「とうとう、この日が来たか」
ある程度、覚悟はしていた。けれど。
いつだって、覚悟なんてものは、
現実に直面した瞬間には、何の役にも立ちはしない。
今夜、じいたんの書斎に少し、ばあたんを預けた。
彼女の相手をしながらでは、
新たに処方された薬の仕分けや、デイケア連絡帳への記入など、
事務作業ができなかったからだ。
途中、病院の領収書を受け取りに、書斎に入った私に、
とうとう、ばあたんは、訊ねた。
「あなたは、だあれ?」
私は、ただ精一杯、微笑み返すことしかできなかった。
*****************
午前中のこと。
雨の中、微熱のあるばあたんを伴って、
じいたんは郵便局へお金を下ろしに行った。
お金を下ろす必要はなかった。私は知っていた。
やんわりと制止してみるが、
いつものことながら、そんなものは一蹴される。
じいたんの、金銭感覚は既にかなりあやうい。
だが、「お金」は、
じいたんが、自分の権力だと信じている、最後の砦だ。
お金に関して彼が決めた行動予定を覆すことは、介護拒否につながる。
彼の認知の低下が著しいのは、そこだけじゃない。
時系列を追っての、総合的な判断をする力が、もう、彼にはない。
昨夜のばあたんの混乱、そして風邪気味の身体は、
彼の「気の向いた」ときに発揮される、
「おばあさんは、いつでも一緒だ」という彼の「思い」だけで
あっさりと無視される。
やむなく、好きなようにしていただいた。
そして午後1時。
ヘルパーさんから電話を受け、祖父母宅へ行くと。
やはり、ばあたんは発熱していた。
37.7℃。
顔が、ぼんやりしている。
発熱は、せん妄をより、激しくする。
「毎日の努力を無駄にしやがって」、と
じいたんに怒鳴りつけたい気持ちが一瞬湧いた。
だが、
彼らは夫婦であり、私は、猫である。
そこに私が立ち入る隙はない。
じいたんは、それを分かっていて、
良くも悪くも最大限、私を介護者として使っているのだ。
それに、
この発熱がもとで、ばあたんに何かがあったとしたところで、
じいたんは、多分何も意に介さないだろう。
何故なら彼にとって、彼は彼女であり、彼女は彼だからだ。
**********************
午後三時半、病院に連れて行き、診察を受ける。
最後に私が診察を受けるときだけ、彼らに外で待ってもらったのだが、
私にしがみつく彼女の手は、私の二の腕にくっきりと爪あとを残した。
薬局で、私が、薬の説明を受けている間も
似たようなことで、じいたんを困らせていた。
そして。
自宅へ戻り夕食を摂った後、私と二人きりになった瞬間、
彼女は爆発した。
それまで「外出先」であるということだけは認識して
懸命に耐えていた何かが、一気に噴き出す。
「私、何か悪いことしたかしら。」
「たまちゃんが、怒ってるわ。」
「おじいちゃんは、どこ?」
「○○ちゃん(叔母の名前)、私を置いていくんでしょう」
「他の家族をどこに、隠したの?」
そして、文脈も成り立っていない、いくつかの単語の羅列。
一つ一つの問いかけに、なるべく簡潔に、
そして、出来る限り誠実に説明するのだけど、
私の言葉は、彼女の耳に触れた途端、むなしく蒸発してしまう。
「おじいちゃんは、お金の計算をしているよ。
だから、もう少しだけ、そっとしておいてあげようね。」
そんな説明は、数秒で無効になる。
そっと、抱きしめてみる。
頬を、なででみる。けれど。
非言語的コミュニケーションも、無残に断絶されている。
**************************
気分を変えてもらおうと、洗面所に連れて行く。
顔を洗ってもらうために、声がけをしてから時計を外す。
「時計を返して」と彼女は叫ぶ。
声がけが、もう、耳の手前で「ただの音」になっているのだろう。
少し強引にパジャマの袖をめくり、顔をすすがせ、
洗顔フォームを手のひらに置いたら、
ばあたんはそれを泡立てた後、カランに塗りつけた。
入れ歯の手入れは諦め、何とか髪だけはセットさせてもらい、
「おじいさんは?」と、詰め寄る彼女を、やむなく
会計をしている、じいたんの書斎に連れて行く。
「ごめん、じいたん。
今夜はどうやら、私ではだめみたい。
じいたんの顔が見れると安心するから、少し傍にいさせてあげて」
じいたんは快く「おお、おばあさん、おいで」と手を広げる。
だが、ここでばあたんは、足がすくんでいる。
しがみつかれた私の、手の甲にまた、爪あと。
じいたんが、私の手からばあたんの手をひきちぎって、
ようやく私は再度、薬作りに向かう。
*********************
別の部屋にいても聞こえてしまう、彼らの会話。
じいたんが、ばあたんに言い聞かせていた。
「おばあさん、いいかい。
たまを、怒らせたら、
ぼくたちはもうここで、生活できなくなるんだよ」
本音なのか、ばあたんを納得させるための言葉なのか、
どちらかは知らない。
心の中に、泣いている誰かがいるのを感じた。
だが、現実の私は、顔色一つ変えず
薬を、一回分ずつ、切った紙に貼り付けていく。
人生と折り合いをつける、とは多分、こういうことだ。
**********************
そんな過程を経ての、冒頭の、ばあたんの言葉。
私はいつものように、「たまちゃんだよ」と言えなかった。
声が出なかった。
ただ、微笑み返すことしか出来なかった。
「…たまちゃん?」
少し間をおいて、
ばあたんが、少し笑いかけるような、すがるような表情で
私に問いかける。
「うん」
引きつった笑みで答えるのが、精一杯だった。
私はゆっくり後ずさって、書斎のドアを閉めた。
「どうして、さっさと死んだのよ?…お父さん」
誰かが呟くのが聞こえる。
********************
服薬と点眼の時間が来て、もう一度書斎へ向かう。
ばあたんは、疲れたような、けだるい様子で、
じいたんの隣の椅子に腰かけていた。
足に上着を着せられ、珍妙な動作を繰り返しながら。
全てを発散し切ったといった感じの表情。
そして、
「たまちゃん。どこに行っていたの?」
全てを忘れてそこに在る、いつものばあたん。
優しく、できる限り優しく彼女を促して、連れ去る。
点眼と服薬、トイレの介助をし、何とかベッドに彼女を横たえた。
ばあたんも、もう「おじいさんは?」とは言わなかった。
布団をかけてやりながら、せいいっぱい、心を伝えてみる。
「ばあたん、ごめんね。
一番悲しいのは、ばあたんだよね。
そばにいるからね。
横で、薬を作っているからね。
眠れなかったら、話していいからね。」
いつものように、頬ずりをして、唇に軟膏を塗る。
子供のような瞳が一瞬、あどけなく私をとらえる。
そして程なく、寝息を立て始めた。
ある程度、覚悟はしていた。けれど。
いつだって、覚悟なんてものは、
現実に直面した瞬間には、何の役にも立ちはしない。
今夜、じいたんの書斎に少し、ばあたんを預けた。
彼女の相手をしながらでは、
新たに処方された薬の仕分けや、デイケア連絡帳への記入など、
事務作業ができなかったからだ。
途中、病院の領収書を受け取りに、書斎に入った私に、
とうとう、ばあたんは、訊ねた。
「あなたは、だあれ?」
私は、ただ精一杯、微笑み返すことしかできなかった。
*****************
午前中のこと。
雨の中、微熱のあるばあたんを伴って、
じいたんは郵便局へお金を下ろしに行った。
お金を下ろす必要はなかった。私は知っていた。
やんわりと制止してみるが、
いつものことながら、そんなものは一蹴される。
じいたんの、金銭感覚は既にかなりあやうい。
だが、「お金」は、
じいたんが、自分の権力だと信じている、最後の砦だ。
お金に関して彼が決めた行動予定を覆すことは、介護拒否につながる。
彼の認知の低下が著しいのは、そこだけじゃない。
時系列を追っての、総合的な判断をする力が、もう、彼にはない。
昨夜のばあたんの混乱、そして風邪気味の身体は、
彼の「気の向いた」ときに発揮される、
「おばあさんは、いつでも一緒だ」という彼の「思い」だけで
あっさりと無視される。
やむなく、好きなようにしていただいた。
そして午後1時。
ヘルパーさんから電話を受け、祖父母宅へ行くと。
やはり、ばあたんは発熱していた。
37.7℃。
顔が、ぼんやりしている。
発熱は、せん妄をより、激しくする。
「毎日の努力を無駄にしやがって」、と
じいたんに怒鳴りつけたい気持ちが一瞬湧いた。
だが、
彼らは夫婦であり、私は、猫である。
そこに私が立ち入る隙はない。
じいたんは、それを分かっていて、
良くも悪くも最大限、私を介護者として使っているのだ。
それに、
この発熱がもとで、ばあたんに何かがあったとしたところで、
じいたんは、多分何も意に介さないだろう。
何故なら彼にとって、彼は彼女であり、彼女は彼だからだ。
**********************
午後三時半、病院に連れて行き、診察を受ける。
