである。安定と言えば聞こえはいいが、その最も容易な(ということは、たいていそうなるということだが)実現は貧困とか蒙昧といったものなのである。

現代文明は、だから、原始的な共同体を破壊する作用を持つ一方で、人間を貧困や蒙昧から解放するものでもあるわけである。そしてその文明の進歩が永続的であるように思える間は、核家族は準安定とでも呼べるような状態を維持することができるようなのだ(わが国では1960年代から1980年代末までの約30年間がそうだった)が、いったん文明が停滞に晒されると、その認識の広がりに伴って社会全体が毒化して行くのである。

・・・以上は、いましがたまで居眠りしていた間に考えていたらしい(寝ていた間に何をどう考えたのかは本人にもわからない)ことを漫然と書き綴ったものである。とりたてて実証的な根拠があって書いたものではないことを断っておく。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

美人は存在しない──あるいは別の直観主義

2010年07月24日 | わけの判らぬことを云う
この一文は「わけの判らぬことを云う」カテゴリに入れてある、ということにまずは注意してもらいたい。書いてる本人が「わけの判らぬこと」だと思って書いているのだから、本気で読まれては困るのである。

題名は今日の午後なんとなく浮かんできた字句のそのままである。美人は存在しない。美は醜の不在として導出される概念にすぎない、ということである。別にどうってことではない。「悪とは善の不在のことである」というキリスト教神学のようなものの裏返しである。

コドモの頃から不思議だったことのひとつは、同じ架空の世界でも地獄は極めて具体的に語られるのに、天国とか極楽とかいった世界はなぜ同じように具体的には語られないのか、ということだった。せいぜいのところ「酒はうまいしネエちゃんはキレイだ」という(作者は死んだが、わたしは今なお大好きな)歌の文句があるだけだ。地獄の描写がディテールに富んでいるのに比べると、天国の描写はいかにも空疎でディテールに欠けることが圧倒的に多いのである。ひとくちに「善悪」と対称的に併記されるふたつの世界でありながら、描写におけるこの非対称性は何なのだろう。

そうだ。要するに美人は存在しないのだ。それはブスの否定、つまり可能なブスのすべてを含む集合の補集合として形式的に導出できるだけの概念にすぎない。ある存在概念の否定が別の存在概念であることは一般に保証されないという意味で美人は存在しない。

けれどもそれは文字通り「ない」のだろうか。たぶん、そうではなく「ある(il y a)」のではないだろうか。

どうして唐突にレヴィナスが出てくるのか。仕事中に──プログラムを書きながら──こんなことを同時に考えているのだから思考は自然と奔逸してしまうというだけだ。以前も書いたことだがプログラマにとってイリヤとはヌルポインタのことだから日常お馴染みなのだ。・・・統合失調ではないつもりだが、なんとなくそれに近い精神状態のようである。

存在概念の否定が別の存在概念になるとは限らない、ということはこの場合の「否定」演算はどこかしら直観主義論理のそれに似ていることになる。定義域を逸脱するので二重否定が禁則されることになるからである。しかし記憶に残っている限り直観主義論理の解釈としてそんなのは知らない。ブラウアー流とは別のものなのか、別物のようで実は等価なのか、うーむ判らん、非古典論理の文献は博士課程のころ少し読みかじったことがあるだけで、もう十年も読んでねえしなあ、というわけで家に帰ってきてからちょっと調べてみたがやっぱり判らん。

こういうキテレツな論理も含めてありそうな論理を集大成した参考文献がないかしらと思って探してみるが見当たらない。仕方がないから「わけのわからぬことを」書いてしまえとばかり書いておくことにした。

こういうわけの判らないことを、ただの気まぐれな思いつきからでも何でも、思いついたらわざわざ考えてみることがある(ついでに「チラシの裏」にメモしておく)現時点での理由はひとつだ。人間存在にとって経験的な世界は(ひいては制度や権力の存在する社会的世界は)物理的な決定論の世界との間には埋めることのできないスキマ(gap)が存在する、つまり論理的に還元不能な、自由意志が存在するような世界である。この世界を記述する論理はどのように構成されるのか、それが現時点でのわたしの最大の関心事で、さしあたり他に参照すべきものが見当たらないからである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

補足(+さらに追加)

2010年05月06日 | わけの判らぬことを云う
さっきの「雑感」で「人生と人生哲学に興味はない」と書いたのは、それはその通りに思っていることだが、ほんの数日前に色川武大の「うらおもて人生録」を紹介しつつこれを絶賛していることとひどく矛盾するではないかと思う人がいるかもしれない。

