発見記録

フランスの歴史と文学

工事中でした

2006-03-23 23:08:27 | インポート

Builder 22日午前8時から今日のお昼過ぎまでOCNのメンテナンス工事のため、閲覧はできても編集や投稿が行えませんでした。

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水都幻談 セーヌ川増水とその写真

2006-03-17 10:00:27 | インポート

組写真 Pierre Petit撮影『水に浸かるパリ、1910年 』Paris innondé, 1910

数年前、確かセーヌ川の増水がニュースになった頃だ、Gallicaで見つけた20世紀初めの写真集を「お気に入り」に入れた。

写原さんのちょうど100年前のフランス雑誌瞥見 「1906年3月 セーヌ川の増水」を見て思い出したそのページは、いつのまにか「技術的あるいは法的理由により」アクセスできなくなっている。

問題の写真はSeeberger ゼーベルガー(?)兄弟―バイエルンからの移民の家系― Jules Seeberger (1872-1932), Louis Seeberger (1874-1946), Henri Seeberger (1876-1956) の作品だったらしい。http://www.culture.gouv.fr/culture/dapa/mediatheque-patrimoine/fr/biographies/seeberger.html

1910年の増水は関連書やサイトInnondation  à Paris : crue de la Seine de janvier 1910 もある。http://lefildutemps.free.fr/crue_1910/index.htm

アルマ橋の橋脚の「アルジェリア歩兵」zouave 像は、川の水位を示す目安になってきた。20世紀の大きな増水で水位がどれだけ上昇したか、上記サイトのここ、Le Zouave du pont de l’Alma の図がよくわかる。像の台座まで水が来る(3.2m)と、警報が出る。1910年には(8.62m)像の肩に達したという。

Bien qu’elles aient causé des dommages importants, les crues "cinquantennales" de 1924 ( 7,32 m) et 1955 ( 7,12 m) n’ont pas tellement marqué les esprits.
Par contre la crue "centennales" de 1910 ( 8,62 m) a été très médiatisée et est devenue une référence.
(大きな被害をもたらしたとはいえ、1924年(7.32m)1955年(7.12m)の《五十年に一度》級の増水は、それほど人々の記憶に残らなかった。これに対し1910年の《百年に一度》級の増水(8.62m)は大きく報道され、以後ひとつの基準となった。)http://lefildutemps.free.fr/crue_1910/resume.php

Avec les nouveaux moyens de communication de ce début du 20ème siècle, c'était la première fois qu'un événement de cette importance était suivi de près par les journaux, appuyé de nombreux clichés : la photographie avait fait son apparition et était devenue accessible à quelques passionnés. ( 二十世紀初頭、新しいコミュニケーション方法が出現し、初めてこれほどの大事件が新聞雑誌によって子細に、また事実を裏付ける多くの写真を添えて報道された。すでに写真が登場し、若干の熱心な利用者も現れていたのだ。)
http://lefildutemps.free.fr/crue_1910/intro.htm

ニースとモナコの間に位置する村エズEzeでは被災者のための募金が行なわれた。
Souscription en faveur des Sinistrés de Parisと書かれた応募券billet de souscription の写真が、Seeberger兄弟撮影のRue de Bellechasse - Paris 1910と共にhttp://perso.wanadoo.fr/lelotusdeze/le_quotidien.htmに(ページのずっと下)。

災害の映像をきれいだと感じることには不謹慎さがあるが、これらの写真には少なくとも地震や火災の跡のような無残な感じはない。建築物はそのままに無人の通りが水に没した光景は、クノップフの『見捨てられた町』Une ville abandonnée を思わせないだろうか。


デスマスクと無垢

2006-03-14 22:36:51 | インポート

ウードンによるルソーの胸像は、ルソー生前のものではない。ウードンが死の翌日に取ったデスマスクにもとづく(

デスマスク masque mortuaireの検索結果を一瞥、目にとまったのがMasque mortuaire, en cire, d'un bébé ケベックの文明博物館蔵、イタリアからの移民で教会の彫像を手がけたピエトロ・ドナティが1歳で亡くなった孫娘ユージェニー・べダールの髪と服を用いて制作した蝋製のもの。

