パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「リアル二刀流 ショータイム」よりも「親ガチャ」

2021年12月03日 09時50分00秒 | あれこれ考えること

大賞になった明るい「リアル二刀流 ショータイム」よりも
個人的には深刻な「親ガチャ」のほうが、今年は印象に残った

「リアル二刀流 ショータイム」は野球に関心のない人には何のことだかわからない
(我が家の偉い人はきっとわからない)
同様に「親ガチャ」も何のことかわからない人が少なくないと思われる
最近の世の中は、みんなが知っている言葉はなかなかなくて
一部の人達だけが知っている状態が多く、今回候補にあがった言葉たちもその類だ

「親ガチャ」は最近読んでいる「ディスタンクシオン」をあわせて考えると
少し恐ろしいような気持ちを覚える
ある階級の習慣や仕草、そして趣味、美意識は階級そのものが社会的関係内で
作られたもので、それらはその階級内で得られる体験で身につくことになる
絵画や音楽、演劇等に関する知識や感性は教養の部類で必要なもののとされるが
実はそれらに触れられる環境下にあるかないかで、差がついてしまう

世の中は結果平等よりも機会平等が叫ばれる
だが現実はその機会平等は、まして何かを感じるための体験すら大きなハンディが
階級間には存在し、本当にお気楽に機会平等こそがと言っていられないような気がする

問題は、若者たちがなんとなく感じているやりきれない「親ガチャ」状態を
彼ら自身はどの様に対処(あるいは解決)していくのだろうかという点で
自虐的に「そんなもの、、」と諦めるか、社会の問題点として何かの行動を起こす事によって
少しでも変えようとするのか、、、一体どうなのだろう

そんなふうに考えると、考えは根本的なところまでさかのぼり
結局は公平になされているはずの教育がとても大事なもののように思えてくる
個人的な考えは、教育は覚えるものではなくて、自ら考え行動し、そこで成功体験を得ることが一番と思う
それこそが真に身につくもので、その成功体験こそが個人の行動の基準になるのではないかと思う
だが、しっかり印象として残る成功体験やあるいは失敗体験よりも現在の教育が、
記憶としての解答のみを求められる状態だとしたら、それは少し危なっかしい気がしていまう

若い人たちの優先順位(好み、関心、政治的な方向性など)
それは、自分たちは自発的と感じているかも知れないが、
実は無意識にコントロールされているかもしれない、、と考えることは、少し考えすぎかも知れないが
今の時代はそのくらい想像しても良さそうな気もする
(これは最近読んだ「プロパガンダ」の影響が大きいせいかも知れない)

ということでメディアは「親ガチャ」をもう少しみんなに広まるように
そして社会的な問題として考えるように報道してもらいたいものだ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする