長電話

~自費出版のススメ~

欧州帝国主義のオトシマエ

2013-01-23 | 政治
アルジェリアのガス施設で起こされた今回の人質事件。「人命尊重」という欺瞞を蹴散らして解決・収束を図った同国政府の乱暴な手法に対して、国際社会の非難は思ったよりは少ない。無念ではあろうが仕方のない側面も大きいからだ。

舞台となったガス施設はアルジェリアの全ガス輸出の約2割を賄っており、誘拐犯グループが施設を爆破するようなことがあれば、同国内外に大変な影響を及ぼすと言われていたし、また、人質と共に脱出を計った犯人グループは海外からアルジェリア政府にではなく、国際社会に取引を持ちかけるだろうと推測されていた。

中国がチベットに拘るのが、人民を養わなければいけないという政府の責任としてその水源の確保の必要がある、という理由とよく似ている。

その段階をすべて読み込んだ上なのか、大変な犠牲は出したが、アルジェリア政府はその芽のすべてを摘み、犯人グループを殲滅、早い事件の収束をみた。

遠因としては、かねてより指摘されていた、欧米の誉めそやす北アフリカの民主化(特にリビアの)によって、他国から過剰に供給された余剰武器の拡散が引き起こした事件。

それは、アフリカには義理のないアメリカの関与の少ないかつての植民地からの報復への心配をはじめ、今後も関わっていかなくてはいけない「民主主義」や「人権」という最近作られた概念によって縛られた欧州の計り知れない憂鬱を想起させる。

気の毒な話だけれど、前世紀までの彼ら白人のやってきたことに比べるとその復讐は、「ささやかなもの」と私は考える。土地や人間を大規模に蹂躙しその歴史を正当化し、いい加減な概念で中東及びアフリカを仕切ってきた連中の罪を、今贖っているのだと。

翻って極東の状況を鑑みると、中国や韓国の反日政策・反日デモなどは、非常に紳士的で手続きを踏んだものだと思え、たかだか小さな岩礁のような島を巡って争う我々アジアの人達の穏当さに感謝したくなる。

その争いのソフトさは、欧米に比べれば苛烈とは言いきれない日本人の植民地政策の穏当さに由来するものかもしれない。

宗教や思想がその風土に基づいたものであるということを柱にして考えると、それはつまり、あらゆる不幸な事象は「気の毒なこと」としか言えない。あるいは、日本も島国らしい穏当であるが故に外交下手であることを、むしろ誇らしく思った方がよいのかもしれないと思うこともある。

大島渚、吉本隆明、岡本太郎 ~大衆におもねっても消えないモノ

2013-01-16 | メディア
「大島渚」といえばもちろん、みうらじゅんのイカ天における「バンド名」です。つまりロックンロールの代名詞ですね。

ジャズやクラシックと比べると、現代ではロックやポップスはメーセージメイカーのメディアであり採用する必然的スタイルではあります。みうらじゅんの後継者が出てきたら、今は「園子温」を名乗るかもしれません。

大島渚の作品は、有名な「戦場のメリークリスマス」を始めろくでもないものが多く、さらにコンセプチュアルに過ぎるため時代を超えず、その「姿勢」を強調することによってしか評価できない、というのが私の視点でした。

文章もうまく、声もでかい。コッポラのように、映画監督としてよりむしろプロデューサーの才の方が際立っていた人と言えるでしょう。

福島原発事故後のメディア状況に対して、即応性に柔軟な音楽というスタイルを持つアーティストは、直対応的な反応を示し、多くの「ネタ」を発信してきましたが、映画となると時間もお金もかかる上に、シアターの確保という配給、宣伝告知というハードルもあり、定着する作品として表現していくことがとても難しいはずです。

政治ですら「新党未来」のように、企画段階でズタズタにされかねない現実世界で、園さんのように強い誠実さで事に当たるには、どんだけストレスがあるのだろうかと思いを馳せ、無念にも似たような気持ちになることがあります。

