パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

共時性が、、、

2021年12月11日 19時07分33秒 | 徒然なるままに

「また共時性の類か!」
と思われるようなことが現れた
現在挑戦している本がブルデューの「ディスクタンシオン」
悪戦苦闘しているが、どうやら自分の読み方はポイントは押さえているようだ
(あとがきを見て、そう感じた)

今日、リモートで無料で参加させてもらっている「シティズンシップ教育」
に関する講演会(勉強会)である人の話の中に、なんとブルデューの名が出てきた
そこでは、人と人との良好な関係は討論を通じてなされるのが良いとされるが
話し合う二人の立場が違っているので、そもそも公平な討論は成立するか
との前提にたって、そのうえでどうするかを考えるといったものだった

討論する場合、相手との能力の差だけではなく、肩書、知人の多さ、経済力などの
社会的な影響が知らずしらず左右してきてしまう(人は上の立場の人に説得されやすい)
それを自覚しないと、どこか歪な対話になってしまう可能性があるというものだ

「ディスクタンシオン」は趣味の話とか調度品の好み、音楽、絵画等の接触度合いなどの
細かなアンケートを元に、非常に細かな分析がなされている
それは心理学的・哲学的な洞察力に富んだもので、電通とか博報堂の報告する
消費者像はなんと表面的なものかと不意に思ってしまった

今回の共時性の魔法は「ブルデュー」だったが、
こういう偶然の一致は大事にしよう、、、というのが
生きてきて身につけた知恵!と思うことにしている


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思いがけない「ありがとうございました」の言葉

2021年12月10日 09時36分59秒 | 子どもたちのこと

確かに個人差はある
飲み込みの良い子、残念ながら理解が進まない子
集中でできる子、落ち着きのない子
木曜日の午後、外国をルーツに持つ子達の勉強を見ている際に感じることだ

この一時間弱の手伝いタイムが経過し帰る頃には
無力感とか落ち込みそうな気持ちになることが圧倒的に多い
「この子たちがこのまま大人になったら、どうなってしまうのだろう?」
そんな不安が沸々と湧いてきてしまうからだ

理解力のある子はまだ良い
だが残念ながらそうでない子は、学校で受けている授業はわからないまま
時間が過ぎていくだけで必要な知識は身についていない

面倒を見ている子の昨日の宿題は、二桁の割り算の算数のプリントだった
彼が手こずるのが文章題で、何故手こずるかといえば
そもそもの日本語が理解できていないからで
「二人で分けると、、、」という言葉も「分ける」という意味がわかっていない
勿論、同学年の外国をルーツに持つ子で苦もなく理解できる子がいる
(その意味では彼は少し問題があるのかも知れないが)

だが、目に前にいるのは「わからない」という現実に直面している子どもで
「何故わからないか?」を尋ねた時
彼は「日本語の意味がわからない」と答えた
「わからないときは、聞くように」と口酸っぱく言ってるが
最近は自分に対しては恥ずかしげもなく聞けるようになった

一緒にいる上の学年の子に、ポルトガル語で分けるの意味を伝えてもらう
すると彼はうなずいてわかった様子(?)
今度は絵を書いて問題の意図を理解してもらうようにする
彼はわからないけれども、一生懸命自分なりに理解しようといつになく集中する
しばらくして
「ちょっと待って!」「わかった!」の声

彼の「わかった」という答えが信用できない場合もあるが
今までのもやもやは少なくとも解消されたようだ

次は筆算の計算問題、一つの式の中では、掛け算・割り算を先に行うことは
わかっているようで、カッコが入った計算式も素早くはできないがとりあえずはできる

「Rくん、いい、わからなかったら先生に分かるように教えてって言うんだよ
 それがダメだったら、友達に教えてって言うんだよ」
「うん、友達は、、、」

昨日も不安が残って、落ち込みそうになりそうだったが、彼の次の一言で一気に救われた
「ありがとうございました」

それは、およそ彼の言いそうにない言葉で、あの時間も決して真面目にできていたわけではなかった
それでも彼はこちらに伝わる気持ちを込めて言った
「ありがとうございました」

