瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#98

2013-05-25 07:53:49 | 考える日々
前回、主観的世界の住人だって話をしたんだけど、主観と客観の話になると、あたし訳わかんなくなるのよね。主観は、あたしはそのように観るってだけのことだから、あたしにとっての実在感は確かにあるの。主観なんだから他人のことなんか知ったこっちゃないわよ。他人がどう観てるかに関係なく、あたしにとっては間違いなくそうであるってハナシ。

宇宙論に人間原理って仮説があるそうで、人間がそのように認識するから宇宙はそのように出来ているって考えるようだけど、これなんか、あたしには究極の主観論にしか思えない。科学は客観的にものを観てるのだと思っていたら、そうでもないらしい。
たしかに認識する主体がないことには存在は確認されないから、人間在っての宇宙でもあるんだけど、このモノ謂いは科学というより哲学のような気がする。

だれが言い出したか知らないんだけど、山で樹が倒れる音の話があるね。認識のことでその話を憶いだした。
誰もいない山奥で大きな樹が倒れる。さて、そのとき音はしたといえるのかってやつ。
客観的事実として樹が倒れれば空気が振動して音は出る。だけどその音を聞くものがいなければ音は認識されない。認識されない音を音がしたといっていいのか。

こういうことを考えてると客観的事実ってあるのかしらって気がしてくるのよね。だから人間が認識するから宇宙が存在するっていえば、ま、それはそうなんだろうと思うのよ。存在するっていうのは主観的でしかなく客観的な存在はない。とはいうものの、人間が存在する以前から宇宙は在ったというのも、そりゃそうだろうって思うのよ。でもなんだかあやふやな感じはするのよね。

なんだか主観と客観の話に認識論が絡んできて、どう考えていいのか解らなくなってきた。こんなこと考えてる人はいっぱいいるんだから、そういう人の書いたものを読めば考え方の参考になるはずなんだけど、あたし怠け者でなんにも読んでないからなあ。勉強不足だと考えがすぐ行き止まりにぶつかる。賢い人なら手ぶらで考えても先へ進めるんだろうけど、あたしはダメね。先人の書いたものを読んで羅針盤にしないと身動きとれなくなる。

ま、馬鹿を承知で書いてるんだから、わけわかんないままじたばたしてみますか。

宇宙論以外では量子論においても客観的事実なんてないんじゃないかって気になるのよね。観測者の振る舞いが観測される側に影響するなんてことになると、動かし難い客観的事実はないってことでしょ。認識する主体と認識される客体との相互関係が存在を確定していくって理解なんだけど、これでいいのかしら。あたし科学解ってないから誤解かもしれないけど、ま、量子論に限らず、あたしは客観があやふやな感じはするんだから、量子論に関して誤解してても、あたしの抱えてるわけわかんなさには関係ないから、ま、いいや。

わけわかんなくなってくるとイライラするから、無理矢理解ろうとして、つまりは空(くう)ってことですか、なんて言ってみたりもするんだけど、そういえば小林秀雄が仏教の観法は認識論じゃないって書いてたよなあ、なんぞと余計なことを思い出すから軽々しく空なんて持ち出して逃げ込んじゃ駄目かしら、と思いとどまったりもするのよ。

やはり簡単に解ろうというのが間違いよね。考え続けるしかないの。宿題がたまる一方って感じよね。あたし、生きてるあいだにどのくらいの宿題が片せるのかしら。途方に暮れるね。だからといって、もっと時間が欲しい、長生きしたいって思ってるわけでもないけど。だって切りがないの分かりきっているからね。あたし、夏休みの宿題終わったためしがないのよね。
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