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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

42年前の今日の記録(バイロイト)

2018年08月18日 16時35分48秒 | 音楽

現在、ドイツのバイエルン州のバイロイトではヴァーグナーの楽劇・オペラのみを上演する
バイロイト音楽祭が行われている
革新的な演出の先駆けとなることが多かったらしく、世界中のワグネリアンが集い
上演後の食事ではあれこれ自論を戦わす事になっているようだ

42年前の今日、8月18日、自分もバイロイトにいた
この汚い金銭出納帳にその日の出来事が書かれている(こんなものを残していた)

宿泊代、食事代などのこまごまとした金銭の出費の下に数行その日の出来事が書かれている
この日は、祝祭劇場前で指揮者のホルスト・シュタインのサインを貰ったし
トリスタンとイゾルデの23日のチケットを19日と交換できたので運が良かった
としている
その他にも祝祭劇場から流れて来ている音楽を(聴けない人用に流していたのか?)
昨日の演奏よりは良さそうだ、、と偉そうなことも残している

この年、バイロイトで見た(聴いた)演目は、トリスタンとイソルデが2回、パルジファルが1回
シェローの演出、ブーレーズのフランス人のコンビで話題となった指輪は経験していない
実はオペラとか楽劇なんてそれまで生で見たり聴いたりしたことがなかった
田舎に住んでいるからそんなものに接する機会がないためだが、はじめての生の経験が
いきなりバイロイトでトリスタンとパルジファルだったのは特異であっただけでなく、その後にも大きく影響した

翌日19日はトリスタンとイゾルデの実演が16時から
午前中は学者風のおじいさんがピアノでトリスタンのアナリーゼを
一緒に泊まることになったアメリカ(フランスに住んでいる)のおばあさんと聴きにでかけている
ドイツ語でほとんどわからなかったが、ピアノで奏されたトリスタンの音楽の魅力的なこと
これだけは、覚えている

トリスタンの音楽で今でも覚えているのは
一幕ではもうじき船が着くという場面で、トリスタンとイゾルデがあれこれ言い合って
運命のライトモチーフが重い弦で緊張感をもって奏されるところ
秘薬を飲んでしまって、その瞬間にハープと独奏ヴァイオリンで恍惚となってあのテーマが奏されるところ
二幕では有名な愛の二重唱の場面とそれに続くブランゲーネの警告
その後のまったりした感覚の音楽
三幕では冒頭の暗い重い前奏曲とイングリッシュホルンのまるで死者(骸骨)を想像させるような音楽
これらのシーンは、録音媒体で聴く今でも特別な感情が呼び起こされる

最近はバイロイトに行ってるワグネリアンの方のツイートを、現場報告として見てるが羨ましい限りだ
いつか、もう一度、、あの独特な響きの劇場で体験したいものだ

ところで、9月2日には名古屋の御園座で愛知祝祭管弦楽団によるコンサート形式の「ジークフリート」が
上演される
「ラインの黄金」「ワルキューレ」と見てるが、これがとても熱っぽくて良くて、今度も楽しみ
ただ心配なのは自分の腰と股関節の状態
(行き帰りと座り続けられるか心配、、ダメなときは途中でリタイアするしかないかな)

祝祭劇場横でホルスト・シュタインからもらったサイン

 

 

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時々聴きたくなる「帰り来ぬ青春」

2018年06月08日 16時30分01秒 | 音楽

秋でもないのに感傷的になって聴きたくなる曲がある
ヘッセに言わすれば、歳を重ねた人は過去を愛おしむ権利がある、、
というところだろう

その曲はシャルル・アズナブールの「帰り来ぬ青春」
切ないメロディだが、そのフランス語の歌詞を訳詞で読むと、より一層喪失感が増す
普段は音楽は「歌詞」ではなくてメロディ・リズム・和音が大事と思っているが
フランス語の訳詞をあるサイトで見つけた

