瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#55

2013-02-09 00:44:32 | 考える日々
“崇拝”という言葉をみて、あたしにそういう対象ってあるのかしらって思わず考えてしまった。すぐには思いつかないのよね。ま、よく捜してみれば在るのかもしれないけれど、捜さないと見つからないようではその程度の存在感なのだし、それは無いのも同然。嗚呼、あたしには崇拝する対象が無いんだって思ったとき、殺伐としたものを感じたね。なんの潤いも無く、ただ渺々たる不毛の大地が広がっているだけのような気がして我ながら荒んでるなあって哀しくなった。崇拝する対象って救いだと思うのよね。その存在は光なのよ。あたしは光を失くしているんだね。

“崇拝するもの”とは同義とはいえないけど、“聖なるもの”と置き換えられる部分もあるように思うんだけど、聖なるものとなると、あたしのみならず世の中からも消えてやしないかしら。光を失ったあたしが見るからそう見えるだけ? あたしの気のせいだったら安心なんだけど、実際、聖なるものが世の中から駆逐されているとしたら、酷い世界にしてしまったものだね。ただの印象に過ぎないんだけど、あたしたちは聖なるものを引き摺り下ろすようなことに熱心な気がするのね。それが心の平穏を手放すことだと気付かないまま、仇のように聖なるものを穢すことで自分たちと同質同等に貶める。というより、聖なるものを否定することで自分たちを聖なるものに近づけている気なのかもしれないね。そうだとしたら、あたしには大いなる勘違いにしか思えないけど。自分とは別のところに聖なるものが存在していることで安寧があるんだもの。

見方を変えれば“聖なるもの”は妄想とも言えるけどね。よく知らないものについては妄想がはたらき、妄想は容易に崇拝対象へと転化する。それを“聖なるもの”と呼ぶ場合もあるだろうしね。

ちょっと考えが整理されてないかな。“聖なるもの”とは何か、というところから考え始めるべきなのかしら。思いつくままに考えてるから、相変わらず迷走するね。またそのうち、あらためて考えてみましょうか。あるいは今回きりになるかもしれないけれど。あたしにとって大切なことなら否応なく何度も考えることになるだろうし、どうでもいいことならこれっきりだし。それは今のあたしには判らない。
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