瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

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#103

2013-05-31 02:27:59 | 考える日々
以前、心の平安のために精神や肉体から離れるのはもっともだけど、これらがあるからこそ愚かになるのを食い止めているんじゃないかしらって話をしました。今回はそのつづきのようなものを書きます。

私たちは肉体をもつ存在だから死から逃れられない。私たちが、もし死なない存在だったらどんなだろうと思うね。
そんな想像をする前に、もう少し手前から始めてみます。死の手前として病気から。

実際、病気はむかしにくらべれば格段に減ってきてはいるのよね。ま、さまざまな病気を克服しても新しい病気がでてきたりしてるけどね。とはいえ、ペストでヨーロッパの人口が激減したなんて時代もあったし、スペイン風邪が世界大戦に影響したなんてこともあったりして、病気が歴史を動かすくらいの猛威を振るったことを思えば、現在、人類はかなり病気を押さえ込んでるわけよ。先進国に関してなら死亡率は減ってきたんだし寿命も延びてるしね。

さらに医療技術は進歩しつづけて、むかしなら救えない命を救えるようになってきてる。iPS細胞の研究が臨床に応用されるようになれば克服できる病気はさらに増えるだろうしね。
いいことには違いないのよ。病気で苦しむことがなくなれば人はどんなに幸せか。現にむかしにくらべれば、こと病気に関しては安心できるようになってきたんだし。いや、病気になれば心配よ、もちろん。あくまで、むかしにくらべての話よ。むかしなら、もう駄目だっていってたのが、いまはなんとかなるんだから心丈夫よね。

病気が減っていくのは、確かにいいことには違いないんだけど、そのことで私たちの考え方とか心の在り方にどんな変化が起こるのか想像すると、手放しで喜んでいいものかどうかと思うのよ。
救える命が増えてくれば救えて当然になるでしょ。救えないことを理不尽だって感じるようになるのよね。いまも臓器移植で国内では出来ないのは海外に渡って手術受ける人がいるでしょ。助からないんじゃ諦めもするけど、そこへ行けば助かるっていうならそこへ行くよね。助かるのが当然で助からないのが可怪しいわけよ。だから助かる場所へ向かう。そういう考え方をするようになるのよね。

こういう考え方に今後ますます拍車がかかって行くわけよ。病気は治って当然。だったら病気は無いも同然。病気について思い煩うことがなくなるってことは、身体と向き合わなくなるってことじゃないかしら。身体と向き合わないっていうのは自然と向き合わないってことよ。身体は食べ物でできていて、食べ物は自然の産物なんだから、身体は自然と直結してる。自然って自分から遠く離れたところにあるもんじゃなくて、ここにあるのよ。普段はそんなこと忘れているけど、病気になれば否応なくそのことを思い知らされる。もし病気がなくなっちゃえば完全に自然を忘れることになるのよね。

ま、極端な話をしてるんだけど、そのほうがわかりやすいでしょ。中途半端に現実的だとピンボケになるだけだから。
で、自然を忘れたからって自然がなくなるわけじゃないからね。私たちは自然に乗っかって存在してるっていうか、そもそも身体が自然そのものなんだし。それを忘れて、無いものとして振舞えばどうなるか。わかりきった話よね。
いまでも都市に暮らしていると自然のこと忘れてるでしょ。人工物しか周りにないんだから忘れるのも当然なんだけど、そんな都市生活者は人間のことしか考えてないのよ。自然なんて無いのと同然。環境問題も政治問題だったり経済問題だったりで、ようは人間社会の問題としてしか扱ってないからね。自然と向き合わなくなると、こういう考え方をするようになって、その先にはヤバイ状況が待っているわけよ。

病気を克服するって、こういうことに向かってることでもあるのよ。
じゃ最初に戻って病気のその先、死がなくなるとどうなるか。死について考えなくなる。そりゃ死が無いんだから当然よね。無いものについては考えようがない。病気について考えなくなることは自然について考えなくなることなら、死について考えなくなることとは何について考えなくなることなのか。それは命についてじゃないかしら。死ぬって命がなくなっちゃうことだから。死を考えないと命があるとかないとか、そんなのどうでもいいっていうか、命という概念がなくなるよね。命という概念がなくなったとき、人はどうなるのか。さあ、どうなるんだろうね。命ある状態が生(せい)だから、命の概念がなくなれば生の概念がなくなるか。ま、死がなければ生がないのも当然だね。そんな状態を「生きる」と表現するのもナンセンスで、じゃ、なんていうのよってなると解らない。

ってことは、死なないって生きつづけるってことでもないのよね。生きるって概念がないんだもの。
死にたくないっていうのは生きることを放棄してることなのよ、実は。これって変な論法に聞こえる? あたしにとっては素直な考え方だけど、人によっては可怪しく感じるかもね。

ま、死とか病気とか肉体にまつわるままならぬことが克服されちゃうと、人間、ろくなことにはならないんじゃないのっていうのが、あたしの考えるところなのよ。肉体から離れるのが心の平安なのは確かにそのとおりなんだけど、お釈迦さまだってこんな形(っていうのは、医療技術の進歩で病気が克服されていくことね)で肉体から開放されるなんて想像しなかったんじゃないかしら。こんな形で肉体から開放されても、お釈迦さまの説く「色(しき)を厭離、滅尽」することにはならないでしょう。逆に弊害がでるのよ、心にね。ま、お釈迦様は精神からも離れろって説いてるから、弊害のでた心からも離れれば寂静には至るけど、わざわざ心に弊害をもたらすこともないからさ。

ジレンマっていえばジレンマなのよね。病気は克服したいけど、やり過ぎると人は愚かになりそう。あたしはそうでもないけど、死にたくない人は多いでしょう。死にたくない人にとっては仮にSF的な話だけどサイボーグとして死なない身体を得られたとしたら喜ばしいことなんだろうけど、そうなるとやっぱり人は堕落しそう。
ま、実のところ、愚かになる人はどんな状況でも愚かになるし、踏みとどまれる人はどんな状況でも踏みとどまれるんだけどね。だから病気が克服されるようになって愚かになる人は、病気が克服されなくても愚かになる人であったりするのよ。ただ状況に左右されない人より左右される人のほうが多いからさ、できるなら状況はいい方向へもっていきたいなと思うわけよ。人を愚かにする状況は避けたいわけ。

とはえ、ジレンマなのよねえ。良かれと思ってやることが、良い結果のみをもたらすわけでもないから。どんなことにも功罪はつきものではあるけどね。
あたしは罪の部分に眼がいきがちなんだけど、罪の部分だけ取り上げて、そのことを否定しちゃえば功の部分はなくなっちゃうわけだし。だから罪を小さくすることを考えるべきなのよね。
ま、今回は一般的に功の部分しか取り上げないような話だから、あたしが罪を指摘するのも無意味でもないかなと思ったりするんだけど、罪の取り上げ方にどれほど説得力があったかは自信がない。死や病を克服するのは人類の宿願だもんねえ。多勢に無勢という気がするのよね、あたしがなにをいっても。
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