大島渚が元気なら、発信者として原発事故にどう取り組んだか。
民主党の失敗についてどう総括したのか。

これが不在感というものでしょうか。毀誉褒貶は激しくとも、岡本太郎が根源的に嫌悪しながらも世界と接しようとしたように、吉本が政治思想神話の世界から努めて離脱したように、大島渚もまた薄汚れた世間との接点と、下からの目線を失わないよう心がけていた作家でした。

彼の死が、現インチキメディアの温存や挑戦的なアーチストの活動の不毛さの「現われ」の象徴とならないよう、気をつけ、彼の上品でありながら漂わせる「覚悟」のようなものを心に留めていきたいものです。

合掌

結局は、違憲選挙

2012-11-28 | 政治
野田総理の突然の解散宣言の背景にあった第三極潰しは奏功し、あわてる維新は自壊を始め、自民もまた、うかれ躁状態の党首が暴走、余計な事を言っては党内外で顰蹙を買い、本来確保していた支持をいたずらに減らしています。

民主・自民・維新、ともに男性がマッチョな方針ばかりを掲げており、見てても聞いてても非常にくたびれるし、検察の問題も原発も争点化にならんと嘆いておりました。

ところがなんと、あにはからんや、実によい「後出しジャンケン」的タイミングで、本来争点にすべき「原発」「女性・子供」目線を持っていると思われる新党が発足しました。

子供のような政局に明け暮れる男達にうんざりしていたテレビ画面に、琵琶湖をバックに手垢のついていない清新な印象の女性党首が突然現れたのですから、思惑でしか動けない政治屋やマスコミ連中も、ふと我に帰ったことでしょう。

面白いのは、ここに小沢一郎という、誰しもがオワコンと思っていた政治家が絡んでいることです。自民の老人達も「小沢さんは終わったのでミッション完了」などといって次々と引退している最中に、この元気、この野望、この執着。

石原さんや橋下さんは、ロックスターのチャリティイベントへの参加のように、「素材に徹する」傾向があり、自分を捨ててまで、身を捧げようとします。サッカーでいえば、ポストのような役割の長身フォワードであり、小沢さんのような司令塔的暗躍は苦手であるし、なにより組織が嫌いだとは思います。

橋下さんはこの女性党首、嘉田さんに今月26日に「総選挙で動き、原発を争点化してくれ」と持ちかけていたそうです。石原さんとの合流で「すべてが変節」してしまったかのように見えてしまっている橋下さんも気の毒ですが、自らの資質の限界と蕩尽されてしまったカラーに、もうこのお祭りの終わりを感じているのでしょう。

日本の選挙制度が昔のような中選挙区制なら良かったのに、と思われる今回の選挙運動の活況ですが、アラファトさんのごとく蘇ってくる小沢さんが、今回もまたキーマンになるのかもしれません。

ルールと野生 前都知事と前府知事の今後

2012-11-01 | 政治
自分がルールを守って、法に忠実だという自覚がある人ほど、ルールに雑に柔軟な他人に腹が立つものです。

私も頻繁に自転車に乗っているので一時期、無灯火や道路の右側を走っている人にムカついたものですが、都会に限っては真暗闇になることはないし、こちらが気をつけてさえいれば、そういった連中からの危険はおおむね回避できます。

徹底できない交通違反やマナー違反に、イチイチ気にかけていることが事故の元でもあるし、それを負担に感じるくらいのストレスがあるのならば、自転車なんて乗らない方がよいかもしれません。

見通しのよい道路でキッチリ信号を守る人たちは、ルールを守らない不貞の輩から事故をもらっても、「私は信号を守っていたのだから」と主張しつつ死んでいくのでしょう。

ルールを守り、かつ野生を失わないのが理想ですが、なかなかうまくいくものではありません。

石原慎太郎や橋下徹というタレントの毀誉褒貶ぶりは人間味があって、映画や落語の主人公などでしたらとても面白い対象です。また、カリスマもありチャーミングなオーラを発していますので、私のようなヒヨワな文系人間にとっては、その凄みのあるキャラクターは理屈など通じない、相対するとしても体力でたちまち吹っ飛ばされるという、恐怖の対象でもあります。

彼らは、バッシングも受けますが、好きなように生き、それをを許されているように見えます。彼らの実存にとって、法やマナー、かつて誓った約束などはおそらく小さな事であり、窮屈でメンドクサイことだと思います。そのセンスは政治家でさえなければ多くの人にとっては、(さっさと政治家を辞めた)立川談志や野坂昭如と同列の、歓迎すべき愉快なものだったでしょう。

ルールを守り、かつ野生を失わない。野暮なことは言うな。そんな彼らが公的な立場のなかで、どう世間に通用していくか、まだまだ楽しみなところです。

安酒の余韻

2012-10-03 | 政治
参院で問責が出されているので、あらかじめ「レームダック」であることが前提の組閣もつらかろうとは思いますが、政権としての主張もしつつ、党にも気を配らざるをえない野田総理の人選を見てると、WBCの代表監督が山本浩二に決まりそうなNPBの様子とも重なり、所詮政治とはそういうものだという意を強くします。

原発事故により広い国土を事実上失い、人心を大いに傷つけたくせに、ちっぽけな島の問題を韓国風に針小棒大に煽り、人心を引き付けようとする原発維持・推進派の都知事や自民党の新総裁候補だった面々もやはり、私のように「政治とはそういうもの」という退廃的な確信とでもいうべき病に、あるいは侵されているのでしょうか。

例えば、経世会(旧田中派)や宏池会(旧大平派)の流れが親中・反原発・地方分権推進のハト派的立場。清和会(旧福田派)が親米(台湾)・原発推進・中央集権志向のタカ派的立場なら分かりやすいのですが、今回の総裁選の決選投票では、経世会が安倍を支持、経世会出身の石破は、脱派閥志向のある連中と反石原層が支持、というように主張や思想は既に無く、小泉首相以来の清和会ひとり勝ちの流れが、民主党に相対する必要もあり、決定的なようです。

栃木で仕事を営む知り合いが、原発事故による深刻な被害について語っているときの暗い暗い表情が忘れられず、その暗くも美しい横顔を思い出すにつけ、政治的な束縛もあり、つっぱりきれない政権と、まったく被災者に寄り添おうとしない気持ちの悪い「気分はもう与党」の自民党の面々をみてると、ひどい無力感と罪悪感に苛まれます。

「そういうもの」である政治と市民との関係に楔を打とうとした橋下大阪市長の人気の低落傾向もまた「バカ政治の壁」なのでしょう。小泉元首相も田中康夫も橋下市長も河村たかしも、その人気を背景に議会を超えて政策を推し進めようとしました。

それは民意から離れてしまった、議会内ポピュリズム、党内ポピュリズムという、特殊な組織・団体からの正しい逃亡だったのです。

利権保守的な面々が、政治的保守を語り、そんな村上春樹のいう「安酒に酔っている」うちはおそらく何も改善されないし、政治家という分野がますます自殺的に衰退していくだけなのでしょう。それは東アジアの国々、中国・南北朝鮮日本に共通した頭痛の種です。

結局、安酒の酔いを覚ましているうちに、また夜がやってくるのです。

絶対安全原発

2012-09-20 | 政治
民主党の原発政策が右往左往しています。

原発推進にはっきり舵をきることを公約とする総裁候補を戴く自民党に対して、次期衆院選挙で勝てないまでも、議席の減少を最小限に食い止めることが党としては最重要事項であるのにもかかわらず、民主党は国民に人気の高い「原発ゼロ」へのスタンスを明確にできず、また、総選挙の争点とすることも避けています。

党の理念として「必要」であり、選挙で負けないための「突破口」であるはずなのに、です。

政治家は落選すればただの人、と言われるように、政治家を「理想なき政治屋」と捉え、落選中の仲間のために早期選挙を臆面もなく望んでいた自民の古賀誠っていう、ある意味愚かな政治屋の「本音発言」を待つまでもなく、政党や派閥を束ねる「リーダー」たちですらその立ち位置は「そんな程度」であり、ひどくいやしいものです。