人生ということを人が生まれてから死ぬまでのこと、特に「棺を覆いて事定まる」という意味で誕生と死が、つまり境界条件が最も規定するような何かだとすると、普通に専門の哲学者達が言う通り、わたしもそれは哲学の対象にはならないと思っている。同じ「雑感」の中で書いたように、現象的な世界には「わたしが存在する」という命題が含まれる、つまりその世界にはわたしがいるのだが、生まれたり死んだりすることはその「わたし」の属性であるとは、一般には見なさないのである。

それじゃあまるで哲学は自分のことを不老不死か何かのように考えるということなのか、それはバカ気ているのではないかと思うかもしれないが、わたしは少しもバカ気たことだとは思っていない。その人にとってその人自身の死はいつでも「きのふけふとはおもはざりしを」のことだと思える。在原業平のようなリア充の例を引くのはいかがなものかという気もしなくはないが、むしろリア充でさえそんなものだと言うべきではなかろうか。

だからもし人生哲学が哲学として成り立つとすると、それは現象的な世界の命題クラスに加えてさらに超(super)な命題を、ひとつないしそれ以上導入し、ほとんどいたるところ整合的な論理を創出した上で初めて成り立つ(記述できる)ような世界についての、いわば超(super)哲学になるはずである。そして、そうした命題やそれを含む世界について、わたしは論じるところを持っていない。なんで持ってないんだとか言われても、持っていないものは仕方がないのである。

以上は別に「わけの判らぬ」ことだと思って書いてはいない。哲学としてはごく普通の議論であると思う。が、補足する先の文章をそっちのカテゴリに入れてしまっているわけで、したがってこれも併せて入れておく。



↑まで書いて寝オチしてしまって、肝心なことを書いていなかった。そういう風に考えているわたしにとっても「うらおもて人生録」は強く訴えてくるものがあったということだ。色川武大は作家であって哲学者ではないし、題材も題材だから厳密に仕分けして書いてはいない(またそうする理由もない)が、この人もまた(たぶん科学者のそれとは違う根拠から)自らの思考・態度・行為の中に超(super)命題的なものを持ち込まないことにおいて徹底していた人だとわたしには思える。

たとえば、色川武大/阿佐田哲也が自身の方法を語ってみせるときのキーワードである「フォーム」とか「セオリー」というのは、科学者が言う場合の形式や理論とはまったく違う。わたしなどが別の説明を与えるのはおこがましい気もするのだが、あえてやってみれば、それは「『わたしが存在する』という命題を本質的に(抜き差しならない形で)含み込んだ」形式であり理論なのだ。そんなのは誰だってそう考えていそうなことじゃないかと思うかもしれないが、決してそうではない、というのも普通の人は年齢とともにこうした形式や理論を保つことが難しくなって、どこかで必ず超(super)命題の方に折れて行くものである。桜井章一のような凄い人にさえそれはあって、氏の場合は「天然自然」がそうなのだと思える。

だから(桜井氏が)間違っているというのではない。普通に誰でもそうなることを間違いだという習慣はわたしにはない。そうではなくて、色川武大の人生談義(と見えるもの)は最後までそれを拒絶するところに不滅の特徴があるのである。よく言えば不撓不屈、悪く言えば「イイ齢こいて性懲りもなく」ということである。ただその拒絶があるかわり、色川武大はそれを自前の「フォーム」や「セオリー」にまで練り上げることを忘れない。そうでなければただ我を張るだけ(哲学で言うなら独我論的)のことになって、それでは、たとえばギャンブルの厳しい場面では絶対に勝てないし生き延びることもできないからである。作家であれ勤め人であれ、我ならざるものの気配を繰り込まないで動き回れば、速やかにしてやられることになるだろう。

色川武大が世の進歩主義的な風潮に向かって「物事というものは、進歩、変革、そういうことが原因して、破滅に達するんだ」などのことを言う場合、仮にそれが何かの超(super)命題から導かれていたとしたら、こんな下らない言い草はないということにしかならない。なぜならそうした超(super)命題の場所からものを言えば、それは必ず、今風の言い方でいう「上から目線」のことにしかならないからだ。けれども色川の文章を読んで我々がそうした要素を(ほとんど)感じないのは、それが彼の「フォーム」や「セオリー」から必然的に帰結する、彼ひとりを除いた現象世界の残余の照り返しとして書かれているからである。

