図はマネ作、ロシュフォールの肖像(1881 Kunsthalle, Hamburg)
彫像が立つには誰かが言い出し、運動しなければならない。市町村の議会は像をめぐる抗争の場ともなる。
ロシュフォールはパリのミシェル・セルヴェ像の、仕掛け人と言えるかもしれない。
Encyclopedia of Marxism (この項Mitch Abidor 氏による)は彼の生涯を次のようにまとめる。
1831年貴族の家系に生まれる(フルネームはVictor Henri Rochefort, Marquis de Rochefort-Luçay )アンリ・ロシュフォールの文学的経歴は喜劇、政治ジャーナリズム、演劇批評の書き手として始まった。ナポレオン三世の政権に反対し"Le Figaro”紙の職を失い、1868年自身の反体制雑誌”La Lanterne”(*1)を創刊。雑誌はまもなく発禁、亡命を余儀なくされたロシュフォールはベルギーで発行を続ける。
1869年フランスに戻りパリ選出の代議士となる、ボナパルト体制の崩壊と共に1871年の「国防政府」の一員に。コミューンに参加はしないが支持し、”Le Mot d'Ordre”でジャーナリズム活動を続ける。1871年5月20日、「血の週間」のさなか、パリを脱出しようとするところで逮捕、終身流刑の判決を受ける。ティエールによってわずかに減刑、同志の大半が送られたニューギニアではなくフランス本土で服役することに。
1873年新政府はティエールの約束を反故にしロシュフォールをニューカレドニアの流刑地に送る。到着して四ヵ月後、ロシュフォールは五人のコミューン参加者と共に流刑地を逃亡、オーストラリア、さらにその後米国に逃れた。
1880年に恩赦を受け帰国、政界に復帰、1885年再び代議士に当選。だがもと左派ロシュフォールは今や右に転向、将軍ジョルジュ・ブーランジェのおそらく最大の広告係となった。1889年の選挙でのブーランジェの大成功は、クーデターを目論む運動を勢いづかせ、将軍自身が躊躇しなければ共和国は転覆されていた。ブーランジェはブリュッセルに亡命(91年に自殺)ロシュフォールも将軍を追い同じブリュッセルに亡命。
1895年にフランスに戻ったロシュフォールは、若き日の彼とほとんど別人だった。ドレフュス事件の頃には断固反ドレフュス・反ユダヤのナショナリストとなっていた。
1913年6月30日没。自伝「わが生涯の冒険」は圧倒的迫力で、5巻にも及ぶだろう。
何度か決闘もしている(*2)この「冒険家」aventurierは、どこかで変節したのか?
Wikipédia の記事では、パリ・コミューンの頃から徐々にコミューン派にも批判的になったらしい。
パリ市議会でセルヴェ像を立てる許可を求めたのは、ロシュフォールの党Parti Républicain Socialiste Françaisの書記、Gustave Poirier de Narcay (Narçay?)だった。最初はモーベール広場、エティエンヌ・ドレ像と向かい合わせの位置を提案する。 カトリックとプロテスタント、二つの狂信の犠牲者として。
政治や高等教育の世界でプロテスタントの人々が傑出した地位に就き、またドレフュス擁護にもプロテスタントが目立った役割を果たした(「人権同盟」の代議士フランシス・ド・プレサンセなど)、様々な経緯でナショナリストはプロテスタントへの反感を強めていく。
カルヴァンの犠牲者としてミシェル・セルヴェを持ち出すことは一つの狡猾な戦略、セルヴェ像は「寛容と人権を尊重するプロテスタント・リベラルに向けまともに投げ返した、反動勢力からの『私は弾劾する』J'accuse 」だった。Neil McWilliam MONUMENTS, MARTYRDOM, AND THE POLITICS OF RELIGION IN THE FRENCH THIRD REPUBLIC
(*1)La Lanterne 2/19の同名の反教権主義の雑誌との関連が、よくわからない。Gallicaにはこのロシュフォールの雑誌の1868-1869年号がある。
(*2)→ Honour in Franceの挿絵 Duel between Henri de Rochefort
and M. Koechlin 1880 ページ最下段、女性同士の決闘の絵も貴重な記録だと思う。