「リスクに背を向ける日本人」という題名の本が売れているそうな。
読んだこともないし、読む気もしないから、その本の中身については触れない。ただこの題名だけで言うと、「人生のある」、つまり人生を信仰している人々がリスクを忌避するのは当然のことだと思う。野球だって、負けたら終わりの高校野球では送りバントが多用されるわけである。
もっともわが国の場合、そもそもリスクなんてあるのかと言いたいくらいのところがある。株式投資はリスクを取ることだということになっているが、個人にとってあれはリスクじゃなくて自傷行為に近いものである。わざわざ詐欺師の口座にカネを振り込んでやっているようなものである。ゴミ(零細個人投資家)から小銭をかき集め、大口顧客の間でそれを公平に分配して美味しくいただく、という出来レースこそ、わが国における「株式投資」「投資信託」等々の基本パタンである。
思い返してみると、「人生のない」わたしですらリスク選好的に行動したことはほとんどない。むしろ「人生のある」人達と比べても徹底してリスク忌避的に生きていると言った方がいいくらいである。世間の人から見ると、同じ大学を(学部と博士課程の)二度も中退したり(笑)、勤めに出れば後先も考えずに勤め先をホイホイ辞めたりするお前なんかのどこがリスク忌避的なのだということになるだろうが、少なくともそういうことをやっているときのわたしに「リスクを取る」という意識が少しもないことだけは確かである。そうではなく、わたしは人生のかわりに自分を持っているので、自分のいる場所にしかいないし行くつもりもないのである。そうするのは損だと判っていたって自分のいない場所に留まりたいとは思わない。「こんなところで殺されるのはご免だ」というのが、その場限りの見方をすれば、わたしの行動を最も強く動機づけている。
そう考えると、そもそも「リスク」という概念を軸にして人間の行動パタンを分類すること自体がそもそも間違っているのではないかという気がしてくる。リスク選好的だということになっているオーベー諸国の人々にしても、個々人の行為を促している真の動機は「リスクを取ってリターンを狙う」といったことではないのではないか。実際、文字通りそうするのは虚構の上の、つまり素人のギャンブラーだけである。プロのギャンブラーは職人芸である。最後はちゃんといくばくかの利益が出るように仕事をするし、そうでなければ見向きもしないものである。だいたい、そうでなければヤクザな稼業は長続きしないのだ。
実際には誰もそんなことはやっていないのに、あたかもそれが真実の見方であるかのように人間とその振る舞いを眺めようとするのは、近現代の経済学者の常套であり宿痾である。それは現代経済学の機械論的な方法論の必然としてそうなってしまうものだし、他に有効そうな代替案も見当たらないから、経済学者が経済をそう眺めること自体はそんなに責められない。文句があるなら別の経済学を作ってみせるしかないことだ。
ただ、たとえばこの「リスクに背を向ける日本人」という題名はリスクの観点から言えば忌避的であるような個々の日本人に対する倫理的な難癖のようなものが暗示されている、というかほとんどあからさまにそうである。それは経済学者が公的言論として現れる際に陥りがちな錯誤であり、病である。機械論的な経済学は個々人の意志的な選択を説明することが原理的にできない。経済学が説明できないから個々人は意志的に選択すべきではないとか、選択してほしくないというのなら、それは病的な錯誤である。
読んだこともないし、読む気もしないから、その本の中身については触れない。ただこの題名だけで言うと、「人生のある」、つまり人生を信仰している人々がリスクを忌避するのは当然のことだと思う。野球だって、負けたら終わりの高校野球では送りバントが多用されるわけである。
もっともわが国の場合、そもそもリスクなんてあるのかと言いたいくらいのところがある。株式投資はリスクを取ることだということになっているが、個人にとってあれはリスクじゃなくて自傷行為に近いものである。わざわざ詐欺師の口座にカネを振り込んでやっているようなものである。ゴミ(零細個人投資家)から小銭をかき集め、大口顧客の間でそれを公平に分配して美味しくいただく、という出来レースこそ、わが国における「株式投資」「投資信託」等々の基本パタンである。
思い返してみると、「人生のない」わたしですらリスク選好的に行動したことはほとんどない。むしろ「人生のある」人達と比べても徹底してリスク忌避的に生きていると言った方がいいくらいである。世間の人から見ると、同じ大学を(学部と博士課程の)二度も中退したり(笑)、勤めに出れば後先も考えずに勤め先をホイホイ辞めたりするお前なんかのどこがリスク忌避的なのだということになるだろうが、少なくともそういうことをやっているときのわたしに「リスクを取る」という意識が少しもないことだけは確かである。そうではなく、わたしは人生のかわりに自分を持っているので、自分のいる場所にしかいないし行くつもりもないのである。そうするのは損だと判っていたって自分のいない場所に留まりたいとは思わない。「こんなところで殺されるのはご免だ」というのが、その場限りの見方をすれば、わたしの行動を最も強く動機づけている。
そう考えると、そもそも「リスク」という概念を軸にして人間の行動パタンを分類すること自体がそもそも間違っているのではないかという気がしてくる。リスク選好的だということになっているオーベー諸国の人々にしても、個々人の行為を促している真の動機は「リスクを取ってリターンを狙う」といったことではないのではないか。実際、文字通りそうするのは虚構の上の、つまり素人のギャンブラーだけである。プロのギャンブラーは職人芸である。最後はちゃんといくばくかの利益が出るように仕事をするし、そうでなければ見向きもしないものである。だいたい、そうでなければヤクザな稼業は長続きしないのだ。
実際には誰もそんなことはやっていないのに、あたかもそれが真実の見方であるかのように人間とその振る舞いを眺めようとするのは、近現代の経済学者の常套であり宿痾である。それは現代経済学の機械論的な方法論の必然としてそうなってしまうものだし、他に有効そうな代替案も見当たらないから、経済学者が経済をそう眺めること自体はそんなに責められない。文句があるなら別の経済学を作ってみせるしかないことだ。
ただ、たとえばこの「リスクに背を向ける日本人」という題名はリスクの観点から言えば忌避的であるような個々の日本人に対する倫理的な難癖のようなものが暗示されている、というかほとんどあからさまにそうである。それは経済学者が公的言論として現れる際に陥りがちな錯誤であり、病である。機械論的な経済学は個々人の意志的な選択を説明することが原理的にできない。経済学が説明できないから個々人は意志的に選択すべきではないとか、選択してほしくないというのなら、それは病的な錯誤である。