しばらく前に「競争は嫌いだ」と書いたが、嫌いだからと言ってなんでんかんでん否定的かというと、必ずしもそうではないのである。わたしにとっては競争は嫌なことでしかないが、少なくとも自由競争と言ったら、それには肯定的な人がたくさんいることになっていて、その全部ではないが、ある場合にはその理由はわたしにも理解可能である。
その「ある場合」というのは、自由競争が成り立っているということそれ自体が社会的な序列を上昇する契機になっていて、その人がまさにその契機によって、またほとんどそれによってのみ社会的な序列を上昇することができたというような場合である。
これと同じことが賃労働という制度にも言える。わたしは自分も勤め人のくせして賃労働が好きではない。だいたいにおいて働くこと全般が嫌いなのだが、あんまりそれを強調すると「遊び」がある種の労働になっているような場合にもそれは嫌いなのか、というツッコミをかわしきれなくなるような気がする。
それはともかく、わたしは賃労働が嫌いだが、賃労働バンザイという人が世の中には結構たくさんいて、競争と同様、「ある場合」にはそのバンザイの理由がわたしにも理解可能である。典型的なのはわが国で女性がそう言っている場合である。わたしは昔、知り合いのフェミニストな女性に向かって「女性の平均的な給与水準が男と同じになって、大人の女性がひとりで十分生きて行けるほど現金収入を得るようになれば、男女平等という課題はそれで終わりだ」と言ったことがある。そう言ったということは当時はまだそうなっていなかったということと、遠からずそうなるだろうということの両方の意味を含んでいた。このことが第一義でないフェミニズムというのはまやかしではないのか、という暗黙の批判の意味もあった。
その種のまやかしは、少なくともわが国にはたくさんある。たとえば1970年代に深刻な社会問題だった「公害」が、その十数年後にはほとんど(公害病訴訟が終わっていなかったのを別として、公害それ自体は)雲散霧消したのはなぜか。人々の公害問題に対する関心の高まりが、反対運動があったからか。そう主張するものがいればまやかしだ。公害問題を根本的に解決したのは石油ショック後に日本経済の重心が重化学工業から情報技術・サーヴィス産業へと移行したこと、とりわけて幸運にも前者の産業(ハイテク産業)が世界的に急成長して、日本がいち早くその波に乗ったことで「第二の高度経済成長」が起きたことなどが第一義であった。つづめて言えば公害問題を解決したのは、もともとはその原因でもあった経済成長だったのである。
当たり前のことのようで、また事実経済学者の間ではこのことはほとんど常識に近いはずである、にもかかわらず、どうしてか現代の「環境問題」と名前を変えた公害問題ではこの事実が少しも反映されていない。それどころか環境対策と称して、多くの場合一国の経済成長を阻害しそうなことばかりを選んで政府・非政府の諸機関が推奨しているようにさえ思える。経済学者もそういうことを常識として知ってはいても、目下の関心事は自分の論文が欧米の有名ジャーナルに載るかどうかということだけだったりするものだから、自分の国の経済成長のことなど本気で考えてはいないということなのかもしれない。たまにテレビのインタビューとかが来たら連中の耳に心地よさそうな三味線のひとつも弾いてみせればよろしい、と、だいたいそんなことになっているのではないか。
順を追って話を戻すと、だから「男女共同参画社会」がどうこうというのは百万の法律や規制や罰則よりも、ほんの10%の経済成長の方が、そしてその成長の結果が成人女性の経済的自立を促すことの方が、ずっと効果があるはずである。もちろん、そうなったら「少子化問題」の方は深刻化する一方だということになりそうだが、しかし、もともと経済が成長し続けるなら少子化問題は言われるほどの問題ではないのである。経済が二十年も停滞している上に少子化だから年金が払えなくなってきて社会保険関連の役所が頭を抱えているというだけなのだ。
で、つべこべ言ってみても過去の「公害問題」の教訓でさえまったく活かせないのが目下のわが国の政府や産業界であるわけで、そんなものアテにしてたら人々は貧乏クジを引かされるばかりである、だったら個々人が個人的に努力してたくさん稼ぐことを考えるという方が、考え方としてはずっとまともで正直で実際的である。そして実際にその線に沿って成功した人が「自由競争バンザイ」「賃労働バンザイ」ということを、その率直な感激を否定する理由などあるわけがないという意味で、わたしはそれを理解することができるのである。
わたしが、しかしわたし自身の嫌悪感を解除することがないのは、そうは言ってもそれで成功できるのは常にごく少数に限られてしまうように見えるのはどうしたわけだということにかかっている。成功者が少数に限られるような努力は、結局のところ人間の作り出した制度の上での努力である。成功も制度の上での成功である。そして制度はなぜそれが出現するのか本当はよくわからないところがある、ということは、少なくとも文明の現在においては、あらゆる成功はそれを支える制度とともに、それが出現したときと同じようによくわからない理由で、明日忽然と消滅するかもしれない。どんな場合でも自由に消費できるカネやモノがないよりはあった方がいいし、少なくあるよりはより多くあった方がいい。けれども、真の意味での自由はそうしたことの先にあるべきものではなくて、個々の魂が個々の魂それ自体を支えているところにのみ定められるべきではないだろうか。ところで魂とは何のことだろうか。
