小松左京「神への長い道」(角川文庫 昭和53年)
以前にもこの本については書いた記憶があるなあ、と思って探してみたら10年ほど前の記事でした。
当時の気分は覚えています。
主人公は「人類は、これだけのものだ! これが、人類の限界だ」と感じていますが、あたくしも自身に対する閉塞感とともに社会の停滞感に苛立つ一方あきらめてたんですね。ここいらが終着点なんだろうな、ト。
筋を簡単に追いましょうか。
主人公はいろんな人生経験をして思います。「人生って、これだけのものか?」。そして希望への鍵を未来にみます。未来においては「何かこの時代における限界をつき破るようなものが、歴史の中に出現している可能性もつよいではないか?」と考え冷凍睡眠に入ります。で、56世紀に目覚める。そこで言葉にするのが「これが、人類の限界だ」です。56世紀も基本的にかわったところは、何一つなかったわけです。
ま、そうでしょうね。あたくしもそう想像します。過去を振り返れば、現代人と例えば明治人と比べてみても基本的に変わってはいないでしょう。さらに遡って江戸だろうが室町だろうがやっぱり大差ない。ずっと地続きです。わたしたち人類は所詮わたしたち人類です。それを考えればこの先だって似たようなもんです。
しかし主人公は悪あがきする。56世紀人とともに宇宙にでる。700光年先にある星が信号を送っていることがわかったんですね。たどり着くとすでにその星の文明は滅んでいて、調べてみると地球人よりは技術面では少し先まで進むことができたのはわかった。でも精神的な面ではほんのわずかしか先んじていないらしいこともわかる。
56世紀人の調査ではそうなんですけど主人公はその星の墓所だと56世紀人が考えた場所は墓所ではないんじゃないかと考える。主人公は空いている棺桶状のくぼみに入って、それが精神旅行をするための装置であることを理解する。ただ主人公はその装置を使いこなせない。脳がついていかないんですね。しかし56世紀人なら使いこなせる。56世紀人は大脳前頭葉が発達しているという小説内の設定です。
長くなりました。
一旦ここで切ります。
続きはまた次回。