パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

読みたい本、手元に置きたい本

2015年10月13日 19時17分45秒 | 

図書館に本を返しに行った
ついでに何か借りようと思ったが
その前に図書館はどんな基準で本を購入しているのか
聞いてみた

皆さんが望まれて多く読まれるだろうと
思う本を購入しています

当然といえば当然の答え
だったら自分が購入してほしい本は
絶対無理 ということになる

今購入してほしい本、読んでみたい本は
エルンスト・ブロッホの「この時代の遺産」
名古屋の三省堂で見かけた本だが
その時は金額が財布に優しくないので後ろ髪をひかれつつ
書店を後にした
(読み始めたのは良いけど最後まで
 読みきれる自信がなかったこともある)

最近TSUYAYAが地方自治体の図書館を運営する例が
多くなっているようだが、商業ベースの感覚で
人気とか貸し出される率で本の良し悪しが判断されてしまうと
少なくとも自分は寂しい思いをすることになる

結局は自分で求めなければならないが
読み終わって役目が済んで、例えば図書館に寄贈しても
誰も関心がないとなると
本は少しかわいそうな目に遭うだけかもしれない 
もっともこういう誰も読まない本みたいな方が
自分の手元に置いておきたいものだが、、 

というわけで自分の本棚はきっと人から見れば
変な本ばっかり!
ということになりそう
つまり商業ベースでは価値の無い本
でも本当は大事なんだと思うのだけれど、、、
(どんな本が本棚にあるか、ほんと雑食系
 哲学、社会学、生物学、歴史、音楽関係、新選組関連、科学史、詩歌、もちろん小説も
今は政治・社会学関係に気が向いているってところかな)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開通前の新東名ウォーキング

2015年10月12日 18時33分35秒 | 徒然なるままに

快晴の体育の日
絶好の野外イベントの一日
リュックサックにお握りとペットボトルのお茶を入れて
出かけたのが、開通前の新東名ウォーキング

開通してしまったからでは絶対歩けない新城インターから
長篠設楽原PAまでの歩行者天国

先ずはインター入り口

想定以上の参加者

いつもは見上げる新東名、今日は下を見下ろしてみる

上手に見えるのが馬防柵

上の場所は最初何処かわからなかった
上からのイメージと普段走っている道路のイメージは随分違う

やっと終点 あとは折り返し
しかし、実感したのは車の走る道を歩くということは
思いの外疲れる
下が固すぎるせいか腰に響く(?) 

帰りに気がついたこと
新城インターから長篠設楽原PAまではゆっくりとした昇りになっているということ
そして大きくカーブになっているので道が遠心力で車が振られないように
少し傾斜している
単純に、よく考えられて凄いなと感じてしまう

でも今日残念なことがあった
それは

三菱電機での臨時駐車場からのシャトルバス
チラシでは9時から10数分ごとに行き来するとあったが
待てども待てどもやってこない
30分くらいは仕方ないかと平気を装って来たが
約1時間となると行列が騒がしくなってきた

何の説明もないのでスタッフに聞きに行くと
シャトルバスが渋滞にハマって動きが取れず
何時来るかわからないだとか

市の職員や関係のスタッフが一生懸命やっていないとは言わないが
もう少しやり方があったのではと思う
せめて、いらついている行列の方々に事情を説明するとか、、
それに想定外のことが起きた時の対応の柔軟さがない点

いやいやもしかしたら、この事態はそもそも予想できたのではないか
とさえ思ったりする
予想は5000人?
これが本当なら、この予想は誰がどのように出したのだろうか?
(遠くからバスが50台も来ているとの話もあった)

想定外、これはそもそもの計画の甘さと言われても
可哀想だが仕方ないのではないか
渋滞を予想してシャトルバスは別の迂回路を考えなかったのか 

たまたま行列にいた人と不平不満を言いながら会話を交わしたが
こうなった事態を市は(主催者)きちんと反省してもらわなければならない
それも、ただ反省したということではなく、みんなにわかるように
何かに発表するという形で、どの段取りが悪かったのか
どの対応が悪かったのか、問題点は何処にあったのか、、、

