※また書き直すかもだけどUPします。ヘビーな話です。ご注意を※
想定外のことだらけの人生を、歩いてきたつもりだった。
自分を鍛えて、鍛えて、
たいていのことは、耐えていけるように。
だが今、その自信がゆらいでいる。
今、自らの置かれた立場に恐れおののく自分を発見して、
たじろいている。
人生に再び、巡ってくるなんて。
死神の鎌をふるう役割が。
そう。
介護者という役割を皆が嫌がるのは、実はここに理由があるのかもしれない。
明日、ばあたんだけを、ショートステイに行かせる。
二泊三日、金曜から日曜まで。
その間、祖父と二人で、昼夜過ごす。
とにかく前へ進まなければ。
共倒れにならず、介護を続けていけるために
希望を、選択肢を、増やしておかなければ
そう考えての、今回の決断だった。
じいたんは、最近わたしに対して、本当に優しくなった。
介護に介入した当初からは想像もできないほどに。
それは、多分
普通の「祖父母と孫の関係」を捨て去ることと引き換えに、
私が、祖父が、祖母が、失ったものについて、
ある日ふと思い至ったから、なのだろう。
-----------------------
高3の冬。
父が亡くなったその夜、
まだ彼の身体があたたかいうちに
死後脳の提供をオファーされた。
「先生は学者だったのだから、後の研究に役立つ寄付を喜ばれると思います」
父の後輩だというその医師は、抑揚のない声で言い放った。
「もう、東大の解剖医をこちらに向かわせています」
母は半狂乱で医師に掴みかかった。
そして、いくつかの意見を聞いたうえで、決断したのは、私だった。
親族一同集まっている中で、長女の私が。
はっきり明言する。
決断したのは、わたしだ。
わたししか、決断することを背負おうとする人間が、いなかったからだ。
そのことで誰を責める気持ちはない。
むしろ母に対しては、あんなに過酷な選択をさせなくて済んで、
良かったとさえ思っている。
そして何より、
父を、完全に、生から開放してやりたいと願ったのは、
生き返るかもなんて希望をこっぱみじんにしてあげたいと願ったのは、
他でもないこの私だからだ。
霊安室の横の解剖室で、がりがりと骨をけずる音が響く。
そんな中で、茶を飲みながら、どこか和やかに
葬儀の相談などをしている大人たちを
冷めた眼で眺めながら
「自分が決断したことの結果を、最後まで見極めてやる」
表むき、適当に嵐を装いながら、
心の深い海の中ではただ、そればかりを、考えていた。
その夜。確か午前三時。
脳を摘出された後の彼を、見舞った。
霊安室の冷蔵庫に忍び込んで。
穏やかな、父の顔。
やっと、ふたりきりになれた、父。
息をしていない父の耳元で、ささやいてみる。
「パパ…」
そっと頬に触れると、想像もつかない冷たさが、指先を刺した。
そして
…清拭したときに剃ったはずのひげが、生えてきていた。
彼の皮膚の細胞は、脳を奪われて、なお、生きようとしていた。
父から、完全に、生き返る可能性を、奪い取ったのは
他でもない私であるということを、改めて悟った。
涙も出ないまま彼に頬ずりをした。
ずっと、空っぽになった彼の頭蓋を眺めていた。
「生き返るかもしれない」という、ごく僅かな可能性を
容赦なく摘み取った結果。
生殺与奪の権を握り、かつそれを使役した、
尊属殺しが、私の最後の親孝行。
(以下2006/02/03 父の命日に追記)
こんな考えは傲慢だ、とあなたは言うかもしれない。
また、蘇生はありえないという前提で、
心停止を確認した上で
この処置は行われたのだということ
臨床的には不可逆的に確実に
死を迎えたと専門家が判断したからこそ
可能だったことだということ
そんなことは、充分に承知していた。
それでも
もう、逃れられない、と思った。
これを背負って生きていかなければ
そしてこの思いこそが
多分、祖母の病に気づいたとき
わたしを、職を棄てて祖父母の土地まで転居するという行動に駆り立てたということは事実だ。
(追記終わり)
---------------------------
あのときと、今、同じ立場に立っている自分に、ふと気づく。
自分の決断は、果たして正しいのか。
他の親族全部を差し置いて、
主介護者としての道を選んだ私の決断は、果たして正しかったのか。
でしゃばって介護人を買って出たことさえもが、
じいたんばあたんを不幸のどん底に突き落とす結果を招きつつあるのではないか。
その恐れと不安と、常に戦うことであるということに、
何故わたしは今更、気づいたのか。
だが
彼らが心からそれを望む場合をのぞいて、
施設に入れるなんて選択肢は、私のなかにはない。
周りは皆、施設に入れろという。けど。
だって、どうしてそんなことができるの。
「ごめんね。ばあたんにショート使ってもらわないと、
