発見記録

フランスの歴史と文学

マンディアルグ、デ・ピシスを見舞う(2)

2006-07-09 21:11:37 | インポート

『月時計』にはデ・ピシスと関連する三つの文章(?Milan, Modène?, ?De Pisis?, ?La cité métaphysique?を収める。?Milan, Modène?は日記抄。

ブルゲリオ近くの村にデ・ピシスと散歩に出る。大きな七面鳥のいる鳥かごを前に立ち止まる。何年も筆を手にしていなかったデ・ピシスは、突然絵を描きたくなる。フランス語で(会話はイタリア語で行なわれた)?coq d’Inde?(七面鳥)を繰り返す。
二日後再訪するとデ・ピシスは医師の計らいで、もと温室だったような場所を与えられ絵を描いていた。目にも言葉にも、この前より張りがある。時間が来ると、マンディアルグとボナを門まで送る。 

...Là, dans la poubelle de l’établisssement, parmi des cendres, des chiffons, des cotons souillés, des restes de sallade et diverses ordures, il cueillit un œillet fané, mais d’un beau rouge encore, et, après avoir cassé la tige qui était longue, d’un geste d’hôte, il le mit à la boutonnière de mon veston. Sans rien dire. Avec une telle autoité qu’il ne me vint pas à l’esprit de protester.
  Plus tard, je pensai à l’histoire (douteuse et rapportée, je crois, par Jules Janin ) de la rose jetée au fumier par le marquis de Sade, à Charenton.

 そこで、施設のごみ箱の中、灰やぼろ切れ、汚れた脱脂綿、サラダの残りやいろんなごみの間から、彼はしおれた、それでもなお美しい赤のカーネーションをつまみ、長い茎を折ってから、客人を歓待する主(あるじ)の仕草で、私の上着の襟穴に挿した。一言もなしに。有無を言わせぬ威厳があり、抗議しようとも思わなかった。
 後で、私はシャラントン病院でサド侯爵が薔薇を肥に投げ込んだという(怪しげだし、確かジュール・ジャナンが伝えた)逸話のことを思った。

澁澤龍彦『サド侯爵の生涯』では、信憑性のないこの話が伝説化した張本人は劇作家ヴィクトリアン・サルドゥVictorien Sardou (1831-1908) とされる。

 サルドゥの語るところによれば、―年老いたサドは園丁に頼んで、「その付近で発見し得る最も美しい、最も高価な薔薇の花籠を持ってこさせると、汚水溝のふちの腰掛に坐り、薔薇の花をひとつひとつ毟り取っては、じっと眺め、心地よさそうに深々と花の香りを吸うのであった・・・・・・そして、次にはその花を汚水の中に浸し、泥だらけにしてしまうと、げらげら笑いながら、ぽいと投げ捨てるのだった」と。(『医学通信』、1902年12月15日号所載)

バタイユは「花言葉」(二見書房版著作集『ドキュマン』)でこの逸話を反・イデアリスムの象徴として持ち出し、ブルトンが『シュルレアリスム第二宣言』で反撃した。
『サド侯爵の生涯』ではサルドゥは「シャラントンの老園丁」から話を聞いた、二見書房『ドキュマン』訳注では「ビセートルの病院の園丁」


マンディアルグ、デ・ピシスを見舞う

2006-07-07 21:02:29 | インポート

1953年の春、マンディアルグと夫人ボナはミラノ郊外ブルゲリオBrugherio(地図)の病院に≪神経の病≫で入院しているフィリッポ・デ・ピシスを見舞う。
ボナのおじ、画家Filippo de Pisis(1896-1956)は第一次大戦中フェラーラでジョルジョ・デ・キリコやサヴィニオ、カッラと「形而上絵画」の運動を興した。初期には詩や散文を書いていた。デ・ピシスの絵画http://www.palazzodiamanti.it/index.phtml?id=383にマンディアルグは十八世紀のグワルディGuardiや特にマニャスコMagnasco、現代ではスーティンの影響を見る。スーティンとの共通点は、レンブラントの『皮剥ぎにされた牡牛』に幻惑され、何度もこの絵を霊感源としたこと。

入院後三年になるデ・ピシスは見る影もなく痩せ、大きかった目は半ば閉じ、唇は「薄くてカーテンの紐のよう」minces comme des cordons de rideau  唾を飲み込めず絶えず吐き出す。De cela, il s’excuse,avec une sorte de sourire, car il n’a rien perdu de sa grâce ni de sa gentillesse.(これについて、彼は詫びを言う、微笑みのようなものを浮かべて。気品もやさしさも、まったく失っていない)
デ・ピシスの顔はゆがみ、片方の目がもう一方より下にある。非対称は、血の気の失せた肌の色に劣らずマンディアルグを動転させる。
Voilà ce que les électrochocs, dont il a subi des séries nombreuses, et je ne sais quelles piqûres mauvaises (malignes), dont se servent les médecins psychiatres, ont fait d’un homme admirable.
数重なる連続電気ショックと、精神科医が用いる何やらよくない(有害な)注射が、一人の素晴らしい人間をこうしてしまった。

電気ショックといえばロボトミーと並び非人間的、残虐のイメージがある。ロデスの精神病院でアルトーの治療に当たったフェルディエール医師Gaston Ferdière (1907-1990)の名は、電気ショック療法と結びつけて記憶される。
しかし電気ショック療法 実は現役の治療法(風野春樹氏「私家版・精神医学用語辞典」)のような記事もある。
André Roumieux et Laurent Danchin, Artaud et l'asile Nouvelles Éditions Séguier, 1996 も、決して電気ショックを理由にフェルディエール医師を鬼扱いするわけではないようだ。Florence de Mèredieu Sur l’électrochoc- le cas Antonin Artaud という本も出ている。1943年から46年までをロデスの病院で送ったアルトーは、イタリアで1938年に開発されてまもない、全身麻酔や筋弛緩剤の投与など「修正」(風野氏、前出)を経る以前の電気ショック療法と遭遇したことになる。