Hier Encor
Charles Aznavour

Hier encore J'avais vingt ans
Je caressais le temps Et jouais de la vie
Comme on joue de l'amour Et je vivais la nuit
Sans compter sur mes jours 
Qui fuyaient dans le temps
まだ昨日のことのよう
僕は二十歳の頃だった
刹那を惜しみ
人生を楽しんでいた
ちょうど恋愛を喜ぶように
僕は夜に生き
日々が過ぎゆくことを気にもせず
時はいつしか過ぎ去って行った

J'ai fait tant de projets
Qui sont restés en l'air 
J'ai fondé tant d'espoirs
Qui se sont envolés
Que je reste perdu
Ne sachant où aller
Les yeux cherchant le ciel
Mais le cœur mis en terre
ずいぶん将来を思い描いたが
それはとどめ置き
いろんな望みもあったが
失ってしまい
僕は希望を失ったまま
行くあてもなく
目は空に向いていたが
心は地を這っていた

Hier encore
J'avais vingt ans
Je gaspillais le temps
En croyant l'arrêter
Et pour le retenir
Même le devancer
Je n'ai fait que courir
Et me suis essoufflé
まだ昨日のことのよう
僕は二十歳の頃だった
時はいくらでもあると信じていた
時を呼び戻すことが出来ると思って信じ
それを取り戻そうと
先に行こうと
走るしかなく
でも息を切らした

Ignorant le passé
Conjuguant au futur
Je précédais de moi 
Toute conversation
Et donnais mon avis
Que je voulais le bon
Pour critiquer le monde
Avec désinvolture
過去は捨て
未来を見据え
僕はみずから
会話をつねに先導し
世の中を批判するのに
適すと思われる
自分の意見を
無遠慮に言った

Hier encore
J'avais vingt ans
Mais j'ai perdu mon temps
A faire des folies
Qui ne me laissent au fond
Rien de vraiment précis
Que quelques rides au front
Et la peur de l'ennui
つい昨日のこと
僕は二十歳だった
だが僕は自分の時間を費やしてしまった
無軌道なおこないを重ねるうちに
そんな時間は心の奥に
ほんとうに確かなものは何も残さない
額の皺と
倦怠への怖れしか

Car mes amours sont mortes
Avant que d'exister
Mes amis sont partis
Et ne reviendront pas
Par ma faute j'ai fait
Le vide autour de moi 
Et j'ai gâché ma vie
Et mes jeunes années
なぜなら僕の恋はみな
育まれる前に死んでしまった
僕の友人たちは去って行った
もう戻っては来ないだろう
自らの過ちで
周りから乖離してしまった
そして自分の人生と
青春を浪費してしまった

Du meilleur et du pire 
En jetant le meilleur
J'ai figé mes sourires
Et j'ai glacé mes pleurs
Où sont-ils à présent
A présent mes vingt ans?
最良のこともあったし最悪のこともあったが
最良のものをほうり出して
僕は笑みをこわばらせ
涙も凍りつかせた
どこに行ってしまったのか、今
今、僕の二十歳の時は?

胸が締め付けられるが、この歌の動画は

時々思うのだけれど、日本でこの様な歌はどんなのがあるだろう

ちょっと似てるのは古賀政男の「影を慕いて」かもしれない
この曲も青春の一時期しか作ることの出来ない、素晴らしい曲と思う
音楽は古い・新しいは関係なく、良いものは良い

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何故か好きな演奏(エドウィン・フィッシャー&フルトヴェングラー)

2018年05月27日 08時59分35秒 | 音楽

何故かよくわからないが好きな演奏がある
どうして好きかを突き詰めて考えることは生産的かもしれないが
ただ楽しむだけの立場なので、そこまでは考えない
(でもどうしても気になるが)

その演奏というのが、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番
「皇帝」の名がある名曲とされるもので
演奏家はピアノがエドウィン・フィッシャー 指揮がフルトヴェングラー
オーケストラはフィルハーモニア管弦楽団

この曲「皇帝」は高校時代の一時期は、特に落ち込んだときなどは勇気づけられて
結構聴いていたが、ある時期から「運命」に通じるような「押しつけがましさ」が
鼻について聴くのが嫌になった
実演で聴いたときも、日本人のピアニスト、ドイツのオーケストラだったが
息が(感性が)合っていないようで、イライラしながら聴いていた記憶が残っている

