パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

気ままに思いついたこと(サボるのは脳と同じ?)

2015年10月23日 08時27分03秒 | あれこれ考えること

変な、どうでもいいことを考えることが好きだ
本を読む時、最初はまるで頭のなかで声を
発しているような気がするが、読み込んでいくうちに
声は聞こえず(感じず)内容と同化するような気分になる

この最初に聞こえる声は、自分が普段人と話している時の声を
思い出しているのか、それとも脳が作り上げている別の声なのか
ほんと、どうでもいいようなことだが、これは「意識は傍観者である」に
刺激されて再び思いついたこと

自転車に乗る時、練習時はそれこそいろんなことを考え、感じて
体全体のバランスをどうしようかなどと考える
しかし、一旦乗れるようになったら無意識で出来ているので
わざわざどうバランスをとっているかは本人にはわからない
こうした例は数多くあって、自分では毎朝の般若心経を唱える時も
覚えるときは文字を追って意識はそれでいっぱいいっぱいだったが
今は不謹慎ながら般若心経を唱えながら別のことを考えたりできている

どうも脳は横着したがっているようだ
一旦可能となった出来事には脳をフル活動させないで
ある部分を休ませて、必要な部分だけで機能させるようだ
そのほうが生物学的にも効率的にも良いらしいが
これを拡大解釈して、社会に当てはめたらどうなるかを想像してみると、
働かない蟻、どうも仕事をサボる傾向のある人
これらは、特にサボる人を弁護するわけではないが、ある面
仕方のない事かもしれないと思ったりする

どんなグループ分けをしても同じような確率で
サボったり横着したりずるいことをする個体が存在する
ずるいことといえば、生物の中でも人間の基準からすれば
とてもずるい虫(だったと思うが)がいて
雄は雌に気にいるプレゼントすることで交尾ができるようになるのだが
ずるい雄は雌に化けて雄のプレゼントを横取りして
今度はそのプレゼントを雌に与えて交尾に至るらしい
自分の子孫を残すための一つの技術として、これは単純に良い悪いは
判断しづらい

そもそも生物は本当に多種多様な能力を持っていて
人間においても運動神経、記憶力、指先の器用さ、計算能力、包容力
論理力、説得力、芸術に関するあるあらゆる技術など
本当に能力が分化しているが、これはあらゆる可能性を想定したほうが
生物として生き延びる可能性が高いからということらしい

こうなると、生物としての人間のすることの良し悪しの判断基準は
なかなか難しくなってくる
サボることもなにか必然の事のように思えてくるし
ずるい人間が存在することも、半ば仕方ないことのように、、、

しかし、それでは困るのが現実の世界
こうした現実や理解を踏まえて、どうしたら
住みやすい世界をつくることができるか?
それは、一部の考えることに特化した人たちのつくり上げる
世界観に従うことになるかもしれないが
その上位の人びとが果たして人びとにとって良いひとかどうかは
これがまた問題となってくる

こんなことをきっと我々の祖先は考えながら
今できる最上の方法を考えてきているのだろうけれど
とりあえずのその一つの手段としての民主主義がある

しかし、これもある面で制度疲労している(日本)ように感じられるなら
なかなか難しいが、これは当事者が真剣に考えなおすしかないのかもしれない

と言いつつも、みんなで同じことを考えることの難しさ
危険性、、
ホント世の中は難しい

相変わらずのどうでもいい?思いつき
暇だな!

 

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新聞記者は社論に賛成だった?反対だった?

