今が15世紀で、あなたが「月世界へ旅してみたい」という強い願望を持った人であるとする。あなたは何をすべきだろうか、というのが問題である。
なぜ15世紀で、なぜ月世界旅行なのかは問わないでもらいたい。わたし自身も理由は知らない。最初にこの問いを思いついたとき、なんとなくそういう風に思いついたというだけなのだ。要は、ある社会のある時代には逆立ちしても叶うはずのない(とはいえ別の社会、別の時代には叶う可能性のあることであって、ただ当人がその社会や時代には存在することができない)望みを、どうしても諦められない強さで持ってしまった人は何をどうすれば倫理的に正当なのか、ということである。あるいは、あなたが同時代の、願望の主の親友であったとして、彼に対していかなる意味でも倫理的に正当なことが言えるか、言えたとしたらそれはどんな言葉か、ということであってもよい。
問題そのものは過去の誰かという形に設定してあるが、もちろん本当は現在の我々の問題として考えたいことなのである。過去に設定してあるのは「(当人はそこに存在することができない)別の社会、別の時代には叶う可能性がある」ことをはっきりさせるためである。月世界への旅は確かに20世紀において実現したのだから。もし仮に閲覧者が未来について確からしいことを知っているのなら、時間設定をシフトして、27世紀にならなければ叶わない(しかし27世紀には簡単に叶う)種類の望みを、21世紀の現在において抱いてしまっている自分、という風に考えてもらってもいい。まあそんな人はいないはずだから過去に設定してあるわけだ。
15世紀にそんな望みを実際に抱いた人がいたかどうかはわからない。しかし絶対にいたはずがなかったということは言えない。哲学者のよく使う言い方で言えば「論理的に可能な」設定である。
以前にどこかでこれを書いたら「どうしてそんなことを問うのか」と問い返された。どうも切実感がないらしい。この問いは実際には任意の個人の任意の行為に対する倫理的な「なぜ」の問いなのである。つまり、倫理というのが何らかの行為のクラスを正当化するような命題のクラスだとして、そもそも空でない倫理が存在することが可能なのかということである。わたしの考えでは、この問いに対する答が「そんなことは不可能だ」なら、空でない倫理は不可能だということになる。存在できるのはもっとずっと弱い倫理、つまり相対的な倫理だけだということになる。
なぜ15世紀で、なぜ月世界旅行なのかは問わないでもらいたい。わたし自身も理由は知らない。最初にこの問いを思いついたとき、なんとなくそういう風に思いついたというだけなのだ。要は、ある社会のある時代には逆立ちしても叶うはずのない(とはいえ別の社会、別の時代には叶う可能性のあることであって、ただ当人がその社会や時代には存在することができない)望みを、どうしても諦められない強さで持ってしまった人は何をどうすれば倫理的に正当なのか、ということである。あるいは、あなたが同時代の、願望の主の親友であったとして、彼に対していかなる意味でも倫理的に正当なことが言えるか、言えたとしたらそれはどんな言葉か、ということであってもよい。
問題そのものは過去の誰かという形に設定してあるが、もちろん本当は現在の我々の問題として考えたいことなのである。過去に設定してあるのは「(当人はそこに存在することができない)別の社会、別の時代には叶う可能性がある」ことをはっきりさせるためである。月世界への旅は確かに20世紀において実現したのだから。もし仮に閲覧者が未来について確からしいことを知っているのなら、時間設定をシフトして、27世紀にならなければ叶わない(しかし27世紀には簡単に叶う)種類の望みを、21世紀の現在において抱いてしまっている自分、という風に考えてもらってもいい。まあそんな人はいないはずだから過去に設定してあるわけだ。
15世紀にそんな望みを実際に抱いた人がいたかどうかはわからない。しかし絶対にいたはずがなかったということは言えない。哲学者のよく使う言い方で言えば「論理的に可能な」設定である。
以前にどこかでこれを書いたら「どうしてそんなことを問うのか」と問い返された。どうも切実感がないらしい。この問いは実際には任意の個人の任意の行為に対する倫理的な「なぜ」の問いなのである。つまり、倫理というのが何らかの行為のクラスを正当化するような命題のクラスだとして、そもそも空でない倫理が存在することが可能なのかということである。わたしの考えでは、この問いに対する答が「そんなことは不可能だ」なら、空でない倫理は不可能だということになる。存在できるのはもっとずっと弱い倫理、つまり相対的な倫理だけだということになる。