発見記録

フランスの歴史と文学

彫像の共和国(8)ロダンのバルザック像とドレフュス事件

2006-03-08 22:55:09 | インポート

「彫像の共和国」も今回で終わり。美術と政治は頭の中の別の引き出しに入れていて、バルザック像の起こした騒ぎとドレフュス事件が並行するのも気がつかなかった。二つを結ぶ鍵になったのはロダンのアンリ・ロシュフォール像である。

1850年にバルザックが亡くなってからその記念像が立つまでには、紆余曲折があった。
バルザックは1838年、ユゴー、デュマ、ジョルジュ・サンドと文学者協会La Société de gens de lettresを設立(協会のサイトはhttp://www.sgdl.org/accueil.asp
死後まもなくデュマが記念像のため募金を始める(バルザック夫人が乗り気でなく中止)
88年にシャピュChapu, Henri Miche Antoineが製作にかかるがその死(91年)により頓挫。
同年、協会会長ゾラからの要請にロダンは

? Dès l'instant où quelques personnages, si intelligents et si experts qu'ils soient, se réunissent afin de juger des travaux d'art qui leurs sont soumis, ils ne seront d'accord que sur une oeuvre parfaitement neutre. Un travail très supérieur et très personnel, mais présentant quelque particularité, quelque audace ou quelque défaut, même inhérent à l'ingénium de l'artiste qui l'a exécuté, n'aura aucune chance de succès. À moins donc de circonstances très spéciales, je ne ferais pas de projet pour ce concours, s'il était ouvert. ?

(「人が集まって芸術作品を審査すれば、一人一人はどれほど聡明で美術に通じていても、合意の結果選ばれるのは完全に中性的な作品になるでしょう。傑出した、作家独自の作品でも、何か特異な点や大胆なところ、欠点があれば、その欠点がまさに作者の才能と切り離せないものでも、選ばれる見込みはないでしょう。従ってよほど特別の事情でもない限り、私はこのコンクールが開催されても作品の計画はいたしません」)

協会内での票決、再度の要請にロダンは像の制作を引き受け、契約を交す。
ロダンは小説を読み、トゥーレーヌに旅し、バルザックとその世界に浸る。肖像写真を集める。頭部像、裸体像、数々の習作。バルザック裸像
それらの写真はまとめてhttp://www.insecula.com/oeuvre/O0013578.htmlに。
だがあまりにも仕事が長引き、協会は辛抱できなくなる。会長はゾラから詩人のジャン・エカールに変わっていた。ロダンは訴訟を受け、手付け金を返す。
ようやく1898年のサロンに出展された石膏像は嘲笑・酷評を受ける。大統領フェリックス・フォールはこれ見よがしに像に背を向けた。

Rodincaricature 協会は受け取りを拒否。ロダンの代わりにアレクサンドル・ファルギエールが像を作る(ファルギエールのバルザック坐像・習作

図はLe Petit illustré amusant 誌の表紙(1899) ロダンとファルギエール、それぞれの像。

一方ロダンの友人たちはブロンズ像の鋳造に必要な金を寄付で集めようとする。だが彼らはほとんどがドレフュス派で、ひそかな反ドレフュス派であったロダンは困惑、結局石膏像をそのままムードンの自邸(後にロダン美術館となる)の庭に置く。→エドワード・スタイケンの写真 Gallery Steichen
ラスパイユ大通りのブロンズ像ができるのはロダンの死後、1939年である。

以上、主にArts Visuels Actuels / Richard Ste-Marieの Le monument à Balzacによる。ロダン美術館の年譜http://www.musee-rodin.fr/biotx-e.htm

例によって小さな記事に多くを語らせがちだが、ドレフュス事件のさなかロダンが何を考えたかは詳細な伝記にでも当たるべきだろう。

ジャン=ノエル・ジャヌネJean-Noël Jeanneney氏(現在BNF館長、Googleのデジタル図書館構想に待ったをかけ有名になった)がLe Mondeに寄せた”Rodin et Buren Deux batailles autour du Palais-Royal : une statue de Rodin en 1892, les colonnes de Buren en 1986”(22.08.87) から次の部分を引いておく。

