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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

もしも倫理学

2010年05月11日 | げんなりしない倫理学へ
今が15世紀で、あなたが「月世界へ旅してみたい」という強い願望を持った人であるとする。あなたは何をすべきだろうか、というのが問題である。

なぜ15世紀で、なぜ月世界旅行なのかは問わないでもらいたい。わたし自身も理由は知らない。最初にこの問いを思いついたとき、なんとなくそういう風に思いついたというだけなのだ。要は、ある社会のある時代には逆立ちしても叶うはずのない(とはいえ別の社会、別の時代には叶う可能性のあることであって、ただ当人がその社会や時代には存在することができない)望みを、どうしても諦められない強さで持ってしまった人は何をどうすれば倫理的に正当なのか、ということである。あるいは、あなたが同時代の、願望の主の親友であったとして、彼に対していかなる意味でも倫理的に正当なことが言えるか、言えたとしたらそれはどんな言葉か、ということであってもよい。

問題そのものは過去の誰かという形に設定してあるが、もちろん本当は現在の我々の問題として考えたいことなのである。過去に設定してあるのは「(当人はそこに存在することができない)別の社会、別の時代には叶う可能性がある」ことをはっきりさせるためである。月世界への旅は確かに20世紀において実現したのだから。もし仮に閲覧者が未来について確からしいことを知っているのなら、時間設定をシフトして、27世紀にならなければ叶わない(しかし27世紀には簡単に叶う)種類の望みを、21世紀の現在において抱いてしまっている自分、という風に考えてもらってもいい。まあそんな人はいないはずだから過去に設定してあるわけだ。

15世紀にそんな望みを実際に抱いた人がいたかどうかはわからない。しかし絶対にいたはずがなかったということは言えない。哲学者のよく使う言い方で言えば「論理的に可能な」設定である。

以前にどこかでこれを書いたら「どうしてそんなことを問うのか」と問い返された。どうも切実感がないらしい。この問いは実際には任意の個人の任意の行為に対する倫理的な「なぜ」の問いなのである。つまり、倫理というのが何らかの行為のクラスを正当化するような命題のクラスだとして、そもそも空でない倫理が存在することが可能なのかということである。わたしの考えでは、この問いに対する答が「そんなことは不可能だ」なら、空でない倫理は不可能だということになる。存在できるのはもっとずっと弱い倫理、つまり相対的な倫理だけだということになる。

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論理の癌(1)

2010年04月04日 | げんなりしない倫理学へ
以下は本来の意味での「チラシの裏」である。つまり思いつきを思いつくまま適当に書き並べたもので、構成とか論理的な整合性とかは何も意識しないで書いている。

ハッキングによる古典的なイタズラ(今やるとイタズラでは到底済まない)のひとつに「論理爆弾(logic bomb)」と呼ばれるものがある。どういうものなのかは適当にググって調べてもらえばいいとして、まあなんとなくそのあたりから思いついた言葉である。

とはいえ、ここでいう論理の癌(logic cancer)は計算機や計算機の網状組織とはとりあえず何の関係もない。つまり論理と言っても記号論理とか形式論理と呼ばれるもののことではなくて、人間の実際の行為やそれを行わせる力とかかわりがあるところの、その意味での論理のことである。そもそも記号論理は(比喩としても、また計算機という実体の上でも)癌化したりはしないものである。

誰でも多少は思い当たる節があるであろうわかりやすい例で言えば、たとえば「誰にも反対できない正義の主張」のようなもののことである。何でもいいが、たとえば誰かから面と向かって「xx戦争反対」と言われたら、たいていの人は言葉に詰まるか、相当頑張っても言い淀んでゴニョゴニョと、何やらわけの判らぬことを言うのが精一杯ということになるのではないだろうか。

それを「論理」と呼ぶ理由は単純だ。「xx戦争反対」の主張は形式的に、たとえば否定する(否定の単項演算を適用する)ことが可能な論理命題の構造を持つものとして見ることも可能だということである。ひとつまたは複数の論理演算(の集合)を考えたとき、その演算に関して閉じている命題の集合またはクラスの全体を論理と呼ぶわけである。「演算に関して閉じている」とは、任意の論理命題に演算子を適用した結果はやはり論理命題で、論理命題以外のものにならないということである。「演算に関して閉じていない」場合の最もわかりやすい例は除算である。整数であれ実数であれ、0による除算の結果は整数でも実数でもない。除算は通常用いられるような数体系に関しては閉じていないのである。

論理演算の場合、演算子はすべての命題に適用可能であるのが普通だから、演算子の適用前と適用後で論理の全体はいかなる変化も被らない。その意味で、普通の記号論理におけるすべての論理演算は同型だということもできる。記号論理は癌化しないというのはそういうことだ。演算によって体系が変化しないのだから、癌化することも当然ないのである。