ところが、フルトヴェングラーのセット物のレコード(中古)を数年前購入して
聴かなくちゃもったいない、、ということで聴いたのだが、
これが何故か全然押し付けがましいイメージがない
それどころかむしろとても新鮮な、自然な流れ、そしてピアノの音も中間部のフレーズでは
32番のピアノ・ソナタの第2楽章を彷彿とさせるところがあって、時々棚から引っ張り出して聴きたくなる

よくイメージされるフルトヴェングラーの演奏の頻繁なスピードの変化は
この演奏を聴いているとそんなに気にならない
というより、それが有ったとしてもそれはとても必然に感じてしまう
そしてオーケストラのズシンと重いがしかし柔らかな音色は、オーケストラが手兵のベルリン・フィルだったら
どんなだったろうか、、と想像が羽ばたく

しかし、なんでいつも新鮮に感じるのだろうか、、が不思議
フルトヴェングラーの魔術なのだろうか
エドウィン・フィッシャーも、先日モーツァルトの幻想曲ハ短調をYoutubeで聴いて
「これ好きかもしれない」と思った
そこでアマゾンでエドウィン・フィッシャーと検索するとモーツアルトとバッハの演奏のCDが出てきた
当然ほしいものリストに入れたが、、今のところ自制心が働いてポチッは無い状態

それにしても最近新譜のCDは購入していないし、おまけに情報に疎いから昔の人ばっかりのを聴いている
そういえば、自分も昔の人か、、、

フルトヴェングラーとエドウィン・フィッシャーの「皇帝」の動画があったBeethoven Piano Concerto No.5 'Emperor' - Furtwangler, Fischer 1951 (I. Allegro)

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新城 設楽原歴史資料館 ふみの蔵コンサート「レコード&CD音楽鑑賞会」

2018年05月13日 10時45分23秒 | 音楽

5月の晴れた一日の出来事
別のブログからのコピペから

DMも来ていたし、防災無線でもお誘いの放送が流れていた「ふみの蔵 レコード&CD 音楽鑑賞会」
昨日(5月12日)新城市の設楽原歴史資料館に出かけた
希望の方は手持ちのレコード・CDを持参くださいとあったので、気合を入れて数種類選んだが
その場の雰囲気で、どれかひとつくらいはかけてもらえればイイや、、との思いだった

会場はそれほど多くの人はいなかったが、年配の方が多く(自分もそうだが)見知った顔がチラホラ
類は友を呼ぶというが、本当に似たようなタイプの人が集まるもんだ

今回は設楽原歴史資料館が、東京に住んでいる音楽好きの方が行っているレコード&CD音楽会を
新城でも開いて欲しいとの希望で行われたもの
オーディオ装置を積んで東京からはるばる新城まで、ご苦労様というところ
装置は少しばかり年季が入ったもの(1980年代)で、音質を聴くというより音楽を楽しむという部類
幸いイベント中機械はご機嫌斜めにはならずにいてくれた

最初のプログラムは、本田さんといわれる東京の方がこの地区に合わせて持参していただいたレコードを聴いた
冒頭はお耳慣らしに「スター・ウォーズ組曲」
例の特徴あるテーマが映画の場面を想像させながら朗々と響く
ついで、この地区(愛知県)に関連する人たちのレコードをかけた
舟木一夫「高校三年生」ザ・ピーナッツ「ウナ・セラ・ディ東京」チェリッシュ「なのにあなたは京都へゆくの」
この他にも島倉千代子「この世の花」いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」伊東ゆかり「小指の思い出」
懐かしい曲のオンパレード
だが、知っている曲をこうしてじっくり聞くと2つのことが印象に残った
ひとつは「声がみんな若々しい」ということ
当たり前だが時が経てばみんな歳を取る
最近聴いているこのての懐メロは、現在の年齢の声でテレビ等で聞く
そんな時は、ただ懐かしいな、、くらいの印象だが、昨日のは「みんな声がみずみずしくて張りがあって若々しい」とつくづく感じた
これは録音時が若いということを知っているからではなくて、多分何も知らない人が声だけを聴いても若い人が歌っていると感じただろう
若い人の声はどこか悩んだところの無いような、、屈託の無さが、どこか声に現れる
そしてもうひとつ感じたことと言えば「丁寧に歌っているな」ということ
プロとして十分訓練されて、ニュアンスも発声も、、時間がかかって身につけたものだなという印象を得た
(最近の歌はリズムで勢いで歌ってしまえるから丁寧さは気づかない気がする、でも本当は最近の曲は知らないのだが)

