Henri Troyat, Le marchand de masques (Flammarion, 1994)
ヴァランタン・サラゴスはセーヌ県庁勤務の傍ら、小説を書いている青年。デビュー作『雷』Foudresは売れなかった。第二作『下水の番人』Le Gardien des égoutsでも読者に媚びるつもりはない。友人との食事、父と二人の官舎暮らし、木曜には兄が来る、判で押したような毎日。出版者の勧めで渋々足を運んだ文学サロンで、エミリエンヌ・カリゼーと出会う。彼女は『雷』を読んでいた。
トロワイヤ自身、セーヌ県庁予算課にいた時期がある。職場で創作に没頭し、次長のマドモワゼル・フィルーティエにやんわりたしなめられる青年を、自画像と考えるのは早計か。Sarabosseでは滑稽だと言われ筆名をSaragosseにする。トロワイヤの本姓タラソフTarassovとの類似。
エミリエンヌと彼は、まもなく愛人になる。『下水の番人』出版にこぎつけるのも彼女の口聞き。
妊娠を告げられた青年が結婚を申し出ると、彼女は拒絶する。年齢も、社会的にも隔たりがありすぎた。「なんておめでたいの!」? Quelle naïveté ! ?
彼女は以前からの愛人ラシュロと結婚する。相手はお腹の子が自分のものではないのは承知の上。おめでたい青年に真似のできた話ではなかった。
小説はさんざんの不評、お針娘コリンヌを愛人にしても所詮は代用品pis-allerでしかない。結婚式がすでに行なわれたのを知った日、ヴァランタンは自殺、第一部が終わる。
半世紀を経て、兄の息子アドリアンが第二部の語り手。遺作『内なる富』Richesses intérieuresの公刊をきっかけにヴァランタンは作家として認められた。アドリアンは、伝記執筆のため生前の叔父を知る人たちに会う。老人たちが語る話は、うまく焦点を結ばない。真実に到達できるものかと怪しみ出したアドリアンは、伝記を書く自分を「仮面商人」と感じる。
コリンヌに著書への署名をせがまれ、ヴァランタンが皮肉を込めた献辞「わが愛する唯一の人に」は、真正の愛の証しにされてしまう。誰も彼の自殺の真相を知らぬまま、伝記は書き進められる。
この小説と同じ年、トロワイヤは『ボードレール伝』を上梓。身近な世界を舞台にこの位の分量(180ページ)の物語作品を仕上げることは、伝記からの息抜きの意味を持ったかもしれない。
トロワイヤは『プーシキン伝』を書き終えた後、二通の重要な手紙が発見され書き直しを余儀なくされた経験を持つ。伝記をめぐる寓話といった趣きの『仮面商人』の結末には、虚無感が漂う。
小説第一作から一定の評価を得たトロワイヤには、ヴァランタンのような不遇の時期はなかった。その意味で青年は「もうひとりの私」と言える。
文学青年が自殺するのは1930年代の『蜘蛛』と共通。周囲の人々との交流を描きながら、主人公の孤独を浮かび上がらす。基本のところは変わりがない。長編『蜘蛛』を思い切り圧縮したような感じを受ける。
発表の年には83歳になる。シムノンはもっと早い時期に小説を書くのをやめていた。