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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

自由競争と賃労働

2010年03月04日 | わけの判らぬことを云う
しばらく前に「競争は嫌いだ」と書いたが、嫌いだからと言ってなんでんかんでん否定的かというと、必ずしもそうではないのである。わたしにとっては競争は嫌なことでしかないが、少なくとも自由競争と言ったら、それには肯定的な人がたくさんいることになっていて、その全部ではないが、ある場合にはその理由はわたしにも理解可能である。

その「ある場合」というのは、自由競争が成り立っているということそれ自体が社会的な序列を上昇する契機になっていて、その人がまさにその契機によって、またほとんどそれによってのみ社会的な序列を上昇することができたというような場合である。

これと同じことが賃労働という制度にも言える。わたしは自分も勤め人のくせして賃労働が好きではない。だいたいにおいて働くこと全般が嫌いなのだが、あんまりそれを強調すると「遊び」がある種の労働になっているような場合にもそれは嫌いなのか、というツッコミをかわしきれなくなるような気がする。

それはともかく、わたしは賃労働が嫌いだが、賃労働バンザイという人が世の中には結構たくさんいて、競争と同様、「ある場合」にはそのバンザイの理由がわたしにも理解可能である。典型的なのはわが国で女性がそう言っている場合である。わたしは昔、知り合いのフェミニストな女性に向かって「女性の平均的な給与水準が男と同じになって、大人の女性がひとりで十分生きて行けるほど現金収入を得るようになれば、男女平等という課題はそれで終わりだ」と言ったことがある。そう言ったということは当時はまだそうなっていなかったということと、遠からずそうなるだろうということの両方の意味を含んでいた。このことが第一義でないフェミニズムというのはまやかしではないのか、という暗黙の批判の意味もあった。

その種のまやかしは、少なくともわが国にはたくさんある。たとえば1970年代に深刻な社会問題だった「公害」が、その十数年後にはほとんど(公害病訴訟が終わっていなかったのを別として、公害それ自体は)雲散霧消したのはなぜか。人々の公害問題に対する関心の高まりが、反対運動があったからか。そう主張するものがいればまやかしだ。公害問題を根本的に解決したのは石油ショック後に日本経済の重心が重化学工業から情報技術・サーヴィス産業へと移行したこと、とりわけて幸運にも前者の産業(ハイテク産業)が世界的に急成長して、日本がいち早くその波に乗ったことで「第二の高度経済成長」が起きたことなどが第一義であった。つづめて言えば公害問題を解決したのは、もともとはその原因でもあった経済成長だったのである。

当たり前のことのようで、また事実経済学者の間ではこのことはほとんど常識に近いはずである、にもかかわらず、どうしてか現代の「環境問題」と名前を変えた公害問題ではこの事実が少しも反映されていない。それどころか環境対策と称して、多くの場合一国の経済成長を阻害しそうなことばかりを選んで政府・非政府の諸機関が推奨しているようにさえ思える。経済学者もそういうことを常識として知ってはいても、目下の関心事は自分の論文が欧米の有名ジャーナルに載るかどうかということだけだったりするものだから、自分の国の経済成長のことなど本気で考えてはいないということなのかもしれない。たまにテレビのインタビューとかが来たら連中の耳に心地よさそうな三味線のひとつも弾いてみせればよろしい、と、だいたいそんなことになっているのではないか。

順を追って話を戻すと、だから「男女共同参画社会」がどうこうというのは百万の法律や規制や罰則よりも、ほんの10%の経済成長の方が、そしてその成長の結果が成人女性の経済的自立を促すことの方が、ずっと効果があるはずである。もちろん、そうなったら「少子化問題」の方は深刻化する一方だということになりそうだが、しかし、もともと経済が成長し続けるなら少子化問題は言われるほどの問題ではないのである。経済が二十年も停滞している上に少子化だから年金が払えなくなってきて社会保険関連の役所が頭を抱えているというだけなのだ。

で、つべこべ言ってみても過去の「公害問題」の教訓でさえまったく活かせないのが目下のわが国の政府や産業界であるわけで、そんなものアテにしてたら人々は貧乏クジを引かされるばかりである、だったら個々人が個人的に努力してたくさん稼ぐことを考えるという方が、考え方としてはずっとまともで正直で実際的である。そして実際にその線に沿って成功した人が「自由競争バンザイ」「賃労働バンザイ」ということを、その率直な感激を否定する理由などあるわけがないという意味で、わたしはそれを理解することができるのである。

わたしが、しかしわたし自身の嫌悪感を解除することがないのは、そうは言ってもそれで成功できるのは常にごく少数に限られてしまうように見えるのはどうしたわけだということにかかっている。成功者が少数に限られるような努力は、結局のところ人間の作り出した制度の上での努力である。成功も制度の上での成功である。そして制度はなぜそれが出現するのか本当はよくわからないところがある、ということは、少なくとも文明の現在においては、あらゆる成功はそれを支える制度とともに、それが出現したときと同じようによくわからない理由で、明日忽然と消滅するかもしれない。どんな場合でも自由に消費できるカネやモノがないよりはあった方がいいし、少なくあるよりはより多くあった方がいい。けれども、真の意味での自由はそうしたことの先にあるべきものではなくて、個々の魂が個々の魂それ自体を支えているところにのみ定められるべきではないだろうか。ところで魂とは何のことだろうか。

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「心の哲学」に関するメモ(+いくらかの補足)

2010年02月05日 | わけの判らぬことを云う
「心のありか」をちょっとずつ読んでいるのだが、書かれていることがひどくややこしいと感じている。

文章そのものは哲学としては平易な方だと思える。だから、このややこしさはどちらかというとわたしの方のややこしさではないかという気がしてくる。どういうことかというと、そもそもこの本の著者や、この著者の背後に存在しそうな日本の「心の哲学」研究者の集団の内側においては、いったい本来は何がしたくてこの種の問題(「心のありか」の場合は主に心的因果の問題)を考えているということになっているのか、それはひょっとするとわたしのそれとは全然違うというか、ほとんど正反対だったりするのではないかということである。

素人哲学のblogをやっていると言っても、わたしは本来理科系の人である。仮に自分から「実はそうではないのだ」などと、真顔かつ真剣に告げたとしても、おそらく周囲の誰も信じてくれないだろうという程度にはとことん理科系である。そのわたしが心の哲学などに関心を寄せるのは、「心は、何がどうあっても機械ではなさそうなのだが、そうすると、それはいったい何だと言うべきなのか?」という問題意識が念頭にあるからなのである。

理科系の人間はたいていの事物を「機械として眺めてみる」ことに、人によって程度の差はあるにしても慣れている。つまり、その(現実の)事物に対応する機械論的なモデルを考えるということが、理科系の人間が対象と認めたものに取り組む場合の一番基本的な態度なのである。その中で計算機屋というのは、事物を観察・分析することを繰り返し、おおよそ見当をつけたところの機械論的なモデルに沿って、そのモデルをプログラミング言語で記述し、もとの事物を計算機の動作(意味論)として再現・再構築してみせるとか、それをいったん抽象的な次元に置き直して一般化し、そこから徐に(常識的には)まったく異なる次元の事物にそれを適用して、常識的な目線からはまったく新しいものを作り出すとか、だいたいそういうことが仕事になっているわけである。

