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惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

人生のある人ない人(8)

2010年11月18日 | げんなりしない倫理学へ
「リスクに背を向ける日本人」という題名の本が売れているそうな。

読んだこともないし、読む気もしないから、その本の中身については触れない。ただこの題名だけで言うと、「人生のある」、つまり人生を信仰している人々がリスクを忌避するのは当然のことだと思う。野球だって、負けたら終わりの高校野球では送りバントが多用されるわけである。

もっともわが国の場合、そもそもリスクなんてあるのかと言いたいくらいのところがある。株式投資はリスクを取ることだということになっているが、個人にとってあれはリスクじゃなくて自傷行為に近いものである。わざわざ詐欺師の口座にカネを振り込んでやっているようなものである。ゴミ(零細個人投資家)から小銭をかき集め、大口顧客の間でそれを公平に分配して美味しくいただく、という出来レースこそ、わが国における「株式投資」「投資信託」等々の基本パタンである。

思い返してみると、「人生のない」わたしですらリスク選好的に行動したことはほとんどない。むしろ「人生のある」人達と比べても徹底してリスク忌避的に生きていると言った方がいいくらいである。世間の人から見ると、同じ大学を(学部と博士課程の)二度も中退したり(笑)、勤めに出れば後先も考えずに勤め先をホイホイ辞めたりするお前なんかのどこがリスク忌避的なのだということになるだろうが、少なくともそういうことをやっているときのわたしに「リスクを取る」という意識が少しもないことだけは確かである。そうではなく、わたしは人生のかわりに自分を持っているので、自分のいる場所にしかいないし行くつもりもないのである。そうするのは損だと判っていたって自分のいない場所に留まりたいとは思わない。「こんなところで殺されるのはご免だ」というのが、その場限りの見方をすれば、わたしの行動を最も強く動機づけている。

そう考えると、そもそも「リスク」という概念を軸にして人間の行動パタンを分類すること自体がそもそも間違っているのではないかという気がしてくる。リスク選好的だということになっているオーベー諸国の人々にしても、個々人の行為を促している真の動機は「リスクを取ってリターンを狙う」といったことではないのではないか。実際、文字通りそうするのは虚構の上の、つまり素人のギャンブラーだけである。プロのギャンブラーは職人芸である。最後はちゃんといくばくかの利益が出るように仕事をするし、そうでなければ見向きもしないものである。だいたい、そうでなければヤクザな稼業は長続きしないのだ。

実際には誰もそんなことはやっていないのに、あたかもそれが真実の見方であるかのように人間とその振る舞いを眺めようとするのは、近現代の経済学者の常套であり宿痾である。それは現代経済学の機械論的な方法論の必然としてそうなってしまうものだし、他に有効そうな代替案も見当たらないから、経済学者が経済をそう眺めること自体はそんなに責められない。文句があるなら別の経済学を作ってみせるしかないことだ。

ただ、たとえばこの「リスクに背を向ける日本人」という題名はリスクの観点から言えば忌避的であるような個々の日本人に対する倫理的な難癖のようなものが暗示されている、というかほとんどあからさまにそうである。それは経済学者が公的言論として現れる際に陥りがちな錯誤であり、病である。機械論的な経済学は個々人の意志的な選択を説明することが原理的にできない。経済学が説明できないから個々人は意志的に選択すべきではないとか、選択してほしくないというのなら、それは病的な錯誤である。

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反倫理学講座(4.01)

2010年11月17日 | げんなりしない倫理学へ
(4)の主題を自分で反芻していたら次のような形になった。

   他人のバカに同情するな、他人のバカが自分だと思え。

これに意味があるのかないのか、あるとして正しいのかそうでないのか、そんなことは知らない。忘れないうちに(笑)メモっておくというだけである。

短くまとめたら警句風になっただけで、実際のところ命令されなくてもわたしはたいていそうなるのである。どう見ても間違ったことを言ったりやったりしている他人の言動の、客観的なバカさ加減が明らかであればあるほどわたしはそれに簡単に同一化してしまうのである。(4)で引用した箇所を読んでいるときのわたしは完全にその女子大生のバカになりきっていて、さっきまで教務課か何かを相手に大立ち回りをやらかしてきたもののアドレナリンが、まだたっぷり残留している状態であるかのように「なんだこのクソ教師が。次はテメーだ」とか思いながら読んでいた、それが我に返ったあとで文章として書き直したら(4)の内容に変換されたわけである。

どうしてそんな風になるのか、本当のところはよく判らない。ただ無理して理屈をこねてみると(4)で書いたように、客観的に明らかに間違ったことを言ったりやったりしている人というのは、その間違いが客観的に明らかであればあるほど、その根底にあるのは「全世界を敵に回した」ものの腹立ちだということを、わたしは半ば無意識に直観するからではないかという気がする。

もちろんわたしでも同一化できない、当然理解することもできない種類の他人の振る舞いはある。その典型はかのオウムの教祖であった。どうもその人物に視覚的な「萌え要素」が気配としても認めることができないと、そのバカに同一化するのもやりにくいようなのだ(笑)。実際、あれくらい萌え要素の何ひとつない顔は珍しかった。

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反倫理学講座(4) ─抗議するより陰口を叩こう─

2010年11月16日 | げんなりしない倫理学へ
レポート提出期限の変更を先生が告知していた日に欠席していたせいで提出期限に遅れた学生がいました。先生が遅れを理由にレポート受理を拒むと、その学生は猛然と抗議行動を起こしました。(中略)僕がそのとき不思議に思ったのは、それほど単位が欲しいのなら、どうしてこれほどまで欠席したのかということでした。(中略)講義のあった13週のうち6週を欠席していたのです。にもかかわらず、この学生は「単位を取ること」については法外なまでに貪欲でした。これを説明できるロジックを僕は一つとして思いつきません。
(内田樹「街場のメディア論」p.121-122)

思いつかないと言いながら直後に「『できるだけ少ない学習時間で単位を取る』ことが『授業を受けて知識を得る』ことよりも優先されていた」のだろう、という思いつきの説明が書かれている。著者はこの箇所をよっぽど慌てて書いていたのだろう。何がロジックだ、この陰険教師が(笑)。

そんなことよりわたしの方が不思議でならないのは、この著者は上のようなカマトトぶったことを書いて、それを本気で自分で信じているのだろうか、ということだ。困ったことに、わたしが知ってる限り、大学教師というのはひとり残らずこんな風な人達なわけである。普段からそれを露わにするわけではないからそんなに気にもしないことだが、この手の椿事に遭遇するとこんなカマトトぶったことを書いたり喋ったりする奴が現れるもので、どうも本気でそう思っているとしか思えないわけである。学問知識としては尊敬できても、人格的にはどうしようもない優等生のこんこんちきだなと思わずに済んだことがない。

