先日、古道具屋さんを覗きに行きました。廃業した病院を店舗にしてるので道具ばかりでなく建物まで危ないくらいに古い。
古くっても使えるものなら使ったほうがいいですわな。使えるのに捨ててしまってはなんだか命を奪っているような心持ちになります。ま、物品は生命じゃありませんけどね。気分としてはね、そんな感じなんですよ。
それに古い物には味がありますしね。捨てるには惜しい。使って活かしたくなります。
ふと思い出しましたが村松友視「時代屋の女房」ではそれを残酷だと言ってましたなあ。役目を終えて眠りにつこうとしている道具をふたたび使うのは残酷だって。正確な表現は忘れてましたけど、こんなようなことが書いてありましたよ、確か(あんまり自信ないけど)。
そういう見方もありましょうが、出来ることなら活かしたいと思うクチでして、あたくしは。
だって道具は使ってこそだもの。使えば道具は育ち、その最期の最期までまっとうさせてあげたいのよ。
使い捨ての物が多い時代ですけど、それじゃ道具があんまりにもかわいそう。使い捨てられるんだから愛情が注がれない。だから愛着ももたれない。道具が哀れです。
でも本当に哀れなのは私たちのほうかもしれません。物を使い捨てにすることで私たち自身の心が貧しくなっている気がします。使い捨てていれば愛情を注ぐことはなく、注がなければ愛情は枯れます。愛情ってぇのは注ぐほどに溢れてくるものですから。
愛情を注げば自ずと愛で満たされます。
お褒めの言葉、うれしいです。
自分で書いておいてなんですが最後のあたり自分でも納得しました(笑)
というのも書きだしたときはこういうことを書くつもりなんてまったくなかったのです。言葉に導かれるように書き進めていたらこういうところに着地して、ああそうだよなあ、と納得しながら書き終えたのでした。
なので自分が書いた気があまりせず、saito sekaiさんのお褒めの言葉もぼくではない誰かに献上すべきなんだろうなあ、と。
書き始めるときには考えもしていなかったところに着地するのがおもしろくて書いてます。なので以前に書きましたが、ぼくが最初の読者って気分です。
読んでくださり、ありがとうございます。
またのご訪問、お待ちしてます。
追記
最近はまとめて数日分を読むかたちになってますが、楽しみに読んでます。
またコメントさせてもらいます。
Thank you for your time
“授かりもの”ゆえにお返しすべくsaito sekaiさんの作品として表に現れるのでしょう。
ぼくはどこまでが自分で、どこからが自分ではない何モノかが、よう分らんのです。考えたこと、思いついたことのすべてが自分の力だとは思えない。書いている当人が、書きながら「ああそうなんだあ」と感心している不思議というかバカバカしさ(笑)
存在の謎に触れるために書いているようなところがあります。
この不可解、笑うしかありません。
これも ほんとうに 素晴らしくて。
ありがとうございます。
っていうか。
いま この タイミング で
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出逢えた 辿り着けた こと に
感謝 します。
˘人˘*
コメントがあるのは嬉しいです。