そういう理科系の人間の基本的な態度というか所作からすると、こればかりはどうにも、箸にも棒にもかからない事物の典型が人間の心なのである。どのくらい箸にも棒にもかかっていないかを直ちに見極めることは誰にでもできる。以前にも書いたことだが、機械翻訳プログラムを使って任意の現実の英語文を和訳させてみることである。出てくる日本語訳のわやくちゃさ加減が、ほぼ「箸にも棒にもかかってない度」の正確な評定になっていると思っていればまず間違いない。とにかく全然駄目なのである。

そのわやくちゃさ加減を長年思い知らされてきたところからすると、「心の哲学」における、たとえば消去主義のような立場をぬけぬけ主張しているのに出くわすと、理屈抜きで「アホかこいつ」と思わずにはいられないわけなのである。「とても信じられない結論だが、論理的にはどうしてもこうなってしまう」という風ではなく、何かもう最初からこの結論が出てきて当然なのだ、くらいのニュアンスが行間から漂っている。そうは言っても相手はプロの哲学者だと思えるうちはまだいいが、日常生活の中でこんなこと言いだされたら、わたしなら相手を狂人だと思って以後相手にしないだろう、というくらいのどうしようもない違和感である。

そのどうしようもない違和的な気分を、しかしどうにか抑圧しながら、どうもこの人達の料簡が知れないが、仮にまともなことを言っているのだとすると、これをどういう風に読み換えたらまともなことを言っているような読み方に変換できるのだろうか、などと、つまりは書かれていることをいちいち論理の縦と横をひっくり返しながら読んでいたりするわけである。そういうわたしを、逆に「心の哲学」の専門家の方から眺めることがあったら(ないだろうが)、きっと「こいつは何でこんなおかしな読み方をしているのだ?もっと素直に読んでくれたらいいのに」と、必ずや思われてしまうのではないだろうか。



上の内容でうpしたのは今日の午前1時だ。書きあぐんでいるうちに寝る時間になってしまったので、慌てて「投稿」ボタンを押してそのままバタンキューで寝てしまったわけだが、どうもこれではいけない。まるでただ感情的に反発しているだけみたいに読める。いや、真っ先に感情的に反発するのは事実なのだが、それだけだったら哲学なんかは読まなければいいわけだ。

そうではない、という補足を少しだけ追加してみる。何でもいいが、たとえば「出来事」という概念を考えてみよう。そうすると、そもそも物理宇宙に出来事などは存在しないのである。何かの物理的な現象が出来事と呼ばれるとして、それは物理を観察している人間が存在するという事実に依存しているのである。こんなことを言うのにことさらな専門知識はいらない。物理法則を記述する方程式(そこらの教科書にたくさん載っている)のどれを眺めても、そこには出来事を出来事として括り出す根拠となるようないかなる変数もパラメタも演算子も、あるいはそれらの組み合わせも書かれていないのである。

要するに出来事は(心的であるかどうかはともかくとして、少なくとも)物理ではないのである。物理でないものに依拠した物理主義の論証とは、とりわけ物理還元主義の論証とは、いったい何のつもりでやっていることなのだろうか?

そんな根本的な卓袱台をいきなりひっくり返すな、と言われるかもしれない。なるほどこれを言うと哲学全体が、物理主義者にとっての心的因果のように無意味な、常識心理学ならぬ常識屁理屈として消去されてしまうことにもなりかねない。それはちょっと面白くないので、ひとまずはそれをしないことにしよう。それでは出来事とは何のことだろうか。それは対象の状態のことだろうか。それとも対象の状態の遷移のことだろうか。いずれにしてもその場合の状態はそれ自体が定義可能な対象なのだろうか。状態ということが定義可能であるとは、それを要素として含む状態集合(もしくは状態空間)が前提されていることであり、かつ、その場合に限るのではないだろうか。そうすると出来事にかかわる対象の状態は、その前にどんな状態集合を前提として置いて主張されているのだろうか。

べつに、哲学的な論証のために数学的に厳密な定義を求めようというのではない。やろうとしているのは数学ではなく哲学なのだ。それはもともと、本質的に曖昧な集合(ないしはクラス)でしかありえないかもしれない。それでは論証ができないというのは数学の特殊事情で、哲学は依然として実行可能なのである──少なくともわたしはそう信じている。そうでなければ理科系のわたしが何しに、という話になってしまう。

ただし、その場合、そうした本質的に曖昧な概念を用いた論証が経験的に疑問の余地がない事実(たとえば心的因果の存在)を反証するとき、普通ならまず前提の方を疑うべきなのではないだろうか。それをしないで、心の哲学者というのはどうも概して、あたかも心の存在を否定することに喜びや恐れ(ツンデレ的な意味で)を感じるものであるかのように、そのあからさまに奇妙な帰結に喝采したり狼狽したりすることに、論理的な字句を連ねることで終始してみせるのである。それがわたしには奇妙に感じられるのだが、プロの学者に向かって素人がそんなこと言ってみたってしょうがないから、勝手にややこしい捻りを加えながら本を読むのである。

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ビジネス書

2009年04月30日 | わけの判らぬことを云う
今日は昼メシを外で食べて来たのだが、ついでに本屋を覗いてみているうちに、ビジネス書の棚には脳がどうしたとか、そんな本ばっかりが並んでいることに気がついた。傾向としてはだいぶ前からそうなのだが、今日はとりわけ多かったのだ。ベストテンのうち7つか8つくらいが、その題名に「脳」の一字を含んでいた。

わたしが脳科学が大嫌いなことは、このblogでべつにさんざん書いていることだから、ここでは繰り返さない。また、さすがにビジネス書の床屋脳談にまでかみつこうとは思わない。

ビジネス書というのは「サラリーマンが買う本」のことである。ネタがビジネスに関係あるのかとか、そういうことはどうでもいいのであって、主にサラリーマンが買う非専門的な書籍のことを、業界用語でビジネス書と呼ぶのである。これは本当のことである。ちなみに「ビジネス文例集」みたいな実用書はその通り実用書と呼ばれるので、だから普通にビジネス書と言ったらサラリーマンが買う非専門書で、非実用書なのである。

非専門書で非実用書で、いわゆる文芸書でもない、ならば娯楽ノンフィクションのたぐいかというと必ずしもそうではない。日本経済はこのままハメツするとかしないとか、成功者はここが違うとか違わないとか、顧客や上司(部下)を雁字搦めにして思いのままに操る「魔法のじゅもん」であるとか、おしなべてつまらない、ろくでなし風の著者がろくでもないことを煽っているだけの、そういう「嫌な本」ばかりが並んでいる棚である。

これを買っているのは、しかし、状況に応じてろくでもあったりなかったりする普通のサラリーマン達なのだ──わたし自身、中高年ハケン社員の駄目エンジニアではあるが、サラリーマン(月給取り)であることに違いはない。それも昨日や今日のそれではない、気がつくと出戻り学生が博士課程を満期退学してから、指折り数えてもう7年になる──自分のことを棚に上げて対象的に眺めれば、これはこれで結構不思議なジャンルではある。

そのビジネス書という不思議なジャンルにおける目下の流行語というか、ほとんどパブロフの犬みたいな刺激反応モデルにおける最大のキーワードが「脳」だということである。たぶん、ビジネス書のキカクではとにかく題名に「脳」の一文字を入れろ、なぜ入れないとか何だとか、出版社の編集部とかでは大真面目な顔でそういうバカみたいなセリフが言い交わされているはずである。

こういうのは役所の公共事業とかとおんなじで、時代の流行が「IT」なら事業の名称に「IT」がついてるだけの土木建設事業になるし、「格差社会」なら格差解消を名目とした土木建設事業になる、あれと一緒のことである。役所に知恵などないことは周知の通りだが、じゃあ民間にはあるのかというと、基本的には同じようにほとんどないわけである。それにしても今どのくらい「ない」のか、その度合いは、このビジネス書の棚を眺めていれば、そのキーワードにおける一致度(コヒーレンシ)において数量的に評価できそうな気さえしてくる。

つべこべ言うけど本が売れるか売れないかというのはまさに水モノなのであって、本来なら出版事業というのはビジネスというよりはよほどギャンブルに近いし、やってるやつもサラリーマンというよりは博徒であって、そういう意味では本質的にヤクザな稼業ではある。そういう中ではビジネス書のような、題名や本文に流行の字句が入っているかいないかで捌ける部数が予想できる、安易きわまりないけれど手堅いジャンルが、少なくとも業界内ではスクウェアなビジネスの顔をしていたりする。そしてその程度に丁度反比例するかのように、出てくる本それ自体の表情は、ヤクザ稼業の凶暴な気配を次第にむき出しにしていくように思われる。

いや・・・まあ、そんなことはどうでもよくて、重要なことは、たとえばその時の流行語が「脳」だとして、じゃあどうして「脳」なんだと言ったら、読者や編集者はもとより、ほとんどの場合は執筆者もわからない、ということである。そんなこと関係者の誰にもわからない、知らないままに動いているのである。だから脳科学者がどんなにバカで、それが科学の名に値しない駄学問であろうと、「脳」なら「脳」が目下のビジネス書のキーワードであるという事実のそれ自体には、少なくとも出版業界の内側からはこれといって作為は入っていないのである。そもそもそんな作為が入っているのなら、それは作為の末端に向かって発散する出版キカクとして商売するよりは、作為の中心に向かって商売する方がよほど儲かるはずである。いま係争中のホリエ某氏のように。

では、わたしにとってはなんともキモチの悪いこの「脳」ブームが示唆しているのは、本質的には何なのであろうか。それは人々が「クスリ」を欲しているということではないかとわたしは思っている。クスリというのはもちろんあの、憂鬱とか疲労感とかがポンと消えてくれる不思議なクスリ(笑)のことである。人々の方にはその種の、法的には禁じられている薬物に対する願望をあからさまにすることへの躊躇いがあるし、ビジネス書の出版は出版で、そんな願望を露骨に支持したりしたら自分ちの商売が危うくなる、ということで双方の自己欺瞞がめでたく「脳」のあたりで妥協点を見出し、その欺瞞のまわりで一致的に周回軌道を描くようになった、まさにそのことが、このパッとしない(所詮は欺瞞にすぎない)市場を作り出しているのではないだろうか。

しかく不景気とは、巷間をつまらぬ倫理が徘徊していることの集合的表出なのである。

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PC-8001とフロッピ・ディスク(その3)

2009年04月22日 | わけの判らぬことを云う
このシリーズはいったい何を書きたかったものか、間がしばらく空いてしまったら自分でも完璧に忘れてしまった(笑)。とりあえず以前の書き込みは↓である(4月10日)。


書き始めたものはどんなに間が空こうと完結させなくてはいかん、とは思うわけで、いまこれを書きながら一生懸命思い出そうとしている(笑)わけだ。CQ出版社の厳密JIS規格な音引ルールと、PC-8001が「(当時そう思った高校生のわたしの感想では)つまらんマシンだった割にバカ売れした」昔話を蒸し返しながら、一応は「計算機の話ではない」と言ってるのだから計算機の話ではなかったのだろう。

いま同じ題名で何か書け、と言われればどちらについても続きは書けるのだが、どうしても思い出せないのは両者の接点である。まあ、もともとその意外性でウケを狙おうとしていたはずだから、忘れてしまうと自分でも思い出せなくなるのは仕方がないのだが、それを思い出さなかったら、どっちもいまさら、ただのどうでもいい昔話でしかないわけで、わざわざこのblogに書くようなことではないのである、と言いながら・・・

フロッピーディスクと言えば、その昔、ホビージャパンが出していたシミュレーション・ウォーゲームのマニア雑誌「タクテクス」の創刊号で、フロッピーディスクのことが思いっきり「フロッピングデスク」と綴ってあって呆然としたことがあったとか、そもそもこの創刊号が前代未聞の「誤植雑誌」で、きっと締め切り直前に編集者がレイアウト抱えたまま雲隠れしてしまったのを残った連中が泣きながら誌面を作り直して印刷所に放り込んだというような、いわゆるひとつの「ヤシガニ屠る」であったのだろうか、とか、いや知らんけど、とか、創刊2号はこれまた空前絶後の「正誤表雑誌」になったとか、こんなドタバタ劇があっても他にこの手の雑誌がなかったから結構続いたものだった、「マーフィーの法則」という言葉を覚えたのも、あるいはテーブルトークRPGの何たるかも、あの雑誌で初めて詳しく読んだものだったとか、思えばわたしも若かった、ああ、これもすでに25年以上も前の話であることだなあ・・・って、いやだからこれもこれだけ抜き出して書いてたって、ただの昔話にしかならんではないか! まあ、他で披露することなどあり得ないバカ話だから、ここで書いたってネタを損するわけではないからいいんだけど。

・・・ああもう、いっそのこと、このまま「愉快な1980年代の昔話シリーズ」にしてしまおうか?いやいやいやいや。

(全然思い出せないから、またいずれ)

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無題(承前)

2009年04月12日 | わけの判らぬことを云う
「忘れそうだから書いておく」と言って、ホントに書いてるうちに本題を忘れかかっているんだから世話はない。先の一文で言ってみたかったのは、ある種の進化的な必然性のようなことだ。常識的な悪が現実的にも悪でしかないのなら淘汰されるだけではないか、ということである。

この論法で一番有名なのはたぶんフーコーの権力論だろう。権力がそんなに悪ならそんなもの存在できないではないか、権力は一方では社会的な生産の構造的な要それ自体なのであって、その「悪」性は構造的な特徴として見出されるにしても機能的な本質ではない、つまり、それを無造作に潰せば──しばしば「構造改革」とか「意識改革」の名のもとに行われるのはそれなのだが──その社会も一緒に潰れてしまうような何かなのだというような。

同じことは常識的な大小の悪のたいていについて言えることだというのは、誰でも、フーコーなど読まなくたって考えつきそうなことだ。でもそこから先へたった一歩でも進むことは、どうしてこれほどまでに難しいのか。悪は言われるほどの悪ではないということは、それ自体はそんなに間違っていないのだが、そう思って迂闊に足を踏み入れた者はたいていミイラ取りがミイラに──つまり、ひどく薄っぺらな「悪の虜」に──なってしまう。

早い話が、そうした要素を明に包含しえないことが組織集団的なディスカッションを不毛な茶番にしてしまうからと言って、仮に安易にそうした要素を導入してしまったらどうなるか。べつにケーサツが介入して来なくたってその組織集団はたちまち組織集団としての存立すら危うい、つまりミもフタもないことになってしまうだろう。無秩序への恐れというのは根拠もなく恐れられていることでは決してない。そういう意味で悪は確かに現実的な悪でもあるのだ。



何か書けそうなことがあったら書くと予告だけして案の定一向に書けないでいる竹田青嗣の「人間的自由の本質」他の論考にしても、なるほど自由論としてだけ考えればそう簡単にツッコミなど入れられそうもない、優れた論考だと思うのだけれど、どう考えてもこの先でまともな議論が展開するとは思えない。ぶっちゃけた言い方をすれば、カントとかヘーゲルとか、あるいはマルクスとかの、つまりもの凄い昔の論考をダシに使っているからこそ読めるので、これが現代の、たとえば竹田本人の言い分だということになったら、いまどきアホらしくて誰も相手にもしないだろう。たぶん、竹田はそんなこと承知の上であるのだろうし、それは理解できる──というか、こういう形を取らなければ、こういう論考を文字にして書いて本にすることは、いまどき誰にもできないはずだと言われたら、現にできてないわたしは当然首肯するしかない──のだが、だったら「現在の世界資本主義が抱えている中心的問題は二つ。格差の拡大と資源・環境の地球的限界ということだ」(「人間の未来」p.7)なんていう、みっともないとしか言いようのない、とことん的を外したエコエコ談義に竹田を向かわせるものはいったい何なのだろう?