最後に私が診察を受けるときだけ、彼らに外で待ってもらったのだが、
私にしがみつく彼女の手は、私の二の腕にくっきりと爪あとを残した。
薬局で、私が、薬の説明を受けている間も
似たようなことで、じいたんを困らせていた。
そして。
自宅へ戻り夕食を摂った後、私と二人きりになった瞬間、
彼女は爆発した。
それまで「外出先」であるということだけは認識して
懸命に耐えていた何かが、一気に噴き出す。
「私、何か悪いことしたかしら。」
「たまちゃんが、怒ってるわ。」
「おじいちゃんは、どこ?」
「○○ちゃん(叔母の名前)、私を置いていくんでしょう」
「他の家族をどこに、隠したの?」
そして、文脈も成り立っていない、いくつかの単語の羅列。
一つ一つの問いかけに、なるべく簡潔に、
そして、出来る限り誠実に説明するのだけど、
私の言葉は、彼女の耳に触れた途端、むなしく蒸発してしまう。
「おじいちゃんは、お金の計算をしているよ。
だから、もう少しだけ、そっとしておいてあげようね。」
そんな説明は、数秒で無効になる。
そっと、抱きしめてみる。
頬を、なででみる。けれど。
非言語的コミュニケーションも、無残に断絶されている。
**************************
気分を変えてもらおうと、洗面所に連れて行く。
顔を洗ってもらうために、声がけをしてから時計を外す。
「時計を返して」と彼女は叫ぶ。
声がけが、もう、耳の手前で「ただの音」になっているのだろう。
少し強引にパジャマの袖をめくり、顔をすすがせ、
洗顔フォームを手のひらに置いたら、
ばあたんはそれを泡立てた後、カランに塗りつけた。
入れ歯の手入れは諦め、何とか髪だけはセットさせてもらい、
「おじいさんは?」と、詰め寄る彼女を、やむなく
会計をしている、じいたんの書斎に連れて行く。
「ごめん、じいたん。
今夜はどうやら、私ではだめみたい。
じいたんの顔が見れると安心するから、少し傍にいさせてあげて」
じいたんは快く「おお、おばあさん、おいで」と手を広げる。
だが、ここでばあたんは、足がすくんでいる。
しがみつかれた私の、手の甲にまた、爪あと。
じいたんが、私の手からばあたんの手をひきちぎって、
ようやく私は再度、薬作りに向かう。
*********************
別の部屋にいても聞こえてしまう、彼らの会話。
じいたんが、ばあたんに言い聞かせていた。
「おばあさん、いいかい。
たまを、怒らせたら、
ぼくたちはもうここで、生活できなくなるんだよ」
本音なのか、ばあたんを納得させるための言葉なのか、
どちらかは知らない。
心の中に、泣いている誰かがいるのを感じた。
だが、現実の私は、顔色一つ変えず
薬を、一回分ずつ、切った紙に貼り付けていく。
人生と折り合いをつける、とは多分、こういうことだ。
**********************
そんな過程を経ての、冒頭の、ばあたんの言葉。
私はいつものように、「たまちゃんだよ」と言えなかった。
声が出なかった。
ただ、微笑み返すことしか出来なかった。
「…たまちゃん?」
少し間をおいて、
ばあたんが、少し笑いかけるような、すがるような表情で
私に問いかける。
「うん」
引きつった笑みで答えるのが、精一杯だった。
私はゆっくり後ずさって、書斎のドアを閉めた。
「どうして、さっさと死んだのよ?…お父さん」
誰かが呟くのが聞こえる。
********************
服薬と点眼の時間が来て、もう一度書斎へ向かう。
ばあたんは、疲れたような、けだるい様子で、
じいたんの隣の椅子に腰かけていた。
足に上着を着せられ、珍妙な動作を繰り返しながら。
全てを発散し切ったといった感じの表情。
そして、
「たまちゃん。どこに行っていたの?」
全てを忘れてそこに在る、いつものばあたん。
優しく、できる限り優しく彼女を促して、連れ去る。
点眼と服薬、トイレの介助をし、何とかベッドに彼女を横たえた。
ばあたんも、もう「おじいさんは?」とは言わなかった。
布団をかけてやりながら、せいいっぱい、心を伝えてみる。
「ばあたん、ごめんね。
一番悲しいのは、ばあたんだよね。
そばにいるからね。
横で、薬を作っているからね。
眠れなかったら、話していいからね。」
いつものように、頬ずりをして、唇に軟膏を塗る。
子供のような瞳が一瞬、あどけなく私をとらえる。
そして程なく、寝息を立て始めた。