2015年10月21日 11時07分05秒 | あれこれ考えること

週刊誌は時としてセンセーショナルな視点だけでなく
物事の本質をついた興味深いテーマを取り上げる
コメダ珈琲で手にした週刊ポストの中にこんなのがあった

なかなか興味をそそられる記事だ
読売新聞の会社の中にも中日ドラゴンズのファンがいるかもしれない
反対に中日新聞のなかにも巨人ファンがいるかもしれない
このくらいの話題なら社内で声を出してもなんら問題はなさそうだが
こと新聞社自身が安保法案のように
ある方向性を出して突っ走っている状況下で
自分のほんとうの意見を言えるものだろうか
(そもそもそんな話は社内ではしない可能性がある) 
アンケートによれば多くはそれぞれの社説に賛成だが
中には少なからず反対の人間もいるという
至極当たり前の結論だが、問題はそれを公に口にすることが
できるかどうかということ
アンケートの回答は当然の事ながら匿名
匿名だからこそ答えることができたに違いない 

個人の判断力に従うことは現実には難しい
そもそも弱気な人は自分の判断が正しいのか不安に思う
判断を下したうえでそれに伴う責任を負うのは御免被りたい
誰かが決めたことに従っていくほうが楽と考える

個人のフト思いついた意見を周りの環境の中で
抑えることは実はストレスが溜まる
色んな意見を持つということは、生物が生き延びる選択肢を
増やしていることであって半ば必然のことらしい

それにしても、知らないうちに自分で規制して
大勢の意見に反対しないようになりがちなこの国の人びと
本当なもう少しへそ曲がりの人が色んな場面で
多く出たほうが良いのかもしれないと思ったりする 

週刊誌はなかなか腹をくくった企画をするのもで
ある面では新聞社よりも取材力があるかもしれない 


 

 

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後半部分が肝心!「意識は傍観者である」

2015年10月20日 19時13分41秒 | 

途中までは一気に、しかし後半部分はブレーキがかかって
集中して読まなければならなかった
「意識は傍観者である」デイヴィッド・イーグマン著 太田直子訳
 

様々な例を上げて脳の役割、人間の意識の勘違いを面白おかしく(?)
紹介している
その一つ一つは思い当たる節があったり、またいつか何かで取り上げようと
いう気持ちになったが、この本の本当の値打ちは後半部分の
少し長い章にまたがって、決して読みやすいとは言えないところかもしれない

人の思考や行動は意識のあずかり知らない脳の活動で決まると言う理論を踏まえると
犯罪行為は行為者にはどうすることもできなかったと言う主張が成り立つ
この著書は犯罪行為の有責性を問うことは無意味だとして、犯罪者の更生に
重点を置く刑罰制度を提唱している
さらに、最新の脳画像技術を用いて、衝動を抑制するように脳を訓練する
と言う具体的な更生の手段を提案している
(訳者あとがきから抜粋) 

この本が、単に自分の知らない脳の働きを紹介するだけのものだったら
感動はそれほどのものではなかったかもしれない
しかし、この後半部分の、問題に取り組む真面目さ、ひたむきさは
科学者としてだけでなく、人としての責任感を感じることができる

これは先日取り上げたピケティにも通じるかもしれない
いわゆる教養からスタートする人道主義に根ざした行動の現れ
書籍の販売という経済行為の中で、自分が認識している
最優先するものを自分の生き方にしたがって、真面目に問いかける
こうした全人格的な思考が日本ではなされていない(?)
(日本は面白ければ、売れればといった視点からの扱いが多く
 真に突き詰めて考えられたうえで全人格的な発言の書が少ない )

この本の帯にはニューヨーク・タイムズベストセラーリストに15週ランクイン!
とある
少しばかり読みでがあるこうした本が、着実に読まれていく国と
面白いだけに終止し突き詰めて考えることをしない国と、
その将来を迎える姿に随分と差がついてしまうと
危惧するのは心配し過ぎか? 

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フルトヴェングラーの「運命」(1947年)

2015年10月19日 20時13分58秒 | 音楽

秋になるとブラームス
それもクラリネット五重奏曲が
聴きたくなるのはどうも自分だけではなさそうで
先日偶然見かけたあるブログにもそんなことが載っていた

でも今日はブラームスではなくベートーヴェンの話
それも超有名曲 交響曲第5番 運命

運命か、、ちょっとな、、
と敬遠したくなることがある
エロイカなら大らかで若さに溢れのびのびとして
豊富な旋律に満ちて楽しめるが
運命は精神の状態が出来ていないと余りにも雄弁すぎて
避けたくなる

でも、たまにはいいか!
と引っ張りだしたのが
デモの時に東京のディスクユニオンで購入した
 中古レコードの「フルトヴェングラーの遺産」からの一枚
1947年 5月 ベルリンでの演奏 

針を落とすまでは正直そんなに気乗りではなかった
しかし、あのダッダッダッダーンのモットーが図太く奏されるやいなや
何か普通と違う感じが一気に部屋に漂う
それでスピーカーに向かって座り直して
昔はごく普通にやっていた集中しての聴き方に変えた

なるほどフルトヴェングラーが冒頭はモットーで
主題ではない(だったかな?)みたいなことを言ってたのを
思い出した

テンポの伸び縮み、強弱の変化が激しいとされる演奏だが
聴いている最中は気にならなかった
むしろそれは必然のように思える
録音はよくないはずなのに、何故かフレーズから次のフレーズに
楽器が移っていくのがよく聴こえる
それのティンパニがただのリズム楽器というよりは音階楽器
その効果が半端じゃない
そして休符の効果的なこと(第9のある場面を思い出す)

レコードは1.2楽章がA面、3.4楽章はB面
気乗りしなかったらA面だけでいいや!と思っていたが
先を急ぐ様にB面に続く

この指揮に付き合っているベルリン・フィルは大変だろうな
と思うより、こんなに目一杯真剣に集中を要求されて
しかもまるで自発的な行為のような演奏をしているのは
やってる当人たちは面白くて(充実感がいっぱいで)たまらないだろうな
フトそんな気がした

イメージとしては第4楽章はもっと同じことの繰り返しが多いように
思っていたが、何のことはないすべてが必然の流れのように
そして走りだしたら止まらないライブの熱気につつまれている

すげー!
聴き終わった時につい出てしまった言葉
それ以外に言いようがない
すげー!
同じフルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの第7番の交響曲を
聴いた時も、やはりすげー!と出てくるが
とにかく何かが違う

煽りに煽って気分的にハイになって興奮しているのとは違う
もっと別の なにか貴重な人生体験をしたような
ある一場面一場面をしっかり覚えているような
あとに残る演奏

この印象は強烈なのでしばらくフルトヴェングラーの運命は
聴かないでもいいかな!という気さえする
気軽に聴いて、集中しきれずにがっかりするくらいなら
今の記憶を大切にしたいと考えてしまう

しかし、ホント、すげー!

 

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中日新聞社説「ピケティ、その後」から思いつくこと

2015年10月18日 08時57分12秒 | あれこれ考えること

先日フト思い出したようにピケティの事を取り上げたが
今日の中日新聞の社説にも「ピケティ、その後」と題された社説が載っていた
 

数日前、MARUZENに寄った時ピケティの「20世紀の資本」の売れ行きを聞いたが
最近はそれほどでもないとのことだった

またもや、日本人の熱しやすく覚めやすい国民性を表していると
少しばかりガッカリしたが
実際のところこのブームの時機のこの本の取り上げ方(メディアも書籍の業界)も
日本はちょっと世界とは違っていたのではないかと思ってしまう

日本はあの厚い読み終わるには時間を要する本よりは
その要点を解説した本、キーポイントを要約した本が
より多く売れて、日常の会話でもその要点に沿って
会話がなされたのではないか

つまり、 経済的不平等が増してゆく基本的なr>gという不等式に
ついて、それを認めるか(日本において)認めないかの
十分な考察もしないで、なんだか最新の知識を要領よく
手にした気分になることがトレンディだったり価値あることの様に
思われていなかったか、、

あの本で否定されたトリクルダウン説は依然として
安倍さんの経済政策には恥ずかしげもなく
またもや取り上げられている

仮にピケティの言うよなことが日本では当てはまらない
としたら、そのことについてもっと学問的にも検討されるべき
だったのではないか 

自分がピケティの「21世紀の資本」で一番印象に残っている事は
その説の妥当性や、持論を証明するための大いなる苦労ではなく
何故ピケティがこの本を書いたのか!という点

有名になりたいといった野心がなかったとは思わないが
それよりは人として格差(不平等)に対する怒りとか
それから導かれる効率の悪さを世の中に知らしめたかった
のではないか、と感じさせるような著述がところどころ見られたこと 

日本人は物事を突き詰めて考えることが苦手で
ある段階で、「真実は単純である」と言う考え方に
なびきやすい

ベートーヴェンの5番のシンフォニーもあの運命の動機で
統一されて簡単に言ってしまえば「美は単純である」と
理解されそうだが、空前絶後の伝説的指揮者 フルトヴェングラーに
すれば、5番のシンフォニーはなんという難しい構成的な調和で
成り立っているかということで、それは簡単に「単純」の一言では
言い尽くせないものとなっている
フルトヴェングラー自身が「単純」と言う言葉を使うときは
素人が感じる「単純」とはその次元が全然異なる

日本は八百万の神がいたるところにいて
おおらかに何でも受容してしなうところは一神教の偏狭さよりは
日本の自然に囲まれていると納得できるが
それでも、クリスマスのあとは神社に初詣、お盆はお寺さんとお墓にお参り
結婚式は教会がホテルまで出張し、亡くなるときは仏教でなされるといった
姿を見ると、おおらかというよりは節操が無い
もしくは商業主義に乗っているだけと感じない訳にはいかない

しかし、全部が全部日本人は根本を突き詰めて考えていない訳では
なさそうと思わせることがある
明るいニュースのノーベル賞のこと
素粒子論の最前線はそれこそ突き詰めて、あらゆる可能性を考えては
捨て去ったりしているに違いない
この分野の人たちは世界標準で突き詰めることができている
しかし、こと表面に出てくる生活や生き方、経済については
突き詰めることは面倒臭がって避けている

今読んでいる「意識は傍観者である」とか「働かない蟻に意義がある」
を鑑みると、組織全体がレベルが高くなることはどうも無理そうな
気がしないではないが、それでも、現在のような
なんとなく軽薄な捉え方だけで終止する世界には少しばかり不安を覚えてしまう

年齢を重ねると、いろいろ文句を言いたくなったり
いらぬ不安を覚えてしまうということかもしれないが、、 

 

 

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懐メロ(カンツォーネ)

2015年10月17日 20時18分07秒 | 音楽

昔、サンレモ音楽祭というものがあった
今も続いているかもしれないが、自分が中高生の頃は頃は
とても盛んで2つ上の姉がレコードを買ってきては聴かせてくれた

その中で覚えているのが、優勝曲ではないが聞いていて、
いや真似して歌ってとても気持ちの良かった曲が「愛の詩」マッシモ・ラニエリ

イオ・ティーアモと歌うところがすごい快感
イタリアが音楽の国というのはなんとなく納得できた

姉がとても気に入っていたのはジリオラ・チンクェッティの「愛は限りなく」  

なんかとても壮大な感じで、まだ愛だのを考える時機ではなかった自分も
なにかしらキュンとなった 

音楽はやっぱり歌うことが心地よい
最近はラップのような音楽が流行して
時代の雰囲気を反映している感じはわからないでもないが
メロディーが主体の生理的な快感を生じさせるような曲が
時代遅れでも自分は好きだな

これらの曲は自分の中の懐メロ

 

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指示と異なる思いを抱いた公務員(組織人)の考え方は、、

2015年10月17日 08時35分48秒 | あれこれ考えること

自分はその立場に立ったことがないので
少しばかり無責任な話になってしまうが
よくわからないのが、公務員の仕事

行政の長からの方向性(指示)で仕事を進めている
と思うが、その指示が職員個人の考えと異なっているとしたら
彼はどうすべきなのか

ある指示があった
しかし、それを進めると危険性は増すことになる
または環境汚染が進んでしまうと考えられる
個人としてはなんとなく、その計画は好ましくないと感じている
このような時、担当する公務員はどうするのが正しいのだろうか

公務員は法律で行動基準が決められていて
無批判に指示に従うだけしかないのだろうか
それとも、やっぱり人間だから様々な意見を持って
時と場合によっては指示に反対する意見を述べることができるのだろうか

確かに組織としては素直に言うことを聞いてくれる人がいないと困る
各人が勝手なことを言い出しては前に進まない
しかし、人間個人としての考えを拭い去ることはむずかしい
それでも彼は指示に従うべきか

その前に従わざるをえない状況の一つに彼の生活がある
指示に従わない行動・発言をした時に彼の生活の保証はあるか
個人の一生における計画が狂ってしまうとしたら
従うのは自分の気持ちに背いても仕方のないことか

もとともこれは何も公務員に限ったことではないに違いない
一般的な企業でも見られること
最近のニュース マンションの基礎工事のデータの改竄は
それを知っていた人が単純に正義感から組織に意見をいうことが出来たか

最近、市の仕事などに関心を持つようになって色々聞いているが、
聞けば聞くほど世の中にはいろんな法律・決まりがあって
それを完璧に理解して行動していくのは現実的には無理だと
思うことがある

行政の仕事はある種の専門職
主権者は市民とされ、市民が関心を持って市民自治を行っていくのが
理想とされているが、専門的な知識やそれに反しない方法を実行していく
アイデアは少しばかりかじったばかりの市民には出来ない 

やっぱり現実的にはある程度はお任せにするしかない面がある
一番の問題は、そのお任せした人びとがキチンとやっているか
どうかということ
そのチェックをするために市民が知恵と知識をつけて
法律の土俵であれこれ戦うことは、どうも効率が悪い 

どうも人間の考えるシステムは何をどう考えても
不完全だということに落ち着きそう

それにしても今進めようとしている
少しばかり危険な、あるいは環境汚染が進むような計画を
未来の市民・大衆が日常として体験することになった時
「なんでこんな計画が進められたのか?」
と不平の声が出ることが予想されるが
その時、実際の計画に携わった人たちは
「指示に従っただけ!」
で済まされるのだろうか
彼は心に一生の十字架を負わなければならないとしたら
それは不幸なこと

ハンナ・アーレントやSEALSの奥田氏の発言にあるように
個人となった時の判断
この部分を徹底的に鍛えていかないと
ついには大きな間違いを起こしそうな気がするが
理想主義的すぎるか?

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マイナンバーも安保法案も

2015年10月17日 08時16分53秒 | あれこれ考えること

世論調査によれば不安だとか理解が深まっていない
マイナンバー制度
そもそもの当事者・関係関係の人びとも
郵送に関してのミスが発生し、とりあえずの作業の
教育が十分になされたのか疑問に思うところ

しかし、このように世論調査と異なるにも関わらず
進められていったことがある
安保関連法案 がそうだ

どちらも慣れてくれば、理解が深まれば問題はない
との考えだと思うが
主権者不在で物事が進められていく雰囲気がどちらもする
制度の設定で便利になるのは該当する組織で
実際の国民に対しての便利さの説明は両者とも
世論調査の結果を見るように不足している

人間の行うことは何事も似たようなものだが
ここで意地悪な連想をすれば、
マイナンバーでは利益供与の汚職事件があった
ならば、安保関連法案についてはどうか?
誰かが知らないうちに儲けてる
なんてことは、、、、、 

ないとはいえない!でしょうね
残念ながら 

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借りてきた本と購入した本(意識は傍観者である)

2015年10月16日 22時15分51秒 | 

図書館から3冊借りてきている
返却期限は10月末
読み終えるつもりでいても、いざ現実は気分が乗らなかったり
目がしょぼついたり、根気が続かなかったりで
どうも読み終えるのは難しそう
借りてきたのは万葉集絡みの入門編、小林秀雄絡みの本
それに梅原猛のヤマトタケル

ところが先日名古屋に行く機会があって
ついMARUZENをのぞいて本を購入してしまった
その本が「意識は傍観者である」デイヴィッド・イーグルマン著
(ハヤカワポピュラーサイエンス) 
それにニュートンの「虚数」

これが面白そうで、ついつい借りてきた本は後回し
今は特に「意識は傍観者である」は本当に興味深い

脳科学の最前線の見地から人の行動、意識を解説していく
それはかつては哲学と言われる分野のことでもあった
大げさに言えば「色即是空」を西洋的な分析的な思考方法で
説明しているとも言える(?)
野球で外野手がフライをキャッチするまでの過程は
音、角度、ボールの着地点を理性的に(?)
予想してなされるものではないらしいこと
雛の雌雄判別のテクニックはそれを言葉で教えようとするとできなくて
結局は実際にやらせてみて、良しとかダメとかの経験の繰り返ししか
身につけられないとか
その他いろんな例がふんだんに紹介され、脳科学の分野から
意識の事柄や心理学、哲学の分野まで話は及んでいく

読み終えたらここでアップする気でいるが
本当に面白い 
こんなにおもしろい科学関係の本は久し振り
この手の興味深い本は
「自然界における左と右」
「不思議な数eの物語」
「ゾウの時間ネズミの時間」 などがあるが
少し残念なのは日本人のライターでこの様な本が
書かれていないこと
(ゾウの時間ネズミの時間は日本人の作品だが)

それにしても、やっぱり自分で買って読もうとする本は
借りて読もうとするものより、ずっと読みたい意欲にかられる
こうした面白い本を見つけるとなにか得した気がする
 

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横浜マンションの傾き事件とフォルクスワーゲン

2015年10月15日 18時21分00秒 | あれこれ考えること

なんら関係ないように思える2つの事件
横浜マンションの傾き事件とフォルクスワーゲンの
ディーゼルエンジンの不正

これは、(組織の)人間が何をしでかしてしまうか
と言った視点に話を絞ると共通の問題と見ることができる

両者とも追い詰められていた状況
(社会から、社内の上司からなどなど)
外から見ればなんでそんなことをしてしまうのか
と馬鹿げた行動に思えるが
いざ当事者の立場となった時に間違いなく自分は
そんなことはしない!と言い切れる人間はいるだろうか


間違いを犯した人物・企業を弁護しているのではなく
ただ人という存在は間違いを犯しやすい存在ということ

間違いを犯した人物が特別な人物ではなく
普通の人がどうしようもなく
してしまうかもしれない可能性であるということを
人は思い出したほうが(自覚したほうが)良いのではないか

個人は個人としての考え方があるとしても
ある組織に所属していると人は当たり前のように
組織防衛の(まるで本能のような)行動を起こす
それが社会的にまともであるか無いかは関係なしに
理屈として自分を、家族を守るためと言う理由などもつけて

これは性善説とか性悪説の捉え方というのではなく
人はそのどちらも持っているということ

普通の人間が何かをしでかしてしまうことを
歴史や小説の中で紹介しているが
こうした人に関する十分な認識とか考察なしに
効果的な生き方とかハウツウものだけで成長した人物が
いざ世の中を仕切ることになったとしたら
それは怖い世の中になってしまいそう

大学で人文系が実生活に効果的でないという理由で
排除されそうだったり
政治屋さんの専門知識はあるかもしれないが
人としての肝心なものが欠けていそうな雰囲気を見るにつけ
すこしばかりこの国の将来が心配

組織の中にあっても自分の心の奥深いところから
湧き上がってくる気持ちに従うことができるか、否か
どんな人間も結局はいつかこの問題に深くかかわらなければ
ならない時が必ずやってくる
その時に、正しい判断ができるようにしなければ

自分だって、土壇場になればどんな判断をするか
正しい判断ができるか、残念ながら自信がないが



 


 

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