全然おすすめする気にならないから実際におすすめもしないのだが、昨日はマッツァリーノの文庫の他に竹井隆人「社会をつくる自由」(ちくま新書)という本も買って読んでいた。社会学の爆笑問題だけが読書の愉しみではないのだ。で、この本だが、おすすめしないと言っても決してつまらない本ではない。まっとうなことが書かれた本である。ニートの人の口真似して言うなら、創刊以来、誰が何を書いてもためにする言説以外のことが書かれていたためしのない新潮とか文春とかの新書に金を払ったら負けだとわたしは思う。そんなのよりはこういうのに払った方が全然勝ってるのだとは言ってみたい。この著者はわたしより若いのに、実に達者な文章を書く人である。このblogの悪文に触れて辟易した人は口直しに読んではどうかと、単にそれだけのためにすすめたいくらい上手である。

だがわたしに言わせればこの本はたぶん根本から間違った前提に立って書かれている。著者の言うところをひっくり返して「もとより、自分の気の向くまま、ただ放埓の限りを尽くすのが『自由』なのである」仮にわたしがそう言ったとしたら、そういう言い分を頭から排除することによってのみこの本の主張は成り立っている。間違った前提というのは真実と真逆な前提に立っているからではない。真実と真逆な前提を頭から省いて考えた論でも近似的な意味は持つはずだという前提のことである。文章が達者なのはいいけれど、この著者は心のどこかでそれを恃みにしているところがあるのではないだろうか。どうせそんなことだろうと思って買ったら案の定そうだった。それを見越して一緒に団鬼六「ただ遊べ、帰らぬ道は誰も同じ」(祥伝社新書)というダイジェスト本も併せて読んでいたから、そんなに頭痛はひどくならずに済んだけれども。

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無題

2009年04月11日 | わけの判らぬことを云う
このカテゴリはもともと書いてる本人にも判断のつかないことだが、書いておかないと忘れてしまいそうなので書いておく、という備忘録的な目的で作ったものだった。

たとえばわたしは仕事の間にときどき次のようなことをワープロで打っていたりする。いまかかわっているソフトウェア開発プロジェクトの仕様検討と経費見積に関連して、技術的に可能な選択肢とそれぞれのメリット、デメリットを列挙するというような参考資料の一部である。

・・・この機能を実現するとして、こんなもの自分でゴリゴリ書く気は全然しないわけだ。まあ、安いライブラリを買ってくるか、高いライブラリを盗んでくるか(笑)、あるいはネットに落ちてるソースやバイナリをタダで拾ってきて、適当にリバースして使えばいいのである。・・・

これは、わたしがもの書きをやっていた頃からのやり方で、癖みたいなものだ。もちろん、実際はこの状態から手を入れて行って、最終的にはまったく別物の原稿になるわけである。ヤバそうな箇所は削除したり表現を変えたりして、人前に晒しても困らないような内容に変えてしまうわけだ。だったら最初からまともなことをまともに書けばいいじゃないかということにはなるが、最初に打つ時くらい思った通りのことを思った通りに打たなくては、こんなことわざわざ書く気になれない。

ともあれ最初にアイデア出しをやってる段階では、わたしの原稿というのは不埒というか不謹慎というか、どう弁解しても不法行為以外の何物でもないような記述に満ちているわけである。

もちろん実際に、上で書いているような不法行為に手を染めるわけではない。ケーサツに捕まっていいことは何もない。アイデアとしては出すだけ出しておいて、「はてさて、これをどうすれば合法的に、というか正当なやり方に変えられるのか・・・」と考えることがこの仕事の実質に相当しているわけである。具体的なことを書くわけにはいかない(というか、思考過程とか、そこで生じるヒラメキとかは文字として書くこともできない)が、上記のようにそれ自体は絶対実行不可能なことであっても、記述を構成している変数のひとつを入れ替えるとか、もう一段大きな、より抽象度の高い枠組みの上に置き直して、つまり「拡張」すると、拡張された選択肢の中には実行可能性のあるものが見つかったりするのである。抽象的な思考というのはそうやって使うものなのである。

たとえば上記の「高いライブラリを盗んでくる(笑)」というのは、なるほど盗みはいけないわけだが、なぜいけないかと言えば、それは盗まれた方は自分が損失を蒙ったと考えるだろうからである。あるいは「盗む」という行為が文字通り相手の懐に手を突っ込んであちこち探り回すような、実際には何も盗まなかったとしても、試みられただけでも不愉快に決まっている行為だからである。逆に言えば、それらの困難が消失するような条件が存在すれば、それを探り当てさえすれば困難は消失するのだということでもある。

それをうまく探し当てるには、もとの記述が置かれている現実的な世界像を、困難を固有ベクトルとする固有空間の世界像に変換した上で眺め直すのがいいわけだ。変換後の(非現実的な、という意味で)抽象的な世界像のもとではほんのすぐ隣に劇的な解決策のモードが存在したりするのだが、それを逆変換してもとの現実的な世界像に置き直してみると、最初の記述のどこからそんな突拍子もないことを思いついたのか、自分でも驚くようなかけ離れた命題に変貌していることがある。

・・・と、そんな発想法の話をしたいわけではなくて、わたしが言いたいのは、最初の「盗んでくる(笑)」というアイデアをアイデアとして禁じられる謂れは、こんなわけでないのだ、ということである。こういう作業は、自分ひとりでやっている間は好き勝手にどうとでもできるわけだが、同じことを組織的集団的なディスカッションの場面では、そもそも口に出すことすら憚られるようなことなわけだ。そしてそうであるがゆえに、問題解決に関する集団的な討議というのはたいてい不毛で、やればやるほど愚かなやり方ばかりが優先されることになってしまうわけである。愚かなだけならまだいいが、ミもフタもない、強引で、かえって現実からは拒絶されたり、恨みを残したりするようなやり方が、そうした場面では選ばれることになりやすいのである。

人文・社会科学系の文献を読んでいると、時として「なんでこんな善良なことばっかり考えるかなあ?」と思うことがある。社会というのはゲームだとかコミュニケーション(対話)だとか考えるのはいいとして、これらの文献にそうした語句があらわれるときの、論者の「ゲーム」や「コミュニケーション」に対するイメージというのは、実際以上に善良なものだったり、無菌的だったりして、本当はそこで考慮されなければならないはずの悪夢や悪魔のことはさらりと忘却されているようにしか思えないということがあるわけなのだ。