ともあれ形式的には「xx戦争反対」は簡単に否定することができて、その結果は「xx戦争に大なり小なり賛成」だということになる。だが現実の会話においては、そんなことは普通は誰も口にすることができないのである。いや、口先で言うだけならできないことではないし、また、場合によっては信念として「xx戦争に大なり小なり賛成だ」を持つことも可能であるに違いない。しかしそうだとしても口にはできない。言えば明らかに邪悪なことを言うことになる。仮に口先でそう言うことができたとしても、それは全員から言下に拒絶されてしまうだろう。言下に全員から拒絶されることが明らかな主張をわざわざする意味はないという意味では、「xx戦争反対」の否定命題は、この(人間の実際の行為やそれを行わせる力とかかわりがある)論理においては存在しないと言ってもいいのである。

閉包性や同型性を満たさない論理は癌化しうる。

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ある駅前の光景

2010年01月24日 | げんなりしない倫理学へ
わたしが住んでいる街の最寄駅は数年前に地下化工事が完成した。それに伴って駅前は広くなり、踏切もなくなった。これ自体はまあ、結構なことだと言っていいはずのことだ。ところが、踏切がなくなった後はそのまま道路になるのかと思っていたら、そうではなく、何やら変なロータリーのようなものになってしまい、歩行者はわざわざ迂回して歩かなくてはならなくなってしまったのである。

迂回と言って、それほど大きな回り道ではない。直線距離に直してほんの数十メートル程度の小さな差にすぎない。だが、こういうのはどうも釈然としないものを感じるわけである。なぜと言われても、そう感じるのがわたしなのだとさしあたり言っておくしかないことだ。で、実際、ロータリーと言ったってごく小さなものであるし、タクシーとバス以外のものが通っているのを見かけることはほとんどない。だから、たいていは以前の通りまっすぐ横断している。

最初のうちは単に、これまでまっすぐ横切ってきた道を、わざわざ遮るようにロータリーが作られて迂回しなければならなくなったということが「なんとなく釈然としない」から、いわば軽いイタズラの感覚でそうしていただけだった。もし咎められたら空とぼけて走り去れば済むことだし、わざわざ咎めだてする者もあるまいと思われたことだった。だが、しばらくしてあることに気づいた。そうやってロータリーを横切って歩いているのはわたしだけではなく、おそらくはこのあたりに住んでいる婆さん達の姿もあったのである(不思議なものだが、そういうことをするのは全部婆さんで、爺さんはいないのだ)。

それを見て、わたしはわたしの軽いイタズラを「いくぶん本気」程度まで格上げしなくてはならなくなった。

ほかでもない、その婆さん達の姿や表情というのが、遠い昔、幼いわたしの手を引いて、普通にクルマがびゅんびゅん行き交っているような大通りを、何食わぬ顔してずかずか横断して歩いた曾祖母の姿や表情に重なって見えたからである。その小さなロータリーは、今のわたしのような中年男性なら何の不安もなくスタスタ渡れる程度のものだが、杖代わりにショッピング・カートを押して歩いているような、よちよち歩きの老人にとっては、ひょっとすると危ない場面があるかもしれないと言えなくもない。そうだとすれば、これはもはや軽いイタズラではない。わたしははっきり意図的にこのロータリーを横断しなければならないのである。

おそらくこれをうっかり読んだ人は、わたしがいったい何を言おうとしているのか、まったく理解できないだろうし、わたしのしていることはもっと理解できないだろう。わたし自身も、たまたま自分が同じ方角から歩いてくるのでなかったら気づかなかったに違いない些細な光景である。しかし気づいてしまったからには、わたしはわたしの哲学と倫理を挙げてこの行動原則を貫徹しなければならない。「実践はない」という禁を破ることにはなってしまうのだが、別に誰のためでもない、わたし自身の閉じた思いとその行為にとどまるものだ、ということで許容することにする。

最近になってそのロータリーにはロープが張り巡らされ、ご丁寧に「横断禁止」の貼り紙までつけられてしまった。ここまでされては、老婆の人達はもはや横断することはできないかもしれない。たぶんその光景は見られなくなるだろう。ひとりわたし自身を除いては。

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理想を作り直す(4)──茶番と革命──(付記)

2009年03月22日 | げんなりしない倫理学へ
本を薦めておいてボロクソにけなすたあどういう料簡だとお怒りの方もいるだろう(スターリンはともかく、レーニンやトロツキーは今でもファンが多いんだよねえ)が、まあそこはどうか許していただきたい。今みたいなひどい(ひどすぎる)世の中で「国家と革命」なんかをぼんやり読んでいると、マジで「夢よ再び」みたいなことをうかうかと考える人が出て来ないとも限らない、と思うわけである。それほど強い魅力を、今なお放っている本だとわたしは思っているのである。ただその魅力を堪能するにしても、哲学思想として、あるいは実践的な理念としてどこが駄目なのかは見極めた上で堪能してもらいたいのである。歴史的な事実は確かに駄目だったのだから。

前と同じ個所をもう一度引用する。

…問題は、労働が平等であること、労働基準が正しく守られること、給付が平等であることに尽きる。そういった労働や給付の集計・管理は、資本主義のおかげで極度に簡略化され、点検と帳簿付け、算数の四則計算、受領証の発行など、読み書きのできる者ならだれでもこなすことのできるごく簡単な作業と化している。

