私たちは個人なんでしょうかねえ。
って言い方をしても訳わかんないですよねえ。
えーッとですねえ、私たちは個人として生きている、ト。それはそうなんですが、その個人は「何か」に携わって生きているわけで、携わることで「何か」を生かしていることになりますね。個人はやがて死に至りますが「何か」は別の個人によって生かされ続けます。
私たちは個人ってぇより個人として生きることにより生かしている「何か」そのもののような気がします。
見方を反転させれば「何か」に個人は生かされているともいえる。
あたくしはこうしてブログを書いています。あたくし個人の行為ではありますが、個人を超えて言葉っていうか思念といったほうがいいのかしら、何かしらそんなものが生きている感じがするわけです。言葉が生きようとしているからあたくしはブログを書いている、という主客が転倒した表現をしてもいい。
あたくしは自身を個人だと認識しつつも、個人ってぇより個人を超えた「何か」が生きているその一部ってぇ感じもするのです。
時空間を俯瞰することが出来るなら個々の存在は消え去り「何か」が蠢いて見えるだけのような気がします。
俯瞰出来る視点を持てない個人としては個人を生きるだけですが。
今、ふと集合的無意識なんてことを思い出しましたが、私たちは深層でつながってるという考え方をするなら全体を地球に例えた場合、個人なんてのは地べたが凸凹してるそのちょっとした凸凹くらいなもんで、あるんだかないんだかわかんないようなもののような気もします。
そうやって「個人」〜「我」を無意識レベル迄《お取り扱い》⁇出来る様になったら、かなり悟りの境地に近い所に行けてる、この世を俯瞰出来る高みにいらっしゃると言う事かも知れませんね(・・?)
(お心や、お住まい等のご環境もピュア&クリーンでいらして)常この世に降り注いでいる(のに、普段は気がつかない?)宇宙からのメッセージを受け取りやすくなっていらして
閃いたり、真実に気がついたり…
たくさんの、宇宙からの何かしらのメッセージを見つけられた時に(←可能、の意味ではなく、敬語です)言葉が力となって世に放たれて行くのかも知れませんね
読ませて頂き、『我思う 故に 我有り』
をなぜか思い出しました。
いつも深い人生の見方をご提示下さり、ありがとうございます(^∇^)
今日も良い一日を‼︎
ぼくはそんなたいそうな人間ではないので、ikuchanさんのようにおっしゃられるとどうにもこそばゆいです(笑)
俯瞰することは神様にお任せしておいて、私たち個人はそれぞれの持ち場で精一杯個人をまっとうして生きるだけなのだと思います。
どれほどのことが書けているのか自信はありませんが、何か心に響くことを読み取っていただけたなら、うれしく思います。
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