私が、息の長い介護を続けていけないの。
だから、ばあたん、頑張って、耐えて」
明日にショートステイを控えて、たまらず、土下座した私に
「ありがとう。おばあちゃんは、大丈夫。
たまちゃんのためだったら、おばあちゃん、がんばる」
即座に答えて、ぎゅうっと、私を胸に抱きしめた彼女を、
そんな、無償の愛を胸に宿している、誰より人間らしいあの老女を、
どうして見殺しになんかできるものか。
いいさ、もう一度、改めて引き受けよう。
愛の鎌を背負う役割。
何としてでも、共生していける道を、探し出してみせる。
それが出来なければ、私は私じゃない。
※最後まで読んでくださった方、
お見苦しいものを、耐えてくださったおこころに
深謝いたします。
想定外のことだらけの人生を、歩いてきたつもりだった。
自分を鍛えて、鍛えて、
たいていのことは、耐えていけるように。
だが今、その自信がゆらいでいる。
今、自らの置かれた立場に恐れおののく自分を発見して、
たじろいている。
人生に再び、巡ってくるなんて。
死神の鎌をふるう役割が。
そう。
介護者という役割を皆が嫌がるのは、実はここに理由があるのかもしれない。
明日、ばあたんだけを、ショートステイに行かせる。
二泊三日、金曜から日曜まで。
その間、祖父と二人で、昼夜過ごす。
とにかく前へ進まなければ。
共倒れにならず、介護を続けていけるために
希望を、選択肢を、増やしておかなければ
そう考えての、今回の決断だった。
じいたんは、最近わたしに対して、本当に優しくなった。
介護に介入した当初からは想像もできないほどに。
それは、多分
普通の「祖父母と孫の関係」を捨て去ることと引き換えに、
私が、祖父が、祖母が、失ったものについて、
ある日ふと思い至ったから、なのだろう。
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高3の冬。
父が亡くなったその夜、
まだ彼の身体があたたかいうちに
死後脳の提供をオファーされた。
「先生は学者だったのだから、後の研究に役立つ寄付を喜ばれると思います」
父の後輩だというその医師は、抑揚のない声で言い放った。
「もう、東大の解剖医をこちらに向かわせています」
母は半狂乱で医師に掴みかかった。
そして、いくつかの意見を聞いたうえで、決断したのは、私だった。
親族一同集まっている中で、長女の私が。
はっきり明言する。
決断したのは、わたしだ。
わたししか、決断することを背負おうとする人間が、いなかったからだ。
そのことで誰を責める気持ちはない。
むしろ母に対しては、あんなに過酷な選択をさせなくて済んで、
良かったとさえ思っている。
そして何より、
父を、完全に、生から開放してやりたいと願ったのは、
生き返るかもなんて希望をこっぱみじんにしてあげたいと願ったのは、
他でもないこの私だからだ。
霊安室の横の解剖室で、がりがりと骨をけずる音が響く。
そんな中で、茶を飲みながら、どこか和やかに
葬儀の相談などをしている大人たちを
冷めた眼で眺めながら
「自分が決断したことの結果を、最後まで見極めてやる」
表むき、適当に嵐を装いながら、
心の深い海の中ではただ、そればかりを、考えていた。
その夜。確か午前三時。
脳を摘出された後の彼を、見舞った。
霊安室の冷蔵庫に忍び込んで。
穏やかな、父の顔。
やっと、ふたりきりになれた、父。
息をしていない父の耳元で、ささやいてみる。
「パパ…」
そっと頬に触れると、想像もつかない冷たさが、指先を刺した。
そして
…清拭したときに剃ったはずのひげが、生えてきていた。
彼の皮膚の細胞は、脳を奪われて、なお、生きようとしていた。
父から、完全に、生き返る可能性を、奪い取ったのは
他でもない私であるということを、改めて悟った。
涙も出ないまま彼に頬ずりをした。
ずっと、空っぽになった彼の頭蓋を眺めていた。
「生き返るかもしれない」という、ごく僅かな可能性を
容赦なく摘み取った結果。
生殺与奪の権を握り、かつそれを使役した、
尊属殺しが、私の最後の親孝行。
(以下2006/02/03 父の命日に追記)
こんな考えは傲慢だ、とあなたは言うかもしれない。
また、蘇生はありえないという前提で、
心停止を確認した上で
この処置は行われたのだということ
臨床的には不可逆的に確実に
死を迎えたと専門家が判断したからこそ
可能だったことだということ
そんなことは、充分に承知していた。
それでも
もう、逃れられない、と思った。
これを背負って生きていかなければ
そしてこの思いこそが
多分、祖母の病に気づいたとき
わたしを、職を棄てて祖父母の土地まで転居するという行動に駆り立てたということは事実だ。
(追記終わり)
---------------------------
あのときと、今、同じ立場に立っている自分に、ふと気づく。
自分の決断は、果たして正しいのか。
他の親族全部を差し置いて、
主介護者としての道を選んだ私の決断は、果たして正しかったのか。
でしゃばって介護人を買って出たことさえもが、
じいたんばあたんを不幸のどん底に突き落とす結果を招きつつあるのではないか。
その恐れと不安と、常に戦うことであるということに、
何故わたしは今更、気づいたのか。
だが
彼らが心からそれを望む場合をのぞいて、
施設に入れるなんて選択肢は、私のなかにはない。
周りは皆、施設に入れろという。けど。
だって、どうしてそんなことができるの。
「ごめんね。ばあたんにショート使ってもらわないと、
私が、息の長い介護を続けていけないの。
だから、ばあたん、頑張って、耐えて」
明日にショートステイを控えて、たまらず、土下座した私に
「ありがとう。おばあちゃんは、大丈夫。
たまちゃんのためだったら、おばあちゃん、がんばる」
即座に答えて、ぎゅうっと、私を胸に抱きしめた彼女を、
そんな、無償の愛を胸に宿している、誰より人間らしいあの老女を、
どうして見殺しになんかできるものか。
いいさ、もう一度、改めて引き受けよう。
愛の鎌を背負う役割。
何としてでも、共生していける道を、探し出してみせる。
それが出来なければ、私は私じゃない。
※最後まで読んでくださった方、
お見苦しいものを、耐えてくださったおこころに
深謝いたします。
まだ、お体も本調子ではないのではないですか?頑張りすぎないでくださいね。自分にも優しくしてあげてね。
そばにいられたらいろんな話が出来るのに
本当に飛んでいきたいです。
わたしがこの頃想うことは
「自分が元気でなければ
倒れている人を助けることは出来ない」
ということです。
本当にこう考えるとしんどいです。
自分が情けなくなります。
普段頑張っている人には
頑張ってと言わない凪ですが
ここから毎日お祈りしてるからね。
「たまちゃん がんばって!
遠回りのように見えても
きっと1番良い道が用意されているはずだから。。」
少しでも時間が出来た時は ゆっくり出来ますように。。
前にもコメントで書いたのですが、日々を送ることと、限られた時間を過ごすのとは負担が違うと感じます。休む時間は必要ですよ。へたってしまったら、どちらの気持ちも悲しくなってしまいます。
頑張りすぎず、ゆっくりとお体を大切にしてくださいね。
このエントリと…いうか、たまさんのお覚悟、拝見しました。
部外者が口を挟める問題ではないのですが、ひとつだけ。
たまさんが最善だと思う道を進んで行ってください。
共倒れしないということは、引いてはみんなのためですから…
たまさん、御自分をあんまり追い詰めないで下さいね。
沢山、迷う事も振り返ることもある“介護の道”でしょうが、疲れたら倒れて休んで下さいね。そうしたら、また立って歩いて行けますから。
なんだか人恋しくてやってきました。
お父様の事、自己選択が出来なくなった人の意志を家族に聞かれて、本当はどう思っているか代弁できる家族はないですよ。
私も夫が錯乱状態を過ごした朝、ホスピスでしたが、意識レベルを保つ点滴を外す同意を求められました。同意して外してもらったとたん、物言わぬ昏睡状態の人となって翌朝、この世を去りました。本人苦しみの中でも最後まで話がしたかったのではないか?私が眠らせてしまった。と、未だに自分が責められます。
訪問介護の仕事をしていて、真摯な介護をされているご家族ほど疲れが目立つ気がしますよ。ショートステイの間、どうぞ、安心してリラックスタイムを
(いつの間にか「ちゃん付け」してごめんね)
忙しくしてるでしょうね きっと。
どうしてるかなぁとお散歩に来ました。
…お優しい言葉だけを一言、それだけを仰って、
わたしの中に潜む傲慢さ、さらっと見逃してくださって、ありがとうございます。
涙が出ました。
いつも、ありがとうございます。
介護って、マンパワーが必要ですよね。できれば複数で携われればベスト。
うちは事情があって、それは無理で…。たぶん暫くは(介護の実務については)私とじいたんばあたん三人で踏ん張るしかないかな。
ちょっと毒舌吐いちゃうと、
「当事者であるはずなのに、それを意識できない親戚」は、むしろデリートかけてしまったほうが気が楽(苦笑)
公的な援助についてもっと勉強し、上手く活用していこうと思っています。
それに、私は本当に恵まれているほうだと思います。
彼氏「ばう」や、友人たち、それに
ブログでご縁を得た皆様からいっぱいエネルギー頂いているので…
たもとさん、いつもありがとう。小生意気で偏屈な子供に、付き合ってくださるやさしいお姉さんみたい。