「現象世界から自分ひとりを除いた残余」とはつまり、もとの物理世界だが、現象世界の構造(哲学)は保ったままで語られる照り返しとしての物理的現実、しばしばその苛烈さの記述、つまりはそれが色川武大/阿佐田哲也が独自に編み出した「科学」の記述なのである。あるいは、その人が死んだら一緒に死んでしまうものを多々含んでいたに違いないという意味では「思想」と呼んでいいものだと思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雑感

2010年05月05日 | わけの判らぬことを云う
わたしが何しに自由意志にこだわっているのかというのは過去に何度か書いたような気がする。こだわっているだけで、本当のところ考察は一向に前へ進まないから、同題のカテゴリはちっともカウントが増えてくれないわけだが、こだわっていることを表明・表示し続けることにはたぶん意味があると思っている。

心の哲学とかいって、本当のところ専門家は匙を投げているという話も聞こえてくる。そりゃあ、「志向性を自然化する」とか頓珍漢なこと言って脳科学みたいなブラックホールに片足突っ込むようなことをやっていれば、それは早晩匙を投げるよりほかなくなって当然だろ、なんて、失礼なこと言っちゃいけない。専門家には専門家の事情ってものがあるわけだ。予算とか。学術雑誌に論文ひとつ投稿するのも、国際学会みたいなものに出席するのも、タダでできることじゃない。

素人哲学が専門家の著作から学ぶのはいいとして、その集団的組織的な動向などに振り回されるべきではないだろう、ということだ。そんなことには頓着しないで自分の関心に向かうべきである。そうでないと、いずれ哲学と人事異動の区別もつかなくなってしまうだろう。それを狂気とは呼ばないだろうが、別の種類のデンパではある。

専門の哲学者やその随伴現象みたいな輩の中には「人生哲学なんていうのは哲学とは何の関係もないのだ」みたいなことを臆面もなく口にしたり、著書の上で書いたりするのが時々いる。わたし自身は人生にも人生哲学にも興味がないから、そういう人々をここで擁護しようとも思わないが、しかし予算のためなら脳科学や応用倫理のルイセンコには阿ってはばからない「哲学人生」のごときが概念のヨッパライじみた「人生哲学」の大群に向かって知的な優位を主張するのは、滑稽な図だとは言わないか。



何度も書いていることの繰り返しにしかならないが、自由意志について少し書いてみる。サール先生のやり方はひとつのうまい方法だと言えなくもない。何のことはない、自由意志はスキマ(gap)の中にあるので、そのスキマ(gap)は何だかわからないがとにかくあるというだけのものなのだから、つまりまあ、何もわからんと言っているのに等しいわけである。しかし、物理でもニュートリノに質量がないのと、たとえほんのわずかでもあるのとでは、標準理論の構成にとっては根本的な違いとなってあらわれるわけである。それを最終的に「とにかく小さいけれどニュートリノに質量はある、それはゼロではありえない」ということを実験的に証明した日本の物理学者はノーベル賞を頂戴した。サール先生の合理性論もそれに似ていて、スキマ(gap)が具体的に何であるか、そんなことは一向に知らないのだが、とにかくそれがなければ人間の行為が合理的かそうでないかということはそもそも意味を持たなくなるのだと言っている。それは、実にその通りなのである。

機械は物理法則で動作する。それはたとえば化学や生物学といった異なる記述の次元を持つかもしれないが、とにかく一番根底のところでは物理法則で動いていて、これは決定論的なのである。だから機械の動作が合理的かそうでないかということは論ずる意味がない。その機械が人間の使う道具であって、その目的を満たさないということならありうるが、それは人間の側の都合であって機械の動作が合理的でないということを意味しない。機械(機能)としての計算機プログラムはどんな場合でも正しく動作する。バグであるようなコードを実行すれば滅茶苦茶な結果が生じることを含めてそれは機械(機能)として正しい動作である。これは、すべての計算機プログラマが真っ先に学ぶ(本で学ぶか、実地で学ぶかは、人それぞれだが)ことである。