ここだけ読むと、半世紀後のパソコン屋の理想のイメージそのままが語られていると言っても過言ではないのである。ひとくちに「帳簿つけ」などと言ったって、本当の簿記はそう易しいものではないし、それが大企業の経理とか国家規模の予算編成とかになったとき、本当にただの普通の事務員レベルの能力でそれがこなせるかというと、ロシア革命の当時ではすこぶる怪しいというところがあったはずである。また事実できなかったから、ソヴィエト・ロシアはいったん追放したはずの帝国官僚を再び高給と特権つきで雇い入れることを余儀なくされて行ったのである。

「だったら」と、半世紀後のパソコン屋があらぬことを空想してもおかしくはなかったのである。実際、高校生のころのわたしは、かなりそれに近いイメージの未来を空想したことがあったのである。そしてそういう空想に耽っている間は、次のような箇所は読み落としていたわけなのだ。いや読み落としていたわけではないが、ここが重大なのだということに考えが回っていなかった。

社会の全構成員あるいは少なくとも大多数がみずから国家の管理を習得し、みずからこの事業を引き受ける。そして、ほんの一握りの資本家や、資本主義の悪習を維持したいと願う紳士諸君、さらには資本主義に染まって堕落しきった労働者を対象として、監督を「発進させる」すると、まさにその瞬間から、いかなる管理にせよ管理の必要が全般的に消滅し始めるのである。(中略)なぜか。その理由はこうである。全員が社会生産を自力で管理することを覚え、実際にも管理を行うようになり、また寄食者や高等遊民、詐欺師、そしてそれと類似の「資本主義の伝統を保っている者」を調べたり、監視したりするようになると、全国に及ぶこの検査や監視から逃れることなどまず不可能となる。

第五章「国家死滅の経済上の原理」pp191-192より引用

レーニンの見落とした(そして高校生のわたしも軽くみてしまった)ことを補った上で言い直せばこういうことだ。どうして国家の死滅ということがありうるのか。それは国家が有機体(organism)としての構成を持っているから、つまり生き物(organism)だから、死ぬときは死ぬのだというに尽きる。いいかえると、上記引用でレーニンが描写している国家死滅の描像は、「寄食者や高等遊民、詐欺師」などの存在を不可分に組み込んで有機的に構成されていた国家の構成を、資本主義的生産体制のもとで極限まで機械化された(さらに革命的に武装した)労働者集団によって構成される容赦ない冷徹な機械的監視体制に置き換えるということにほかならないものであった。

レーニンはご丁寧にもすぐあとの註記の中で「武装労働者は実生活を送っている人間であり、感傷的なインテリではないので、甘く見られることを許さない」と書いている。なるほど労働者はインテリ的な感傷から監視を甘くするということはないだろう。だが本当は労働者といえども「実生活を送っている人間」としてだけ存在するわけではない。先日紹介した「支配と服従の倫理学」という本の中でも縷々解説されているように、労働者であるかそうでないかにかかわらず、人間はアイヒマン実験のような機械的体制のもとに置かれれば、実生活に根ざした常識的人倫などをたやすく踏み破ってしまうような存在に、誰でも直ちに変貌しうるのである。

もちろんアイヒマン実験は第二次大戦後のアメリカで行われた心理学実験だ。そのもとになったナチスの蛮行とともに、人間がそれほどまでに底の抜けた生き物だとか、あるいは、生き物というのはそもそもそれ自体底の抜けた存在なのだという洞察を、1910年代のレーニンが具体的実践的には持たなかったとしても、無理からぬことだったとは言える。だが本当はごく曖昧になら知られていたはずだ。それは、レーニン自身が私生活では愛好しながらも、実践家としては嘲笑的に無視しようとした「インテリ的な感傷」に満ちたブルジョア文芸の洞察の中に散りばめられていたはずであった。

(この項おわり)

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理想を作り直す(3)──茶番と革命──(承前)

2009年03月21日 | げんなりしない倫理学へ
普通にシリーズ化してもろくに続かないくせに、こういう時に限って続きを書いてみたくなるのはなぜだろう。

先に紹介したちくま学芸文庫版「国家と革命」の訳者角田安正は、そのあとがきでレーニンの失敗を専ら「官僚機構の肥大化を防げなかったこと」に見ようとしている。わたしにはそう思える。それ自体はもちろん事実なのだが、官僚機構の肥大化を防げなかったと言ったら、旧ソ連ほど極端ではないにせよ、20世紀の文明先進国の政府はどこでも、大なり小なりそうだというところがあるわけである。わが国とて例外ではない。だいたい、わが国はしばしば内外から「最も成功した社会主義国」だと揶揄的に言われたりするほどではなかったか。

わたしの考えでは、旧ソ連の失敗というより、20世紀の社会主義が理想の実現どころか、かつてない世界的な災厄の元凶のひとつにすらなったことの、その本質的な理由のひとつは、この「国家と革命」にあらわれたレーニンの実践的な方法論そのものにある。つまりソヴィエト革命の成功も、その後の災厄も、ひとしくこの一冊の本にあらわれたレーニンの思想からもたらされたのである。どういうことかというと、