本物のプロの哲学者というのは、しかし、そこへ行くと時々はさすがだと思えるところがあるわけだ。たとえばヘーゲルの歴史哲学は歴史が血まみれの悪夢だったり悪魔だったりするところを捨象したりはしていない。ニーチェの哲学は、字面だけで読んでいると、まるでゲス野郎の偏執狂が恥知らずなことを羅列しているだけだとしか見えなかったりするが、後の多くの哲学者はそのニーチェの哲学から悪夢でも悪魔でもない、理性と文明の未来を考える上で忽せにできないようなたくさんの重要なヒントを読み取ってきたのである。

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PC-8001とフロッピ・ディスク(承前)

2009年04月10日 | わけの判らぬことを云う
そうと題名につけておきながら、ゆうべはPC-8001のことに触れないまま寝てしまった。

仕方ないではないか。blog書いてて完徹したので仕事できまへん、などというわけにもいかない。blogのことは極力周囲には内緒にしておきたいのだ(そっちかい)。

実は昨晩この題名をつけたときはこれも気づいていなかったのだが、今年はPC-8001の発売からちょうど30周年である、といっても、今やPC-8001が何だか知らない人の方が多いだろう。NEC製の8ビットパソコンである。NECにはそれ以前にワンボードマイコンTK-80の拡張キットTK-80BSというのがあって、これが事実上パソコンの構成を持っていたのだが、そういうのではない、最初から完成されたパソコンとして設計されたものとしては最初の製品がPC-8001だったわけである。

こう書いているとまた年寄りが昔を懐かしんで書いているみたいに思われるかもしれないが、そうではない。わたしはそのとき高校生だったのだが、この製品には非常な不服を抱いたひとりだったのである。昔のことをいまさら蒸し返す気はないので詳しくは書かないが、まあ、いろいろな点でわたしには納得のいかない設計だったのだと思ってもらいたい。問題はその、駄作と言わないまでも凡作だとしか思えなかったPC-8001が、現実にはどういうわけか国産パソコンでは空前の大ヒット商品になってしまったということだ。

後のPC-9800シリーズはこの8001の二代後の製品で、すでにCPUから違う別の製品になってはいたが、画面表示やBASICインタプリタの仕様でみれば8001を継承していたという意味で、以後十年以上にわたって国内のパソコン市場ではNECがトップシェアを取り続けることになった、その歴史の最初をPC-8001に置くことは、愉快不愉快にかかわらずその時代を覚えているほとんどの人が認めることだろうと思う。

どうしてPC-8001がそんなに大ヒットしたのかというと、わたしにはほとんど確信があるのだが、NECはこの新製品の発売にあたって、かつてなかったような強力なプロモーションを行ったからなのである。どういう風に強力だったのかというと、要するに当時発売されていたパソコン雑誌のほとんどにPC-8001を絶賛するような記事を書かせたわけである。そんなことができるのかと言って、簡単と言えば簡単な話なのである。要はその雑誌に広告をたくさん出せばいいのである。

わが国では雑誌はそれ自体の販売よりもずっと広告収入で屋台骨を支えているから、パソコン雑誌の編集やライタが内心どう思っていようと、たったそれだけのことでNECやその製品の悪口らしいことは事実上書けなくなってしまう。

↑を書いていたのはちょうど昨日の今頃だ。ここまで書いたところで寝落ちしてしまったわけだ。書き上がってない原稿をうpするのも何だが、とりあえず続きは明日だ。いま酔っぱらってるからどうせまともに書けやしない。

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PC-8001とフロッピ・ディスク

2009年04月09日 | わけの判らぬことを云う
面妖な題名だが、計算機の話をしようとしているわけではない。

題名の後者はもちろんフロッピーディスクのことだ。これをJIS(日本工業規格)に忠実に綴ると「フロッピ・ディスク」になるのである。実際にこれに沿った言葉遣いがなされていることは、専門の文献であってもめったに見かけないのだが、CQ出版社という電子通信技術関連の出版社の雑誌や書籍に限って、きちんとこの通りの綴り方が用いられている。

わたしは中学生のころから同社の「トランジスタ技術」とか「インターフェース」とかいった雑誌の読者だったので覚えているのだが、この出版社にしても最初からそうだったわけではなく、ある時期から社の方針としてそういうことになったようなのである。今ではいちいち断られてはいないが、最初にそれを始めた頃は誌上で縷々説明されていた。今後わが社の出版物ではNiCd電池を「ニカド電池」の表記で統一する、畏れ多くもJISにあらせられるぞ、控え控えィ、といった具合に。

わざわざそうと宣言してやるところは、律儀でいい出版社だとも言えるのだが、しかしまあ、そうは言ってもつまんないことに拘るものだと思って呆れたのを覚えている。社名の通り、もともとはアマチュア無線の雑誌から始まった出版社なのだし、何もそんなにまでしてJISを権威づけることもなかろうにと思うのだが、考えてみるとアマチュア無線技士というのはれっきとした国家資格のひとつなのである。アマチュアとついていても、その名前から想像されるほど素人の気儘勝手な世界ではまったくない。何をするにもいちいち法令とか規則だとか、そういったつまらんことで(そうだとも、実につまらん)雁字搦めにされているところがあるわけなのだ。

わたしの違和感は、そういうアマ無線の世界に少々嫌気がさして計算機屋になったことと関連がある。パソコン屋の何がいいって、それをするのに免許も資格も何もいらないことなのだ。

わたしは免許とか資格とかいうのがコドモのころから大嫌いで、今もクルマの免許さえ持っていない。計算機屋として仕事をしているが、それ関連の資格を取ったこともない。取ろうと考えたこともない。それがなくてはできない仕事だというなら、そんなつまらん仕事はこっちから願い下げだというのが本音である。いつまでこんな「ツッパリ」が続くものか、次第に老いぼれてきた昨今では我ながら自信がなくなってきている──不承々々でも免許や資格を取って立派に仕事している人もたくさんいるわけである。自分のツッパリはともかくも、そういう他人やその仕事を貶めたいとは、まったく思わない──のだが、ともあれ30年は続いた。続く限りツッパリ通してやれと思っている。

はるか昔のことだが、あるマンガを読んでいたら、その登場人物のひとりが警官から「お前免許はあるのか」と問われて「そんなものはほしくないね」などと涼しい顔して答えるシーンに笑い転げたことがあった。笑い転げたのは、その場面がギャグとして可笑しかったからではない。ギャグとしては当時でも滑ってしまった「ハズレ」のギャグだと言ってよかった。だからそうではなく、その笑いを文字にして書けば「まったく、我々はどうして、こういうセリフをギャグマンガの中でしか喋ることができないのだ」という、そういう意味の笑いだった。

blogで紙数が尽きることはないが、このまま最後まで書いていると夜が明けてしまいそうだ。続きはまた明日。

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広告の不思議

2009年04月08日 | わけの判らぬことを云う
コドモのころ、その年の流行が、年が明けたらとたんに廃れてしまうのを見るたんびに不思議だと思った。流行といって、たとえば歌謡曲の流行とかは、大晦日の紅白歌合戦がある意味ピークで、年が明けたとたんみんなその曲を忘れてしまったかのように廃れてしまうことが多かったのである。

いや、今でもたぶんよくわかっていない。流行が廃れるのは、自然発生した流行が自然に廃れたということなのか、それとも単にプロモーション・キャンペーンが終了したから廃れたのか(笑)、本当のところ見分けがつくかと言われたら、わたしにはその見分けはつけられないような気がする。「玩具メーカの悪夢」とかで書いた通り、わたしは自分のblogにアフィリンクは貼っても、広告を見てモノを買うことは、コドモの頃もしなかったし、今でもめったにしない人なのである。つまり広告とか販売促進ということが本当は何なのかまるっきりわかっていない(笑)ところがあるのだ。よって当然、その見分けもつけられないのである。

