岩城宏之「ハニホヘト音楽説法」(新潮文庫 昭和59年)
エッセイです。
4つの章、1.軽い読み物、2.聴衆論、3.音楽的生い立ち、4.音楽教育論からなります。
最初の章は他愛のない話で、楽しく読めるけど、ま、これなら全部読むまでもないか、と思いましたが次の聴衆論が興味深くて読み続けました。
あたくしの場合、聴衆に対してなにか考えるところがあるってわけじゃありません。あたくしは聴く側ですから。ただね、あたくし、接客業を以前やってたことがありまして、とんでもない客をたくさん見てるわけですよ。その人間性にはウンザリします。そんな客に出くわしたときには思ったもんです。演奏家はこんな思いをしなくていいんだろうな、ト。客はわざわざ演奏を聴きに来るくらいに音楽が好きなんだし、そういう客に対して演奏するんだからさぞやりがいもあろう、ト。演奏会ってのは演奏家と客、相思相愛なその状況をうらやましく思ったもんです。そこへいくと、雑多な人が入り乱れてやって来る環境で接客してるあたくしなんざあ、喜び少なく不愉快なことなら枚挙にいとまがない。仕事に行くと必ず精神が削られてました。
あらら、たんなる愚痴になっちゃいましたね。失礼しました。
ま、ともかく、演奏家と客のありようを相思相愛とあたくしは勝手に理想化してました。けれど演奏家にも聴衆に思うところがあるということに、考えてみればそりゃそうだよなあ、ト。会場の雰囲気は客が作るもので、その雰囲気次第で演奏も変わりますよね。聴衆論なんてものを書きたくなるのもわかります。
「聴衆のレベルとは、(中略)演奏家と一緒になってよい音楽をその時作り上げる能力の高さだと考える。」
演奏会に限らず演劇も演芸も、そしてスポーツも全部そうですね。演(や)る側と観る側、両者の共同創作物です、あらゆるエンタメは。でもエンタメだけじゃなく人が集まるところ、すべてが集う人々の共同作業ですから、その出来を良くするするのも悪くするのも集まった人々次第。ってなことを考えてみるに接客業をしていた身としては、サービスをする側とされる側、両者の協力があってこその良い店なんだと思います。となると、あたくしの接客技術にも問題があったってことですかね。
と言うわけで、全部読むこともないと思いつつ聴衆論を読みきって、次の音楽的生い立ちがおもしろく(正統とは言い難い音楽教育のなかで独学に近い形で勉強するのがユーモラスに語られる)、結局最後の音楽教育論までたどり着く。
家元制度、金権体質、権威主義、大学という枠組などに対する批判。
この論文を中央公論誌に書いたのが1969年。当時それなりのセンセーショナンを巻き起こした、とあとがきにあります。が、あとがきはこう続きます。
「だがぼくの告発に、音楽界内部で誰もついてきてはくれず、どの音楽大学でも内部蜂起もなく、何事も起こらず深い挫折感が残った。」
第一線で活躍する指揮者の問題提起にもかかわらず、何も動かず何も変わらないんだなあ、とため息がでます。現状を変えていくってのは難しいですね。人はホント変わらない。呆れるほどに変わらない。ま、さすがに現在は変わったでしょうけど。
雑誌に論文を書いたのが1969年。そこで挫折感を味わって、雑誌では論文が眠ってしまうと今度は本という形にしたのが1981年。それが文庫になったのが1984年。そして現在2024年。いくらなんでもこれだけ経過したんだから少しは変わったでしょう。それとも変わるにはこの程度の年月では少ないかしら。
本は81年11月末に出す予定だったのが諸般の事情で82年2月末に遅れた。その間に芸大・海野事件が明るみに出た、とあとがきにあります。
調べてみるとWikipediaに「芸大事件」として載ってました。以下、引用。
1970年代後半に、当時東京藝術大学音楽学部教授の海野義雄がヴァイオリンの購入を同大学と学生に斡旋し、その見返りとして、楽器輸入販売業者・神田侑晃から80万円相当の弓と現金100万円を受け取っていた事件。
こういうことが昔のことであればいいのですが。
いつだったか山田五郎がYou Tubeで美術業界でのセクハラの話をしてました。画商とか評論家が立場を利用して女性の画家に「不適切な」ことを迫るわけです。
美術界隈では現在でもこんなことがあるんですから、芸大事件のようなことが音楽界にあってもおかしくはないのかしらね。岩城宏之が問題提起したことも昔話じゃなく依然としてそのままだったりするのかしら。
人はなかなか変われませんね。
エッセイです。
4つの章、1.軽い読み物、2.聴衆論、3.音楽的生い立ち、4.音楽教育論からなります。
最初の章は他愛のない話で、楽しく読めるけど、ま、これなら全部読むまでもないか、と思いましたが次の聴衆論が興味深くて読み続けました。
あたくしの場合、聴衆に対してなにか考えるところがあるってわけじゃありません。あたくしは聴く側ですから。ただね、あたくし、接客業を以前やってたことがありまして、とんでもない客をたくさん見てるわけですよ。その人間性にはウンザリします。そんな客に出くわしたときには思ったもんです。演奏家はこんな思いをしなくていいんだろうな、ト。客はわざわざ演奏を聴きに来るくらいに音楽が好きなんだし、そういう客に対して演奏するんだからさぞやりがいもあろう、ト。演奏会ってのは演奏家と客、相思相愛なその状況をうらやましく思ったもんです。そこへいくと、雑多な人が入り乱れてやって来る環境で接客してるあたくしなんざあ、喜び少なく不愉快なことなら枚挙にいとまがない。仕事に行くと必ず精神が削られてました。
あらら、たんなる愚痴になっちゃいましたね。失礼しました。
ま、ともかく、演奏家と客のありようを相思相愛とあたくしは勝手に理想化してました。けれど演奏家にも聴衆に思うところがあるということに、考えてみればそりゃそうだよなあ、ト。会場の雰囲気は客が作るもので、その雰囲気次第で演奏も変わりますよね。聴衆論なんてものを書きたくなるのもわかります。
「聴衆のレベルとは、(中略)演奏家と一緒になってよい音楽をその時作り上げる能力の高さだと考える。」
演奏会に限らず演劇も演芸も、そしてスポーツも全部そうですね。演(や)る側と観る側、両者の共同創作物です、あらゆるエンタメは。でもエンタメだけじゃなく人が集まるところ、すべてが集う人々の共同作業ですから、その出来を良くするするのも悪くするのも集まった人々次第。ってなことを考えてみるに接客業をしていた身としては、サービスをする側とされる側、両者の協力があってこその良い店なんだと思います。となると、あたくしの接客技術にも問題があったってことですかね。
と言うわけで、全部読むこともないと思いつつ聴衆論を読みきって、次の音楽的生い立ちがおもしろく(正統とは言い難い音楽教育のなかで独学に近い形で勉強するのがユーモラスに語られる)、結局最後の音楽教育論までたどり着く。
家元制度、金権体質、権威主義、大学という枠組などに対する批判。
この論文を中央公論誌に書いたのが1969年。当時それなりのセンセーショナンを巻き起こした、とあとがきにあります。が、あとがきはこう続きます。
「だがぼくの告発に、音楽界内部で誰もついてきてはくれず、どの音楽大学でも内部蜂起もなく、何事も起こらず深い挫折感が残った。」
第一線で活躍する指揮者の問題提起にもかかわらず、何も動かず何も変わらないんだなあ、とため息がでます。現状を変えていくってのは難しいですね。人はホント変わらない。呆れるほどに変わらない。ま、さすがに現在は変わったでしょうけど。
雑誌に論文を書いたのが1969年。そこで挫折感を味わって、雑誌では論文が眠ってしまうと今度は本という形にしたのが1981年。それが文庫になったのが1984年。そして現在2024年。いくらなんでもこれだけ経過したんだから少しは変わったでしょう。それとも変わるにはこの程度の年月では少ないかしら。
本は81年11月末に出す予定だったのが諸般の事情で82年2月末に遅れた。その間に芸大・海野事件が明るみに出た、とあとがきにあります。
調べてみるとWikipediaに「芸大事件」として載ってました。以下、引用。
1970年代後半に、当時東京藝術大学音楽学部教授の海野義雄がヴァイオリンの購入を同大学と学生に斡旋し、その見返りとして、楽器輸入販売業者・神田侑晃から80万円相当の弓と現金100万円を受け取っていた事件。
こういうことが昔のことであればいいのですが。
いつだったか山田五郎がYou Tubeで美術業界でのセクハラの話をしてました。画商とか評論家が立場を利用して女性の画家に「不適切な」ことを迫るわけです。
美術界隈では現在でもこんなことがあるんですから、芸大事件のようなことが音楽界にあってもおかしくはないのかしらね。岩城宏之が問題提起したことも昔話じゃなく依然としてそのままだったりするのかしら。
人はなかなか変われませんね。
> 裏話... への返信
思わぬところで人と人はつながっているものですね。上司の方も我が弟が永さんとそのようなことになっているとは思いもしませんよね。
それはさておき、上司の方からいろんな裏話が聞けて楽しそうですね。楽しい話ばかりではなかったかもしれませんが。
ずいぶん昔の話になりますが、会社員の頃、私の直属上司が岩城宏之さんのお兄様で、個人的にも親しくさせていただきましたのでいろんな裏話を聞かせていただきました。
ある時、会社の講演会に永六輔さんを講師にお招きしたんですが、アテンドしたのがその岩城さんのお兄様で、講演終了後の会食の時に岩城宏之さんの話題になり、永さんと岩城さんはもともと政治的活動を共にしていましたが、考え方にズレが生じるようになり袂を分かちました。そんな事情があったものですから、お互いぎこちない対応になったと私の上司が述懐していました。