推測でよければ、というか推測しかできないことだが、この女子学生の振る舞いについて常識的に、つまり真っ先に思いついてしかるべき解釈とは、当然次のようなものでなければならないはずである。このボンクラ女子学生(そうだとも、ボンクラ学生には違いないさ)はまったく単純に、教師が杓子定規でレポート受理を拒否したことに「腹を立てた」のだ。教務課に怒鳴り込むなどのことはその腹立ち紛れでしたことで、単位を取るとか取らないとかいうのはその時点ですでに二次的な問題にすぎなかったはずである。「法外なまでに貪欲」もへちまもない、暴れるだけ暴れといて単位は貰えませんでしたじゃバカみたいだから(笑)格好をつけなくてはならなかったというだけだ。法外どころか、きわめて明瞭に法則的な人間感情の帰結だというべきである。

ひと口に言って「バカだねえ」というやつだ(著者が、ではなく女子学生がだ)。でも仮にまったく同じことを学生のころのわたし自身がしでかしていたら、教師や教務課に猛然と抗議したりはしなかっただろうが、「腹を立てた」というところまでは同じだっただろう。抗議などしないというのは、自分がさんざん授業をサボっていたことの引け目を、わたしなら感じるだろうからだ。でも引け目があるから教師の杓子定規に腹を立てたりもしないというほど、人間の感情は合理的にはできていないはずである。実際にそんなヘマをしでかしたことはなかったからいいようなものの、わたしだったら教務に怒鳴り込んだりはしないかわり、以後ことあるごとにその教師の悪口を吹聴するくらいのことは、それはもう徹底的にやったはずである。その気になって探せば、どんな聖人君子だろうと悪口のネタ──むろん実証的な──なんぞいくらでも見つかるわけである。

わたしは他人を罵ることができない人だと以前に書いておいて何だが、自分が傷つけられた場合はまったく話が別である。自分の感情を害した他人を許してやれるほど、わたしは心の広い人ではない。呪い倒した相手がある日脳出血でも起こして倒れたら、慌てるどころか大声で「ざまァ見やがれ!」と、これは十代のある日、わたしが本当にやったことである。さすがに傍にいた友達からたしなめられたものであった。「お前なあ・・・もう許してやれよ」

許さねえよ!これを書いてる三十年後の今でさえ全然許す気にならない。

  一度でも我に頭を下げさせし
  人みな死ねと
  いのりてしこと    啄木

●(追記)

念のためいうが、レポート受理を拒否した教師や、それに手前勝手な「ロジック」を重ね合わせて悦に入っている内田樹が「間違っている」とか「悪い」というわけではない。「間違って」いて「悪い」のはいつでもこの女子学生のような存在の方だということになるのに違いない。ただ自分が「間違って」いて「悪い」からという理由で邪険に扱われたことに腹を立てない人は、何か特別な状況が付加されない限り存在しないはずだと言いたいだけだ。

小さな、また局所的な事例だが、つまりこの場合この女子学生の「腹立ち」は全世界を敵に回したものの腹立ちだということである。敵は攻撃すべきもので、抗議すべきものではないというのが上の副題の含意である。

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反倫理学講座(3-2)

2010年11月08日 | げんなりしない倫理学へ
こんな題名でものを書いたりはするが、わたし自身は赤の他人を罵ったりすることができない性格である。からかったりはするのだが、本気で悪意や憎悪を込めてということはできない。このblogで禁煙ナチスやら脳科学やらを罵倒していたりするのは、現にそれらの存在がわたしを傷つけているからである。

そういうわたしからすると、たとえば某掲示板や何かで、有名人や公人が何か些細な失態でもしようものなら大喜びでこれらにあらん限りの悪罵を投げつける、そういう字句を連ねてみせる人達のことが、いいとか悪いとかではなく「全然判らない」のである。判らないが、あれだけの分量でいちいちそれがあるわけだから、まったく無意味に偶然的に存在しているわけではないことは明らかである。それが判らないということは、素人であろうとなかろうと哲学の問題であるはずだ。

そういう掲示版がなかった昔からそういう人達はいた。プロ野球の試合で抑え投手が打たれて逆転負けすると、ホントに「死んでしまえ」的な悪罵を投げつけるというような。おめえバットひとつまともに振れないやつが何図々しいこと言ってんだとコドモ心に思うわけだが、贔屓のチームが負けたら好き放題罵って構わないことまでを含めてプロ野球は娯楽なのだということなのだろうかとも思われた。

しかしそうと理解したとしても同じことができない、やろうという気にすらならない自分に気づくことが毎度の驚きでもある。自分の方から理解しようとすれば、贔屓のチームが負けることが、そういう人達にとっては自分の中の何かを傷つけられるような、特に打たれた投手がそれを傷つけているかのような心的な経験なのだろうと解するほかにないわけである。それが何であるかは判らないが、同じものがわたしの中にはたぶんない。残念だとか悔しいとかは思っても、打たれた投手を罵ろうという感情は生じない。自分が外野スタンドにいて逆転ホームランのボールが頭を直撃したとでもいうのでもない限り、その投手がわたしの何かを傷つけたということにはなりそうもないのである。

たまにそれに近いことはある。巨人から横浜に移った(今は引退した)駒田選手が巨人戦で満塁ホームランを打った時にテレビの前で怒鳴ったことがある。「満塁で駒田が出てきたら敬遠しなくちゃ駄目だって、あれほど・・・!」駒田選手は巨人にいた頃から満塁で打席に立つと「必ず」ホームランを打つ満塁男で有名だったのである。その傾向性があるとかそんな生易しいものではなく、ホントーに必ず打つんだから途方もない選手なのである。わたしがテレビで見ていた限り「打たなかったことがなかった」。

巨人とは縁もユカリもない選手ならともかく、かつては巨人で4番の打席に立ったこともある打者である。投手コーチは何をしているのだとさすがに怒ったのである。この場合はどう解釈できるのか。わたしは駒田選手に対する長年の尊敬の念があり、その時の巨人の投手コーチが敬遠を指示しなかったのは、それを無視するもののように思われて、それで自分の尊敬の念をちょっとばかり傷つけられたと感じたのである。

怒りがおさまって我に返ると、まあそうは言ったって満塁で敬遠するというのは、プロ野球のすることではないんだよな、とは思った。駒田だから100%打ってしまうだろうが、わかっていても打たれざるを得ない超越的な野球理念が、わが国における野球の伝統には確かに存在するわけなのである。いいことか悪いことかは別として存在はするのである。