わたしの考えでは、というかスキマ(gap)という考えを受け入れる限りたいてい誰でもそう考えるだろうと思えることだが、こうしたスキマ(gap)は物理的な世界を現象的な(別に「哲学的な」と言ってもいいような気がするのだが)世界に座標変換する際に必然的に生じるであろう不整合と、何かの関連は持っているはずである。以前書いたことを繰り返すと、現象的な世界というのは要するに物理的な世界と呼ぶべき命題の集合に、それには属さない、少なくともひとつの命題を本質的な(つまり、それがなかったら論じている当のものにはなりえない)命題として含めた世界の同型である。そのひとつの命題とは「わたしが存在する」である。物理的な世界にそんな命題は存在しないしありえない。仮に無理矢理突っ込んだら物理が体系としてたちまち壊れてしまうような命題である。けれどもそうした現象的な世界を、我々は自分の意識として持っている。哲学というのはだから、その途方もなく無理な命題ひとつを本質として含んでいる世界が、論理的にはどのようにして整合的に変換されうるのかということの、意識それ自体による反省的な試みであるということができる。



もちろんこうした考え方が哲学としては邪道であることくらいはわかっている(だから本当はサール先生の「基本的な事実」というやつも、サール先生が幾多の実績を挙げてきた偉い学者でなかったら、邪道だ何だとやかましく批判されてしまうはずのことである)。追加したひとつはまだいいとして、物理的な世界などという巨大な命題のクラスをまるごと、ほとんど何の躊躇いもなくアプリオリに認めてしまうと言っているのも同じことだからである。

わたしにはサールのような業績の重しはないかわり、もともとサイエンスの人間だからと言って開き直る資格くらいはあるわけなのだ。「貴様らは物理を愛しているか?」「生涯忠誠!(以下略)」な世界の住人だということだ。それを疑ってはいけないということではないとしても、それを疑うよりももっと先に疑うべき、解明すべきことがこの世界と自分にはあると思っている。

わたしは、物理的現実の実在についての科学哲学による懐疑論というのは、停止判定不能な計算機プログラムの構成を具体的に研究するというのと同じで、あまり意味のない議論ではないかと思っている。いかにもチューリングの定理からそのようなプログラムは存在して、有限のKolmogolov-Chaitin情報量を──つまり記述の有限な「長さ」を──持つ。だがそんなものを具体的に構成してみせたところで何か面白いことがあるだろうか?もちろんそれは「あるかもしれない」。絶対にないという証明は不可能である。けれども科学者に向かって「じゃお前やる?」と訊ねたら100人中100人が首を横に振るだろう。そう訓練されてもいるわけだが、根拠のないことでもない。それよりも先に解明すべきことが自然科学の領域にはたくさんあるからである。



・・・なんか苦心して書いた割には内容が全然ない。わたしの気持ちはすでに明日の仕事の方に向いていて、つまり、ひどく憂鬱なのかもしれない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

5月病記念(追)

2010年05月05日 | わけの判らぬことを云う
博士課程の終わり頃に「伝達(コミュニケーション)とは結局のところ権力の単位作用なのではないか」というようなことを考えていたことがある。ある意味では今でもそう思っている。当時とは多少変化したところがあるとすれば、普遍的にそうかどうかは判らないと思うようになっているだけである。

そもそも、そういうことを考えた理由が、数日前に書いた「コミュニケーション能力」なる語を初めて耳にして、こんな気持ちの悪い言葉があるのかと思ったのがきっかけだった。伝達は機能であって能力などではない、が、そういう錯覚が錯覚としては成り立つとしたら、それはその錯覚の主が、伝達という行為そのものを力関係の表示だと見なしている、ということを意味しているのではないだろうか。

バカバカしい。そんなんだったら俺はもう他人と会話なんかしたくもない、金輪際お断りだな、などと思いかけてふと、ひょっとするとワカモノの間で起きているのは実際にそういうことであるのかもしれないという気がした。

今のワカモノでなくても昔から、物事を何でも当事者間の力関係ということに還元して考えたがる人はいたものだ。

フーコーの権力論を社会構築主義的に極端にすると、だいたいそれと同じような汎権力論ができあがる。とはいえここで言ってるのはそんなアカデミックな話ではない。清水義範の昔の小説に、物理法則でも何でも身近な人間どうしの力関係の問題に還元して説明してしまう小父さん、という設定のキャラが出てきて笑ったことがある。思いっきりマンガ的に誇張すれば実際そんなこと言い出しかねない人がいるわけである。

ある意味ではそうすることで、たいていの物事を相対的に単純ですっきりした図式の上に並べて整理することができるからだ。打算的な人が何でも金額に換算して考えたがるのと同じことである。いずれにしても限定された状況のもとでは適切な整理の仕方だということはありえて、だから必ずしも間違った考え方ではない。