L’ AFFAIRE Dreyfus colore toute la querelle du Balzac. C'est en janvier que le plus chaud défenseur de Rodin, Emile Zola, a publié " J'accuse " dans l'Aurore ; or Rodin résiste des quatre fers à tout embrigadement et s'inquiète ouvertement de constater que la plupart des souscripteurs nouveaux sont des dreyfusistes affichés. De fait Mohrardt raconte que Charles Maurras, sollicité, explique pour se dérober que la plupart des signataires " n'ont aucun respect pour les autorités ". C'est en vain que Rodin se débat pour échapper à la politique, en vain qu'il sollicite des personnalités antidreyfusistes de s'adjoindre à la liste. Trop tard ! Forain ? ses caricatures fustigent la statue. Rochefort ? il la brocarde avec hargne. Dans le même temps l'effet, en face, est désastreux. " Mon cher confrère, écrit Georges Clemenceau à Mohrardt, M. Rodin ayant exprimé à un rédacteur de l'Aurore sa crainte de voir un trop grand nombre d'amis de Zola souscrire pour la statue de Balzac, je vous prie de retirer mon nom de la liste qui est entre vos mains. "
(ドレフュス事件がバルザック像論争の全体を彩(いろど)っている。ロダンの一番熱心な擁護者ゾラが『私は弾劾する』を「オロール」紙に発表するのは〔1898年〕1月。さてロダンは何であれ組織動員に頑固に抵抗し、像のための新たな募金者がほとんどドレフュス支持を公言する者ばかりなのが不安だと口にする。実際モラールによればシャルル・モーラスは寄付の依頼を受け、署名者の大半が「権威を鼻であしらう」連中だからだと断る。ロダンが政治から逃げようと奮闘しても空しい、反ドレフュス派の名士に署名に加わるよう頼んでも空しい。遅すぎる!フォランは?戯画を描いて像を叩く。ロシュフォールは?邪険に像を嘲笑う。一方ドレフュス派のロダン支持者の方でも、おかげでさんざんなことになる。ジョルジュ・クレマンソーはモラールへの手紙で「ロダン氏が「オロール」のある編集者に、ゾラの友人ばかりがバルザック像のため寄付するのではと危惧を表明されましたので、お手元の名簿への私の署名は取り下げにしてくださるようお願いします」)

「モラール」の綴りはMorhardtか?Mathias Morhardtは、Le Temps紙の編集者でカミーユ・クローデルの友人らしい。フォラン Jean-Louis Forain (1852-1931)イメージ検索結果は↓のような戯画も描いている。
http://www.posterfix.com/lerire/11.htm
アンリ・ロシュフォールはl'Intransigeant誌で像を批評した。

Dreyfusard あるいはdreyfusisteまたはanti- それらを機械的に「~派」と訳してきたが、「派」として括るのは個々の違いを無視することかもしれない。

ポール・ヴァレリーが「反ドレフュス派」だったのを、私はブランショ『問われる知識人』(安原伸一郎訳 月曜社)で知った。
「アンリ偽書」le Faux Henryの捏造が発覚し1898年アンリ少佐が自殺、アンリ記念碑設立の動きが起こると、バレス、レオン・ドーデ、レオトー、ピエール・ルイスらに続いて、ヴァレリーもさんざん迷ったあげくに出資する。(同書 訳注による)

ブランショは『カイエ』でヴァレリーがこのことにふれたわずかな文章から、マラルメを師と仰ぎ、「正義」や「人間性」といった大袈裟なことばには冷ややかな感情しか持てず、バレスの「死者の大地」「自我崇拝」も自分に無縁として退けることになるヴァレリーが、なぜ一時にせよ反ユダヤ主義者の間に名を連ねるのを選んだかを、執拗に問う。