しかしだからこそ、それなのにという民主党の、選挙に有効なはずの「原発ゼロ」政策からの忌避が解せません。選挙に勝てば主張の正当性が担保されるというのに、それが出来ない不思議。政党は選挙にて数を確保することが至上命題のはず、それを返上しても実現したい政策とはなんなのでしょう。

米国の意向や経済界のプレッシャーは、そりゃあるでしょう。しかし選挙にさえ勝てば、ある程度のフリーハンドは得られるはず。さらに「原発ゼロ」を口にさせすればある程度の票が集まるという現状のなか、選挙権のないアメリカや、金の亡者的発想しかない経済団体の意向に、それでもつき従うという動機。民主党という政党が失われても守らなければいけない、あるいはバランスを取らねばならないという状況とはなんなのでしょう。

従来の原発政策とそれに伴って整備されてきた政治システムを嫌悪し、しかし同時に迂闊で安易に原発反対を唱える連中にも違和感を覚える私のような、政治構造に深く失望している連中にとって、こと原発政策に関してはポピュリズムに期待しておりました。

しかし、どうやらそれも叶わないようです。

細野さんという、覚えにくい名前

2012-09-08 | メディア
サッカー日本代表の本田もそうなんですが、「は」行の人の名前は忘れやすい。長期政権だった元首相は「小泉」、マンUの香川は「香川」って顔をしているのですが、本田の顔や髪の色は思い出せても、名前がでてこないことがあります。

「は」行の人たちはイメージが名前に寄り添わないのです。自分も「は」行の人だからでしょうか、齢50に至ろうとしているのに、いまだにしっくりきてないくらいです。

細野晴臣の場合、「ホソノサン」という語尾があがるサンまで含めて記号になってるので業界的には問題ありません。そのせいかもしれませんしれませんが、細野といえば晴臣と、なんとなくフルネームを要求されますが、そうなります。

もちろん、ありふれた名前は匿名性が高くなるのは仕方ないことです。しかしそれは、村上といえば、龍なのか春樹なのかっていう話でもないのです。とにかく「は」行は覚えづらい。

さて、民主党のホソノさんは、恐ろしく卑しい感じの若手議員に推されて、代表選出馬を促され、逡巡はしていたのですが、結局不出馬をきめました。

彼はなぜ出馬しなかったのかというと、それは出馬したら勝ってしまうからです。総理ってのは横綱みたいなもので、やったら上がりになってしまう恐れはありますから、大関のまんましばらく過ごしたいってこともあるのでしょう。

政治家のもっとも重要な仕事は選挙に勝つこと、という転倒した状況を変えない限りこういったくだらない世界は続きます。細野総理大臣は卑しい連中に担がれたシンボルにはなり、票の動きに多少の影響は与えるかもしれません。しかし政策的支持の受け皿になるような準備をしてはいないでしょうし、してたらむしろおかしい。

政治家の野心が、政策の実現ではなく、立場の保全にあることが「細野擁立」を招いたことは、誰もが理解するところです。民主党、ひいては政党というものは、商業的営為に過ぎないオワコンであり、間接民主制の限界、つまり1億の人口を抱える国の中央集権政治の実質的終焉を意識させられるところです。

優しくダンディな大人、あぜ道のピルロ

2012-09-07 | スポーツ
他人と違うタイミングで笑う一人暮らしの人は、皺が少ない。肌は荒れてる人はいるかもしれませんが、ツボにはまらないと笑わないし、そんな人のツボなんてそうそう現実ではありませんので、顔面の皮膚が保存され、老けるのが遅いのです。

顔面の皮膚を使うって意味では、よく泣く人もまずいのですが、日常的に泣く人はめったにいませんので、勘定に入れなくてもよいでしょう。ここはひとつ、笑うことについて考えてみたいと思います。

今となっては、ジミーペイジは太ってもしょうがないな、とは思うのですが、ロビー・ロバートソン(ザ・バンド)だけは太ってほしくなかった、というような渋好みの連中にぴったんこ、嵌ることをお勧めするのは、セリエAユベントスのピルロです。