もちろん本当に何ひとつわかっていないわけではない。アフィリエイト契約なんかをやっていると、契約先の会社やサービスの元締からひっきりなしに「これこれの品を貴兄のblogで広告してくれ」という内容のメールが届く。何のことはない、要はアフィリエイト契約者にそれを買え、買って使って自分からも大いに宣伝してくれ、それで売れたらモトが取れるぞ、売れるかどうか知らないけどさ(笑)、という、捻りの入った広告宣伝なのだということは、いかにわたしが商才に乏しい鈍物でも直ちにわかる。申し訳ないけどその手は食わない(笑)。

べつに文句があるわけではない。そんなことで文句を言うくらいだったら、最初から契約もしやしない。うまいことを考えたもんだな、とむしろ感心している。

この手のことに冷静なのは、以前書いたように、わたしは若いころデパートの納入業者の会社でプログラマをやっていたことがあって、そこでは季節ごとにDMを送るための顧客データベースなんかも作っていたから、DMの効果がどのくらいあるものなのかということについては、ほんのちょっとばかり経験を持っているからでもある。具体的な数字は出さないが、まあ、DMの効果というのは本当に薄いものなのである。実際、これを読んでる人の中にも「オレはDMを見てモノを買ったことなんか一度もないぞ」と言い切れる人が結構たくさんいると思う。それはちっとも珍しくない、普通のことなのである。じゃDMの効果はないのかと言ったら、それは、決してそんなことはないわけなのだ。不思議なことに。

実際、効果がないなら誰もあんなもの送りはしない。トータルで収支をみれば確実にあるからこそ送るのである。

効果があるなら不思議ではないではないか、と言いたくなるかもしれないが、やっている側の実感としてはやっぱり不思議なものなのだ。特に、そのDMの内側のキャッチ・コピーやなんかを自分で書いたりすることがあると、である──ホントに当時のわたしは、まったくの見よう見真似でいろんな仕事をやったというか、やらされたものだった──。素朴な意味では、言葉というのは特定の誰かに向かって発するものなのだが、あの手のキャッチコピーは本当に、いったい自分は何に向かって言葉を連ねているのか、サッパリわからない感じになるものである。その相手は、特定の誰それでないことはもちろん、不特定の誰それですらないのである。だって、不特定多数のほとんどは読まずに捨ててしまうのだから。

だから、ああいうものを書くときには、たとえば「一般大衆」というような、絵なり言葉なりの形になるようなイメージに向かって書いてはいけないのである。一般大衆はそれを捨ててしまうのだから、それでは意味がないのだ。では、いったい何に向かって書くのか。それはもう、絵にも描けない、言葉でも書きようがない、ちょっとこれは本格的にわけのわからないことをやっている感じになってくることなのである。

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わけの判らぬことをこうして云う

2009年04月06日 | わけの判らぬことを云う
このblogはもともと文章書きのリハビリのために始めたようなところがいくらかはある。素人哲学は方便というわけではない、確かにそれが主目的なのだが、べつに誰が読むわけでもない、読んでほしいわけでもない素人哲学なのだし、それだけでわざわざblogを作ろうという動機は成立しえなかったのも事実である。

もの書きというのは、それが仕事になっていようといまいと、とにかく何か書かずにはいられない性分の人間である。だが、時にはネタがあってさえ、まったく書けなくなってしまう時期が続くことがある。特にわたしのように構成力のない、ただの手癖で書いてしまうタイプの物書きはそうなりがちだ。野球選手のスランプのようなもので、何かの拍子でフォームを崩してしまうことがあると、まるでバットの振り方から忘れてしまったかのようなエライ事になったりする──お?む?よ?

困ったことにわたしには、それで食っていた時期でさえ、プロ意識のようなものが一切なかった。興味本位でわざと自分の文体を壊してしまうようなことを平気でやってしまう癖は直らない。そういうところはいくつになってもコドモと同じで、とにかく何か違ったことを、いな、間違ったことをやってみたくて仕方がないのだ。

たとえばこのblogでも時々ひそかに試みてみていることだが、いかにも硬い論文調の文体コチコチのまま、とことん無内容なふざけたことを書いてみるというようなことをやってみたくなる。せっかく何年も大学や大学院に通って論文調の文体を覚えたのだ、これだって自由自在にデタラメが書けるというほど使いこなせるようになってみたいものである。

論文調の文体で学術論文を書くことは、研究者なら誰だってやっている。当たり前だ。だが論文調で吉本新喜劇の脚本を書く奴はいない。書ける奴もいない。さらにその逆はもっと少ない。やってみようと思う奴さえいないことであろう。いい加減なイミテーションなら作れるかもしれないが、そうじゃない、文体も内容も紛れもない本物であって、ただその組み合わせだけがどうしようもなく間違っている、この男はなんでこんな間違ったことをやっているのか、しかも間違っていて平気でいるのか、いったいどういう料簡なのか、わけがわからないと読者には思わせたい、そういう風に書きたいわけだ。

そういう願望がいいか悪いかはともかく、そういう願望があるということは、これはもう始終自分の文体を壊しているのと同じで、秩序パラメタがカオスの領域を横切っている間は何も書けなくなってしまうのは当たり前なのである。色川武大じゃないが、プロはフォームで仕事をするのだ。そのフォームを一顧だにしないなんて狂気の沙汰もいいところだ、というか物事に取り組む上で真剣味がなさすぎる。

辺見庸の本の書評で、昔の左翼は「全面核戦争と人類滅亡あれかし」の願望にとり憑かれているかのようだったと書いたが、ある意味ではわたしも左翼でこそないが同じような願望を持っていて、この世の真面目と真剣の一切に向かって妄想の絶滅戦争を仕掛けているようなところが確かにある。そんなことしたら人類が滅びてしまうというのなら、その時こそは人類滅亡あれかしだと言いだしかねない。もちろんそんなことあるわけがない、ちょっくらちょいとパァにはなりゃしねえとか思っているし、そう言いもするわけだが、しかし心のどこかで「パァもまたよし」とか思っていることも確かなのである。

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顧客と従業員の弁証法(承前)

2009年04月05日 | わけの判らぬことを云う
前のを読んで「やたらデパートの裏口にこだわる奴だな」と思われたことだろうが、それについてはいくらかの実体験があるわけなのだ。

そのときわたしはまだハタチ過ぎのワカモノで、ついこないだ大学を中退して、都内のとある小さな会社で販売管理その他のデータベース・システムを、ひとりでちまちま設計製造する仕事をやっていた。給料なんてアルバイトに毛が生えたか、抜けたかしたような程度のものだったが、現実的な業務のすぐ傍で、ユーザ/オペレータ本人の意見を訊きながら、システム設計からプログラミングまでをひとりでやっているというのは、ある意味パソコン屋の冥利に尽きる仕事でもあった。また当時だからこそできたことで、いまどき大学中退の、どこの馬の骨とも知れないワカモノに、DBまわりを全部任せてくれるような仕事も会社も、どんなに探したって見つからないだろう。

しかしこのシステムが完成したら、次は俺は何をしたものかなあ、などといったことが漠然と不安になってきたある日、すでに仕事は時折の改修や追加だけになって、別に個人として請けていた原稿書きの仕事を勝手にのんびりとやっていたところへ「ちょっと済まないが、手が空いてるならこれを××デパートまで届けてくれないか」ときた。おいおーい、この会社は計算機屋の俺をただのパシリに使おうってのかい?まあいいさ、マジ忙しくて猫の手も借りたい有様なのは判ってる、今日の俺はその猫の手なのさ、とかなんとか思いながら、お安い御用だと引き受けて都内の某有名デパートのひとつへ向かった。天気もいいし、散歩がてらでいいわけだ。時間を急かされてるわけでもない、パシリにしてもいいご身分じゃないか。

実際には裏口から入ったわけではない、表から堂々と入って店員のひとりをつかまえて用向きを告げ、そして通された事務室で目にしたその光景を、わたしは今でも忘れることができない。その売り場の事務室は、驚くべし階段の真下にあった。天井がナナメに、それもかなりの急勾配で(そりゃあ、その真上が階段だからな)ついていたのだ。

じっとしていても次第に平衡感覚が狂ってしまいそうな事務室というものを、わたしは見たことがなかった。いくらなんでも、これはあんまりじゃないのかと思いながら、受取伝票の出てくる間その事務室で待機しながらあたりを見回していると、これもいったい、何と言ったらいいのだろう、なんたらグループ全体のそれに始まって、そのデパート・チェーンの、さらにはその店の、フロアの、業務刷新キャンペーンだか何だかのポスターが、あるいは手書きで書き殴ったような代物が、四方を囲んだ壁面の、さらにはナナメについた天井にまで、いたるところ貼り散らかされていたのだった。

それはデパートでなくても営業主体のオフィスなら、外側からは頻繁に見かけるたぐいの光景ではあった。でも外から眺めているのと、その中に自分が放り込まれているのとでは、やっぱり違うわけなのだ。率直に言って、そのひとつひとつに夥しく書かれた煽り文句のいちいち激越なことといったらなかった。いわく「最後までやり抜くぞ!」「△△精神で目標達成へ!」「さあ頑張ろう!」どこを見回してもこんな、心底嫌らしい字句ばかりが目に飛び込んでくる。ハタチを過ぎたばかりのわたしは肝を潰しかけていた。いや、たぶん完全に潰れていた──もう伝票などいらない、もう沢山だ。誰でもいい、今すぐ俺をこのナナメ天井の部屋から救い出してくれ。何度もそういって喉元まで出かかったのを、わたしはかろうじて呑み込んでいた。

ようやく伝票を受け取ってデパートの外に出てきたわたしの口から出てきたものは、しかし呪詛でもゲロでもなく哄笑と溜息の反復だった。なるほど、今日の俺は納入業者の走り遣いでここに来たわけだ。でも明日は客かもしれない男なわけだ。そんな俺に、あんないかがわしい事務室の内側風景を奥の奥まで見せつけちゃったりなんかして、このデパート大丈夫なんだろうか。いやあ大丈夫じゃないさ、おそらくは今日の俺がどんな思いをしたことか、そんなこと考えてみもしないやつが経営者の、あるいは上中下の管理職の顔をしては、その部下どもに向かってなんたらの叱咤やら訓示やら、甚だしきはビジネス哲学の託宣までを食わせているのであることだなあ、アハハハハ──はぁ。アハハハハ・・・



重要なのは、その光景を眺めてしまって以来、わたしは、そのデパートはもちろんのこと、どこのデパートにせよそれらしい店で買い物すること自体、ある種の嫌気を覚えずにすることは、できなくなってしまったということだ。そうでなくても大人の男がひとりでデパートに行くこと自体、あんまりないわけだが、それでいよいよわたしの足がデパートから遠のくことになったのは間違いないのである。

そうは言っても不思議というか、滑稽なことではないかと後から思ったものだ。デパートの経営者は客が喜んで財布のヒモを緩めてくれるように、ありとあらゆる装飾の手口を駆使してその店内を飾り立て、客を浮ついた気分に誘い込もうとしては、ほとんどいじましいまでに日々努力しているわけなのだが、案外つまんないところでその目論見は破綻してしまっているではないか、ということだ。つまりデパートの経営者は、おそらくは無意識のうちに、デパートの従業員や納入業者とデパートの客はまったくの別人種で、社会的に決して重なり合うことのないふたつの隔離された集団だと思い込んでいるのである。実際、そうとしか思えないではないか。

考えてみると、歴史的な時間スケールでいう「ほんのちょっと前」までなら、そのようなモデルはかなりの妥当性を持っていたのかもしれない。たとえばわたしの祖母や曾祖母のことを考えてみると、彼女達はデパートの客になることはあっても従業員や納入業者になることは、まず金輪際あり得ないと言っていいような人達であった。わが祖母や曾祖母を彼女らの世代の典型的な女性像とみなすことが妥当である限り、彼女達の時代におけるデパート──もっとも、わが祖母や曾祖母は「デパート」などとはめったに言わなかった。「百貨店」とさえ呼ばなかった。店はいつでも屋号の固有名詞で呼んで、必要もないことで一般名詞は用いなかった。それが昔の人である──は、確かに表玄関だけ飾りたてた場所であって構わなかったに違いない。

だがそこから先の時代はどうだろうか。わたしの母親の世代になればもう、そのモデルは少しずつ綻んでいたはずである。わたしの母はデパートの従業員ではなかったが、長年勤めた銀行員だった。銀行員といっても女性だから、長年勤め上げたってせいぜい窓口とか出納業務とかの範囲で「主任」とか「リーダー」とか呼ばれる程度の、あってもなくても大差がないような肩書しかつけてもらえなかった。でも、ある意味ではそれだけに地元企業の裏口や事務所内の光景のいかなることになっているかは、いつでも想像のすぐ手が届くところで、ずっと仕事をしていたのだとも言える。ただ、そうであってもわが母の表情の上にそのような想像の働いた形跡を見たことは、ほとんどなかったから(笑)、綻びはあっても潜在的にあっただけだったと言うべきだろう。

そしてわたしの世代である。わたしはある意味では「感心な息子」で、自分の親に向かってその仕事のことを、自分からつけつけ尋ねたりするようなことは決してしたことがなかった。それはコドモの分際がその親に尋ねていいことではないということを、ほかならぬ台所の主たる曾祖母が、その背中で教えてくれていたのだ。それでも、ここに書いたことくらいは自然と察せられる程度には、何とはなしに聞かされながら育ってきている。本当はすぐ手の届くところにあっても母親のしなかった想像を、その息子であるわたしは軽々とやってしまうことができる。男の子のわたしがそうなら、同性の女の子ならもっと明瞭に具体的に想像が働くようになっていたのに決まっているのだ。

ここにおいて、わが国の歴史上初めて(!)デパートの客であってかつデパートの従業員でもありうる、ただ身分的にそうなのではなく意識的にもそうであるような世代が登場したのである。表玄関のみ飾りたてて裏口を小汚いままに放っておくデパートのビジネス・モデルが実態としても崩壊しはじめる時は、何度も言うが「歴史的な時間スケール」で、すぐ傍まで迫っていたのである。

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顧客と従業員の弁証法

2009年04月05日 | わけの判らぬことを云う
コドモのころから不思議というか、こういう風景は嫌だなと思っていることのひとつに、デパートやスーパー・マーケットの裏口付近の風景がある。どちらも客に向けた表面はあんなにキラキラと飾られているのに(笑)、従業員や納入業者だけが出入りする裏口といったら、どうしてどれもあんな風に、とことんまでみすぼらしい作りになっているのだ、と思ってしまう。

