瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#95

2013-05-22 20:27:24 | 考える日々
ま、蛇足なんだけど前回のつづきのようなものを書きます。

あたしは大袈裟だから人類だの世界だのと言っちゃうんだけど、身の丈にあった話をすれば内側と外側は日常的なことにもいえるのよね。人は自分を基点に物事をみるから常に内側からの視点でしかあり得ないのよ。そして常に当事者だしね。その立ち位置からみれば、あれこれ判断するのは当然だし、また判断しなきゃ物事に対処もできないしね。だから仕方がないことではあるけれど、どうしたってその判断にともない他者ともめるのよね。他(ひと)は別の内側から見て、しかも別の価値基準で判断してるんだから当然人と人はぶつかるのよ。

あたり前のことをまわりくどく言っているだけのような気もするけど、あたしの話は分かりきったことを分かりきったこととして話を進めず、はじめから考える、みたいな面もあるので、ま、適当に力抜いて読んでください。全部にまともに付き合ってるとまどろっこしくてしようがないでしょうから。

で、まあ、世の中はもめごとが絶えないト。あたしもしょっちゅうイラつくし頭にきたりもするからね。自分を中心に内側から状況をみていれば、どうしてもそうなっちゃう。

それはそれでいいような気もするのよ。仕様がないじゃんねえ。そういうふうに出来てるんだもん。でも精神衛生上あんまり良くないのは確かね。それに負の感情は身体にも悪いし。
じゃあ、どうしようかっていったとき、外側から見ればいいわけよね。自分を含めた状況を外側から眺めてみれば、別に判断する必要すらなくって、ただこういう状況なのねって確認するだけだもの。傍観するっていうか、ま、観察するわけよね、自分自身を含めた状況を。

と、言うのは簡単だけど実行するのは難しいよね。だから仏教で我執を離れるなんてことを殊更言ったりするんだろうし。
内側と外側の考え方では我執を離れるのは難しい。じゃ別の考え方をしてみましょうか。こんなのはどうかしら。
私を私として認識しているのは私であって、その私とはそもそも何か。その実相は知れない。となれば我に執着するとは、いったい何に執着していることになるのか。執着しているしているものが判らないで執着するというのも可怪しな話で、こう考えると我執を離れ易くはなりそうなんだけど、どう? なにがなんだか、わけわかんなくなっただけかしら。

ま、あたし自身状況の内(なか)で右往左往してイライラしたり落ち込んだりしてるだけだからね。口頭禅の見本みたいなもんだから、あたし。日日是好日とはいかないのよ。
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