その「ある場合」というのは、自由競争が成り立っているということそれ自体が社会的な序列を上昇する契機になっていて、その人がまさにその契機によって、またほとんどそれによってのみ社会的な序列を上昇することができたというような場合である。
これと同じことが賃労働という制度にも言える。わたしは自分も勤め人のくせして賃労働が好きではない。だいたいにおいて働くこと全般が嫌いなのだが、あんまりそれを強調すると「遊び」がある種の労働になっているような場合にもそれは嫌いなのか、というツッコミをかわしきれなくなるような気がする。
それはともかく、わたしは賃労働が嫌いだが、賃労働バンザイという人が世の中には結構たくさんいて、競争と同様、「ある場合」にはそのバンザイの理由がわたしにも理解可能である。典型的なのはわが国で女性がそう言っている場合である。わたしは昔、知り合いのフェミニストな女性に向かって「女性の平均的な給与水準が男と同じになって、大人の女性がひとりで十分生きて行けるほど現金収入を得るようになれば、男女平等という課題はそれで終わりだ」と言ったことがある。そう言ったということは当時はまだそうなっていなかったということと、遠からずそうなるだろうということの両方の意味を含んでいた。このことが第一義でないフェミニズムというのはまやかしではないのか、という暗黙の批判の意味もあった。
その種のまやかしは、少なくともわが国にはたくさんある。たとえば1970年代に深刻な社会問題だった「公害」が、その十数年後にはほとんど(公害病訴訟が終わっていなかったのを別として、公害それ自体は)雲散霧消したのはなぜか。人々の公害問題に対する関心の高まりが、反対運動があったからか。そう主張するものがいればまやかしだ。公害問題を根本的に解決したのは石油ショック後に日本経済の重心が重化学工業から情報技術・サーヴィス産業へと移行したこと、とりわけて幸運にも前者の産業(ハイテク産業)が世界的に急成長して、日本がいち早くその波に乗ったことで「第二の高度経済成長」が起きたことなどが第一義であった。つづめて言えば公害問題を解決したのは、もともとはその原因でもあった経済成長だったのである。
当たり前のことのようで、また事実経済学者の間ではこのことはほとんど常識に近いはずである、にもかかわらず、どうしてか現代の「環境問題」と名前を変えた公害問題ではこの事実が少しも反映されていない。それどころか環境対策と称して、多くの場合一国の経済成長を阻害しそうなことばかりを選んで政府・非政府の諸機関が推奨しているようにさえ思える。経済学者もそういうことを常識として知ってはいても、目下の関心事は自分の論文が欧米の有名ジャーナルに載るかどうかということだけだったりするものだから、自分の国の経済成長のことなど本気で考えてはいないということなのかもしれない。たまにテレビのインタビューとかが来たら連中の耳に心地よさそうな三味線のひとつも弾いてみせればよろしい、と、だいたいそんなことになっているのではないか。
順を追って話を戻すと、だから「男女共同参画社会」がどうこうというのは百万の法律や規制や罰則よりも、ほんの10%の経済成長の方が、そしてその成長の結果が成人女性の経済的自立を促すことの方が、ずっと効果があるはずである。もちろん、そうなったら「少子化問題」の方は深刻化する一方だということになりそうだが、しかし、もともと経済が成長し続けるなら少子化問題は言われるほどの問題ではないのである。経済が二十年も停滞している上に少子化だから年金が払えなくなってきて社会保険関連の役所が頭を抱えているというだけなのだ。
で、つべこべ言ってみても過去の「公害問題」の教訓でさえまったく活かせないのが目下のわが国の政府や産業界であるわけで、そんなものアテにしてたら人々は貧乏クジを引かされるばかりである、だったら個々人が個人的に努力してたくさん稼ぐことを考えるという方が、考え方としてはずっとまともで正直で実際的である。そして実際にその線に沿って成功した人が「自由競争バンザイ」「賃労働バンザイ」ということを、その率直な感激を否定する理由などあるわけがないという意味で、わたしはそれを理解することができるのである。
わたしが、しかしわたし自身の嫌悪感を解除することがないのは、そうは言ってもそれで成功できるのは常にごく少数に限られてしまうように見えるのはどうしたわけだということにかかっている。成功者が少数に限られるような努力は、結局のところ人間の作り出した制度の上での努力である。成功も制度の上での成功である。そして制度はなぜそれが出現するのか本当はよくわからないところがある、ということは、少なくとも文明の現在においては、あらゆる成功はそれを支える制度とともに、それが出現したときと同じようによくわからない理由で、明日忽然と消滅するかもしれない。どんな場合でも自由に消費できるカネやモノがないよりはあった方がいいし、少なくあるよりはより多くあった方がいい。けれども、真の意味での自由はそうしたことの先にあるべきものではなくて、個々の魂が個々の魂それ自体を支えているところにのみ定められるべきではないだろうか。ところで魂とは何のことだろうか。