発見記録

フランスの歴史と文学

アルトー『神の裁きと訣別するため』

2006-08-25 21:42:40 | インポート

ロジェ・グルニエは近年、文学史の生き証人、「誰それを知る最後の人」として取材を受けることが多いと言う。
対談集Le droit de se contredireでも、カミュやパスカル・ピアを筆頭に友人知己の思い出を語っている。

河出文庫で読めるようになったアントナン・アルトーの『神の裁きと訣別するため』Pour en finir avec le jugement de Dieuについては、

当時ラジオ局で、大きな騒動がありました。アルトーの番組『神の裁きと訣別するため』です。フェルナン・プーエFernand Poueyがアルトーにこの番組を依頼したのでした。アルトーは、当時としてはべらぼうなテクストを書きました。スカトロジックで反米的で(戦後まもない頃にです)冒涜的と来ています。私は録音に立ち会いました。出演はマリア・カザレス、ロジェ・ブラン、ポール・テヴナンにアルトー自身。アルトーはスタジオにヒステリーの雰囲気を作り出すのに成功していました。女性たち[カザレスとテヴナン?〕は床を転げ回り、マイクも床の上に置かれていました。(Il [Artaud] avait réussi à créer un climat d’hystérie dans le studio.Les femmes se roulaient par terre, on avait mis des micros sur le plancher.)局長のヴラディミール・ポルシェVladimir Porchéが放送を禁じました。放送するべきか否か、著名人を集めた公聴会がありました。皆が声を合わせて、するべきだと言いました。ポルシェが差し止めを撤回しないのはみんな承知しているだけに、言いやすかったのです。(Cela leur était d’autant plus facile qu’ils savaient que Porché ne reviendrait pas sur l’’interdiction.) 海賊版が出回りました。その後、放送も行なわれました。今では騒ぎにもなりません。アルトーに会ったのはこの時だけです。彼は重病で、それからまもなく亡くなりました。

グルニエはラジオの世界をFidèle au poste でも回想している。1947年8月1日、国営ラジオla Radiodiffusion française の文学・演劇番組制作主任となったばかりのプーエは、マルク・ベルナールMarc Bernard(1900-1983)イヴァン・オードゥアールYvan Audouard (1914-2004) グルニエの三人をLa Coupoleに招集して言った、?Je crois qu’on va bien s’amuser.?(さあ面白いことができそうだぞ)

グルニエは、プーエが編集長のLe Clouに記事を書いたことがある。この週刊誌は何号かしか続かなかった。弁護士で絵を描き、アコーディオンも弾くプーエは、戦前からParis Soir紙系列のRadio 37創設を任されるなどの経歴を持つが、「辞職する」?Je démissione.?が口癖、辞めたり首になったりを繰り返していた。

フェルナン・プーエは友人に囲まれないと仕事ができなかった。新しい職に就くたび、幸せいっぱい仕事を始める。愛情と友愛と調和に包まれ、幸福な日々を送る。だが少し雲行きが怪しくなると、すぐ辞職してしまった。彼がやって来て、礼をするダンサーのように両手を広げ、晴れ晴れした顔で「辞めた!」と言うのを、私は一度ならず目にした。

 
オードゥアール、ベルナール、グルニエ。南仏人という以外共通点のない三人組は、週一度の番組Littératureを通して親友になる。テーマ曲はヘンデル「王宮の花火の音楽」から。つなぎのところは、アンリ・クロラHenri Crollaがギターの即興。1947年10月には、グルニエとベルナールがジッド宅まで重い機材と共に録音に出かけた。

『神の裁きと訣別するため』は、1948年2月2日、シリーズ番組「詩人たちの声」La Voix des Poètesで放送予定だった。直前の禁止、5日の公聴会(ジャン=ルイ・バローやルネ・クレール、コクトーなどの面々)、ポルシェは譲らず、プーエはまたしても辞職することになる。

プーエはグルニエたちにLittératureを任せた時、好きなようにやれと白紙委任を与えたが、一つ条件があった。詩人のアンドレ・ド・リショーAndré de Richaudをゲストに呼ぶこと。

アル中で、ほとんど浮浪者のようなアンドレ・ド・リショーが、あるパーティーの最中に浴室でオーデコロンを飲むのをグルニエは見た。
Radio 37でプーエの番組に出たとき、彼はどれほどむきになっても?psychologique?と言えなかった。
スタジオに招かれたアンドレ・ド・リショーは、今度も?psychologique?と言うことができなかった!

あの頃のラジオには、後の時代にはもう見出せない自由があった。グルニエはそんなふうに追想する。結局差し止めになったとしても、アルトーの途轍もない作品が放送一歩手前まで行ったこと自体、時代を物語るものかもしれない。

アルトーたちの声で全体を聞くことができるUBUWEB のhttp://www.ubu.com/sound/artaud.html 
またテクスト http://drone-zone.org/room101/viewtopic.php?t=612&sid=0ff41c467880fd1f168050361ef34f4c

放送差し止めの経緯など河出文庫の宇野邦一、鈴木創士氏による解説と
http://palomar.hostultra.com/monk/programmes/1947-1948.html
を参考にさせていただいた。