それはたとえば高校野球でも、高校生の松井(秀樹)が全打席敬遠を食らったとき、日本中の罵声が一斉に相手チームの監督に投げつけられるという形で存在した。まともに対峙したら打たれるだけではない、試合の流れを全部持って行ってしまいそうな、高校生でも松井はすでにそういうカリスマを帯びた打者であったから、相手チームの監督は野球として正当な作戦のうちで敬遠を指示したものであっただろう、けれどもわが国に固有の超越的な野球理念はそれを許さなかったのである。気の毒な監督は、しまいに出場校の地元から「郷土の面汚しめ、帰ってくるな」とまで罵られてしまった、それほど凄まじい怒りを誘発したのである。

ところでその時はわたしは怒りを覚えなかった。松井が打たせて貰えなくてホントーに残念だったし、相手チームの監督は超越的な野球理念が(いいか悪いかは別として)存在することを理解すべきだった、とは思ったが、それを理解しなかったから罵倒されるべきだとはまったく思わなかった。わたしの中の何も傷ついてはいなかったからである。むしろ彼を「面汚しめ」とまで罵った地元民なるものの方に不快感を覚えた。何が面汚しだ、お前だってテレビの前で中継番組を見てるだけのくせして何様のつもりだ、むしろこんな時こそ地元チームの監督を世間の罵倒から擁護すべき義務が、本来ならば君達にはあるのだ、である。

個人としては赤の他人にすぎない誰かを「地元代表」と呼んで応援することを正当化するのが郷土愛の理念であるならば、その代表が苦境に陥った時は理由の如何にかかわらず擁護すべきなのである。

・・・やっぱ野球ネタはまずいな。なんか全然違う話になっちゃったじゃないか(笑)。

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反倫理学講座(3-1) ─匿名ばんざい─

2010年11月07日 | げんなりしない倫理学へ
匿名掲示版とか匿名blogというのは悪くもないものだと思っている。

なんで匿名でやるのか、最大の理由のひとつは、そうしないと理不尽な攻撃の対象になるからだ。攻撃の中身そのものが理不尽だという場合もあるが、本当のところ厄介なのは、中身そのものはいたって正当なものであって、ただそれを無限大の口実として集団で袋叩きにするとか、たとえばそういった種類の「理不尽」である。

何の背景も持たない個人が何か実質のあることを言えば、少なくともわが国では必ずそんなことになる。名前を出して発言することは公平性という点で結構なように見える(実際に結構なこともある)が、そうしても理不尽な攻撃に晒されないか、晒されにくい「背景」が存在するためであることも多い。そうであれば発言することの意味はその内容ではなく、発言者を支えている「背景」の力関係の問題にすぎなくなってしまう。それは誰が何と言おうと茶番である。

匿名でやることの意義のふたつめは、同じことだと言えば同じことだが、茶番が少ないということである。匿名でない掲示版でのやりとりがどんなものであるかを経験したことのある人間なら誰でも思いあたる節があることだ。対話している相手がどうしようもないバカだと思えても、そういう場ではそういうことを言いにくいものだ。そうした気遅れを含んだやりとりを続けていると、掲示版はあっという間に嘘と茶番まみれになってしまう。匿名掲示板だって虚偽だらけだが、匿名であることは(書いてるやつは小学生かもしれないという意味で)書いた人間の「背景」を消してしまう、ゆえに「背景」が生み出す茶番はないわけである。

わたしは古株の計算機屋だから、インターネット以前の「パソコン通信」と呼ばれていた時代の電子掲示板のことを覚えている。あんな気持ちの悪い、心にもないウソと茶番の言葉ばかりが飛び交っている世界は他に類例のないものであった。口を開けば心にもないウソしか言わないくせに、一方では発言の「モラル」だの「マナー」だのを頻りに言いたてて、互いに言外に脅迫し合っている。ほかにどんな利得があったって、あるべき未来がこんな気持ちの悪い世界であっていいわけがない。そう感じてパソコン通信からは早々に撤退しものであった(おかげでインターネットを始めるのがいくぶん遅れた)。

(つづく)

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人生のある人ない人(6)

2010年11月05日 | げんなりしない倫理学へ
このシリーズは気楽に書こうとして、どうも気楽に書きすぎていて、いつにもまして話柄があっちこっちへ飛んでしまっている。(5)では別々のネタにすべきものを一緒くたに書いてしまった。ひとつは「他者」、もうひとつは「来世」である。思いつくはじから忘れないうちに書こうとするのでこんなことになってしまう。

「来世」というのはいささか大袈裟だったかもしれない。大袈裟でなかったとしても、人生を信じる人達の、その信仰を支えているのは、それより先に「血縁」であるはずだ。来世はまったく信じないという人でも、「親から子へ」なんちゃらといったことに何の思いも持たない人は、とても少ないだろう。独身者のわたしでさえ何の思いもないということはない。ものすごく希薄だけれども。

もっとも、「人生」とは別の信仰で「遺伝子」に対する信仰というものが、今の世の中にはあるような気がする。この場合で言えば、人間は生物であって、生物体というのは遺伝子の乗り物(vehicle)なのだからして、人として生まれたからには子孫を残そうとしなければならない、というような。そんなのは本当は「人として・・・」のつまらぬ倫理を言いたいだけだ。たまたま遺伝子の生物学的事実がそうだから、ちゃっかりそれに乗じているだけだとわたしには思える。

というか、わたしの「げんなりしない倫理学」は、「人として」式のつまらぬ倫理は必ずや解体しなければならないものとして考えられている。あることをやっていいのかよくないのか、進んですべきなのかそうでもないのか、そうした倫理的な観念は誰でも何かしら持つものだ、とはいえ、それらは「人として」を頭にくっつけて正当化したり否定したりされるようなものではないということだ。そうは言ってもそれは現にさんざん行われていて人々を脅迫している、が、それは決して普遍化できない、本当はつまらないイデオロギーにすぎないのである。

生物個体というのも厳密に見ればそれほど境界のはっきりしたものではないのだが、個々人の(自由な)意識に対応する物理の広がりはそれをはるかに上回って非コンパクトな、つまり非限定的なものなのである。何百光年も先の巨大核融合炉(恒星)を眺めて何かを思うことができるのは人間の自由だけである。・・・って、こんなこと時々書いてしまうもんだから、ロマンティック(笑)な人だと、わたしは時々言われてしまうのである。実によろしくない!