このあと、カシオペアのレコードを聴いて、設楽原歴史資料館の館長の歴史の話(岩瀬忠震)を聞いて
来た人が持参したソフトをかけることになった
懐かしいブラザース・フォアの「7つの水仙」ジョーンバエズの「ドナドナ」ウエスト・サイド・ストーリーから「トゥナイト」、、、などなど
そしてこの日のために名古屋から来られた方が持参したインディーズの打ち込みを多用した音楽のCD
(この方はどうやってこのイベントを知ったのだろう)

ところで自分の手持ちのソフトは、、、
持っていったのは長そうなものが多かったので、比較的短くて聴きやすそうな(?)でも、もしかしたら雰囲気に合わないかもしれないと思いつつ、
是非とも知っておいて欲しいという意味でモーツァルトのピアノ協奏曲23番の第2楽章をかけてもらった
程よい広さ、高い天井、よく反射する壁材、、その中で繊細なピアノはてても美しかった(すくなくとも自分の耳には)
会場にいた方々がどんな風に思われたかはわからないが、かたっ苦しいイメージのクラシックもこんなにいい曲があるってこと、
そしてそれを知ったら儲けものだ、、、と思うのだけれど、、

ふみの蔵コンサートは次回は7月14日に行われるとのこと
今のところ予定は大丈夫そうだが、、、

ところでピアノ協奏曲23番の第2楽章の動画はこれ

美人のエレーヌ・グリモーの演奏のもの


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明日はラ・フォル・ジュルネ

2018年05月02日 20時11分04秒 | 音楽

振り返ってみたら前回出かけたのは2009年だった
その年のテーマは「バッハ」
しかし、情けないことにどんなプログラムでどんな印象だったのか全然覚えていない

今年9年ぶりに出かけるラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日音楽祭)
東京国際フォーラム会場で3.4日で7つのプログラムのチケットを手にしている
エロイカとモーツァルトのヴァイオリン・ソナタのプログラムが楽しみ
シューベルトの「冬の旅」も少し前に聴いたばかりなので比較ができる
あとはショパンがあるが、本当はショパンは得意じゃない(耳障りは良いけど)
それしかチケットが手に入らなかっただけのこと
本当に最近は、モーツァルト、ベートーヴェン、ブルックナー、ヴァーグナーばかり聴いている
しかもレコードで

覚えていないと言っても、気になって2009年のラ・フォル・ジュルネのブログを見たら、少しだけ思い出した
聴いたなかに鈴木雅明とバッハ・コレギウム・ジャパンでカンタータ78番があった
だが思い出したのは「あまり気に入らなかった」という印象
なんとなく全体の刻み方が日本的で、なんか違うぞ、、という感じをもったのを思い出した
この組み合わせは世間では評判だったが、個人的には合わないな、、という感じ

ラ・フォル・ジュルネでの印象で覚えているのは、ベートーヴェンの回のエロイカ
今でも覚えているのは、この曲を作曲し終わった時のベートーヴェンは嬉しかっただろうな、、と頭に浮かんだこと
ミサ・ソレムニスのグローリアの最後の部分、伴奏の楽器がなくなってコーラスだけになった時の効果が素晴らしかったことなどだ

モーツァルトの時の回は
ヴァイオリンとヴィオラのために交響協奏曲K364の2楽章で泣きそうになったこと
レクイエムの自筆だけ(ジェスマイヤーの補筆がない)の演奏が雑味がなくて、とてもモーツァルトらしいと思ったこと