ああした店の表面がとことん飾りたててあるのは、それも顧客サービスの一種であって、これでもって客を誘い込んでは、サービスした以上の金を吐き出させてやる、吐き出すまで逃がさんぞ、ということだというのは判る。商売とはそんなものだ、これが判らないのは世間知ラズだという意味で、別に文句などつける気はさらさらないのである。虚飾というが、虚飾のないところに経済成長もなければ豊かな社会もありはしないのである。

問題はその虚飾がたまさか、その動機とともに悉く剥がされてしまった後の風景のみすぼらしさである。それが我々自身の日常生活よりもっとみすぼらしい、そういう言葉はないが強いて名づけるなら、わざとのような虚醜の光景だということに、わたしは違和感を覚えるのである。

着飾って街を歩けば男という男の目を釘付けにして離さないたぐいの美女であっても、自室でひとり寛いでるときはすっぴんのジャージ姿で寝転んで、タバコはマイルドセブン・ライトか何かを燻らせながらテレビのワイドショーか何かに見つかって、そんでもって時々下品な笑い声を上げていたりするというのは、別にいいのである。百年の恋も醒めるなどというが、百年の恋をナメてもらっては困る。

そういう、ミもフタもない日常生活モードの美女と一緒にテレビの低俗番組に見つかりながら、バカみたいな世間話を切れ目もなく飽きもせず延々と続けていたというような経験は、わたしはほんの片手で数えられる程度しかしたことがないのだが、今でも忘れがたい幸福な日の記憶であったりする。

この世界から虚飾のすべてを剥ぎ取ってしまったとしたら、みんなデパートの裏口みたいなひどい風景になってしまうのかと言ったら、決してそうではないはずだと言いたいのである。無駄に豪華だったり賑やかだったりする虚飾は虚飾で、当然あっていいものなのだが、それがないところでは人間はどんな幸福感も得ることができないというわけではないのである。

だからデパートの裏口は、そんなつもりがなくても不自然に、わざわざ荒涼として、いたるところ薄汚れていて、どういう価値観から眺めても不快な風景を作ったもののように、わたしには見えるし思えるのである。資本主義が是正されなければならないとしたら、搾取がどうとかいうことよりも、それどころか他のどんなことにも増して、これこそが最も是正されなければならない。また是正できるはずだとわたしは思っている。

それをひとくちに言えば「営利企業が最も大事にしなければならないのは顧客の利益である。次は従業員の利益である。その次が投資家の利益、そして最後の残りカスが経営者の利益だ」ということになる。

途方もない言い草だと思うかもしれない。事実途方もないことであるかもしれない。ただ顧客の次は従業員だとわたしが言う意味は、はっきりしている。すべての企業のすべての従業員は、別の局面においては顧客でもあるということだ。たいていは勤めている企業とは別の企業の顧客だということになるが、ある意味ではそうだからこそ、従業員はその企業の顧客に準ずる存在だとも言えるのである。

少し景気が悪くなると従業員の首を無造作に切ったり、首を切らないまでも明に暗に嫌がらせを仕掛けて職場の雰囲気を暗くするような経営者、またそれを操っている投資家は、それは別の企業の従業員である顧客の不興を買うようなことを、わざわざやっているようなものだという意味で、実質上の最終的にはその従業員から復讐されずにはいないだろうということである。

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「組織集団の行動制御技術」は個人化可能であるか

2009年04月05日 | わけの判らぬことを云う
このblogは、本来は哲学的考察のblogだから、わけのわからないことはできるだけ書かないようにしよう、とはしているのだが、書いておかないと忘れてしまいそうなことは書いておく。

わたしはたとえば、自分の行為がマーケティングか何かに黙って利用されるのが嫌で、いまどき電子マネーも持っていなかったりする。現金と違って電子マネーには「名前が書いてある」。だからそれで買い物すると、いつどこで誰が何を買ったのか、少なくとも電子マネーの元締には漏れなくわかってしまう仕掛けになっているわけなのだ。名前が書いてあるのはクレジットカードでも同じことだが、クレカで買うのは書籍とかPC関連の品物とかだ。わたしにとって身近な品物ではあるにせよ肌着のように密着しているわけではない。よほどの猛者でなければクレカでエロ本を買ったりはしない(そういう猛者がたくさんいるのは知ってるけどさ)ように、コンビニ弁当なども買ったりはしないわけである。

そういう嫌な予感のしない、現金同様「匿名」でものが買える電子マネーというのは作れないものかというと、たぶん作れるのだが、誰も作ろうとはしない。要は電子マネーというのは人々の消費行動を監視しつつ、そのデータを使ってマーケティングという名の神話(茶番と言ってもいい)を生産する、そこから運用コストを上回っておつりが来るほどの利益を上げられるから成り立っている、そういう仕掛けであるわけなのだ。

それは、それでもいいのだが、事実上ユーザに黙ってそれをやることが神話の構成要素として本質的なことになっているわけで、わたしなどはそれが癪に障って仕方がないのである。テレビ滅亡後のわが国でメディアを支配することになっている「地上波テレスクリーン」にはコンテンツの自由な私的複製を妨げるような毒信号が勝手に挿入されている。これも視聴者の手が届かないところで、事実上黙って行われている。また黙って行うことが「本質的」である──今のテレビ受像機とちがって、テレスクリーンの受像機は電子部品を揃えて自作するということができない。「秋葉原」の地名が実質的には滅びてしまったゆえんだ。

不愉快である。テレスクリーンなど買わなければいいのだとも言える(事実買ってないし、今後買うつもりもない)から、JR東日本や神奈川県を相手にそうするように「憎悪」まではしない、とはいえ本当に不愉快なことである。

  ※「テレスクリーン」って何だ、という閲覧者には「G・オーウェルを嫁」とだけ言っておこう。

こういうことをどう考えたらいいのかというのは、しかしそれほど単純ではない。ある程度までは技術の進歩の必然でもあるわけなのだ。そういう必然的な技術の進歩を、つまり文明を否定してしまったら、少なくともこのわたしはわたしでなくなってしまう。だが、こうした風潮をそのまま放置しておいていいとも思わない。

今のところわたしに言えることはたったひとつだ。これらの技術を一般的に組織集団の行動制御技術──いくらか人口に膾炙した言葉を使うならsocial engineeringということになるだろうが、socialという単語にはscalingのニュアンスが乏しい──と呼ぶことができるとして、これを権力が恣(ほしいまま)に用いることを押しとどめることができるとしたら、それは、その技術を知識として一般人が完全に理解し、道具さえ揃えば自分で行使することもできるくらいにしてしまうことだけである。つまり計算機が──少なくともしばらくの間は──専ら権力の道具ではなく人々の道具でありえたのは、それがゆえであったように、組織集団の行動制御技術も「個人化」してしまえばいいということだ。こう書いてみるだけだと奇想天外も甚だしいといった感じにしかならないが、アイデアとしてはそういうことになる。

どこかの国で巡航ミサイルを手製で作ってしまった人がいた。すぐに権力から止められてしまったが、今やそれは作れるのだということだけは永久にはっきりしてしまった。あれと同じことを組織集団の行動制御技術についても可能にしてしまえ、ということである。

わけがわからない?たぶんそうだろう。書いてるわたしにとってさえ、現状では本当にただの思いつきなのだ。そこで、こういうわけのわからない思いつきを並べておくだけのカテゴリを新設した。いずれ哲学の時間が戻ってきたときにこれらを回収して、改めてわけのわかることを書けたらいいと思うのだが、そううまく行くかどうかは、我ながらわからない。

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