パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

まとまらない話(心にうつりゆくよしなしごと)

2018年10月12日 08時21分24秒 | あれこれ考えること

 調子の悪い日はあるものだ
昨日の会議の自分はちょっと反省が必要
本筋と関係ないような話を続けたり、否定的な話をしたりで正直なところどこかイライラしていた
それが調子のせいなのか、それとも会議の流れが気に入らないのか、まだ他の理由があるかもしれないが
とにかく昨日は夜中のラブレターみたいな勢いだけの話っぷりで
少しばかり恥ずかしい、、会議参加者に謝らなくてはいけないかもしれない

(相変わらず)なんの話をしているのだ?
となるところだが、会議はある意味民主主義に関する話で、そのあるべき姿とか参加の仕方
システムの問題を専門家ではない市民の立場で現実的な方法を考えようとするものだった

時間をおいて振り返ってみると、社会的存在である市民の政治参加はそもそもどの程度が現実的であったり、
大半を占めるであろう「大衆」の態度やその判断が果たして真に正しいものか、、、といった問題が
最近読んでいる本に影響されて自分の頭の中で整理されず、混乱したままで会議に臨んだためにかもしれない

話は変わってアメリカのテイラー・スウィフトさんが共和党の候補ではなく、民主党の候補者を支持する旨を
公にしてアメリカ国内に影響を与えているニュースが伝えられているのが、ここで気になったのは
「有権者登録」ということば
アメリカの選挙システムは全然知らないが、日本のように18歳を超えたら無条件に選挙できるのではないらしい
そもそも選挙人名簿というものがなくて、それを作成するために「有権者登録」をし、そこに登録した人だけが
選挙ができるらしい(らしい、らしいで話を進めるのは情けないが)
選挙に参加する権利はある、でも実際に選挙の権利を行使するためには人はひと手間かけなくてはならない
この流れが、昨日の問題に微妙につながっている

結局は自分たちの生活に関わってくること
その意味で政治(市政)には関心を持つべき(持って当たり前)という考え方がある
一方、直接自分の身に関わることなら関心は持てるが、そうでないものにはどうしても無関心になってしまう現実もある
自分に関係ないようなことでも、いつかは回り回って自分に関係することになるが、これには想像力が必要で
みんながみんなすぐに納得できるものではない

「大衆」という概念があって、オルテガのいうものとハンナ・アーレントのいうそれは若干の違いがあるようだ
オルテガはある組織(利益団体)に属していなくても、また政治知識・技術がなくても、自分たちの意見は正しいと
根拠なく言い続ける存在があり、それを大衆と名付け、その声が大きくなることを「大衆の反逆」で表している
ハンナ・アーレントは利益団体に属していなくても、被選挙人が自分たちの意見を代表していると考える
少しのんびりした(無気力な)存在を大衆としている
そのどちらも納得できるところだが、いざ政治とか市政の現場に当てはめると問題は複雑になり
自分の頭では「そもそも民主主義は、、、」と言う問題まで立ち返らなくてはならなくなってしまう

西部邁さんとかとか佐伯啓思さんとかの知識人が全面的に民主主義を良きものとしていないのは
最初は何を言ってるんだ、、と思ったが、いろいろ考えてみると、さもありなんと言う面も出てくる

人は作業や知識を分業することによって効率的な社会を作り上げ、とりあえず地球上の主みたいな存在を確保している
無駄なことは誰かにお任せして、自分のなすことは多分他の誰かのためになっていて、、それでうまく廻っている
これは言葉にしなくても多分それとなく感じていること
この誰かにお任せする分野に「間接民主主義」の肝である議員さん(国会・市会)・首長が存在する

現在日本では選挙権が当たり前になっており、各人は「自分には適切に人を選ぶ能力がある」と感じていなくても
無邪気に多くの人の判断することは間違いではない、、と感じているかもしれない
多くの人間の判断が間違っているかもしれない、、間違う可能性があるかもしれない、、
これは最近のポピュリズムとか衆愚政治につながるものだし、ドイツ人の深く反省するところ

大衆が(市民が)正しい判断をしうるか?
そもそも現行の選挙システムは、結局は自分の生活に直結するある種の利権団体と
想像上のあるべき姿を追い求める選挙権だけが存在する小市民
誰かがうまくやっていてくれてるはずと考え気味な人たち
大事なのは今の自分の生活(今だけ・自分だけ・お金だけ)を優先するひとたち(悪い意味ではなくて人はそんなもんだと思う)
などから成り立つ
その中で、みんなが人は社会的な存在としてこうあるべき、、、となるのは、否定しようがないが
それでもどこか引っかかってしまう

結局のところ全世界で良きものとされる民主主義は不完全なシステムで、その時々にチェックをしたり
修正を加えたり、各人の意識の共有化を図ったりしていかないと、すぐにだめになってしまうようだ
今年のノーベル賞の受賞者、本庶佑氏が「教科書に書いてあることを信じない」と述べたように
教科書には無条件に民主主義は良きものとしていて、人は社会的存在としての個人にならねばならないとするのは
どうも、そのところが引っかかる

いつものようにまとまらない話
どの時代にも、どの世界にもズル(犯罪)して生きようとする人たちが存在し
他の生物においてもこのような傾向が見られるのは、、、、
その種の生きのびる確率を上げるためなのかもしれないが(人の世界もそう?)これは理解の度合いを超えている
ただ、不思議だな、、とだけ感じることにしておこう






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