話がおかしくなるのは、その方がわかりやすいはずだから後者で言えば、どこぞの企業家みたいに「この世に金で買えないものなんてない」と言い出してしまった場合だ。金銭価値というのは全順序集合(線形順序集合)だから、そういう言い分はつまり、この世の中は金銭価値の一筆書きで充填的に記述できる(そのような同相写像が存在する)と主張することに等しい。だがそうだとしたら人間が分節的な言語を持つ必然性もまた、究極的には存在しないということになるだろう。こう、ほんのちょっと理屈を捻っただけでもそれが成り立たないであろうことはほぼ明らかである。

これに比べると物事を力関係に還元したがるアプローチが普遍妥当でない理由を示すのはもう少し厄介である。力関係は一般に線形順序にはならない、最も単純な場合でも階層的な(有向)木構造だし、一般的に言えば大小の閉路を内包する(有向)グラフの構造だということになる。それゆえ分析は困難になるかわり、金銭価値の一筆書きに還元された世界観よりはよほど現実に沿った描写が得られる。少なくとも言語的秩序(の形式的な閉部分空間)はそこに包含されるだろう。

それが普遍妥当でない理由はたぶん全然別の方角から示される。つまり現実をグラフ構造と見なすことは現実に対して実際あるよりも強い位相を考えるということになる。現実には分離不能な2点を分離してしまう、つまり、現実にはありもしない力関係があるかのように見なすということになる。異なる2点が互いに孤立しておらず、かつ、その間にいかなる辺も路も存在しないというのは、グラフ構造ではモデル化できない、モデル化したとすればそこで破綻してしまうことを意味している。

そう説明すれば普遍妥当でないこと自体は簡単に示せるわけだが、問題はそうすると「じゃ何なのだ」ということが残ってしまうことにある。現実世界は日常スケールの物理で時空間をそう見なすような連続体ではない。とするとそれはグラフ構造としてモデル化すべきものだということを、とりあえずは誰もが考えるわけだが、そうではない、それは必ず破綻するということになると、本当のところ代案がないように思えるのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「生物学の存在論的基礎」

2010年04月24日 | わけの判らぬことを云う
別に題名の内容をここで考察しようというのではない。だからカギカッコをつけてある。そうではなくて、なんでさっきのような話(哲学と科学)を唐突に書いたのか、その理由を思い出したのだ。MSWのあとがきを訳していたら「たとえばお金やその他のブツ(instruments)を、あたかも物理化学生物学で研究されている自然現象であるかのように扱うことは誤りである」という素晴らしい一文に出くわして感激したわけだが、感激する一方で「そうは言うけど生物学は」というツッコミも入れてみたくなったというわけである。

物理や化学で原子や分子の存在論的基礎が問われることはまずないと言っていい。大雑把に言って問うも愚かなことに属している。しかし生物学における諸概念については今もって存在論的基礎が問われなければならないところがあるわけである。そんなに特別なことではなく、たとえば生物個体とは何のことだと問われて明確にその定義を言える生物学者はいないのである。優れた生物学者になるほどそうである、というのも、この世界の生物的な自然においては、既存の個体概念を怪しく思わせるような生物的存在が確かにあるし、しかもそれは少しも珍しくはなく、ごくありふれてあるように思われるからである。どうってことはない、自分自身のことを虚心坦懐に生物的な自然の存在だと思って眺めてみればいいだけである。

つまりサール先生が社会科学について言ったことのたいがいは生物学にも当てはまるのである。ただ生物学は自分のことをどちらかと言えば科学だと思っているし思いたがってもいるので、かの「労働組合の社会学者」のように哲学など無用だなどとは必ずしも言わないだけである。自然科学ならわざわざそんなこと言う必要もない、わざわざ言うのは科学としての自信がない証拠である(笑)。

今は生物学というとまず分子生物学のことを思う人が多くなったからハナシが見えにくくなっているところもある。生物学ということを、主として有機化合物で構成された自然機械の形態と機能の体系的研究だと割り切ってやっている領域は確かにあるし、分子生物学はその典型である。生物とは、いやもっと普通の人の感覚に寄せて言えば「生き物とは」そんなものではないということを、生気論を参照せずに言うことは困難である。生気論が結局のところオカルトに帰着することは疑えない、つまり生気論を参照して言うのは単に主流の見解に楯突くのに都合がいいから援用するというだけで、そうあるべき知性の用い方ではない、が、そうは言っても、自分の身体もそうであるはずの生物体一般をただの機械と見なすことにはどこか根本的なところで抵抗感がある。単に心情的な反発があるというばかりではなく、科学的な研究の経験的にもそうなのである。何か肝心なことが抜けているのだが、それが何であるのかよくわからない、ということでわたしなどは複雑性の研究に赴いたところが確かにあったと思う。わたしにとっては20代の読書で、若気の至りの一部にすぎなかったフーコーの「言葉と物」が、生化学者の書いた複雑性の基礎論的な論文の中で大真面目に参照され論じられているのを発見して驚いたことがある。確かに同じ問題意識がそのあたりにはあったのである。

要するに「存在論」とはどういう意味の言葉なのか、それを判りやすく言ってくれるものが20年前にあったとしたら、わたしはあんな風に苦労しなくて済んだし、その末にそれまでやってきた研究を放擲してしまうこともせずに済んだのではないかと思えるのである。もっとも「ついに辛苦は放擲さるべし」とは、わたしとタミフルリバー三姉妹の間で唯一共通する理念である。そぉい!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本晴れ

2010年04月19日 | わけの判らぬことを云う
快晴のことを日本晴れと言ったりするのはなぜだろう、というようなことがふと不思議に思えた。

とりあえずgoogleで調べてみたのだが、全般的に言ってあまり要領を得なかった。文献上に認められる起源は室町時代とも江戸時代とも言われているらしい、が、当時「日本」は国号としてそれほど人口に膾炙してはいなかったはずである。

というか、本当に不思議なのはこの語の起源ではない。そうではなく、この語が今でも一応は通用すること、つまりそうと聞けば、それは快晴のことだろう、と、必ずしも説明されなくてもなんとなくわかってしまう気がすることの方である。念のため言うと「快晴」はれっきとした気象用語で、つまり学術用語の範疇である。テレビの天気予報で頻繁に耳にするから誰でも知っている言葉ではあるが、本来の生活語では必ずしもない。少なくともわたしは後者を百科事典で初めて知った(小学生のころのことだ)ので、つまり「日本晴れ」よりも後で覚えた言葉である。

日本晴れという言葉はあるが、アメリカ晴れという言葉は、ダジャレでいう場合(つまりわざと間違った言葉遣いをして笑わせようという場合)は別として、普通の日本語としては可能性としても存在しない。仮に存在したら日本語としては間違っていると、日本人なら誰でも直ちに言うことができる。つまりこの語は「日本という国または地理的な区域に固有の気象」という意味をまったく持っていない。要は「日本」の2文字は英語で言うところのperfectに相当する形容なのである(英語で快晴はperfect weatherである)。しかしこんな用法は他にはない。お天気、それも晴れの場合に限って使うのである。

googleで調べた回答のひとつに、この場合の「日本」はもともと「日本一=天下一」のことだとするものがあった。それなら少しは理解できる、が、ただのお天気に向かって、それもかくべつ珍しいわけでもない気象に向かって「日本一」と形容するのは変である。事実そうなのだとしても、結局もとの言葉と同じようにその心は判らない。

そういえば別に「天晴れ」という言葉がある(念のためいうがそう書いて「あっぱれ」と読む)。こちらはもちろんお天気の形容ではなく、通常はある種の人の姿や行為の美事であるさまをそう言って賞賛するための言葉である。よく晴れた空のように快く清々しい、美事である、というわけだが、本当のところは挨拶の文句と同じで必ずしも意味は意識されない、というか本当は姿や行為そのものに対する行動主義的な(笑)形容ではない。なぜならこの語はサムライの死に様に対しても使うからである。血を流してぶっ倒れた屍を、すでに首がなくなっていたり、内臓なんかもはみ出したりしているかもしれない死体に向かって「よく晴れた空のよう」だという感覚は、いかに我々日本人の性質が野蛮でもあるはずはない。そうではなくて命すら惜しまない心栄えの潔さ(という価値観が暗黙に共有されていることが前提だが)、目には見えないそれを「アッパレ」という音感に重ね合わせて表現しているのである。

結局のところどう解釈すべきなのかと言えば、「日本晴れ」という場合の「日本」は、サール流に言うところの「言葉→世界」の適合方向を持っていないというのが正しい理解であるように思われる。つまりそれは何か「について」の形容ではない、世界に言葉を合わせるものではないということだ。むしろ、その適合方向はなぜか「言葉←世界」の逆向きの志向性を持っている。我々はこれと同じように奇妙な性質を持つ日本語の現代的な例をひとつだけ知っている。それに沿って言えば「日本晴れ」は「お天気萌え」になるのである。本当かよw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