あるいはパリで1878年に見つかった三~四世紀の石棺に納められていた、モルタルで形取った赤ん坊の顔() (カルナヴァレ美術館)

Penelope ジョシュア・レイノルズのペネローピ・ブースビー像(1788)を連想する。父ブルック・ブースビーはダービーシャーの地主。ルソーの英国滞在中スタッフォードシャー州リッチフィールドで彼をもてなした文学愛好者の一人。
1770年代後半パリを訪れた時ルソーから自伝の手稿を託された。ルソーの死後、『ルソー、ジャン・ジャックを裁く』・「第1の対話」のフランス語テクストはブースビーによりリッチフィールドで初めて公刊される。http://arts.guardian.co.uk/portrait/story/0,11109,744542,00.html

1791年にペネローピが5歳で亡くなると自身の詩集Sorrows. Sacred to the Memory of Penelopeで一人娘を哀惜、画家フュースリにThe Apotheosis of Penelope トーマス・バンクスにはMonument to Penelope Boothbyの制作を依頼する。

自然を愛したこの「ジェントルマン」の肖像 Sir Brook Boothby(1781 Joseph Wright of Derby画)はこちらに。

ロマン主義的な「無垢な子供」のイメージが形成されたのはまだまだ乳幼児死亡率の高い時代だった。"Long before she died, Penelope Boothby's parents looked at her living beauty with death in their eyes."(Anne Higonnet, Pictures of Innocence, Thames and Hudson )

ルイス・キャロルはペネローピに扮した少女の写真 Xie Kitchin as Penelope Boothby 1876を撮った。


彫像の眼 「重要で難しい目の問題」la grave et difficile question des yeux

2006-03-13 21:07:06 | インポート

検索で見つかる彫刻家ルネ・ヴォーティエ(1898-1991)Renée Vautierの作品は限られる。
http://www.vallois.com/sculptartiste.php?idartiste=132

彼女はポール・ヴァレリーの胸像を制作した。
ヴァレリーの『私の胸像』Mon buste(1935)は、制作現場の雰囲気を浮かび上がらせながら、彫刻と芸術についての省察となっている。素材に形を与えることとして芸術を考える時、彼の言う「変形のドラマ」がとりわけ目に見えやすいのは彫刻ではないか?

Nous nous sommes parfois assez vivement disputés. Je prétendais qu’elle se trompait sur tel point. Je courais au miroir, qu’elle récusait. Je me palpais et tâtais le visage, et je cherchais sur celui du buste si je trouvais la correspondance des formes.
私たちは時折、かなり激しい議論をした。私はこれこれの点で彼女が間違っていると言い張った。私は鏡に駆け寄り、彼女は鏡の証言を退けた。私は我が身、我が顔にさわり、胸像の顔にそれと対応する形を見出せるか検証した。
Mais la grande querelle de l’artiste avec son modèle s’est engagée sur la grave et difficile question des yeux. Barbare que j’étais, je lui enjoignais, je l’adjurais, de creuser dans leurs globes de petites cavités figurant au naturel les trous noirs des pupilles, et de ne négliger ni le point lumineux ni les fibrilles de l’iris. J’invoquais Houdon, qui sut nous conserver les regards de tant de modèles. Rien n’y fit. L’opiniâtre Vautier demeura inflexible, et mes yeux sans prunelles.
しかし芸術家とモデルが真っ向からぶつかったのは、重要で難しい目の問題についてだった。野蛮にも、私は眼球に瞳孔の黒い穴をありのままに象(かたど)った小さな穴を彫り、光点や虹彩の小繊維も疎(おろそ)かにしないよう芸術家に命じ、懇願した。あれほど多くのモデルの眼差しを後世に残すことのできたウードンを引き合いに出した。強情なヴォーティエは絶対に折れず、私の目は瞳孔のないままにとどまった。

(Paul Valéry, Pièces sur l'art, Gallimard)

言われてみるとウードンJean-Antoine Houdon(1741-1828)の彫刻は―拡大できるここのなど特によくわかる―目の部分がいかにもリアルで、はっとさせる。

"Houdon est le premier sculpteur qui ait su modeler les yeux" (Grimm).
ウードンは目を造形することのできた最初の彫刻家である。(グリム)http://www.paris-france.org/musees/Musee_Carnavalet/musee/parcours_chronologique/revolution/parcours_chronologique_revolution_barnave.htm

参考ページ

虹彩学(イリドロジー) 虹彩とはhttp://www.iritech.co.jp/iridorogy/index.html

Iris Those Lips, Those Eyes...Jean-Antoine Houdon: Sculptor of the Enlightenment By Joseph Phelan
http://www.artcyclopedia.com/feature-2003-06.html
k's/お絵かき教室-人物の顔を描く(その2)-http://www1.odn.ne.jp/ino/cgmake/kao/kao2.htm


彫像の共和国(8)ロダンのバルザック像とドレフュス事件

2006-03-08 22:55:09 | インポート

「彫像の共和国」も今回で終わり。美術と政治は頭の中の別の引き出しに入れていて、バルザック像の起こした騒ぎとドレフュス事件が並行するのも気がつかなかった。二つを結ぶ鍵になったのはロダンのアンリ・ロシュフォール像である。

1850年にバルザックが亡くなってからその記念像が立つまでには、紆余曲折があった。
バルザックは1838年、ユゴー、デュマ、ジョルジュ・サンドと文学者協会La Société de gens de lettresを設立(協会のサイトはhttp://www.sgdl.org/accueil.asp
死後まもなくデュマが記念像のため募金を始める(バルザック夫人が乗り気でなく中止)
88年にシャピュChapu, Henri Miche Antoineが製作にかかるがその死(91年)により頓挫。
同年、協会会長ゾラからの要請にロダンは

? Dès l'instant où quelques personnages, si intelligents et si experts qu'ils soient, se réunissent afin de juger des travaux d'art qui leurs sont soumis, ils ne seront d'accord que sur une oeuvre parfaitement neutre. Un travail très supérieur et très personnel, mais présentant quelque particularité, quelque audace ou quelque défaut, même inhérent à l'ingénium de l'artiste qui l'a exécuté, n'aura aucune chance de succès. À moins donc de circonstances très spéciales, je ne ferais pas de projet pour ce concours, s'il était ouvert. ?

(「人が集まって芸術作品を審査すれば、一人一人はどれほど聡明で美術に通じていても、合意の結果選ばれるのは完全に中性的な作品になるでしょう。傑出した、作家独自の作品でも、何か特異な点や大胆なところ、欠点があれば、その欠点がまさに作者の才能と切り離せないものでも、選ばれる見込みはないでしょう。従ってよほど特別の事情でもない限り、私はこのコンクールが開催されても作品の計画はいたしません」)

協会内での票決、再度の要請にロダンは像の制作を引き受け、契約を交す。
ロダンは小説を読み、トゥーレーヌに旅し、バルザックとその世界に浸る。肖像写真を集める。頭部像、裸体像、数々の習作。バルザック裸像
それらの写真はまとめてhttp://www.insecula.com/oeuvre/O0013578.htmlに。
だがあまりにも仕事が長引き、協会は辛抱できなくなる。会長はゾラから詩人のジャン・エカールに変わっていた。ロダンは訴訟を受け、手付け金を返す。
ようやく1898年のサロンに出展された石膏像は嘲笑・酷評を受ける。大統領フェリックス・フォールはこれ見よがしに像に背を向けた。

Rodincaricature 協会は受け取りを拒否。ロダンの代わりにアレクサンドル・ファルギエールが像を作る(ファルギエールのバルザック坐像・習作

図はLe Petit illustré amusant 誌の表紙(1899) ロダンとファルギエール、それぞれの像。

一方ロダンの友人たちはブロンズ像の鋳造に必要な金を寄付で集めようとする。だが彼らはほとんどがドレフュス派で、ひそかな反ドレフュス派であったロダンは困惑、結局石膏像をそのままムードンの自邸(後にロダン美術館となる)の庭に置く。→エドワード・スタイケンの写真 Gallery Steichen
ラスパイユ大通りのブロンズ像ができるのはロダンの死後、1939年である。

以上、主にArts Visuels Actuels / Richard Ste-Marieの Le monument à Balzacによる。ロダン美術館の年譜http://www.musee-rodin.fr/biotx-e.htm

例によって小さな記事に多くを語らせがちだが、ドレフュス事件のさなかロダンが何を考えたかは詳細な伝記にでも当たるべきだろう。

ジャン=ノエル・ジャヌネJean-Noël Jeanneney氏(現在BNF館長、Googleのデジタル図書館構想に待ったをかけ有名になった)がLe Mondeに寄せた”Rodin et Buren Deux batailles autour du Palais-Royal : une statue de Rodin en 1892, les colonnes de Buren en 1986”(22.08.87) から次の部分を引いておく。

L’ AFFAIRE Dreyfus colore toute la querelle du Balzac. C'est en janvier que le plus chaud défenseur de Rodin, Emile Zola, a publié " J'accuse " dans l'Aurore ; or Rodin résiste des quatre fers à tout embrigadement et s'inquiète ouvertement de constater que la plupart des souscripteurs nouveaux sont des dreyfusistes affichés. De fait Mohrardt raconte que Charles Maurras, sollicité, explique pour se dérober que la plupart des signataires " n'ont aucun respect pour les autorités ". C'est en vain que Rodin se débat pour échapper à la politique, en vain qu'il sollicite des personnalités antidreyfusistes de s'adjoindre à la liste. Trop tard ! Forain ? ses caricatures fustigent la statue. Rochefort ? il la brocarde avec hargne. Dans le même temps l'effet, en face, est désastreux. " Mon cher confrère, écrit Georges Clemenceau à Mohrardt, M. Rodin ayant exprimé à un rédacteur de l'Aurore sa crainte de voir un trop grand nombre d'amis de Zola souscrire pour la statue de Balzac, je vous prie de retirer mon nom de la liste qui est entre vos mains. "
(ドレフュス事件がバルザック像論争の全体を彩(いろど)っている。ロダンの一番熱心な擁護者ゾラが『私は弾劾する』を「オロール」紙に発表するのは〔1898年〕1月。さてロダンは何であれ組織動員に頑固に抵抗し、像のための新たな募金者がほとんどドレフュス支持を公言する者ばかりなのが不安だと口にする。実際モラールによればシャルル・モーラスは寄付の依頼を受け、署名者の大半が「権威を鼻であしらう」連中だからだと断る。ロダンが政治から逃げようと奮闘しても空しい、反ドレフュス派の名士に署名に加わるよう頼んでも空しい。遅すぎる!フォランは?戯画を描いて像を叩く。ロシュフォールは?邪険に像を嘲笑う。一方ドレフュス派のロダン支持者の方でも、おかげでさんざんなことになる。ジョルジュ・クレマンソーはモラールへの手紙で「ロダン氏が「オロール」のある編集者に、ゾラの友人ばかりがバルザック像のため寄付するのではと危惧を表明されましたので、お手元の名簿への私の署名は取り下げにしてくださるようお願いします」)

「モラール」の綴りはMorhardtか?Mathias Morhardtは、Le Temps紙の編集者でカミーユ・クローデルの友人らしい。フォラン Jean-Louis Forain (1852-1931)イメージ検索結果は↓のような戯画も描いている。
http://www.posterfix.com/lerire/11.htm
アンリ・ロシュフォールはl'Intransigeant誌で像を批評した。

Dreyfusard あるいはdreyfusisteまたはanti- それらを機械的に「~派」と訳してきたが、「派」として括るのは個々の違いを無視することかもしれない。

ポール・ヴァレリーが「反ドレフュス派」だったのを、私はブランショ『問われる知識人』(安原伸一郎訳 月曜社)で知った。
「アンリ偽書」le Faux Henryの捏造が発覚し1898年アンリ少佐が自殺、アンリ記念碑設立の動きが起こると、バレス、レオン・ドーデ、レオトー、ピエール・ルイスらに続いて、ヴァレリーもさんざん迷ったあげくに出資する。(同書 訳注による)

ブランショは『カイエ』でヴァレリーがこのことにふれたわずかな文章から、マラルメを師と仰ぎ、「正義」や「人間性」といった大袈裟なことばには冷ややかな感情しか持てず、バレスの「死者の大地」「自我崇拝」も自分に無縁として退けることになるヴァレリーが、なぜ一時にせよ反ユダヤ主義者の間に名を連ねるのを選んだかを、執拗に問う。