民族の音楽の回だったかな、、フォーレのレクイエムも知らず知らず涙が出てたこと
メシアンの「アーメンの幻影」が、よくわからないが面白いと思ったこと
少しばかりありきたりと思ってたサティがオーケストラ曲では繊細な柔らかな感じがしたこと

だが、花より団子、、はいつも真実
ネオ屋台村のいろんな料理とビールはついつい誘われる
ということで、9年ぶりのラ・フォル・ジュルネ、、、楽しみ、、

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土曜の朝、聴く音楽は、、

2018年04月21日 08時58分58秒 | 音楽

朝はバロック音楽が気持ちにフィットする
特に感情に訴えることもなく規則的に流れていく、それが朝のリズムに合う気がしている
土曜日の朝、このレコードを引っ張り出した

シフの演奏するバッハのパルティータ
ピアノでのバッハはグレン・グールドが有名で特筆されるものとされている
それは確かに興味深いが、少しばかり集中度が高すぎて楽しむという雰囲気になれないので
気持ちののったときしか聴けないでいる
だがこのシフのバッハはもう少し気楽に聴ける
何よりも歌うようなバッハで優しい感じが良い

でもバッハの基本的に真面目な音楽を聴いていると、次に聴くレコードはモーツァルトにしようと
ついつい思い浮かべてしまう
つい先日もそうだった
シフ、アルゲリッチのパルティータを聴いた後、モーツァルトのK310のイ短調のピアノソナタを引っ張り出した
するとなんと感情の豊かなこと、呼吸しているかのよう、楽譜を見ると機械的と思われるようなフレーズも
歌うように流れる、、、

モーツァルトは音が少ない(当時は多すぎるとされた?)
でもその必要最低限のところで素晴らしい効果を上げる
ピアノ協奏曲22番・23番の第二楽章などは、だんだん音が少なくなって、、ほとんど単音だけになるけど
そのその美しさは、、、

あらら、バッハから始めたが結局モーツァルト礼賛になってしまった
ほんとモーツアルトは良いなあ



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男の生み出す音

2018年04月08日 19時41分10秒 | 音楽

大相撲では女性が土俵に上がるのは伝統的によろしくないとか
時代に合わせて変化すべきだとの話が、世間では瞬間湯沸かし器みたいに
盛り上がっているが、かつてあった似たような話で自分はどっちかというと賛成できなかった話題

それはウィーンフィルのメンバーのこと
かつてこのウィーンフィルのメンバーはみんな男だった
時代の流れで男女同権、それじゃいけないということで女性も入れるようにとの
論争があったようだ
聞くところによるとアルゲリッチがウィーンフィルと共演を行わなかったのは
こうした男だけで運営しようとした姿勢にノーの意志を示すためだと言われる

今の時代、そんなものかな、、というのは分からないでもない
でも、正直なところ、男ばっかりの楽団の出す音、、というのも興味がある
同じことでも共感とか感じ方は男と女は違う
楽器を奏でるパワーも違う
ブルックナーの音楽は、女性に本当に共感するものか、、との思いを捨て去ることが出来ないが
仮にそうだとしたら、女性が入ることによってその音楽は、ちょっとばかり違ったものになりはしないか、、
男が無条件に共感する流れとか音色
それを当たり前のように男が音に出す、、こういう音が聞きたいとの思いを捨てることが出来ない
これは男女同権という以前に特質みたいなものなので、その特徴を活かすべく伝統は残してほしかったな、、
というのが正直な気持ち(怒られるかな?)