集計と管理は、共産主義社会の第一段階を「発進」させ、正しく機能させるのに必要な主要な要素である。(中略)すべての市民が、国民全体から成る一個の国家「シンジケート」の事務職員および労働者となるのである。問題は、労働が平等であること、労働基準が正しく守られること、給付が平等であることに尽きる。そういった労働や給付の集計・管理は、資本主義のおかげで極度に簡略化され、点検と帳簿付け、算数の四則計算、受領証の発行など、読み書きのできる者ならだれでもこなすことのできるごく簡単な作業と化している。

人民の大半が全国各地で自力で、このような集計を実施し、またこのような管理を、(今や事務員と化した)資本家や資本主義的態度を残しているインテリ諸氏を対象として実施し始めると、それは文字通り包括的、普遍的なものとなり、国全体に及ぶ。それを免れることはできなくなる。「どこにも身を隠すところがなく」なるからである。

社会全体が、労働も賃金も平等な一個の事務所ないし工場となる。

第五章「国家死滅の経済上の原理」pp190より引用。傍点は省略

ぼんやり読んでいると、今でさえレーニンは至極もっともなことを言っているように思える。事実もっともな話であったからこそ、ソヴィエト革命は(革命政権の樹立と、そのもとに置かれた社会の支配には)成功したのだと言える。

なるほど資本主義的生産機構の中の労働者は、その生産機構の(唯物論的な意味で)実質的な過程のすべてを担っていると言っていい。だから革命とは、その上でふんぞり返って収奪を正当化している支配階級の「茶番劇」を吹き飛ばしてやりさえすれば、それでいいのだということになる。レーニンの唯物論的に言えばその茶番劇に生産的な実質などは少しも認められない。だから、革命によって労働者は支配階級の搾取から解放されこそすれ、そこに手に負えない無秩序が出現するということなどありえない。社会の生産的な実質はそれ以前と同様、仕事は勤勉実直、倫理的にも清潔厳粛な労働者達が担い続ける。

職制上の構造に沿って(つまり、直接には上司から)降りてくる支配階級の無意味無内容な御託やら三百代言やらに振り回されることがなくなる分だけ、仕事はむしろはかどるようになるはずだと、レーニンはたぶん本気でそう考えていた。要は「上司がバカだから」というサラリーマンの愚痴を最大限まで引っ張り上げたとしたら、何がどうなるべきかということをレーニンは言っているのだ。

レーニンは何を見逃してしまったのか。簡単に言えば労働者大衆は機械ではない、人間だということを見逃してしまったのである。むろんレーニンにそのつもりはなかっただろうが、彼の唯物論の枠組みにおいては機械と人間存在を区別する究極の根拠は存在していなかった。いいかえるなら、レーニンのハゲ頭の内側では、上記引用のごとき記述が、ブルジョアでもインテリでもない普通の労働者にとってさえ「げんなりする」ような響きをもつ何事かだということが理解されてはいなかったのである。

(もう少しつづく)

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理想を作り直す(2)──茶番と革命──

2009年03月20日 | げんなりしない倫理学へ
唐突だがこの本をおすすめしてみる。
国家と革命 (ちくま学芸文庫)
ヴラジーミル・イリイッチ レーニン
筑摩書房
楽天ダウンロード
いつ読み返しても、またこれが前世紀の全体主義(共産主義)の悪夢を象徴するテキストのひとつだと判ってはいても、やっぱりこれは名著だよ、と思ってしまうのは、この本の中でレーニンは「議会制民主主義などというが茶番ではないか」という意味のことを、はっきり言いきっていたりするからだ。

事実それは茶番なのである。ほかの言葉はまったく見当たらない。20世紀初頭の当時にそうであったことはもちろん、21世紀初頭の現在でも、もちろんわが国においてもまったく変わらずにそうなのである。全体主義(共産主義)がどうであるかとは関係なく、ほとんどの人にとってまったくどうでもいい、毎年々々莫大な国費を投入しては、いいトシこいた大人達が愚にもつかないサル芝居のごときものを延々と演じたり、あるいは官僚の作文した台本に書かれた漢字を棒読みすることすらまんそくにできないで演じ損ねたりしながら、ろくな客もつかないところで空前絶後のロングラン記録を更新し続ける愚劣な茶番劇であることに違いはない。

むろん逆説的に言えば、それが愚にもつかない茶番劇であればこそ、そんなものを独占することが名誉だとは誰も考えないから、かえって民主主義の本義にとっては結構なことだという面もないことはない。議会はむしろどこまでもデタラメであってくれた方が、利権という利権は悉くシャッフルされて確率的に全員平等に行きわたるということが、非民主主義のご立派な制度によるよりは、よほどありそうなことではある。なまじ巧妙にできたモデル駆動の制御装置よりも、モデルの精緻化などは大方放棄して統計的な最尤性だけに依拠した方が、よほど頑健で安定性も高い制御が達成されるということは、制御ではよくあることである。

まあ、そうだとしたら国政などはサイコロひとつで十分ではないか、ということにもなる。それはそれで悪くもないかもしれない。ダムや高速道路を作ると決めたのは地元名士とつるんだ自民党だとか、反対するのはそれが死んだ後でもソ連に遠隔操作されてる左翼党派「市民」だとかいうことがあったりするから、いちいちいらぬ騒ぎが起きたり、関係者の間に長年の不和や怨恨が積み重なったりするので、あれはまさにサイコロで決めたのだということになったら、そんなことに賛成も反対も無意味だから、かえってことが合理的に進むかもしれない。また個々の住民の命や生活習慣のかかった事柄であれば、誰もそんな重大事をサイコロの出目なんぞに委ねたいとは思わないから、(国家の名のもとでの)戦争とか環境対策(という名のバイオポリティクス、現代世界における最新の茶番だ)とかは自然と放棄されてゆく格好になるのではなかろうか。

これ自体はもちろんバカ気た空想だが、十分な現実的な根拠を見出しがたいという意味での空想で、ゆえに哲学的な空想としてはいましばらく固執してみたいところである。



しかし驚いた。いつものようにアフィリンクを作ろうとしたら、上掲のちくま学芸文庫版を含め、「国家と革命」の邦訳書は基本的に現在すべて絶版扱いである。古書は法外な高値がついている。唯一残っていたのが上の「ダウンロード版」と称する電子出版であった。それを購入した上、読むためには専用のアプリケーション(これは無料である)が必要である。

なお、上掲画像はリンク先で表示される画像を(このblogの他のリンクのサイズに合わせて)縮小した上、元画像にあった余白をトリミングしたものである。

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死について

2009年03月18日 | げんなりしない倫理学へ
中島義道の「哲学の教科書」には、あらゆる哲学の問いは(自分の)死についての考察に収斂して行くのではないか、といったような意味のことが書かれている。わたしはそうは思わない、というより、そうは思わないことにしている。それはなんでか、ということと、この一文を哲学ではなく倫理学のカテゴリに含めることの理由を、ともども示すのに好都合な詩がある。

生きていくことに怖れを感じていた幼年時代だったら
若くて死に憧れていた母が一緒に死のうと言えば
ぼくは黙ってうなずいたであろう
生きることより死を受入れるほうがずっとたやすかったろう

生きることに困難を覚えていた青年時代だったら
一瞬の激情で死に突入していたかもしれない
世をも人をも厭いつつ生きていて
死と生が秤のうえでゆれながら均合っていた

ところが遅れてやってきた壮年時代に入ると
生きていくことがだんだん心地よくなってきて
死は単なる事実になり
生きることに怖れも困難も感じない髪の毛の薄い男になっていた

此頃はてんで死のことなど考えやしない
オーバーウェイトで引退したボクサーみたいに
ときたま死の匂いを発散させる若者に出会ったりすると
嬉しくなって「やあ、やあ」と肩を叩いたりする始末だ

惜しまれる死に方をしなかったことで
生きていることが心苦しくならなかったことで
多分ぼくはまちがっているのだろう
口笛を吹きながらするシャドー・ボクシングが死のレッスン。

鮎川信夫「死について」全,1976

そういうことだ。ちょっとやそっと死についていいこと考えてみせたって、トシをとったら痩せこけて暗い眼をしたワカモノの肩を叩いては「やあ、やあ」になってしまうのでは、しょうがないではないか。鮎川はこの詩を書いて十年くらい後に亡くなったが、生前のいつだったか「漱石や啄木といった人達が、仮に戦争期まで生きていたとしたら、どんなくだらない戦争賛美の詩歌や小説を書いたりしたことか、わかったものではない」という意味のことを語っていた。

「死について」の問いが哲学にとって肝心なものだという中島義道の言い分はそんなに間違ってはいないと思うけれど、すべてがそこに収斂して行くというほど重大でもなければ絶対的でもないだろうとわたしは思う。ほかにも、考える気があるなら考えた方がいいことはたくさんあるわけなのだ。この詩にあるように、齢を重ねるにしたがって問いそのものが自分の中で拡散して行ってしまうのを、本当はどうすることもできないという不条理のことだって。
詩一篇をまるまる引用するのが気がとがめたので、一応リンク。古書なら買えるようだ。
上記引用もこの全集版から。
全詩集 鮎川信夫全集第1巻
鮎川 信夫
思潮社
Amazon
なお、Amazonには画像がなかったので、以下のblogにあったものを勝手に借りてきてサイズ調整等加工した。

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「制度」について

2009年03月01日 | げんなりしない倫理学へ
口上の(3)にある「制度」は、常識的な意味でのそれとは違って、非常に広い意味で使っている。一番わかりやすく言えば「通信プロトコルのようなもの」で、一般に伝達(communication)の成立にかかわるもの、ということだ。計算機どうしの通信でも、両者がプロトコルを共有していなければ、情報の伝達はできない。人間の言語も同じことで、言語が伝達を達成することの必要十分条件は、それを支えている制度が存在するということであるはずだ。

だったら制度と言わずに伝達と言ったらいいじゃないかということになるが、そうしない理由があるわけだ。ひとつは、学術的な定義はいざ知らず、多くの人は伝達ということを双方向的な対話と同一視している。だがわたしの考えでは伝達の基本形式は一方向的なものであって、双方向的な伝達(対話)とは単にそれが二重化したものだ。もうひとつ、伝達を強調すると、制度ということがあたかも伝達をミクロとするマクロな自己組織体だという考えを、暗黙に強調しすぎることになりそうだからだ。

本当のところ、わたし自身が複雑性の研究に携わっていたのだし、そう考えたいと思っているところもあるわけだが、しかし、だからこそ、そのような描像からは最も重要なことのひとつが抜け落ちてしまう、ということに無自覚ではいられないのである。制度ということが伝達をミクロとするマクロな自己組織体だというと、それはまるで「話し合いによる解決」のようではないか、ということだ。事実、心の底ではそんな風なことを考えている人が、伝達理論の領域でもたくさんいるわけである。彼らの考えでは、したがって、伝達は多ければ多いほど、個人にとっても社会にとってもいいのである。さすがに公の場でそういうことを口にする人はそんなにいないが、私的な場面では「だからヒキコモリのワカモノはよくないのだ」などといった単調なことを真顔で言う人を、わたしは何度も目に耳にしている。

「げんなりしない倫理学」は、そういう単調な伝達理論の戯言に抗して「そうではない」という、その根拠を明らかにするものでなければならない。制度は確かに「話し合い」の結果として作り出されることもある。だが現実の制度のほとんどはそういうものではない。たとえば我々の使っている日本語は、いま生きている我々が「話し合い」の結果として作り出したものではない。また「話し合い」の結果として成立した制度は、あまりにしばしば表向きの建前であって、実質はまるで別の制度が支配する、そのための好都合な隠れ蓑としての機能しか持っていない場合が多いのだということを、我々は誰もが知っているはずである。

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理想を作り直す(1) ──「ご主人様」のディレンマ──

2009年02月23日 | げんなりしない倫理学へ
わたしはコドモの頃から「理想がいつか実現したとして、その実現した後の世界では、俺はいったい何をすればいいのだろう(人々はそこで何をするのだろう)」ということが謎だった。その謎を蒸し返してみることにする。

表現の仕方はいろいろに考えられるのだが、ここでは「『ご主人様』のディレンマ」と呼んでみたい(かの有名なヘーゲルの「主人とドレイの弁証法」とは、また別の次元の話だ)。理想的に従順なドレイを手に入れた「ご主人様」なるものがいたとしよう。たとえば、自分がそんな立場に置かれた場合を考えてみると、その「ご主人様」であるところのわたしは、きっとひどく退屈してしまうに違いない。理想がそんなに退屈であっては困るのだが、さりとて逆に、決して退屈しない相手としてのドレイを考えると、それはどう考えても理想的に従順なドレイではありえなさそうである。

もちろん、わたしはここで意図的に「ドレイ」という言葉を使っている。どうしてもこのドレイという言葉に引っ掛かる人は、とりあえず理想的な家事(メイドサーバント・)ロボットのようなものが作られるようになった、そういう未来世界を想像してみてもらいたい。そうすると、そのロボットはあらゆる意味で理想的な人間の特徴をすべて備えているはずである。つまり、それは人工物であり機械であるかもしれないが、所有者の使役する存在としては、(いかなる場合も理想的に従順に振る舞うことだけは別として)人間と区別がつかない何かでなければならないはずだ、ということである。そういう機械を、所有者の恣意的な命令に沿って使役しようというのである。筆者の考えでは、それではまったく、人間をドレイ扱いすることと変わらないではないか、ということになるわけである。

現に家事ロボットのようなものは世界中で、いな、特にわが国において非常に熱心に研究されていることは、周知の通りだ。けれどもそういう次元まで本気で考えている研究者というのは、当然と言えば当然なのだが、まあ皆無だ(笑)。学生の中にはエロゲおたくがいて、時々はそうしたことを考えないでもない青春もあるだろう。でもこういうことがいちいち気になるようでは、優れた研究者には絶対になれない(笑)。だから、ここでは「ドレイ」という嫌な言葉を、わざと使っているのである。

「人間」の定義が不明だと言うかもしれないが、ここではご主人様とドレイの関係で考えているわけで、それ以外の存在をまったく考慮の外に置いている。だから、人間とはご主人様のことだとしておけば、ここでの議論ではそれで十分なのだ。ご主人様が(彼にとっては人間そっくりの)ロボットをドレイのように使役しようとすることは、したがって、ある観点からは、人間である自分がドレイ扱いされることと同じように屈辱的なことだということになってしまうはずである。実際にそういう事態が訪れることはなかったとしても、人間の精神は、ただ論理的な可能性としてそうだというだけでも十分に屈辱を感じるようにできている。

何にせよ理想を追求すると退屈になる(理想それ自体から手ひどく裏切られる)し、退屈の方を解消しようとすると、その解決は間違いなく理想からは遠く離れたところに焦点を結んでしまう。どっちに転んでも理想の実現ということはまったく不可能だということになってしまう、というのがこのディレンマの含意である。

(つづくのか?)

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責任のいらない自由

2009年02月22日 | げんなりしない倫理学へ
とりとめのないことを書く。

「自由意志」のところでは「責任と自由」という本を薦めていたりするくせに何だ、と言われてしまいそうだが、わたしは日本語の「責任」というコトバが大嫌いである。また、ひょっとするとそれ以上に「自由と責任」という対語表現が嫌いである。「好きではない」のではなく、感情を籠めて明確に「嫌い」なのである。「責任と自由」を紹介したときにも書いたが、感情を籠めて嫌う理由ははっきりしている。日本語の「責任」はずばり「吊るし上げ」のことであるか、それを示唆する形でなされる脅迫の意味しか持っていないからだ。それは言葉の通俗的な意味であって学術的にはそうではない、などという言い訳(学術的にはresponsibilityの直訳だということくらいは誰だって知っている)を、わたしは認めない。自然科学者だって物質の実在ということを素朴に、アプリオリに認めた上で仕事をしているが、そうした自然科学の素朴実在論に細々とツッコミを入れてくる(科学)哲学が自然科学より知的に優位な態度であるかと言えば、わたしには全然そうは思えない。形而上学的には素朴であっても、物質の振る舞いについての理解の深さということになれば、哲学的な理解は自然科学のそれに逆立ちしたって敵わない。

自由について考えるのなら、自由という概念にまとわりついてくる責任の概念をどうしたら無用にできるのか、それだけを熱心に考えたい。つまり「自由」という概念はもともとそれ自体で成り立つ概念だとわたしは思っている。現実がそれを許してくれない、あるいは許してくれる現実が存在しないとしても、それは現実の方が自由の外側から責任概念を、逃れ難い形で付着させてくるような形で存在するということであって、自由それ自体が責任を伴って存在しているという風には、わたしなら考えない。

自由な行為の選択にはリスクが伴うというならわかる。文字通り"at a person's own risk"ということであって、これに不服を唱える理由は(そのriskが不可避的に存在するのは残念だということを別にすれば)ないわけである。この世界に自分ひとりしかいなくても、その自分が行為を自由に選択することは、それによって不愉快な状況が生じるかもしれないリスクを取ることだという風に考えられるはずである。ところがなぜかわが国ではこの表現が「自己責任で」と訳されるのである。もとの英語表現のどこにもresponsibilityという単語はないし、その同義語も類義語もない、どう解釈をひねってもそのニュアンスを含むような字句はない、にもかかわらず、なぜか日本語に翻訳されると(誰が最初にそう訳したのか知らないが、ひどいやつだ)そういうことになってしまうらしいのだ。

これとたぶん同じような図式で、わたしは「個人と社会」という対語もやはり好きではない。こちらの方は「嫌い」とまではいかない、というのは「個人」という単語は集合的なものの要素というニュアンスを最初から含んでしまっているからだ。つまり「要素と集合」ということであって、これを嫌ったら数学はやっていられない。

そうは言っても好きにはなれない、というのは、この表現を多用したがる人というのはたいがい、人間存在(実存)ということを、はじめから社会に埋め込まれたものとして、つまり上述の意味での「個人」としてしか考えていないように見えることが多いからである。確かに我々の日常生活は大なり小なり個々が所属している社会とかかわった形で成り立っている。けれどもそのことは、人間存在ということがもともと社会の要素としてしか定義されないということを意味しているわけではない。

そうではなく、人間存在が社会の中で活動するとき、彼は個人としての現れをもつのだと言うべきなのである。式で書けば「個人=人間存在(社会)」ということなのである。この「社会」を何か別のものに置き換えれば、人間存在の現れはまったく別のものになるし、「社会」を「日本社会」とか「アメリカ社会」のように限定すれば、同一の人間存在がそれぞれの個別的な社会においてまったく異なった現れをもつということが、ごく自然に記述できる。日本社会の中では申し分のない人物が、何かの理由で突然アメリカ社会に放り込まれたとたん、投薬治療を要する精神病患者としての現れしか持つことができない、ということはありうるのだ。もちろん逆も同じようにありうるはずだ。

妙にくどくどした書き方になってしまったが、要するにわたしは「人はひとりでは生きられない」という言い方も大嫌いなのだ。ただ、どうしてそんな言い方になってしまうのかと言えば、カッコの中を省いた「人間存在()」は現れを持たないか、現れとして決定可能な何かを導かない、したがってそれを伝達可能な言葉として書くことができないからである。書くことのできないものは、しかし存在しないのかと言えば、そうでないことは明らかであるはずだ。

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「うまくやる」ことの学 (1)

2008年07月26日 | げんなりしない倫理学へ
書くたびにあっちこっち、とりとめもなく話柄が飛んでしまって、我ながらちっとも続き物の体裁になってくれないのだけれど、まあそれがblogというものだということでご容赦願いたい。こう言っても人は信じないだろうが、確かにこれはわたしの「日記」なのである。

日記というのは本来もっと日常生活の些細なことを書き留めるものだというのは判っているのだが、このわたしに限ってそんな日常生活などあったためしがないのだから仕方がない。心の中を占めているのは専門知識的・技能的の課題か、ここに書いてるような哲学的断想か、そうでなければさっき見たテレビ番組のことか、物心ついた頃から大体そんなことばっかりで、日常生活らしい衣食住のこと(オイコノミア)などは、このトシになるまでほとんど一度も考えたことがない。たぶん、わたしにとって日常生活の次元は「神も仏もない」というのとほぼ同じような意味で存在していない。



素人哲学は広い意味での倫理学と接触するものだと思う。広い意味での倫理学とは、やや俗な言葉を使うなら「『うまくやる』ことの学」である。一般に物事を「うまくやる」コツのひとつは、それを善とか正義とかの側でやること、もしくは善や正義を引き込んだ上でやることだと言えば、常識的な意味での倫理(学)に近くなるのである。

やや俗どころではない、思いっきり俗な言葉を使えば「成功哲学」というやつである。もっとも「成功哲学」というと、その裏には「人と世間を出し抜いて」というニュアンスが強力に貼りついてしまっているところがあってよろしくない。当然ながらその点では(言葉の、ここで使っている広い意味においても)倫理的とは言えないのである。なるほど「人と世間を出し抜いて」成功することは可能だし、そういう人はたくさんいるわけだが、人を出し抜けば出し抜かれた側に恨みが残る。それで構わないという人は、もちろん時にはいるわけだが、そうたくさんはいない。普通の人間はもっと欲が深い(笑)のであって、「うまくやる」なら人の恨みも買いたくはない。そういうものではないだろうか。

現代人は物事を「うまくやる」ために技術の力に頼る傾向が強いわけだが、科学技術を使って「うまくやる」ことができるのは、物質の扱いということが本質的(肝心)であるような行為だけである。たとえば「人生」のようなものは、誰がどう考えたって、それ自体は「物質の扱いということが肝心である」ような行為(あるいは行為の集積)ではない。だから、科学技術をどういじり回しても、個々の人生をうまくやることにかけては、それほど効果がないのである。

倫理学とは「うまくやる」こと一般の学だと再定義すると、ひとつ、非常にいいことがある。そこいらの、生意気盛りの中学生が「なぜ人を殺してはいけないのか」などと問うてきたら、我々はそこで変な嘘をついたりはぐらかしたりせず、たった一言「うまくないから」と答えればいい。実に、これが我々の「げんなりしない倫理学」の答なのである。いかにもそれはうまくない。憎たらしい奴をいきなり殺してしまうよりは、たいていの場合、もっとうまいやり方があるのではないだろうか。そう問い返せば、中学生がどんなボンクラだって、厄介な問いを仕掛けて大人を困らせて喜んでいるよりは、誰でもない自分のアタマで考えてしかるべきことがあると気づく、あるいは、少なくともその契機くらいは与えることになるのではないか。

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げんなりしない倫理学へ (1)

2008年07月13日 | げんなりしない倫理学へ
倫理学という言葉のもともとの意味は「人の(精神的な)営み一般の如何についての学」というものである。それをひらたく言えば「人生いかに生くべきか」の学だということで、そこから人の営みすなわち行為や行為を導く精神の善悪ということ、より一般的には行為や精神の価値づけに関する内的もしくは外的な規範(道徳)についての哲学的考察、という、今日普通にそう考えられているような意味での倫理や倫理学が行われるようになったのである。

さて、上はわざとそういうイメージを喚起するように書いたのだが、個別の行為と精神の組を点として全体がひとつのベクトル空間(のようなもの)をなすとすれば、規範とは各点から線形順序集合の要素(たとえば実数値)への線形連続写像のようなものだ、という比喩が成り立つことが容易に理解されよう。実際、ベクトル空間の数学ではそうした線形連続写像のうちでいくつかの特別な条件を満たすもののクラスを「ノルム(規範)」と呼ぶのである。

(数学でいうノルムの像は0以上の実数だから、正負の実数全体を像としてもつ「セミノルム」の方が「善悪」ということの比喩としては近いかもしれないが、まあ、そんなのはどうでもいいことである)

こうして倫理とか倫理学ということの「もともとの意味」に立ち返って考えるだけでも「げんなりしない」倫理学ということは決して不可能な目論見ではないことがわかる。こんな風に倫理ということを数学との類比で考えられるなら、そんなことに「げんなりする」理由などない──数学そのものがげんなりするような学問だとも言えるけれど、数学は、げんなりするならしなければいいと言えるから、まだしも全然ましではないか。

実際、倫理というのをそんな風に「一歩高いところから眺める」流儀がちゃんとあるのであって、メタ倫理学と呼ばれている。実際に行われているメタ倫理学は数学というよりは専ら言語哲学の流儀に沿った概念分析であるけれども、まあココロはそういうことだろう。

さて、だったらこのカテゴリでは素人のメタメタ倫理学をやってみせようということなのかというと、実は全然そうではないのである。

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げんなりしない倫理学へ (0)

2008年07月13日 | げんなりしない倫理学へ
題名を一瞥して何のことか思い当たるところのない人は、たぶん以下を読まない方がいいだろう。「げんなりしない倫理学」とは、少なくとも「街中を咥えタバコで歩ける倫理学」でなければならないからである。さ、用のないやつは帰った帰った。

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