オリンピックをはじめ、今年の夏のさまざまなスポーツイベントのなかで、もっとも輝いていた男はスペイン代表のイニエスタ(ユーロ2012)です。MVPも獲得したしたし、アシストもゴールもそれほど記録として数字には残ってはいないのですが、起点、ゲームメイカーとして最高のプレイを披露してくれました。

されども、イニエスタは10代でこそ天使ようなルックスで、いまも悪魔のようなプレイをする選手ですが、いまやほとんど三宅裕司であり、プレーにセンスはあれど、そこにダンディズムが芽生えるのはこれから。社会的にはまだまだ若造です。

しかし、かつて、ローマの王子トッティのできそこないみたいなプレーヤーであったピルロ。あのちょっとふにゃっとしたルックスは頼りなく見えたし、スター性もなくプレーも仲間に信頼を寄せられるようなものではありませんでした。

知的でシニカルなアーティストの存在とは常にそういったものかもしれませんが、猫が急に飛び出してきて、あわててハンドルを切って、車ぶつけちゃうみたいなファンタジスタだということを、しかし、私たちは後で気づくことになるわけです。

そういった、笑わないくせに、妙に優しく、チップインキックを決めるピルロが世界最高の大人であり、男と思い、今のキャリアを見て、まるでルネサンスのラファエロに思いをはせるように、あこがれるのは、私だけではないでしょう。

ちらっと笑うこと、精神的にソリッドであること。皺がないほどクールなこと。これらが、川の底からこんにちは、とどんな状況であれ言える、あぜ道のダンディだといえます。

奇跡と幻滅のあいだ~ブリキの太鼓のスヽメ

2012-08-28 | アート
久しぶりに「ブリキの太鼓」を見た。

「旅芸人の記録」「木靴の樹」「ブリキの太鼓」は、雑誌で薦められるままに見たけれど、高校生だった当事の私には長くて退屈な映画シリーズとして、まず記憶されている(同時期の公開である「ファニーとアレクサンドル」はさすがに敬遠した)。

私が一時期ドラマーだったことや、声でモノを破壊するという能力描写をその映画を観たというギタリストのH氏の、サイキックなシーンをいかにも愉快そうに話す様子が忘れられないこともあり、その後繰り返し見ることになったその3本の映画の中でも「ブリキの太鼓」は特に印象深い。

戦争を含め、大人たちが引き起こす悲喜劇の狂言回しであるオスカルは、その中立性とシニカルさにおいてスヌーピーとともに、私に強く影響を与えたキャラクターのひとつだ。

どのシーンも絵画のように考えられたアングルで畳み掛ける。映像と脈絡のどっちにもうちひしがれる映画なんて、そうそう出会えない。

こういった、あらゆるこの世の現象を一旦引き受けて、心の中で咀嚼、反芻し、もう一度自らのセンスとスタイルで再生してみる、という行為が作家という連中の、義務ではないにしろ営為だ。

現在、東アジアで行われている愚かな政治状況を引き起こしている民族の政治家たちも、是非この映画を観て、我に返ってほしいものだ。そして知識と経験が増える度にこの映画をものさしとして智恵をつけるため、どんな立場の人も繰り返しみるべきだ。

この映画に登場する、主人公オスカルより印象的な、サーカス団の団長の小人の優雅な振る舞いや発音を、誰しもが見習うべきである。

ブリキの太鼓の舞台であるポーランドであっても、かつての日本であっても、そのときの空気に逆らうのは難しい。パワハラで弱いものいじめをしていた私なんか、全体主義の時代に生まれていれば、またたくまに体制に沿い従ったであろうことは想像に難くない。

私のような迂闊で意志薄弱な人間にとって肝要なのは、組織から離れること。群れないことだ。そのこころがけが、なによりも安全弁として機能する。

そして生粋の愛国主義者より、左翼から転向した連中のリージョナルな屈託を信じよう。

傘がない

2012-08-24 | アート
ノンポリを「ノンポリシー」の略だと勘違いする日本人が多いのは、決して氷室京介のせいだけではありません。

「宴の席で政治の話など無粋」というのは、日本の政治が「ムラ」によって成立しており、その近代的正当性の薄い構造を衆目のなかで暴き立てる行為が、生臭いとして忌避されてきたという歴史故であり、ある意味地元の有力者がしきってきたのが政治であり、中央政府などというものはそもそもアテにするようなものではないという、日本型部族社会の名残でもあるからだと考えられます。