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人生のある人ない人(5)

2010年11月04日 | げんなりしない倫理学へ
ある人ない人というよりは「あることないこと」なんでもこれに絡めて書いてしまっている気が、自分でもするのだが(笑)、まあ、わたしにとっては年にいっぺんあるかないかというくらいの、このアイデアはちょっと素敵な思いつきなのである。

ひょっとすると、いやしなくても、わたしの知らないところでは同じようなアイデアが昔から当たり前のように語られていたのかもしれないのだが、このくらいシンプルなアイデアだと既出かどうかを調べることもままならない、というか、正直「人生」「信仰」なんていう検索語でググってみたいとは思わないのだ(笑)。どうせひどいページばっかり、頭っからゾロゾロ並んで出てくるだろうことが目に見えているわけである。もうちょっと学問的にブリリアントな(笑)語彙で思いつけばいいものを、我ながらどんくさいったらありゃしない。

まあいいさ、あることないことの続きをやろう。

わたしには人生がないので、他者とか社会という考えも本当はないか、あっても希薄である、と、そう考えるべきなのかもしれない。少なくともわたしにとって、たとえば「他者」という言葉は絶対悪というのとほとんど重なるくらいの嫌な、否定的な言葉である。「できればそんなものはいてほしくない」というのが、この言葉に接した時に理屈抜きで必ず念頭に浮かぶ感情である。

世の中にはそうじゃない人がたくさんいる、というか、むしろその方が圧倒的に多いのである。それはどう見ても他者が存在することを、自分が存在すること以上に嬉しがっているようにしか見えないのである。いささか強引だが、この図式はやはり人生のあるなしと同じなのではないだろうか。どうしてそうなっているのかは判りようがないが、人生という信仰にとってたぶん、他者というものはどうしてもなくてはならない、それがなければ信仰が成り立たなくなるほどの、本質的な概念のひとつなのである。

何度も言うが、それが本当にただの信仰だったとしても、わたしはそれに難癖をつけようという気はさらさらない。単に、そのように考えると、どうしてわたしにとっては「他者」という語の基本的なイメージがあんなにも邪悪で禍々しいのかということが、実にすっきり説明できるし理解できる、という、ただそれだけのことなのだ。信仰している本人にとってはキリスト教徒にとってのキリスト像と同じくらい聖性を帯びたイメージであったとしても、異教徒や無神論者が見ればただの血まみれ邪神像にしか見えないということは往々にしてあるわけだ。

もうひとつ、これは人生をもつ、それを信じる人には必ずあるはずで、つべこべ言ってもそれがなければ信仰にならないはずだとわたしには思えることは、「来世」とか「生まれ変わり」とかの概念もしくは考えである。そりゃそうだろう。誕生と死の境界条件で括られた「人生」の、その境界条件までを自分のものとして持っていると思うことができたとしても、その外がただの暗黒だとか断崖絶壁だとかいうのであっては、いったい何しにそれを信じるのかサッパリ判らぬことになるではないか。

もちろん、いまどき正面切って「来世」などと言ったところで、多くの人は一笑に付すか眉を顰めるかするだけだろう。けれどもいろんな調査によると、その種の考えを本心では信じている、少なくとも信じたいと思っている人の割合は、わが国では(わたしのように物理を尊重する人間からすると)呆れるくらい多いのだということになっている。

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人生のある人ない人(4)

2010年11月03日 | げんなりしない倫理学へ
このシリーズは「人生がある」人達のことについて難癖をつけたくて書いているわけではない。そんなことはわざわざ考えたり書いたりするまでもなく、わたしの日々は彼らから難癖をつけられてばかりきた(いる)ことなのだ。それよりはむしろ、わたしと同じように「人生がない」人が、わたしのほかにもいるとすれば(そんな他人に会ったことがないのだが、まったくいないわけでもないのだろう)そういう人達の側により多く向いて書いている。あるいは、書こうとしている。もちろん、そんな他人が実際には他にひとりも実在しなかったとしても、わたしは別の日のわたし自身に向けて書く理由を持っている。

自分というものは時間・空間上の1点としてあるわけではなく、多様なスケールの重ね合わせとしてある、つまり大なり小なり時間や空間の幅を持ってあるということなので、単純に言っても自分の判断や行為を統御する上で「人生」を代用するものではあるわけである。特に日常生活のような、「人生のある」人の場合にその境界条件の如何が厳しく効いては来ないようなところでは、どっちでもそう大差はないということになるわけである。第一、そんなに大差があったら勤め人で稼ぐことだってできやしないわけだ(笑)。

もちろん本当はどんな小さな場面でも少しずつ苦労はしなければならない。就職活動をやっていたときはわたしも履歴書やら職務経歴書やらを書いたりしたものだった(またいつかやることになるのだろうか・・・)が、わたしの手はたとえば履歴書の「趣味」欄の上でさえハタと一瞬止まったりするわけである。趣味なんかねえよ。ていうか趣味って何なんだよ。定義を書け定義を(笑)。

もちろんひと通りのことは判っている。趣味があろうがなかろうが、あったとしてそれがどんなものであろうが、履歴書の「趣味」欄には「読書」とか「音楽鑑賞」とか、だいたいそういうような内容不明のことを書いておけばいいということになっているのだ。それは別に、誰かから教わらなくたって、こういう役所じみた手続き書類というものは、書式それ自体がそこに記入すべき字句が何であるかを暗示していることがあるわけである。そもそも読書とは何のことか知らなくてさえ、そこに書くべき文字は「読書」だとわかることがあるほどだ。これも一種のフォースである。ただし暗黒面の方の。要はウソである。茶番なのである。役所はともかく、儲かりさえすればいい民間企業に就職するのに、なんでこんな愚にもつかない茶番にいちいちつきあわなければならないのだろうか。げんなりする。そう、げんなりさせられる。

わたしに趣味がないことは以前にもこのblogで書いたことがあった。実は、わたしには趣味がないのではなく人生がなかったのである。逆に言えば人生のある人は、好むと好まざるとにかかわらず趣味は持つことになるわけなのだ。人間の生きている日々はすべてが「人生」に、その境界条件(誕生と死)に絡んでいるということはまずないわけで、言わばその残余の領域が趣味の領域だということになるのである。それはしばしば人生それ自体と変わらないほどの熱意で追及されたりもするのだが、彼らの(「人生」に対する)信仰が厳しく試されるところでは、それは驚くほどあっさりと放棄されることになっている。放棄するだけではない。場合によってはそれをまだ放棄していない他人に公然と敵対しはじめる。「同好の士」だなんて言って仲間だと思い込んでいると、そのうち必ずひどい目に合わされる、それが「趣味の世界」というやつである。

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反倫理学講座(2-ε) ─カンニングしよう─

2010年10月31日 | げんなりしない倫理学へ
(1)の話は書いてて面白かったが、いかんせん男のわたしが女性の振る舞いについて書けることはそんなにないわけである。宇宙生物が電車の中で化粧していたといって文句つけるバカはいないだろうと、要はそういうことなのだ。

それで次(2)のネタがこれなのである。副題にそう書いてはあるが、別にカンニングを推奨しているわけではない。

カンニングのような行為が悪だとは、わたしは全然思っていない。でも悪ではないから叱られることもないかといえば、そんなことは当然ありえないわけである。

クビを切るために人を雇っている会社が(いまどきは特に)たくさんあるように、生徒なんぞ処分されるために入学してくるのだと、本音を吐かせたらそう思っているやつが、教師の中には昔から掃いて捨てるほどいるわけである。「かわりはいくらでもいるのだ」と、十代の頃にはわたしもさんざん言われたものだ。誰でもいいということは、自分がそこにいることは、勤め人ならクビを切られるため、生徒だったら処分されるためだというのと同じことだ。

このシリーズにつけられている副題は、そうしろとあるからそうすべきものではなくて、やろうと思えばいつでもできる選択肢としてそれが存在しているということを示唆する目的でつけているわけである。でもそう書くと長くなるから、ずばり「××しよう」と書いてるわけだ。

すでに別のところで書いたから、このシリーズには含めるつもりがないのだが、たとえば「赤信号で渡ろう」とかいうのもあるわけである。それは外れようのない物理法則ではなくて、外れようと思えばいつでも外れてしまえる、愚にもつかない茶番にすぎない。

ただ権力はすべからく、そのような愚にもつかない茶番を介して作用し、作用した先にいる人を愚弄する。なぜそんな形になっているかと言えば、茶番が権力の非対称的な作用関係を作り出す仕掛け(device)になっているからだ。普通に人を愚弄すれば、された方は同格で愚弄し返すこともできる。ところが茶番を介して愚弄された場合、された方は同格で愚弄し返すことができない。権力はすぐに茶番の背後に隠れてしまう。茶番を愚弄したってもともと茶番だから意味がない。

もっと具体的に言ってみる。たとえば権力が誰かを愚弄する文句を紙に書いてポスターとして貼り出したとする。愚弄された当人が怒ってそのポスターを剥がしたとしたら、権力は直ちにケーサツを(後からマスメディアと裁判所も)動員して、彼を「公共物破損の刑法犯」として処刑する。といってそれをそのままにしておけば、彼はいつまでも愚弄され続けることになる。

法治国家と言うが、要はそういうヤクザな仕掛けがいたるところ張り巡らされた暴力装置のことだ。そういう暴力装置の悪は見て見ぬふりをして、カンニングのような些細なイタズラの方はほとんど人の所業か何かのように言いつのるのが、結局は教師だ。

・・・本題に入る前のマクラが長くなってしまって、カンニングの話にならなかった。それで題名の番号からもイプシロン引くことにしたのだが、しかし改めて考えてみるとわたしはとうの昔生徒ではないし、これから生徒になることもたぶんないので、本題の方はそれについて書くほどの切実さがないのであった。どうしよう(笑)。

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人生のある人ない人(3)

2010年10月31日 | げんなりしない倫理学へ
他人のことはいい。人生がない、そんなもの持ってもいないし、それが存在することを信じてもいないというお前には、では何があるのだ、と言いたがっている人の気配を感じる。

どうってこともない。わたしが人生のかわりに持っているのは「自分」である。もちろん「自分はある」と信じてもいる。わざわざ書くのがアホらしいくらいである。それも信仰なのかと言えば論理的にはそうなるだろう。ただ自分は自分だから、物理法則(自然)を超越した奇跡──何かを救ったり、ご利益をもたらしたり、天変地異の類を引き起こしたりするような何かでないことは、(自分のことだから)わかりきったことである。とはいえ、そうと思えば右手が上にあがる、その自由意志のこちら側に自分がいる。これにまさる奇跡があるだろうか。

もちろんわたしの外側にはわたしの人生に相当するものもあるだろう。でもそれはわたしの持つものではない。それを持っているのは、少なくともそうであるかのようにわたしの前で振る舞ってみせるのは、たとえば保険屋である。頼みもしないのに時々職場に現れては、生命保険の宣伝がてらわたしには愉快でないことをいろいろ煽って帰って行く、あの外務員のオバサン達と、たぶんその背後から操っているのだろう〈悪意〉である。そういう仕事なんだろうからべつに文句も言わないのだが、内心で「客のいるところを走れよ」と、タクシー会社の管理職みたいなことを思ったりはする。



人生のかわりに自分があるというのは、それは刹那的な生き方をしているという意味か、と思う人がいるかもしれない。なぜそんなことを気にするかというと、それは、すごく昔のこととはいえ、わたし自身が実際に相当悩んだことだからである。理屈だけを言えば次の瞬間にも自分は死んでいるかもしれない。そうだとすれば「いまここ」のことのほかに、明日のことやら海の向こうのことやらを気にかけたりする必要がどうしてあるのか、そんな無意味なことはすべきではないのではないか?

そういう(「いまここ」しかない、というような)考え方は明らかに間違っている。本当に「いまここ」しか考えない刹那的な生き方はどう見ても必然的に、しかもたちまち失敗(破綻)するであろうことは明らかだ。でも、それはなぜなのかということの本当の根拠がなかなか判らなかったのである。判らなかったというか、社会が外側から与えて言うところの、つまり倫理的な根拠などは、十代のころのわたしにはすでに一切信用ならぬものだった。事実、それらは愚にもつかない嘘ばっかりだったからだ。

その悩みを最後に完全に解消してくれたのは、わたしの場合は制御工学の知識だった。制御というのは一般に「いまここ」の状態だけを考慮してもうまく行かない。「いまここ」だけを考えるということは、古典制御の枠組みに沿って言えば、その判断や行為が外乱(ノイズ)のあらゆる周波数成分から影響される(インパルス応答がいまここ=デルタ超関数であるようなフィルタとはつまり、何もフィルタしないフィルタである)ということで、つまりデタラメにしかならないのである。自分自身を機械的な制御対象のように見なすとしても、その対象は「いまここ」の1点に集約されるような様態で存在するわけではない。時間・空間の多様なスケールに沿って重ね合わされた不確定性の様態における存在なのである。



「人生」を持ってそれを判断や行為の規準にするというのは、いわゆるひとつのモデル駆動制御というやつで、制御工学的には必ずしも間違ったやり方ではないのである。問題はそのモデルにいったいどんな根拠があるのだということだけである。外側から与えたモデルがそもそも間違っていたり、あるいは最初のうちは正しかったとしても、現実の方が変化してモデルに整合しなくなったら、モデル駆動制御はまったく制御しないよりもさらに悪い惨事をさえ引き起こしうる。そして実際にそれはちょくちょく起きる。第一にこの場合の「現実」は物理的な現実のことではない。主観的な意識を持つ、自由な個人の経験する現実なのである。

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人生のある人ない人(2)

2010年10月30日 | げんなりしない倫理学へ
なんかちゃんとした哲学みたいに「人生哲学」をやってるみたいな気がしてきた。なかなか面白い。

実際、いわゆる人生哲学は「人生」それ自体を信仰することについての一種の宗教哲学だと思えば、ちゃんとした哲学になるところがあるのではないだろうか(俺はそこまでする気はないんだけどさ)。人生哲学なんていうのは哲学じゃない、なんてツマンないことを大威張りで言う専門家でも、宗教哲学は哲学じゃない、などということは恐ろしくてなかなか言えないだろう。



わたしには人生がないわけだが、別にない方が絶対的にいいと言いたいわけでもない。たいていの人があると思っている中でない人が生きていくのは結構大変なことだからだ。・・・というか、まさかこんなに大変だとは、若いころは思ってもみなかった。なにしろ最初に書いたような、別に何でもない職場の中の世間話のようなものでさえも、正直何を言ってるのだか、その場では判らないことが、こんなトシになってもわたしには時々あるわけである。



最近では大学に入るとさっそく就職活動を始める学生も少なくないと聞いている。よくそんなバカなことができるものだと、わたしが本音を吐くとどうしたってそういうことにならざるを得ない。大学に入るのだって、というか特に日本はそうだと言われているわけだが、わが国の大学は特に入るのが大変なのである。

彼らがあんなバカみたいな受験勉強に、長年(わたしを含めてたいていの人は十代後半の時間をほとんど台なしにして)耐えてきたのは、入ったらすぐ──これも相当バカみたいな経験だが──就職活動をするためなのか。そうではないだろう、と昔のわたしは(昔でも大学3年くらいからもう就職がどうこう言うやつがいた)思ったり言ったりしたものだった。つまり、彼らは何か思い違いをしているのだと考えていた。

そういうことではないのかもしれない。そうではなくて、彼らにとっては受験勉強も就職活動も、あるいはそれから先のすべても、なんでも全部「人生」という信仰のためなのではないだろうか。そう見なすと(わたしにとってはまるで不可解な)いくつかのことが、これまで感じたことがなかったような度合いで腑に落ちてくるように思われる。信仰が彼に命じ、彼は命じられた通りを忠実に実行する、あるいは実践する。ただそれだけなのだ。・・・そりゃ自由意志なんて知らないという顔をするはずだよ。

そうした態度は、それはそれで、必ずしも悪いことばかりではないに違いない。つまり彼らにとっては受験勉強も就職活動も、その間のキャンパス・ライフ(笑)にしても、本当のところ人生のひとコマ──まさしく「思い出アルバムの写真」──としてしか意味を構成しはしないはずで、つまりそれ自体の独立した意味とか価値とかいったことは、およそ彼らの念頭にはないはずだ。そういう人は知識とか労働とか、そういったことに関連するイデオロギーに誑かされることは、きっとほとんどないだろう。あっても最小限で済むだろう。それは、だいたい、いいことであるはずだ。

もっともある種のイデオロギーは彼ら自身ではなく、彼らの信仰する「人生」の方を直撃するということがありうる。そうなったら彼らは無力だろう。自分の運命をどのようにいじくり回されても、ただただいじくり回されるままになるしかないはずである。

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人生のある人ない人

2010年10月29日 | げんなりしない倫理学へ
(昨晩の続き)

結局何なんだろうと考え込んで浮かんできたことのうちで、とりあえず一番もっともらしいと思えるのが題名通りのことである。人間には2種類あって、というより、たいていの人には人生があるのである。「人生がある」という表現は奇妙だというなら、人生を「持っている」とか、あるいは場合によっては「信じている」という言い方が相応しいのかもしれない。

そう言うくらいだから、これを書いてるわたしは人生のない人である。これも同じように「持っていない」「信じていない」と言い換えることができる。現にないし、かつてあったこともないし、これからもたぶんない。いつかも書いたことのような気がするが、わたしにとって「人生」という概念は誕生と死という境界条件によってわたし自身の外側から括られる、わたし自身に属さない何かのことである。こうした考え方は哲学ではそれほど珍しいものではないという気がするが、わたしの場合はたぶん実感としてもそうなのだ。境界条件云々の理屈を理解するよりずっと前からそう思っていた、つまり理屈抜きの実感なのである。

昨日書いたような若い同僚の言葉の使い方は、彼が人生を持っていると考えれば理解することができる。それを持っている、つまり人生が彼自身に帰属する(彼自身がそうと見なしている)ものであるならば、それは彼自身の判断なり行為なりにおいて参照されているはずである。その結果として出てきた表現だと見なせば、なるほど人がそんな風にものを言うことはありうることだと思われてくる。もちろんそれはわたし自身はまったく持っていないものだから、真似しろと言われてもできないわけである。

あるいはこんな風に言うこともできる。日本人でも何らかの宗教に帰依している人はそれなりの割合でいるわけだが、いわゆる無宗教の人の割合もかなり高いのではないかとわたしは思っている。「人生」はそういう人達の大部分にとっての信仰なのではないだろうか。神様や仏様なら「そんなものは存在しない」と淡々と認められる人は結構いるはずだが、そういう人のうちでも「人生などというものは存在しない」と言いきれる人は、わたしを除いてそうはたくさんはいないに違いない気がする。

だから何だと言いたいのかというと、すべての信仰は対応する原理主義、もしくはそう呼ぶに相応しい非寛容的な態度や硬直した道徳的信念の系を部分として内包するように思われる。そうだとすると人生原理主義もたぶんあるのだろうし、原理主義者も存在するだろう、ということである。

