パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「エリート」、「保守」の意味合いは、、、

2019年07月31日 09時09分06秒 | あれこれ考えること

暑いっ!
梅雨が続いていた頃は青空が見たいと思っていたが
いざ太陽が真上から照りつけるようになると
これも勘弁してほしいと思うことしきり

エアコンの無い(PCがある)二階の部屋は涼しい午前のうちしか活動ができない
エアコン据え付け用の電源も確保してあるが、ずっと我慢の子であったので
今更設置する気になれない貧乏性は、きっとこのままなんだろう、、

暑いと何もかもが面倒くさくなる
考えるだけでなく感じることすら省エネを目指しているかのよう
考えるのが面倒なので今日のネタは以前、気になって書き留めておいたものの紹介

オルテガの「大衆の反逆」には大衆に対する概念として「エリート」あるいは「貴族」がある
これがなかなか注目に値する
書き留めておいたものを紹介すると

大衆の反対は「エリート」であるが「エリート」もまた、特定の階層や職業を意味するものではない。
オルテガによれば、「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。

エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、
その規範のために易々として身を捧げる」のである。
そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。
反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。
大衆というのは「社会階級の区分ではなく、人間の区分、であって上層、下層の階層序列とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。

また「貴族」にはこんな表現をしている

「私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、常に自分に打ち克ち自ら課した義務と要請の世界に現実を乗り越えてはいっていく用意のある生である」
再び確認しておくと、ここで言う「貴族」とは特定の階級のことではなく、人間の高貴な生き方のことである。

これには続きがあって「大衆」をこのように批判している

これに対して大衆的人間とは、今の自分に満足し、安穏として暮らせる現状にあぐらをかき、自己鍛錬をすることなく、いい加減に日々を過ごしている者のことである。
こうした大衆は、発達したし近代産業文明の中で、豊かに安全な暮らしを保障されるようになったことで世にはびこるようになった。
大衆とは近代産業文明から生まれてきたのである。

どちらも自己に厳しい規律を課しているような人、、ということになるが、日本でこの意味で「エリート」とか「貴族」が使われると良いのだが
日本では「出世コースを邁進しているちょいと運の良い人たち」で、一歩間違うとルサンチマンの対象となりそうな認識ではないのかと不安になる

言葉の使い方で、これもどこか違ってやしないかと疑問に思えるものに「保守」がある
保守の旗頭バークは

偏見は文字通り人が前もって(pre)一定の判断(judge)をもっていることを示唆する。その意味で先入見とも訳すことができる。
通常できるだけ偏見を排して物事をみるべきであると言われるが、人間精神はすべてのものでも常にゼロから眺めることはできない。
むしろ、多くの対象について、人間はあらかじめ判断して、ある所与の基準から理解する。

その意味で、人は常に中立的な立場から論理的に思考するわけではなく、かなりの程度あり合わせの道具立てで状況に対応する。
さもなければ思考に時間がかかりすぎて、変化する多様な環境に適応できないからである。

人間の思考とは、長い時間をかけて斬新的に発達したものであり必ずしも合理的に設計されているわけではない。
このように考えるバークにとって啓蒙思想家たちはひとたび偏見や迷信を打破すれば、
後戻りすることなく理性がおのずと支配的な地位に立つと考えた点で、根本的に誤っていたのである。

少しわかりにくいので、日本の保守の代表格西部さんの言い分を抜き出すと

保守主義は宗教に対する狂信と科学に対する盲信とをともに回避したうえで、いわば進歩の中庸化を図ろうとするものである。
しかし、その中庸は決して単なる平準化・平均化なのではない。
科学によって代表される合理性と宗教によって代表される非合理性のあいだに、つまり対立する価値のあいだに際どく平衡を与える知恵の集積、保守主義が保守しようとするのはそれである。

保守主義は人間の完全可能性を信じない。それは人間が知的にも道徳的にも不完全であるという前提から出発する。

人の(理性による)進歩を無条件に受け入れず、人間は失敗するものとし、失敗を試行錯誤で乗り越え
より良き社会を形成してきたと考えるならば、過去の慣習や思考は一概に否定できるものではなく
一旦は考慮すべきもの、、、、と捉えている

しかし日本の「保守」の使い方とか理解はどうもこのようではなく
偏った「伝統回帰」のみに突出しているような気がしてならない

一部の人から安倍さんは「保守主義ではない」と言われるのは無理からぬことと思える

それにしても、言葉で人間社会は成り立っているというものの
その言葉は一人ひとりが案外勝手に理解し使っているものだと実感する

 

 

コメント
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