しかし有力者だけが情報を握り、利害調整を請け負ってきたイニシエのカタチは去って久しく、法の外から共同体を支援してきた侠客たちは「暴力団」と呼ばれ排除され、中間集団が担ってきた自治が失われるのと比例して民主主義がはびこり、平等を配給された日本の景色は平準化されていきました。

井上陽水の名曲とされる「傘がない」は、70年代学生運動華やかりし頃のアラ20の心情を唄ったものなので、小学生だった私が「当事者」として聴き、さもありなんと思った記憶はありません。

ただ、「いかなくちゃ、君に逢いにいかなくちゃ、傘がない」と続き、最後は泣いてしまうその唄は、たかが「雨傘」だけに固執しているのではなく、「傘」はいいわけで他に理由があったんじゃねえか、と子供心にいぶかったのも確かです。つっこみたくなる不自然さがそこにあったわけですな。

しかし、子供は暗喩など理解できません。
大人風にいえば、「傘」とは何のシンボルなんでしょうか。

おおむね同時期にヒットした森進一の名曲「おふくろさん」には「世の中の傘になれよと おしえてくれた あなたの真実」とあり、母へのラブソングの中にある「傘」が非常に政治的な意味合いにも捉えられます。

また、「君に逢いに」の「君」を男性と想定してみると、「君」が学生運動に熱心な人で、デモに誘われてるのだけれど、傘、つまり「政治的動機」を持ち得ないという心情の話なのか、と考えることも簡単です。

自殺する若者、テレビではアホなコメンテーター、と今も昔も変わらない話をさくっと挿入するこの曲がいまだ普遍であるという、井上陽水の過不足のないコラージュのセンスといったところでしょうか。

彼女、またどこかへいってしまう

2012-08-22 | アート
選んだ大学での選んだサークルでの印象的な面々ならまだしも、不可避・自動的な、自覚なき選択の高校時代の同窓生の顔を概ね忘れていたとしても、責められるような筋合などないといってもよいでしょう、と誰かに同意を求めたい位、30年振りで顔をあわせる同窓会というものは「あんた誰?」の連続でした。

同窓会なんて、社会的にある程度成功してる連中しか参加「できない」わけですから、その影のない表情を見ていれば、境遇を推し量ることは簡単です。私はそういったステイタスを無視し、ルックスの変化、発言の保守化などに興味を絞り、ふさわしいとはとても思えない、同窓会の参加を決めました。

驚くのは、女性たちの変わらなさ。

それでも幾人かの男性はその麗しさをキープしていましたが、多くの男たちは醜いというほどではないにしろ、おしなべて恰幅を確保し、金親子よろしく儒教的貫禄を身につけているのに比べ、女性のその変わらなさには驚かされました。

「変わらないねえ」は歯の浮くような褒め言葉なはずなのに、実際変わっていない彼女たちの体型には「おべんちゃら」が必要がなく、ただ事実を言ってるだけなのに「いやあねえ」と返す彼女たちに、「いやホントだよ」といえない歯がゆさを催しました。

手や首に多少の「老い」は散見されましたが、、デブはデブに、やせっぽちはやせっぽちに、ちびはちびに、鳥は鳥に、変わりない連続した生活を務めている結果としての体型維持には、少々感動です。

それはこの日に合わせてダイエットした、などというレベルではなく、その存在と印象が体型に寄り添っているからこその感動なのでしょうか。いまだあきらめていない現役感からくる感動なのでしょうか。

私は、いじめをしたという自覚のある何人かに謝罪を済ませ、私を最後まで嫌わなかった女性の何人かに謝意を示したあと、きょとんとする対象を尻目に、2次会に行く連中を見送りました。