というわけでこの突発的に出てきた考察は「げんなりしない倫理学」のカテゴリに入れることにする。続きは気が向いたら書く。

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反倫理学講座(1.2) ─窓から捨てよう─

2010年10月24日 | げんなりしない倫理学へ
(1)を書いた後でなんとなく気になって時々Webを眺めるようになっているのだが、今日はどっかのサイトで「女を捨ててるなぁ~」と思われてしまう言動9パターンという記事があるのを見つけた。女性が以下の9項目に当てはまることをすると男から嫌われるのだそうだ。嘘つけと思うのだが、なんか面白そうだから、ひとつひとつについて、血も涙もない男のわたしが思うところを述べてみる。

1. スウェットやジャージを着てすっぴんで出かけるなど、身だしなみに気を使わない。
わたしならあまり気にしない。近所のコンビニに行くのまで一張羅で行けという方がどうかしている。ジャージ姿で街中を歩いている女性がいたら、それはびっくりするだろう、でもそれは、そんな女性を見たことがないからだ。もっとも、田舎にいたころは男女ともジャージ姿を強制している学校とかがあって、そうするとそこの生徒は女生徒でもジャージ姿で街中を歩いていたりした。とても可哀想だった。俺が。

2. 電車で化粧をする。
これはもうこの間書いた通りだ。わたしは化粧している最中の女性が魅力的に見える人なのだ。しかしせっかくだから今回も小さな理屈をひとつくっつけてみる。そもそも化粧は女しかしないのに、それを電車の中でやったらどうして「女を捨ててる」ことになるのだろうか?まったく論理的ではありませんね。

3. 公共の場で、大口を開けてあくびやクシャミをする。
やれるもんならやってみろだよ(笑)。でも、どうせやるならクシャミの後で「ええクソ畜生ッ!」までやってくれよな。実際「そこまでやるなら認めるぜ!」という男は、そんなに少なくないと思うぜ。

4. 「うぜぇ」「やべぇ」など、雑な言葉でしゃべる。
こんなのは電車の中の女子中学生とか女子高生が友達どうしでさんざん使ってるじゃないか。彼女らは「女を捨てている」のだろうか。どうしたら、いな、いったい誰の目にはそんな風に見えているんだ?嘘をつくのもたいがいにしたらいい。要はお前が女から「うぜぇ」呼ばわりされたくないってだけじゃないか。いずれ誰だってされてるのさ、そんなのはな。

5. 自虐ネタなどを交えて、笑いをとろうとする。
こういうのは男女に関係ない。人を笑わせるのが苦手な人が無理してやって、それが自虐ネタだったりするとかえって痛々しく見えてしまうことがあるのは本当だ。わたし自身、他人のことは言えない感じだ。でも女性が自虐ネタで人を笑わすんだったら、最小限「女を捨てている」と思わせるくらいでなかったら人は笑わないのではないだろうか。いっそ周囲をドン引きさせるくらいのつもりでやればいいと思う。ただまあ、できないと思うんだよな、なかなかそこまでは。

6. 恥ずかしがることなく下ネタを言う。
確かに、恥ずかし気もなく下ネタを言う女性よりは、羞恥で真っ赤になりながら言う女性の方が魅力的である場合が多い。後者は羞恥心が逆目に入ると言わなくてもいいことまで全部言っちゃうからだ(笑)。まあ冗談はともかく、下ネタを言わない、一切言いそうもない女性に気持ちを許すことなんてできるだろうか。そんな女性がいたとしたら母親だけだ。ということは、こんなのをいちいち咎める男はそもそもひどいマザコンなのさ。

7. 両手に食べ物を持って、むさぼるようにガツガツ食べる。
どこの野獣だwwww いねーよそんな女は!なんでも書きゃいいってもんじゃねえんだよ。
(Oct.25追記)さすがにこんなのは事実としていないせいか、ネット上の伝言ゲームでこの項目は「食べ方が汚い」というような表現に変わっていたりするようだ。汚いと言ったってドンブリ飯をワシワシかきこんだりするの類らしい。バカバカしいこった。今はどうだか知らないが、俺が小学生のころやらされた家庭科の授業じゃ「バナナの正しい盛りつけ方と食べ方」なんていうのがあった。いま思い出してもあれは噴飯物だったな。スパゲティをスプーンとフォークでギシギシ言わせながら食って、それがマナーだと思ってる奴もいまだにたくさんいるよな?メシの食い方なんかをつけつけ言う奴は本質的に全部その類なんだ。全部まとめて窓から捨てちまえだよ。

8. ムダ毛の処理をしていない。
電車ん中で化粧すると文句言う奴ってのは、きっと電車ん中で腋毛脛毛剃ったりしてても文句を言うんだ。放っときゃいいのさ。俺は言わないよ。まあ毛には興味がないけど、ワキからチラチラはみ出てる方にはないわけないぜ。とはいうものの、電車の中で腋をゾリゾリやってる女性なんて見たことがないな。誰かいっぺんやってみちゃくんないか?

9. 座ったときに、無意識に足が開く。
これはもう問答無用だ。意識でも無意識でも何でもいいから開け!さもなくば組め!ミニスカでな!だが、パンツははいていた方がいいらしいぞ!



こう、並べてみて、こんなこと大真面目に言ったり咎めたりする男がそうそういるとは到底思えない。イケメンの奴なんかは放っておいても女が集まってくるから、かえってこんなことは気にも留めてないんじゃないだろうか。実際、これに似た類のべからず集がネット上で見つかるとたいてい「結婚相談所」の宣伝ページやblogだったり、そうでない場合でも書いてる奴はたいてい女性の文章だ。要は女どうしで勝手に無意味な幻想作ってるだけだ。

そうは言ってもこんなこと、ほんとに咎めてくる男がいたらどうすればいいかって?こう言い返してやればいい。「巨人の星」の星一徹いわく「キサマの様な奴を女の腐った様な奴と言うんだ!」──この台詞を声調から真似するのは、いまどき男でも難しいくらいだが、大丈夫、貴女ならできる(笑)。女を捨ててるやつと女の腐ったようなやつと、どっちがましなんだって、表向き捨ててたって中身が確かに女である方がいいに決まってるじゃないか。俺が。

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反倫理学講座(1.1)

2010年10月21日 | げんなりしない倫理学へ
(1)を書いてうpして自分で読み返してみると、我ながらものすごく判りにくいことを書いている。もともとは反倫理もへちまもない、とにかく「電車の中で化粧する女性は魅力的ではないか」と言ってみたい、ただそれだけのことだった。で、そのまんまのことを書き出したわけだが、書いてるうちに結構とんでもないところへ話が入り込んで行ってしまった。

とんでもないところへ入り込んだ割には、わたしにしては珍しくバランスの取れた記述になっていたりするのが可笑しい。車内で化粧する女性に向かってオコル輩が、事実としてわたしは大嫌いだが、わたしはわたしで血も涙もない男なのだ。どっちがいいとか悪いとかではなく、この間に均衡点を求めることができたとすれば、それは「みんなの迷惑だから」式の倫理学よりは嘘くさくない、げんなりしない均衡点になるのではないかという気がした。

「みんなの迷惑だから」が嘘だというのはほかでもない、そこに書かれた「みんな」とか「迷惑」とかの名辞が虚偽だ、全部虚偽だと言わないまでも大部分虚偽でできている何かだということに尽きる。本当はありもしない「みんな」が本当はありもしない「みんなの迷惑」を感じていると、本当は吊るし上げと袋叩きがやりたいだけの実在する残酷土人の徒党、もしくはその代理人と称する〈パルタイ〉が盾に取ってみせる名分、げんなりする茶番劇の合図にすぎないのだ。

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反倫理学講座(1) ─電車でやろう─

2010年10月19日 | げんなりしない倫理学へ
わたしは非常識な男だが、常識が何なのか知らないわけでは必ずしもない。むしろ非常識な人というのは何かにつけて常識的な周囲から疎まれたり、攻撃されたりしやすいわけなのであって、いざそうなった時に逃げ遅れたりしないためにも、常識について理解しておくことは、なまじ最初から常識的な人よりも重大事であるし、敏感だったりするものである。

とはいえ、それで常識が身につくくらいだったら、その人は普通に常識的な人だということになる。本当はそんな程度のことではどうやっても身につかないし、ほとんど理解することができない常識の領域が残ってしまうからこそ、非常識な人は非常識なのである。

わたしにとって世間の常識とされていることのうちで最も理解しがたいことのひとつは「電車の中で化粧する女性は怪しからぬ」というものである。急いで繰り返すが、電車の中で化粧する女性の料簡が理解しがたいのではない。それを「怪しからぬ」と言ってオコル人がいて、どうやらそれが世間の常識の一部であるらしいことが理解しがたいのである。

電車の中で女性が化粧している姿は、わたしに言わせれば、どちらかと言えば非常に魅力的である。化粧している女性がそれほど美人ではない(だろう、たぶん)場合でも、化粧せずにいるよりは美人度(好感度と言い換えても結構だ)が30%かそこら確実に上昇して見える。これはわたしにとってまったく認知的な事柄である。つまり「理屈抜きに」そう見えるのである。

そんなバカなと言う人がいるかもしれない、というか世間の常識は逆だということになっているわけだから、たいていの人が「そんなバカな」と思うのだろう。でもわたしに言わせればなんで常識がそうなのかがよくわからない。そこで、少しだけ理屈をくっつけて言えば、電車の中で女性が着替えを始めたら嬉しくならないだろうか?特にそれが自分の目には美人に見えるという女性だったらどうだろう。わたしは大変嬉しい。理屈がなくても嬉しいのに、つけたらもっと嬉しくなるようである。

「そんな恥ずかしい真似できるかバーロー!」と女性がオコルのだったらわかる。やりたくないのにやってくれと言うつもりもないのである。そうではなくて、わたしが理解できないのは、そういうのをオコルのは男の方にむしろ多いということの方である。オコルなよ、というか、なんでオコルんだよ。大変結構な眺めではないか。そうは思わないか?

何にでも例外はある。電車の中で突然着替えを始めた女性がたとえば自分の家族だったりしたら、それはさすがにわたしでも血相を変えるような気がする。「そんな恥ずかしい真似するなバーロー!」である。しかく家族は一心同体なのだという風に了解することができる。

してみると電車の中で女性が化粧しているとオコル人というのは、たまたま電車に乗り合わせた見ず知らずの女性に対して(あるいは男女に関係なく居合わせた乗客の全員に対して)、希薄なものであるにせよ家族的一体感に似たものを認める人なのだろうか。そうかもしれない。実際、この手のことでオコル人はよくも悪くも、どこか昔風の父親みたいな印象がある。あるいは自分自身に「父性であれ」の倫理を始終言い聞かせていて、その念が周囲にもダダ漏れに漏れまくっているタイプに見える。

またそういう点では、わたしの方は確かに血も涙もないところがある。自分の心をどう探っても、父性感情らしきものがどこにもない、自分のほかに何か守るべきものがあるのを知らない。「男は男らしく」というのだったらないこともないのだが、そういう場合の「男」は怒らないし、むしろ決して怒ってはならぬものであろう。わけても女性に、なかんづく美女に対して。

電車に乗っているとき、わたしは時々ふと「いまこの電車が脱線転覆事故を起こしたとしたら・・・」というような不安にかられることがある。そんな不安を抱くことがそもそも異常ではないかというのはさておき、そういう時のわたしはたいてい、電車が横転したとき周囲の誰をクッションがわりにして、誰を足蹴にすれば自分は助かりそうであるのか、なんとはなしにそんなことを頭の中でシミュレーションしていたりする。むろん、そのうちに「えげつないこと考えるのはよせ」という声がどこかから聞こえてくるような気がして我に返るのだが、それが聞こえてくるまでの数秒ないし数十秒はやっていることがある。

あらぬ方向へ話が逸れかかっているので元に戻そう。なるほど、家族の誰かが電車の中で着替えを始めたら、それはわたしでも血相を変える。けれど化粧する程度のことだったらどうだろう。べつに嬉しくもないだろうが、特に咎めることもしないような気がする。また着替えは誰でもするものだが、化粧は女だけがするもので、男は(特殊な職業の場合を別にすれば)しないものである。男がしないことを女がどこでどうしようと知らないし知ったことではない。率直に言えばそうなる。

・・・以上のごときとりとめもない考察のいったい何が「反倫理学」なのか。現代社会の倫理学的な相は以上の考察とはまるで異なる、あさっての方向を向いていて、それは社会の実相とは何の関係もない茶番の相だということを示してみたいわけである。電車の中で女性が化粧をしたらなぜいけないか。倫理学はただ一言「みんなの迷惑だから」と決めつけるのみであるように思える。それが倫理学の正道であるなら、わが「げんなりしない倫理学」は邪道の反倫理学として堂々これに対抗することを試みよう。



真昼間から何を書いてるんだ、仕事はどうしたと思われることだろうが、実は昨晩、電車の中で膝を怪我してしまって、今日はトイレに行くのも不自由している状態なのである。部屋の外になど出られない(実際、朝からメシも食ってない)から、今日は仕事はお休みである。あのクソ電車めと呪詛しながら寝ているうちに、この一文を思いついた次第である。

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