くるくるぱぁティー

2010年04月18日 | わけの判らぬことを云う
loopyっていうのは文字通り「くるくるパー」ということであろう。わが国の首相がよその国の新聞紙からそう言って嘲られたのだそうである。構わんよ。「くるくる」の方は謹んでわが首相に差し上げるとして(実際、鳩の鳴き声のようでもある)、いまわが国が言葉のあらゆる意味で「パァ」になりつつあることは、このblogの表題にも示してある通りである。

しかし、アメリカという国は自由がどうこう言う割に表現規制のやたらと厳しい国であるわけなのだが、くるくるパーは構わないらしい。ひとつ覚えた。

この一文の題名「くるくるぱぁティー」というのは、だから現政権党のことではなくて、いしいひさいちの昔のマンガ「がんばれ!!タブチくん!!」の単行本に、当初副題のように添えられていた字句である。それがいつからか別の字句に差し替えられたということがあった。言葉狩りに会ったのか、言葉狩りを恐れた出版社が自主的に差し替えたものかは知らないが、どっちにしろこの出版社(双葉社)は駄目だ、と当時内心でひどくがっかりしたことを、今もわたしはうっすら覚えている。

「いや、ああいうのは駄目だからいいんだ」と、後にわたしの知人の編集者は言っていた。出版社も編集者もバカで駄目だからこそ、かえっていいマンガ家が、あるいは、あまりよくはないが個性的なマンガ家が好き勝手に描くことも、途中まではできているのだ、と。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流行りそうでなかなか流行らない「ヤンデレ」

2010年04月02日 | わけの判らぬことを云う
こういう、「体言止めにカギ括弧をつける」題名のつけ方のことを、もの書きの専門用語で「週刊新潮」という。いや、そんなことはどうでもよくて。

「二次嫁というのは、ネタで言うならともかく本気ならバカ気ている、なぜなら二次嫁を相手に夫婦喧嘩などありえないからだ」というのがわたしの持論だったりするのだが、その本質的な欠陥をどうにかしたいという発想の極限にあるのが「ヤンデレ」ではないのかと思っていたりもする。


・・・しかしこの動画、ヤンデレだけではなくほかにもいろんなことを知らないと、いったい何しにこんな動画が存在するのかまったく判らないに違いない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

street of dreams

2010年03月31日 | わけの判らぬことを云う
中井久夫の「隣の病い」を読んでいたら、「現実で経験したことのないものを夢で見ることはない」という意味のことが書かれていた。

たいていの人はそうなのかもしれないが、わたしは必ずしもそうではない。夢の中で、現実ではまったく見たことのない街の風景の中を歩いていることは珍しくない。それどころか、時々は半分目覚めたまま同じことをやっていることがある。じっとして目を閉じているだけで、指一本動かさずに見知らぬ街を、小一時間近くも散歩できる(当然ながらまったくくたびれない)のだから、不気味と言えば不気味だが、面白いと言えば結構面白い経験である。もちろんそれらは「抑圧された記憶」の一部だったりするのかもしれない。でも事実そうなのかどうかは、当然自分ではわからない。

ちなみにそうやって夢の街を歩いている間には、当然色々な人とすれ違う瞬間があるわけだが、その人達の表情はいつもぼやけてはっきりしない。ちょうど建築物の完成予想図なんかによく描かれているところの、あのノッペラボーの人々みたいなものである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆうべの続き

2010年03月18日 | わけの判らぬことを云う
と題名には書いたが、昨日みたいに強制定時退社の日はともかく、毎日あんな分量を書いてはいられない。

ペイリーの時計でもハイネケンの空き缶でも何でもいいが、そういうものがどうして存在するのかを考えるためには、物理や生物進化のメカニズムのほかに、いくつかの概念とその存在論を考えなければならない。

(1) 自由意志
もっと常識的に「個人」あるいは個々人の意識と言った方がいいかもしれない。しかしわたしは常にこれを念頭に置いておきたいわけだ。時計や空き缶の存在が不思議だということの根源には、生物の世界を含めて普通の意味での物質的世界、つまり物理には選択の余地などない、にもかかわらず個人あるいは個々人の意識はその行為を選択することができるように思える、という、一見すると解消しがたい矛盾と思える事実と強いかかわりがあるように思える。自由意志がそれ自体として存在するわけではなく、あるのは行為の選択であって、自由意志はその、自己意識への投影像として抽象的な概念にすぎないかもしれない。しかしともかく我々は行為を選択する能力を持っていて、それだけでもごく素朴な意味では、物理とは相容れないのである。