人の気持ちって伝わるもんだな、、
これで次回も頑張ろうと言う気になれる

だが子どもたちは、さっき言った言葉などすぐに忘れて
また子どもらしい自分勝手な世界に入っていく
「Rくん、忘れ物ない、、、」
やっぱり相変わらずだ

でも、少しづつ少しづつ、良い方向に変わってくれればいいと思う






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一夜漬け

2021年12月09日 11時50分04秒 | 子どもたちのこと

木曜日の今朝のこと(月木は子どもたちに付き添って小学校の校門まで歩いている)
いつものように集合場所に行くと、いつも遅いHくんが一番最初に来ていた
少しテンションが高く、機嫌もいいみたい
彼はじっとしていられないようで走り始めた
「今日、一等賞をとる!」
戻ってきた彼が話かける

そうか今日は校内マラソン大会か
天気の加減で少し伸びていた校内マラソン大会なのだ

2.3年前のこの時期は、集まったみんながと50メートルほどの距離を走るのやら
家の周りを一周するタイムを競ったものだった
その後パッタリとしなくなったので、あれは校内マラソン大会の練習のつもりだったのだろう

「今日ね、マラソン大会で一等になったら、焼き肉食べて、お寿司を食べて、マクドナルドにいって
それからカラオケに行くんだよ」
「うんとね、一等にならなくても焼き肉とお寿司と、マックとカラオケに行く」
一番小さな子が無邪気に家庭の秘密をばらす

そのうち、みんなが集まってくる
今朝一番乗りのHくんのお兄ちゃんがお父さんと、玄関から出てくる
「忘れ物ない?」
いつもの注意喚起だ
お父さんに、
「Hくん、今朝はここでも走って、マラソン大会の準備万端だね!」
と伝えると
「そう、昨日の夜から走る練習をしていた」

でも彼は普段走ってるイメージがない
いつもゲームばかりしている感じだ

「なんか究極の一夜漬けみたいだね」
お父さんはうなずいて笑う

Hくんは運動は一夜漬けではダメだと実感することになるのだろうか
それとも一夜漬けの効果に味をしめることになるのだろうか

子どもたちとの会話は、時々、上手く通じないことがあっても
どこか心がホッとする



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成功体験を味わせてあげたい

2021年12月07日 09時55分40秒 | あれこれ考えること

寒い朝のこと、いつものように近所の子どもたちと小学校までのウォーキングに合わせて集合場所に行くと
去年までは一緒に歩いていた女の子が自転車の荷台に鞄をくくりつけている
最近はこの子も、もうひとりの同学年の女の子も以前のように屈託なく挨拶をすることはなくなっている
付添のボランティアを始めた頃は、一緒に遊ぼう、、と家までやってきて、そこで隠れんぼなどを
恥ずかしいという感覚を持たずに、当然の権利であるかのようにしたものだった

大きくなると恥ずかしさとか自意識が芽生えて、しかも男(おっさん)とは話すのも面倒に
なるのだろうな勝手に想像する
仕方がない、それも成長の過程なんだろう

彼女はセーラー服姿だった(下はスカートだ)
年寄りに育てられた子は寒がり、、と言われることがあるようだが
頭に浮かんだのは「それで寒くない?」という思いだった

「それで寒くない?ジャージじゃいけないの?」
「ジャージは駄目、通学は制服って校則で決まってるから」
「男の子はズボンでしょ」
「うん」
「なんか、不公平だね」
めったに会話ができにくくなってる子でも、以前の様に会話ができる

これからもっと寒くなる時期に女の子はスカートの制服姿で通学するのは
寒そうで可愛そうだな、と思う
「校則だから」の一言で、少しばかり理不尽ぽい行為をしなければならないことに
少し違和感を感じてしまう

こんな時、スウェーデンの中学生ならどうするのだろう?
すぐさまこんなふうに浮かんだのは、「あなた自身の社会」(スウェーデンの中学教科書)を
読んだのが頭の中に残っているせいだろう
あの本では給食の不満について、中学生が行ったことが書かれていた
どの国でも給食には文句が出るようで、当事者である彼らはみんなの意見をまとめて
●給食のおばさんの手当をアップする●自分たちの好きなメニューを20報告し、それをなるべく多く
メニューに挙げてもらう、●容器をサスティナブルなものに変える
と要望書を提出したとあった

この行動は親とか教師の間では一定の支持を得られたようだ
ただ現実には予算の関係もあり、達成されたのは最後の容器をサスティナブルなものに変える
というものだけだった

だが、このエピソードを知って、少しばかり羨ましくなった
自分たちの問題を当事者意識を持って、自分たちでできることをまずはやってみる
それが当たり前のようにできていることに、、