一番綺麗だった、同じ部にいただけでほとんど会話すら交わさなかった娘に、「覚えてる?」と聞いて「ええ」と応じられ、その意外さにびびって「じゃあまた」と言う自分もどうかとは思いましたが、同窓会におけるビエイビアなんて誰しもそういったものでしょう。

領土という実存~極東における政治的成功とは

2012-08-21 | 政治
帰省の折、同窓会に参加したとき、その会の趣旨の一つに母校への募金があるということもあり、現役の校長が挨拶にきました。

同窓生も年齢からいってそれぞれ責任ある立場にあり、その責任ある立場とは「校長」なんていう仰ぎみる立場も含まれ、かつて畏れおおかった、かの「校長」という職業につく連中も、自分と年齢のそうそう違わぬ連中が務める事態に、私も失笑をまぬがれませんでした。

かつて映画の世界には、「プログムラムピクチャー」という、分かりやすくいうと構造の同じスタイル、「時代劇全般」「男はつらいよシリーズ」のような「○○組」による仕切りで安く上げ、伝承という「営為」によりその「スキルと経験」を保存するという知恵がありました。

小津といい、溝口といい、黒澤といい、評価されている稀有な作家により彩どられた日本映画は、そのすべてがよいのではなく、小津、溝口、黒澤等という個人がいたに過ぎない、決して日本映画全般が優れているわけではないと、浮世絵に憧れたかつての印象派の作家のようなゴダールは言いました。

しかし、かくいうゴダールも分かっているでしょう。そこには集団(世代)と、個人(時代を超越した存在)との葛藤とでもいうべきものが横たわっているおり、映画とは個々の作品ではなく、そのジャンル全般が鍛えられ、名作と呼ばれる作品は「代表」に過ぎないということを。

世代論はあまり意味がない、というのはゴダール好きの「坂本龍一」の持論。つまりすべては背景に関係なく、個人がすべてを切り拓くものという見識です。これを「保存」「伝統」の観点から考え、世代論的な立場からいうと、「その他大勢的才能」しかなくとも、そのスタイルという左翼組合的、あるいは右翼利権派閥的なルールのなかで、個人をアテにせずなんとか伝統を維持しようという発想、文化を包括的に捉えるつましい努力となるわけです。

同窓会というのは、まさに世代的属性を確認させられる場であり、おおむね部外者であり疎外された人間にとっては、帰属意識を無理強いさせられる世界ではあります。

経済的な勝ち負けが人生の「勝ち組」「負け組」を仕分けするものなら、経済的要素の強い映画や音楽の世界の伝統は、利益を生み出さない「負け組」とされる現在、アートと経済的な成功の背景に横たわっている「伝統的スキル」との葛藤を、現在領土問題でもめる日本の現状に置き換えてみると、同世代の政治家たちがいかに、その「伝統的スキル」を引き継いでこなかったが、よく分かります。

この文章が、同窓会、映画的伝統、政治とからめようとしてて完全に失敗しているように、世界はあまりに稚拙で、具体的すぎるようです。抽象化レベルを高めなければ、理解も許容も、また正しい反発もできないでしょう。

日本の政治家だけだと思ったら、世界的に政治家の劣化が進んでいるように、個人に頼ってもだめだし、伝統だけにおもねっても駄目だし、局面としてかもしれませんが、世界は曲り角に立っているようです。


苦役バス

2012-08-19 | アート
帰省のため、旅費を安くあげようと深夜高速バスなるものを利用してみたところ、出発した瞬間に後悔させられ、二度と乗るまいと誓わざるをえない、そして旅行とすら呼べない、地獄のような苦役を味わいました。

案内にはSAでの3時間毎の休憩をいれた道中17時間とあったので、たまった本をたっぷり持ち込み、時間の元をとるぞとはりきっておりましたが、出発し高速に入った途端「消灯」。まだ夜の9時。目の前にあった私の時間が奪われ、途方もなく長い退屈な時間が横たわります。

さらにカーテンが閉められ、景色を見る権利すら奪われます。自分がどこにいるか判断する材料もないのです。分かるのは時間の経過だけで、まったくの護送される囚人気分を、これでもかと与えられ続けられました。

