パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

相手の言い分を聞くのに慣れるということ(その上での確信)

2020年09月25日 09時05分19秒 | あれこれ考えること

自分の意見・考えと異なるものを一切受け入れない傾向が最近はあるようだ
人が何人かいれば、家族も生い立ちも教育も違うから、自然発生的な方向性の違いが
生じるのは当たり前のこと
だが、どういうわけかどの地域(アメリカ、日本、韓国)でも一部の人の間では
自分の考えに馴染まない人たちを敵として扱おうとしている
敵と味方、、この単純化された区分けは、正しいかどうか以前に
現実的な区別法で無意識に多くの人の間で使われている(と思う)

自分たちの考え、方向性に自信や確信を持つのは大事だし必要なことと思われる
しかし、それは自分たちと違う意見を一切聞き入れないことではないはず
相手の言い分もしっかり聞いて、それを自分たちの考えと比較して、その上で
やはり自分たちのほうが優れているとか妥当性があると信じるなら良いが
今は、異なる意見を頭ごなしに否定して、一切受け入れないで、しかも
反対の意見の人の人格攻撃を行うのが、多くの支持を受けるようにまでなっている

国会では官僚が質問の答弁をいくつも準備している
出てきそうな質問をいろいろ想定して、それにあう答えを用意しておくのだ

ところがこの「相手の言いそうなことを想定する」ということが
官僚さん以外(一般人)にはどうも難しいように思えるときが少なくない
「相手の言いそうなことを想定する」は討論における技術的なものの1つ
と思われるが、それに慣れていないと「相手の良いそうなことを想定する」こと自体が
屈辱的なこととさえ感じられるのかもしれない

ネット上の見られる「論破」は、何が論破されているのかさっぱりわからない
と言った例が多い
ただ残念なのは、身近な中にも過度に自分たちの正当性だけを訴える傾向があることだ
自分たちの正当性を信じることがエネルギーになっているのは事実だが
それでも相手の言い分を全然聞かない(ように思える)のは少し残念な気持ちだ

「我々は慣れていないのではないか」
そうした結論に最近はなりつつある
人には感じ方や考え方の相違があるのは当たり前で、その上で討論・議論によって妥協点を探していく
それが身についていないのではないか

とすると、慣れはどのように身につけていくかが問われることになりそうだが
そこでいつも思い出すのが「ボイテルスバッハ・コンセンサス」
ドイツの政治教育の基本原則だが、ここに書かれていることを、この国でも(我市でも)
じっくりとやっていけるようになればいい、、とつくづく思う

うまく纏まらないが、ずっと気になっていることなので

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