女の子は寒い冬でもスカート姿の制服で通学しなければならない
それが校則でも、そもそもその校則は実態を反映したものか?
何が何でも守らなければならないものか?
何でも問題意識を持つことばかりが良いこととは必ずしも思わないが
それでもおせっかいなおっさんはそう思う

こうした自分たちに直接関わる問題は、彼ら自身がまずは気づいて
その次に具体的な行動に移す、、、
日本でも(新城でも)そんなことが当たり前のようにできるようになれば、、と思う
無条件に無批判に言われたこと(例えば校則)を守るだけの生き方とか癖は
むしろ好ましいものではないのではないか、、と思えてならない

それは支配されやすい生き方につながるといった大げさなものではなくて
より良いものを手にする方法は、実は自分たちが当事者意識をもって
自ら動いて手にするほうが確実だということで
それは行動して上手くいった場合の成功体験は彼らにとってこの上なく
貴重なものとなりそうな気がする

ということで、ちょっとした問題意識を覚えたわけだが
ここで自己完結していては単なる自己満足とか広がりがないので
ちょいと思いついたことを具体的な行動に移してみた

最近は、開き直ったように、まずは思ったことを実践している
それが無駄になろうとお構いなしに、、
できることはそれしかないから




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記憶がみんな違う

2021年12月06日 09時19分34秒 | 徒然なるままに

新型コロナのせいで長いこと帰省できていなかった埼玉の妹が
久しぶりに我が家に戻ってきた
待ち構えていたかのように近所にいる兄弟は集まって、
母を囲んで昔話を始める

「岐阜に家族旅行に行った時、案内された部屋が間違って
 ちょっと残念なことがあったね」
「そうそう」
「え、そんなの知らない」

「信州に旅行にいった時、お姉ちゃんが行程表を作ってくれたよね
 あの昔の青いコピーのようなもので」
「そんなことあった?」

「私は白樺湖で馬に乗った時、お姉ちゃんが小さな馬に乗ってしまったので
 大きな馬に乗る事になって、ちょっと怖かった記憶がある」

「馬に乗ったのは覚えているけど、一番覚えているのは
 馬のお尻がうんちみたいな匂いがしたことかな」

「私は旅行で食べた味噌汁の中にみょうがが入っていて
 お母さんが好きじゃないので今まで食べたことがなかったけど
その時初めて食べてぎょっとしたことを覚えてる」

それぞれが勝手に自分の思い出話を披露する
でも、みんな微妙に記憶が違う
それをうなずきながら聞いていたのは家で一番えらい人
記憶が怪しくなっても普通だが、不思議なくらい子どものたちの
友達やそのお母さんのことまで覚えている

人の記憶は、自分だけのもの
その記憶はどのような采配で、いつまでも覚えているようにされているのだろうか

みんながみんな昔話を語るようになってきた
そしてその時間はとても貴い

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ビートルズの「レット・イット・ビー」と、モーツァルト「クラリネット5重奏曲」

2021年12月05日 10時25分44秒 | 音楽

ビートルズの新しいドキュメント「ゲット・バック」は映画館で上演される
と思っていたら、どうもそうではないらしく、今どきのネット配信がメインで
それ以上の方法はないようだ(?)

同じ光景を撮影していても編集でだいぶイメージが違うことは想像がつく
確かに以前のドキュメンタリー「レット・イット・ビー」は映画全体に
寒々とした雰囲気が漂っていて、解散するのは仕方ないだろうな、、
と感じさせるものだった

だが見ていない新しいドキュメンタリーは上手くいっていない雰囲気の中でも
瞬間瞬間は、あの年齢の若者らしい悪ふざけや冗談が見られるようで
音楽界の最高の位置にいたとしても彼らは感情をコントロールできない
十分に若い(若すぎる)男たちだったと感じる

アルバム「レット・イット・ビー」を初めて聞いた時の印象はまだ覚えている
何かすごく透明な、一種の悟りきったような気持ちが伝わってきた
それはモーツァルトの晩年の作品クラリネット五重奏曲、あるいは魔笛、
そして27番のピアノ協奏曲の無駄のない澄んだ世界のような気がしたのだった

それはなにか終わりを自覚した人(たち)が、澄んだ心境で作品作りに
取り組んでいたような、所謂「白鳥の歌」のような気さえした

同じ時期の同じ場所に大変な才能の人間が生まれ、
その人間たちが一緒になって何かを作り出した、、ということは
ありそうなことでも、いざ彼らビートルズの作品の純度を省みると、
それは神様が気まぐれに起こした一種の奇跡のような気さえする

澄んだ心境を経験して生き延びているポールとリンゴは
それはそれなりに大変だと思う
(彼らは過去の自分といつも戦わなければならないから)

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一番身につくのは教えること

2021年12月04日 19時30分18秒 | 徒然なるままに

確かにそうかも知れない、、と思うような図をネットで見かけた
とても良いものなので保存しておいた
それは学習したことが身につく具合を示した図で、このようになっている

ざっくり講義を聞くよりも、読むほうが、それよりも実演を見る方が
それよりも良いのが話し合うことで、自ら体験することも効果的だが
一番いいのは人に教えること、、、としている

教えるという行為は、効果的に伝えるためには頭の中を整理する過程がある
そこで気づかなかった点も、曖昧だった点も自己のなかで消化される
教えていて「こうだったのか!」とか「自分はこう考えていたのか」
と改めて感じることが多いのは、外国をルーツに持つ子どもたちの勉強の手伝いの時だ
日本人とか大人なら当たり前のことが、思いの外いい加減な印象だけで身についていたことが分かる

人は学ぶより教えるほうが好き!なのはありそうなことで
ゴルフのスイングを素人が素人に教えるなどというのはよく見られる光景

それにしても、教えようとして実は物事をよく理解していなかった現実に気づくのは
少しばかり情けない(それも仕方ないけれど)

世の中にしばしば見られるは「教え魔」は、実は自分のために行っているということのようだ
(自覚しているかどうかはわからないが)

 

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交響曲第2番

2021年12月04日 18時47分50秒 | 音楽

ヴァーグナーはそれほど気にいらなかったらしいが
彼が比べた上で好んだ第3番よりは、自分は第2番の方が好きだ
ブルックナーの交響曲第2番ハ短調は特に前半の2つの楽章をよく聴く

壮大な曲というより、自然の中にいるような心地よい気持ちにさせる曲で
特に第2楽章は何故か雨のザンクトフローリアンあたりの風景が頭に浮かぶ

交響曲第2番は、結構名曲が多い
シベリウス、ブラームス、マーラー
この中では最近はマーラーはパスしたい気分になることが多いが
シベリウスもブラームスも聴くといつもそれなりの感動を覚える
だが好きなものは好きというだけで、感動の総量はあまり関係ないように思えてしまい
ブルックナーの作品は愛しくてたまらない

田舎のおっさんの風貌のブルックナー(マーラーやブラームスの美貌と比べると悲惨な印象)
ウィーンのヴェルデベーレ宮殿の一角にはブルックナーの最後の家がある
ヴェルデベーレ宮殿はクリムトの絵を見に来る人は多いが
ブルックナーの家を見に来る人はよほど物好きでないと来ない
(自分が行った時も写真に撮る人はいなかった)

可愛そうなブルックナー
マーラーはいつか自分の時代が来る、、と言ったそうだが
個人的にはブルックナーの時代こそが本当に来てほしいと思う
ところで2番の第2楽章はこんな曲

Bruckner ~ Second Symphony - II (Andante)


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「リアル二刀流 ショータイム」よりも「親ガチャ」

2021年12月03日 09時50分00秒 | あれこれ考えること

大賞になった明るい「リアル二刀流 ショータイム」よりも
個人的には深刻な「親ガチャ」のほうが、今年は印象に残った

「リアル二刀流 ショータイム」は野球に関心のない人には何のことだかわからない
(我が家の偉い人はきっとわからない)
同様に「親ガチャ」も何のことかわからない人が少なくないと思われる
最近の世の中は、みんなが知っている言葉はなかなかなくて
一部の人達だけが知っている状態が多く、今回候補にあがった言葉たちもその類だ

「親ガチャ」は最近読んでいる「ディスタンクシオン」をあわせて考えると
少し恐ろしいような気持ちを覚える
ある階級の習慣や仕草、そして趣味、美意識は階級そのものが社会的関係内で
作られたもので、それらはその階級内で得られる体験で身につくことになる
絵画や音楽、演劇等に関する知識や感性は教養の部類で必要なもののとされるが
実はそれらに触れられる環境下にあるかないかで、差がついてしまう

世の中は結果平等よりも機会平等が叫ばれる
だが現実はその機会平等は、まして何かを感じるための体験すら大きなハンディが
階級間には存在し、本当にお気楽に機会平等こそがと言っていられないような気がする

問題は、若者たちがなんとなく感じているやりきれない「親ガチャ」状態を
彼ら自身はどの様に対処(あるいは解決)していくのだろうかという点で
自虐的に「そんなもの、、」と諦めるか、社会の問題点として何かの行動を起こす事によって
少しでも変えようとするのか、、、一体どうなのだろう

そんなふうに考えると、考えは根本的なところまでさかのぼり
結局は公平になされているはずの教育がとても大事なもののように思えてくる
個人的な考えは、教育は覚えるものではなくて、自ら考え行動し、そこで成功体験を得ることが一番と思う
それこそが真に身につくもので、その成功体験こそが個人の行動の基準になるのではないかと思う
だが、しっかり印象として残る成功体験やあるいは失敗体験よりも現在の教育が、
記憶としての解答のみを求められる状態だとしたら、それは少し危なっかしい気がしていまう

若い人たちの優先順位(好み、関心、政治的な方向性など)
それは、自分たちは自発的と感じているかも知れないが、
実は無意識にコントロールされているかもしれない、、と考えることは、少し考えすぎかも知れないが
今の時代はそのくらい想像しても良さそうな気もする
(これは最近読んだ「プロパガンダ」の影響が大きいせいかも知れない)

ということでメディアは「親ガチャ」をもう少しみんなに広まるように
そして社会的な問題として考えるように報道してもらいたいものだ


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あなた自身の社会(スウェーデンの中学教科書)

2021年12月02日 09時50分07秒 | 

先日興味深く読んだ「時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか」
のなかに紹介されていて、気になってアマゾンで購入したのがこれだ

「あなた自身の社会」スウェーデンの中学教科書と帯にはある
同時に購入した「ディスタンクシオン2」もすぐさま読みたいが
こちらも気になって仕方ない
そこで、ちらっと読み始めた

すると、そういうことか、、と納得したことがあった
この本は立憲民主党の政調会長になる小川淳也さんが
和田静香さんと対談した際に、おすすめ本として紹介したのだが
冒頭の部分を読んだだけで、小川さんがこの本にある社会のあり方の
影響を受けているのが分かる

報道とかSNSで、考えの一部を切り取られ、誤解の多そうな小川さんの消費税論だが
彼は消費税単独で考えるのは間違いで、税は総合的な視点から考えるべきで
法人税、金融所得税、相続税等をしっかり考えて
その上で税は本当に社会に役立つ使い方を考えるべきとしている
それは税は取られるものではなく、自分たちが欲しい物を求めるために使うお金
という考え方をしている
そしてこれは北欧の高福祉国家をイメージしているようだ

人は若い時の体験は後の世界観に大きな影響を及ぼす
小川さんは官僚時代にこの北欧型の高福祉社会を知って衝撃を覚えたのだろうと思われる
そしてそれに合わせてショックを受けたのが、この本にあるような教育だと思われる

小川さんの理想主義に否定的な現実主義者は、
スウェーデンと日本とはそもそも人口が違うから
日本にそのまま受け入れるのは現実的ではないと反論する
確かに、そうかも知れない、、とも思える
しかし、この教科書を読み始めると、それは違うかも知れないとも思えるようになる

この教科書は学科としてどういう範疇に入るのかはわからないが、言えるのは
この本は「しっかりした大人」を育てようとする意図がものすごく感じられる
(日本の)教科書と言えば身につけるべき知識の集合体のようなものの印象があるが
ここでは、まずは個として確立し、その上で自分で考えて討論し、判断力を磨き
その中にはよからぬ人間がいるかも知れないが、それでも良かれと思う社会を
作ろうとする意思みたいなものが感じられる

となると、問題は人口と言った問題だけでなく、むしろ本質的なところは
どのような人間性を育むほうが良いか、、との国の考え方のような気がする

この教科書では章の終わりに、しばしば答えのないような問が登場する
日本のような、「答えは一つ」を素早く見つけることが良いとされる社会とは違う
一見答えがないだけに無駄のように思えるが、それこそが総合的な判断力を磨く力になる
と信じて教育をしているようだ

最近は教育の大切さとか、それゆえに間違った方向付けされると
怖さを実感することが多いが、この本はそもそもどのような大人になるべきかが
知識ではなくて身をもって問われているようで、この教科書のある社会を
少しばかり羨ましく思えてしまう

だが、まだ最初の方だけなので、最後まで読むと違った印象を持つかも知れない
多分、そんなに印象は変わらないと思うが、、


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