何かこんな話をしていると市はこうした想定外のミスを
最近何回繰り返しているのだろうと思わざるをえない
道の駅もっくる新城の予算オーバーの件
市庁舎建設の見直しで住民投票になってしまった件
そして南部工業団地で産廃業者進出に対する問題

それらは単独の事案で関係はないと言うかも知れないが
外野が判断するに、「緊張感が足りない」と
言われても仕方がないのではないか

今日は折角の良いイベントだったのに、最初の段階で
気分的に良くなれなかったのが残念だった 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

通説を疑ってみる?

2015年10月11日 08時09分45秒 | あれこれ考えること

資本主義と社会主義
その長所と短所について、当たり前のように挙げられること
それらが本当なのか
布団の中でフト思ったら気になって仕方なくなった

それは社会主義についての説明で
平等が最優先とされならば、一生懸命働いても働かなくても
同じ評価(対価)なら人は働かなくなり生産性が悪くなるという点

これはいたるところで使われるし
何の疑いもなく同意されるようだ
しかし、人が真面目に働くということは 単純に労働対価の面
だけで判断して良いのかと考えると
そんなに単純なものではないのではない気がする

もちろん優先順位としてはかなり高いことは容易に想像できる
しかし、少ないかもしれないが、同じような評価しかされないとしても
依然として真面目に働く人達も存在するのではないか

まじめに働くと言う規則が自分の中の基準として
きっちり出来ている人は、何があろうとも
時に不満を覚えたとしても投げやりにならず 
自分のできることを実行するのではないか

家族の一員が病に倒れて長い間リハビリ生活をしなければならず 、
個人としての生活がサポートに費やさざるをえない人を見かけることが多くなった
幸い自分の知っているこの人達は、弱者に対する優しい眼差しを持ち続けていられるので
当たり前のように対価のない(?)仕事に真面目に取り組んでおられる

この人達たちは何故エンドレスに続くかもしれない作業に
つきあっていられるのか
それは個人の記憶の中にある今は弱者となった方々への感謝とか愛とか
に由来するのかもしれない

こういった例だけではなく、一緒に同じ仕事をしている中でも
「みんなのために真面目に働きなさい」と教えられてきた人びとは
対価が多いに越したことはないが、やはり当たり前のように働くのではないか

だから教育が大事だなどと言うのではなく
どういうわけか、世の中にはこうした人びとも存在して
その人たちのおかげで、人生は生きるの値すると肯定的に
感じることができる

資本主義は格差を生む
弱者となっているのは自己責任
成功者となっているのはその人が努力したおかげ
と、こうした説明もあるところでは当たり前とされる

この場合の成功者とは経済的なことをいうが
果たして現実的な話として経済的な成功者は
本当に自分の努力だけでその位置に至ったか

ピケティは(最近全然話題にならないが)「21世紀の資本」の中で
経済的な成功は、その人が努力をした、運が良かった、そして
危ない橋を渡ったのいずれか、またはその混合(?)といったようなことを
さらりと挿入している

実はこれが本当の姿ではないか
経済的な成功を収めるためには、どうしても国とか政治との
関わりが多くなってくる
その時に目的を達するためにすることといえば
今手元にあるお金を合法的(あるいはばれずに効果的に)使うこと
(お金がない場合には、また工夫して規則ギリギリで集めようとしたりするかもしれない)
これらを含めて努力したおかげで成功したとするのは
一度も成功者の立場に立ったことのない者の僻みかも知れないが
何か違うのではないか

以上は昨日見たテレビ番組「池上彰のニュースそうだったのか」から触発されて
思いついたこと
相変わらず、どうでもいいことかも知れないが
世界中がテクニカルな問題に単純化されて、人間に対する考察部分が
抜けているような気がしてならない
(と、地方で一庶民があれこれ言ってもどうにもならないけど
  今できることと言ったら、こうした愚痴をアップすることしかない
  それは自分にとって少しは意味があるかもしれない )
 

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「それから」。冒頭のシーンと音楽が好き

2015年10月09日 08時54分52秒 | 徒然なるままに

松田優作と藤谷美和子が主演
淡々と進行するなかに、畳を歩く音、風鈴、着物の擦れる音
そして何かを暗示する表情
森田芳光監督の映画「それから」

多分劇場でしか集中力が続かない
明るい日常のなかでテレビ画面では
とてもその世界には入っていけない

しかし一旦入ったとなると
奇妙な電車の中の花火のシーンも心象風景として
違和感がない

そして音楽が素晴らしい

映画は最初のシーンでその出来が予想できるが
藤谷美和子の演ずる三千代の顔が 冒頭 数秒間
ぼんやりと現れぼんやりと消えていく
このワンシーンでその世界へ入っていける

想像力、自分の持っている想像力を喚起するような
そういった作品だ好きだ
何もかも親切にわかりやすく、飽きずに見られるものよりは
一生の中何度も経験はできないかもしれないが
集中して見ると言う映画は貴重だと思ったりする



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コンスタントに活躍できる選手とできない選手

2015年10月09日 08時30分30秒 | サッカー

ワールドカップ アジア予選 シリア戦
結果は3-0で勝利
得点は本田(PK)岡崎、宇佐美

結果だけを見れば快勝みたいに見えるが
前半の戦い方を見れば日本が圧倒したというのでもなかった
それだけシリア側も頑張ったということろだが
いつも思うのは香川の代表での試合の出来のこと

ドルトムントではそれなりに活躍できているのに
代表になると一応の結果は出しているように見えても
イマイチ存在感がない(時にはそんなことはないが)

昨日の試合も前半は消えていた
後半もあのアシストがなかったら評価は低くなってしまいそう

反対に本田・岡崎はある程度の計算がいつもできる
悪くても、特に岡崎はそのひたむきさ故に
今日は彼の日ではなかったと仕方なく思えてしまう
本田は悪い時でも合格点はクリアする
そして、このチームに本田がいない時を考えると
少し不安になる

だが本田もいつまでも出られるわけではない
時に怪我・病気で欠けることがある
だからこそ次を担う香川にはもっと頑張って
もらわねばならないのだが
 

コンスタントに活躍できる選手、出来ない選手、
その差がどこから生まれるかわからない
本当の実力が出るのか、それとも気持ちの問題か

いぜれにせよ、代表選手は勝ち負けは別にして
パフォーマンスの点でいつも合格点をとってほしいものだ

数日後のイラン戦
勝ちにいきたいところだが
本田がいないという仮定で強い相手に何ができるか
トライするのも面白いと思うのだが、、

それにしても、時折見せるパスミスや不正確なキック
そして攻めこまれた時の後ろからの苦し紛れのつながらないキック
まだまだ世界は遠い 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お上」に声を上げること

2015年10月08日 16時29分58秒 | あれこれ考えること

先週の日曜日、小牧市では図書館建設に関する住民投票があり
反対派が勝利をおさめたとテレビ報道があった
その中で「お上が決めたことだから仕方ないのではなく、
庶民から見ておかしいということは声をあげなくてはならない」
と発言した反対派の方がいたが、これはそっくりそのまま新城市にも当てはまった

それどころか、国の問題でも同じで、
安保関連法案は絶対的多数のお上が決めたことに関して
庶民が声を上げてデモを各地で行う事態となった

国内のあちこちで、この様なお上任せの進め方に関する
批判が多くなって来ているのではないかと想像される
そして、こうした活動を行った地域は、
その参加者は必然的に自治とは何か?民主主義とは何か?
と深く考えざるを得なくなった

市民が、あるいは国民が主役の(主権者の)政治
これはごく当たり前のように感じるが
これが現実的に如何に難しいか
いろんな本を読むとつくづく感じてしまう

そもそも政治とはある種の特殊な技術・知識・判断力を要する
専門職の行う行為であり、なんら特別の能力を持たない庶民が
果たしてちゃんとした方向性や法律を作成できるのか
という疑問が湧いてくる

庶民はいい意味でも悪い意味でも感情的になる可能性がある
こうした不安にポピュリズムが、ありネットで調べると

庶民の素朴な常識によってエリートの腐敗や特権を是正するという方向に向かうとき、
ポピュリズムは改革のエネルギーとなることもある。
しかし、大衆の欲求不満や不安をあおってリーダーへの支持の源泉とするという手法が乱用されれば、
民主政治は衆愚政治に堕し、庶民のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かいうる。

とある。
また生まれながらに人には自由が存在すると一概に考えると
これがなかなかそう簡単には行かず
フロムの「自由からの闘争」では

自由というものは本来はそれが与えられることに対しての孤独責任を受け止めるということが求められるわけであり、
[要出典]その覚悟を持った上で自由を希求して得た者によって構成される社会こそが望ましい社会の形態といえるわけである。[要出典]

孤独や責任を受け止める覚悟を持たずとも全ての人間に対して自由が与えられており、その時に自由が与えられていた大衆というのが自主的に孤独や責任を受け止める覚悟を持とうとすることもなく、自身の幸福を追求することのみの判断を行ったのがナチスを容認した活動
とされている

この自由に関する文学的な深い考察はドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」のなか
有名な大審問官の場面でも登場する
果たして人間に本当の意味の自由なんぞは必要なのか
自分で決めて自分で責任を持つそんな面倒なシステムは払い下げで
何かある方向を指し示してくれるに従うほうが楽で
本当の自由を解く救い主は今は必要とされない、、、云々 

アメリカが正義と口にする時、続いて出てくることば「自由と民主主義」
この自由も実はかなりぐらついた存在でしかあり得ない
そして、アメリカが自分たちのもっとも進んだシステムを世界に
広めることは決して悪いことではないと単純に思っていることでさえ
実は相対的な見方からすれば、ある時代、ある地方の考え方にすぎない

イスラムにはイスラムの、ヒンズーにはヒンズーの、また各地には各地の
必然的に沸き起こって運営されてきたシステムが有り、
それは欠点が多いために改良すべき点があったとしても
アメリカ流の自由・民主主義がゴリ押しされて受け入れるよならば
その時点で自由はなくなっている
(悪意はなかったとしても)

こうして自由は庶民にとって必要不可欠なものとされながら
実のところ自ら責任を追わなければならなかったりして
扱い難い概念になっており、普段は考えることをしないし
無関心になっていき、最後にはお任せになるしかないのかもしれない

話がまとまらないが、オルテガの「大衆の反逆」にも
大衆の政治活動は衆愚政治に繋がる危険性を説いている

しかしながら、ここまで悲観的な意見や見方がありながら
自分は現時点では、市民や国民が主人公のシステムは
(彼らが中心となって決めることのできるシステムは)
この日本においては必要なものではないかと考える

なぜならば、フロムやオルテガの心配する大衆の暴走は
まだ日本には起きておらず、その暴走の反省をするよりも
大衆の意見の盛り上がりさえなかったことに問題がありそうだからだ

雰囲気的に大衆の暴走に
戦前が当てはまるかもしれないと考えられそうでも
日本はどちらかと言えば上からの扇動に近いのではないか

今の、いや今までの日本人のよくなかったことは
冒頭にあげた「お上」の意見をそのまま受け入れてしまった
ということになりそう
それに対して「なにか違う」と声を上げ始めた
この事実から、この声を上げる連中が暴走し始めるまでには
まだ時間がかかりそう
ならばここで先人たちの知恵を借りて暴走しないシステムを
みんなで考えていくことが自分たちの知恵とか財産になりそうな気がする

少しばかりむずかしい問題に取り組みすぎたせいで
何が何だかわからなくなってきた
しかし、これはしっかり考えていかなくてはならない問題なのは
間違いない

機会があれば、すっきりまとまったところで再度挑戦(投稿)かな
 


 



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本田の発言(批判か、内部告発か)

2015年10月08日 09時58分21秒 | サッカー

ミランの試合は面白く無い
本田が活躍しようがしまいが、その印象はそれほど変わらない
全体として感じる印象は、まとまっていないの一言
個々の選手の実力もひところと比べ他のチームと比較して
落ちているのかもしれない

ならばそれを補うためにチーム一丸となって
上手く機能するように と考えるのが普通だが
どうもそれが出来ていない

日本人が想像するのと違ってあちらの人間は個の主張が強い
サッカーのようにその場その場の判断が必要とされるスポーツは
現実にはなかなか選手間の思いをまとめるのがむずかしい

ミランも上手く行っていないと言う感じ
昔小野がフェイエノールトにいた時も同じような印象
アヤックス、PSVと比べてなにか芯がないような

ところで、今回の本田の発言は(ナポリ戦のあとの開き直った発言)
一種の内部告発のようなものなのだろうか
それとも批判と解釈されるのか

我々日本人よりはサッカーに対する目ができているイタリアだが
本田の言うように余りにも勝利至上主義が優先しすぎて
観客もメディアもあまりにも一喜一憂しすぎる傾向がある
(それがプロの世界の宿命なのかもしれないが)

それが国民性と言ってしまえばそれまでだが
上手く行っていない時の立て直しというのは
本当にむずかしい

それにしても、あの発言は批判なのか?内部告発なのか?
本田は逆算して発言しているというが、、、 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スマホ初めての人に、新しいiPhoneは使いやすいか?

2015年10月08日 09時11分45秒 | あれこれ考えること

日々の技術の進歩は凄まじい
期待したほどではないとしても新しいiPhoneも
その例に漏れず、(自分は今回は買い換える予定はないが)
何でもタッチの強弱を感じ取って更に使いやすくなるらしい

ところが、この便利な機能は初めてスマホを経験する人は
使いやすだろうか 
iPhoneは取扱説明書がない
簡単な操作でいろんなことができるから試行錯誤で慣れてほしい
ということらしいが、現実には扱い方の本が取扱説明書の代わりをしている

確かに扱いはそんなに難しくない
そして使っているうちに、こういうことができれば!
と機能に不満を覚えることがなくもない
そうした不満に今度の新型はある程度対応しているのかもしれないが
できることが多くなってしまったために、その分使い方が難しくなっていないか

つまり今まで使っていた人は確かに便利になったと感じるに違いない
しかし、初めて手にする人は強弱、長押しなど推し方に何種類かあって
それを一気に覚えるとしたら少しむずかしいのではないか
と余計な想像をしてしまう

この様に技術の変化などは今までの状況を踏まえていると
進歩の必然性も理解できるし使いやすいものとなる

話はいつものように飛んで
民主主義などのシステムも同じようなことが言えないか
様々な政治システムは過去の人達の失敗・反省を踏まえて
より良いものにすべく努力して今の形になってきている

ところが残念ながら、今の人達は初めてiPhoneを
手にするようなもので 、既に便利になっている機能を
いきなり使うことになっている

なぜ今の民主主義のシステムがこんなふうになっているのか
などという歴史はほとんど理解されない
憲法が何故あのような文言となっているか
二度と過ちをしないために日本人はどうしようとしたのか
しかし、現実的な世界に対応するためにどうのように頭を絞ってきたか

iPhoneの機能をより良く知るためにはiPhoneの機能の進歩を
時間の経過にしたがって理解すると必然の様にわかりやすいと 
同じように、政治や民主主義の経過もその歴史を知ったほうが
良いに違いない

政治は結果責任、現実世界のことというのは分からないではない
しかし、苦い歴史を踏んで今が存在するのだから
今だけの判断基準で決めるとしたら、過去の人達の精一杯の努力は
無に帰してしまうのではないか 

確かに何かを決めるには無限に時間があるわけでない
だからこそ、決定権のある人々は心のなかに
過去の人達の考えてきたことの歴史を刻み込んでおいてほしいものだ
(歴史的事実を技術的な使い方をするのではなく、その根本を)

そして単に代議員を選ぶだけの権利の我々は
時間を見つけて歴史を紐解くのも無駄なことにはならない
と思いたい
とりあえず、できることといったら、こうした(大衆)全体の レベルアップが
大事なのかもしれないと思ったりする 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラインの黄金 第3場で思い浮かんだこと

2015年10月05日 20時42分15秒 | 音楽

昨日は帰りの新幹線の中で思いつくままのアップ
そこであの会場で気づいたことで抜けていることがあったので
忘れない内に

第3場のシーン 騒音のようなハンマーを叩く音
(ジークフリートでも活躍する音形)
まるで工場のような舞台は
映画のトルーキン指輪物語の1シーンを思い出した
映画では何か暗い工場のようなところで
兵器を作っているシーンがあったが
なにか被るものがある

指輪に世界を支配する力があるというのも似ているし
トルーキンはヴァーグナーから影響を受けたのか
それとも西欧では昔からある話なのだろうか
なにか西欧人の日本人とは違うドロドロした感性を感じる 

ところで「ANGER」と書かれた吊るされたものがあったが
「ANGER」ってどんな意味かなと考えながら見ていたが
後でわかったことだが「ANGER」ではなくて
「DANGER」で自分の席からは見えなかっただけ
なるほどそれならわかる

それから今も覚えているのが上演が始まる前の
オーケストラの人たちの練習というか音出し
これがなかなか面白かった
ライトモチーフが何度も奏されて否が応でも気持ちは盛り上がった
あのように聞くと金管の人は大変だ
(いや、やりがいがある?)

ということで、相も変わらずどうでもいいことの羅列
でもこうした音楽を楽しむのにも多少の努力や
時間やお金もかかっているも事実
何事も簡単には楽しめないというより
知っていけば楽しみはもっと深まると言うことか、、、

 



 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新国立劇場のラインの黄金

2015年10月04日 18時16分42秒 | 音楽


トリスタン、パフジルァル、タンホイザーに続いて生で見る(聴く)ヴァーグナーの作品の上演。

やはり生は良い。
生でないと絶対集中力が続かない。

自分の場所は二階の最後列。日本語訳が少し上目、舞台は下で少し見にくかったが、そして一瞬ウトウトしかかったが、結果的には大いに堪能した。

終わった後、早く次のワルキューレが見たいと思ってしまった。
しかしワーグナーは本当に奇妙な物語を書いたものだ。
愛とか恋とかではなくてドロドロした権力欲、策略、およそ美しいとは言えないテーマ。
この権力に関するテーマの物語のせいか?去年のパフジルァルの時より現役の仕事人が観客に多かった気がする。

演出はパルジファルのクプファーみたいにとんがっていない。その分わかりやすい。
でも最初にアルベリヒがトボトボと歩いて出てくるのはなかなか効果的だった。
効果的だったのは、素人目にからは最後の場面のエルダが出てくるところ。時間が止まったみたいなシーンはわかっていても、納得できる。

それにしても、ライトモチーフは本当に効果的。いろんなモチーフが耳慣れているが歌詞を見なくても雰囲気がわかるのはありがたい。

アンコールの拍手が多かったのはローゲ役。これはヴォータンよりは美味しい役かも。影の主役みたいでハリーポッターのスネイプみたいなもの?

演奏は音色に繊細さデリケートさは感じられなかったが、ヴァーグナー愛に満ちた音楽で、これもあり!といったところ。

これは新幹線の中で仕上げてる。
ビールも飲んでいい気持ち。
忘れないうちに気ままな独断、最高の時間かもしれない。

ヴァーグナーは大袈裟で嘘っぽくても、なんか凄い。
指輪は死ぬまでに全部見ることにしようと思ったりした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする