瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

#58

2013-02-12 20:49:19 | 考える日々
体調をくずしたので身体のことを考えた。言い方を換えれば、体調をくずさないと身体のことを考えないわけで、これは身体の自己主張なんだろうね。私(つまり身体のことね)を忘れてもらっては困る、とね。心と身体は同じものだと以前書いた気がするけれど、そんなことを書いておきながら肉体より精神のほうを構ってしまいがちで、肉体は往々にして放ったらかし。だから逆襲される。肉体を置き去りにして精神は存在し得ない。

魂という言い方があるね。魂を精神と換言できるなら、上記の言い方はこうも言える。魂は肉体なくして存在しない。ならば死んだら無になるといってもいい。肉体が滅びると同時に魂も滅びる。当然死後の世界は無い。

これはこれで理屈だと思うけれど、あたしはそうは考えないのね。たしかに肉体あっての精神よ。肉体の逆襲(今回の体調不良は頭痛ね。吐き気もしたけど、リバースにはいたらなかったくらいで、幸い酷くはなかった。今日はこうやって書けてるしね)を受けるたびに肉体と精神は不可分だと思うもの。にもかかわらず、肉体の滅びが精神の滅びとは考えない。どういうことか。それはね、肉体が滅びるといっても雲散霧消するわけじゃないでしょ。生命活動を終えた有機物は無機物へと変化する。有機物が無機物に変化するということが、あたしには理解出来ないんだけど、ま、とにかく変化するわけよ。無くなるわけじゃないのよね。だったら精神だって無くならないでしょうって考えるのね。無くならないで変化する。だから肉体をともなった精神の在り方とは別物となって存在すると考えるわけよ。ただ、それを“あたし”の魂と呼んでいいのかとなると疑問だけどね。肉体をともなっていた時の魂とは別物なんだから。

ま、所詮空想に過ぎないから馬鹿馬鹿しいと一笑に付されても、あたしも何も言い返す気もないけどね。相手にされないのも仕方がない。それにあたし自身、肉体をともなわない精神の在り方というものが上手く考えられないし。ただ、全部無くなるっていうのは、やはり違う気がする。それは、あたしが無から有が生まれるということが理解できないせいでもあるけど、感覚的に“無”を否定しちゃうのね。それはたぶん、あたしが“有”だからだと思うんだけど。このあたりになるとハナシは死後の世界もからんできて宗教で取り扱う事柄にもなってくるので、“考える”というより“信じる”へ突入しちゃうから、ここで踏みとどまることにしましょう。死生観になると、どうしたって最後は“信じる”としか言えなくなっちゃうからね。理屈を積み上げれば誰もが納得する結論にたどりつくというわけじゃないし。だって生きてる以上“死”のことは知らないわけで、知らないことについて考えてみても不毛といえば不毛で、結論なんて出ないからね。でも結論が出ないとわかっていても考えちゃうのが人間なんだけどさ。


追記
こういうことを書くつもりで書き始めたんじゃないんだけどなあ。なんだか成り行きでこんな内容になっちゃった。
予定としては、身体と考えることの関係についてだったんだけど、じゃ、それは次回ということで。
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