運営会社による席の割り振りは、年齢と性別によるもので、似たタイプが並ぶことにより、一見友人、お仲間風なのですが、実際は全くの他人同士、当然、道中ひとっことも口を開くことはありません。長い時間をかけて旅費を浮かす貧乏で礼儀も愛想もない、旅行だっつうのに、酒も食事もとらない草食若者(弱者?)たちの群れ。そんななかに私は放り込まれていたのです。

気づくのがおそかった。

辛かったのは5時くらいに空が白み始めても、おそらく早くには寝られなかった連中が明け方にようやく寝付くことができたのか、みなさん泥のようになっており、待ちに待った夜明けなのに、カーテンを開けることができなかったことです。

暗室のような車内で目を凝らして本を読みながら、眠いやつにはアイマスクと耳栓配れよ、などとむかついておりましたら、小倉に到着。大半の乗客が降りたので、眠ってる人がいないのを確かめ、空いてる席に移動、誰にも断らずカーテンを開けました。

疲れました。

バス会社は、この条件に、時計とSAなしを加えたスタイルを導入し、気が狂わなかったらただにする、なんてツアーを考えてみるのも一興かもしれません。

いじめという執着

2012-08-18 | メディア
芸能人の「子供時代のいじめ」に関するコメントの多くは、「私もいじめにあった」、ではあります。

芸能人の応援的コメントは、イメージをマネジメントされた立場から仕方がないとしても、励ましや啓蒙のためになされる子に伝える親や先生、友人のカミングアウトもまた、「被害者」からの共感によって慰撫、心情の回復を狙うことが多い気がします。

よく、いじめた方は忘れるけど、いじめられた方は一生その記憶を留めているといわれますが、ホントにそんな自覚や常識をもった連中が、解決に当たってよいものなのかと、疑問に思うことがあります。

私は「いじめる側」をよくやりましたが、私に「いじめたられた側」の人たちやその行為をよく覚えています。私にとっての「いじめ」は恋愛と同じ「執着」であり、コドモの世界のヒエラルキーを利用したパワハラでした。

見てみぬフリの付和雷同どもも「いじめへの加担」に含めれば、概ねわれわれは「いじめる側」に属していると思うし、いじめられる側のサディステックな感情を誘発する卑屈で被害者然とした佇まいまでをも考慮にいれると、「いじめ」は組織がある限り続き、終わらないものだとは思います。

醜い世相の反映としてのスカイツリー

2012-06-08 | 政治
まともな美意識があれば、東京スカイツリーが「みっともない」というのは分かるはずです。長すぎる太い尖塔と、裾野のないデザインは、墜落して地面に突き刺さった失敗したロケットかミサイルにしか見えず、造るに至った地デジ利権の醜いいきさつの反映を象徴しているという意味では納得はするものの、とりかえしのつかないシンボルを作ってしまった東京、ひいては日本という、落下する惨めな国を悪趣味に彩どっているようで、笑えるし、さっそく負の世界遺産に推薦するべきです。

村上春樹は東京タワーをみっともないと言いましたが、エッフェル塔だって最初は芸術家には非難の対象になったことを考えると、まだ許せるデザインです。なによりも日本の高度成長の象徴であり、まだいろんなことが曖昧だった時期に、有能な日本の技術者やアーティストがベストを尽くした感があったし、そこには野心も含め希望があり、その意味あいを考え合わせると、エッフェル塔も東京タワーも人間の重要な属性のひとつである「シンボル」に託すという機能を果たしてきたと言えます。

芸術家と国士を気取る(スカイツリーを容認した)石原都知事の見識が、ほとんど「田母神」氏と変わらず、尖閣を買い取るなどと言う割には、「ふくいち」事故によって失った国土については一切触れないことも含め、「現状分析」と「作戦立案」がバラバラ、あるいは「作戦立案」が「現状分析」に影響を与えすぎる現状に、同じ「石原」でも莞爾とは違い、下らない名誉にこだわる連中につきあうのはホントにつかれるなあ、とつくづく思います。

高熱にうなされていると、あの経済宗教シンボルとしてのタワーが私を苛みます。