(2) 制度
個人は行為を選択できるとしても、よく考えるとその個人が純粋に個人としてできることはたかが知れている。少なくとも個人は時計やビールのアルミ缶のような、無数の、さまざまな領域の高度な技術が集積された物体を、ただひとりの才覚で作り出すことは、ほとんどできないと言っていい。銅やボーキサイトの鉱山で働いたことのある閲覧者はまずいないだろう。わたしもない。仮にあったとしても、自分で掘り出した鉱石からほぼ純粋な金属単体を抽出し精錬し圧延加工成形するにはどうすればいいのか知っている人は、もっと少ないだろう。仮に必要な技術と知識を全部持っていたとしても、つまらぬ空き缶ひとつを作り上げるために、もしそれを純粋に個人のまま手がけたとしたら、その人はほとんど生涯を費やすことにもなりかねない。どう考えても時計やアルミ缶を作り出し、なおかつそれが意味を持つためには制度が必要である。たとえ社会が無用であったとしてもである。

(3) 知識
この場合の知識は必ずしも哲学的な意味での知識すなわち認識論のことを言っていない。ごく普通の意味での知識である。それを言葉と言い換えてもいいかもしれない、というのも、知識をそれ自体として考えるということが意味を持つのは、知識が単に点的な命題の集合ではなく、作用素(演算子)によって互いに結合された体系ないしは空間を構成するものだからであって、その体系は言葉の体系と、同型であるとは言わないにしてもしばしば強い類似性を示すように思えるからである。しかし我々はどうもそんなに簡単には言葉がそれ自体で実在であるということを納得することができない。言葉にしたものはみんな嘘かもしれない、というより現実の言葉が大なり小なり全部嘘であるような世界で、いま我々は生きることを余儀なくされている。だから直ちに言葉というよりはもう少し抽象的な次元で知識を考える余裕を持たせておきたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デモクラシーとセキュリティ

2010年03月13日 | わけの判らぬことを云う
MSWを訳していてこの2語が出てきたから、ということではあるのだが、私訳の中身とは(たぶん)関係のない話である。

デモクラシーとセキュリティ、とはこの場合スター・ウォーズの「エピソードIII」で、前者は激高したオビワンが、後者は即位宣言のパルパティンが、それぞれ使って、どちらも宇宙ファンタジー映画の中ではひどく耳触りに響いた、というふたつの単語である。以下はそこの台詞だけネットから拾ってきたものだ。

OBI-WAN: Anakin, my allegiance is to the Republic ... to democracy!!


PALPATINE:In order to ensure our security and continuing stability, the Republic will be reorganized into the first Galactic Empire, for a safe and secure society, which I assure you will last for ten thousand years.

いくらSWが好きだからと言って、映画のセリフを字幕なしで聞き取れるような英語力は、わたしにはまったくない。それでもこの2語だけは耳に突き刺さり、脳を素通りして(笑)撃ち抜くように感じられたものだった。だから、わたしの映像感覚が壊れていなければ(たいがい壊れているのだが)、制作者は明らかにこの2語を、このエピソードにおけるそれぞれのキャラクタのキーワードとして、またさりげなく対比的に使っていると思うのである。

正直言ってこのために、「エピソードIII」の、宇宙ファンタジー映画としての価値はかなり下がってしまったように思う。誰もこんな生臭い字句をSWの、ましてや全シリーズのクライマックスといっていいふたつの場面の台詞として耳にしたいとは思わなかったはずである。だが、別の意味では、あれ以来democracyという単語を目に耳にするたんび、わたしなどは逆上したオビワンの形相を思い浮かべてしまう。またsecurityの語を聞くたんびにパルパティンの暗黒面(づら)が心の中で闇のように広がって行くような気がする。一介のファンの記憶の中にこの2語を永久に刻み込んでしまったという点では効果抜群だったわけだ。だがそれは、厳密にはいったい何の、厳密にどういう効果なのだろう?

「玩具メーカの悪夢」としてのわたしは今も健在で、そのシーンと語を記憶に刻まれたからといって、今日に至るまでSW(3)の関連商品は買っていないし、これからもたぶん買わない。買うはずなのは映画のディスクだけである。わたしの価値観では、本物のSWはその中にしか存在しないからであ──そう言えば、西又葵も参加するとかいうSW記念画集の話はどうなったのだろう?出ればそれは買うかもしれない。ハンコ絵↓は別腹である(笑)。

リンクと画像は「神紙」様

いや、まあ温暖化対策で画像貼るにしても、男ばっかりじゃアレだから。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする