パンセ(みたいなものを目指して)

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「盗人にも三分の理」(あったとしても三分しかないということ)

2022年04月05日 09時17分57秒 | あれこれ考えること

「盗人にも三分の理」
突然浮かんだのがこの諺だ

言葉で問題解決をクリアしようとしても、対立する同士はそれぞれの理屈を並べるから
なかなかうまく着地点が見つけられない
国会中継(森友・桜など)を見ていても
モヤモヤ感は募ることはあってもスッキリすることはない
そして今回のロシア・ウクライナの戦争も似たようなものだ

それぞれに言い分があることを表現したこの「盗人にも三分のの理」だが
不意に「盗人に理屈はあったとしても、それは三分しかないのだ」と思えてきた

常識とか正義とか倫理観とか、あるいは自然法的な視点からすれば違和感を覚える理屈も
それらの判断を伴わない手続き上の討論の場は、それぞれが単純な意見の相違で片付けられてしまう
Aという考え方があり、それに基づいて相手方を追求する
それに対し、相手側はBという反論を試みる
しかし、このBという反論は言葉の上とか理屈の上で存在したとしても
常識・正義・倫理・自然法的な見地からすれば屁理屈としか思えないことも多くある
つまり、討論の場に存在する意見の相違は同等に扱われるべきではなくて、
全人格的な価値観から判断された強弱をつけるべきだと思えてしまう
つまり盗人の理屈は三分まで認めるとしても、
大枠はある意味それを無視しても進めるべき時があると思う

それをコントロールするのが進行役の議長の役割
進行係が現実には三分の価値しかないものを、同等の価値のある考え方として認めるのは
いたずらに議論をややこしくするだけのように思えてしまう

となると進行係がそんなに全人格的な役割を果たすことができるか?
が問題になってくる
だが現時点では残念ながら進行係は党利党略で、あえて屁理屈も同等の考え方として扱うようになっている

最近は野党の追求がぬるいと言うよりは
ちゃんと答えない政府の言い分を、ちゃんと答えていると判断する進行係の責任も大きいのではないか
と思えてきた
単純に進行係が「聞かれていることに答えてください、論点がそれています」と言えば
話は進んで行くのに、それを避けるかのように、そしてそれが熟議だと錯覚させるように討論を続ける
これでは決着するはずがない

本当に実感するのは、今の世の中は民主主義といいながら実態は少数者の支配する社会になっているということ
そして残念ながらこの国は権威主義的なものに弱いという現実

自分たちのことは自分たちで解決していくという癖ができていない世の中(日本の)
アマゾンの労働者は自分たちのために自ら動いて労働組合を作ることができたのを
日本の、特に若者は見習って欲しいと思う

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