瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

お休みの回(無意味からの脱出)

2013-03-20 22:22:37 | 考える日々
書かないでいると楽でいいね。このままブログ閉鎖しちゃいたいくらいだ。とはいえ、自ら課したことを抛(な)げるのも気持ちわるい。もうしばらく休んだのち、約束どおり再開するとしましょう。

で、今回は徒然なるままに。

あたしが書くのを中断したのは、書く意味が見つからないまま書き続けていることに疲れたからだけど、それでも一応意味は見出していたのよね。それは読み手の反応が返ってくること。それが書く意味かと思いながら書いていたけど、ちっとも反応は無い。じゃ、書く意味はそこにはないのかしら、と別の意味を探しているうちに疲れ、心が折れちゃった。こうなると、もうダメね。精神的にまいると後は碌なこと考えない。つまり書くことに意味はない。この行為は無意味なんだ、と思っちゃったら、もう続けられないよね。で、一時的に中断と。

でもね、書くの休んでて思ったけど、やっぱり読み手の反応があること以外に書き物を公開する意味なんてないのよ。今日もさ、スタインベックの「怒りの葡萄」の解説読んでて、ふうむと思い、ちょっと思いついてアシモフの書いた簡単なSF史を読み返し、あれこれ考えつつノートに書き込んでいるうちに暗澹たる思いになってきたんだけど、書いたものに反応が返ってこないというのは公開しないでノートに書いてること、つまり今日やってた行為と何も変わらないのよ。ノートに書くか、ネットに書くかの違いで、それならノートに書いたほうが楽。ノートなら読み手を気にしないでいいからね。あたし、読み手のこと考えなかったら文章、滅茶苦茶なのよ。だから読み手を意識して、文章に気を使いながら書くのは大変なの、あたしにとってはね。
ノートに書いてもネットに書いても違いがないんじゃ、楽なほうを選ぶけど、本当のところ違いはあるでしょ。ノートは誰も読まないけれど、ネットは誰かが読むもの。誰かが読んで、その反応が返ってくることこそネットに書く意味があるわけよ。無反応だったらノートに書くのとなんら変わりなくネットの意味がない。

池田晶子を読んでいたら以下の文章に出会った。

言葉というものは、発せられる限りは、応えられることを必ず欲しているものだから、欲していた応えが、欲していた質において、過不足なく返ってきた時の悦びは、半分意地みたいな正義感と義務感とを超えて余りある。言葉を信じるということと、人を信じるということが、同じことであったということを、思い出せる瞬間である。

つまりはこういうことなのよね。発せられた言葉は応えられることを欲しているのよ。あたしが一方的に書いているだけではフラストレーションがたまって当然なの。欲していた応えが返ってきたとき、ようやくこのブログは成立する。何も応えが返ってきていないこの状態は不完全なのよね。この状態のままだったら、ホント意味ないのよ。
ま、ともかく、あたしも言葉を、そして人を信じましょう。書き始めて3ヶ月だもんねえ。書いてるほうも、こんなふうにぐらぐらしてるくらいなんだし、読んでるほうも、まだまだ熟(こな)れてなくて反応の仕方にまごつくよね。いつかは考えが、書き手と読み手のあいだを往ったり来たりするように願いながら書き続けるとしましょう。


追記
1ヶ月の予定で休んでみると、このくらいのペースがちょうどいいのかな、なんて思ったりもするね。3ヶ月書いて1ヶ月休むペースね。本当は毎日書かず、週2、3日くらいなら長期休みの必要もないんだけど、それじゃ分量少ないでしょ? 毎日書いても月に30項目。読んで面白いのが、そのうちに何項目ある? たぶん打率は良くないだろうから、1割としても3項目か。毎日書いてこれだもの、週2,3日じゃ、ひと月読んでも面白いものナシなんてことになるだけだもんねえ。
数人で分担すれば楽なんだけどね。仮に7人で書けば一人週一回担当で毎日更新できるわけだし。一人の負担軽くなるうえ内容は書き手の人数が多くなるだけ多様化して、面白い項目にあたる確率も高くなるでしょう。
ま、書き手を募る前に読み手の応えが返ってくるようなものにするのが先決なんだけどね。それに書き手は労多くして、その見返りは“欲していた応えが、欲していた質において、過不足なく返ってきた時の悦び”だけだからね。あたしみたいな酔狂モンしか書かないかもしれないね。


おまけ
このあいだ食べたカボチャはニュージーランド産だった。日本とは季節が逆だから向こうはちょうどカボチャの時季なんだね。
で、思うのよ。これは豊かなこととして歓迎されるべきことなんだよなあ。でもなんだか素直に豊かとは言いにくい気分があるのよね。フツーに考えれば季節を問わず野菜が手に入るのは、物が豊富といっていい。豊かなんだよ。じゃ、それでいいじゃねえかってハナシになるけど、なんだかねえ。なんとなく、それは違うんじゃないかって気がしてならない。“なんとなく”じゃなんの説得力もないんだけど、なんとなくとしか言えないのよねえ。うまく言葉に出来ない。でも感覚的につかんだことは、案外核心を突いていたりもするから馬鹿にはできないのよ。考え続けてるうちに言葉になるときが来るかもしれないから、とにかく考え続けるとしましょう。
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