最初はウィーンフィルも大勢に影響のないパート、ハープなどに女性メンバーを登用したようだが
今ではコンマスも女性になっているみたい
今となっては仕方ないが、男っぽいウィーンフィルというのも、もっと感じたかったな
(フルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの7番のように、男っぽい熱狂を聴きたい気分)


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イースターに聴く音楽

2018年03月31日 09時26分30秒 | 音楽

2015年のこの時期、遠出した
ホテルで出迎えてくれたのがイースターエッグ

この時期に出かけたのはヴァーグナーの「パルジファル」を見る(聴く)ため
ヨーロッパでにはバッハの「マタイ受難曲」とか、ヴァーグナーの「パルジファル」が演奏されることが多く
今年もウィーンの国立歌劇場では「パルジファル」が上演される

パルジファルは1976年にバイロイトで実際に見た(聴いた)こともあるが
全体的な響きがとても好きで、嘘っぽく、まやかしの批判もあるが、それでもついつい引き込まれてしまい
何度も体験したくなる
それでその為に足を運んだ
その音楽、最後の部分はワーグナー 楽劇「パルジファル」よりフィナーレ

ヴァーグナーはこの曲を作曲し終わった時「Ich sage nicht weiter」(もう言うことはない)と楽譜の最後に記したという
なんとなく納得してしまいそう

ところで、もう少し真面目なキリストの受難を描いたのがバッハのマタイ受難曲
この中で有名なのがペテロの否認の後で歌われるこの曲J. S. バッハ 《マタイ受難曲》 「神よ憐れみたまえ」 アーフェ・ヘイニス

とても内省的な心に染み入る曲だ
その他、マタイ受難曲はコラールに素晴らしい曲が揃っている(マタイ受難曲62番コラール)St. Matthew Passion 62.Choral;Wenn ich einmal,J.S.Bach

でも、真面目ばっかりではいられない これらの曲は気合が乗らないと聴く気になれない
いつのそばにあって欲しいのはやっぱりモーツァルト
小澤征爾 モーツァルトディヴェルティメントK136

今年はどれにしような、、多分バッハではない気分、、、




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今年の聴き初めは、モーツァルトの「魔笛」

2018年01月03日 09時07分03秒 | 音楽

毎年最初に聴く音楽は慎重に選ぶ
「一年の計は元旦にあり」この言葉が頭の片隅に鎮座していて
下手な選曲は出来ないと勝手にプレッシャーがかかる
バッハなら当たりハズレはないし、クリスマス・オラトリオの正月用のを選べば
問題はないのだがどうも気が乗らず結局選んだのは

モーツァルトの「魔笛」ショルティの指揮したウィーンフィルのやつだ
聴き始めというのもも実は昨年からの続きといったほうが正確で
昨年は6面あるレコードの4面まで聴いていて残すところ5面、6面だけになっていたので
この際年始に最後まで聞くことにしたというわけだ

大正解!
とても楽しかった
「楽しい」という言葉が音楽を聴いて出てくることはそんなにないかもしれない
音楽を聴いて感動したとか圧倒されたとか何か考えさせられたとか 、、
そういう言葉が出てくるほうが普通だが、この「魔笛」は何か無条件に楽しい

個人的にはレコードの3面に収まられれいる1幕3場のシーンの音楽がとても気に入っている
真面目な元々は頼りないタミーノが、ザラストロの下に囚われているパミーナを助けようと
神殿に入ってくるシーンから始まる音楽は、急に真面目なしかも美しいコーラスが挿入される
そしてその後で起きるいろんな人間が入り混じってのバタバタ騒動
本当にこのシーンは楽しい、パパゲーノがグロッケンシュピールを奏して
みんながつい踊りだしてしまうようなところは演劇的で一気呵成の楽しさ

この場面がずっと気に入っていたが、今年始めの5面も楽しかった
それはパパゲーノのアリア「恋人か女房がいれば」があったからで
この無責任な脱力系の歌詞はこんなだ

彼女か女房を パパゲーノは欲しいんだ
ああ そんな気立てのいい可愛い娘がいたら まさにこのうえない幸せよ

そうなりゃ飲み食い みなおいしくて 王様とだって肩を並べられるだろうさ
人生を賢い人間として楽しみ まるで天国にいるようだろう

彼女ひとりか女房ひとり おれの欲しいのはこれだけさ
優しい小鳩がいてくれりゃ まさに幸せそのものよ

ああ 誰も好いてはくれんのか 魅力的な娘たちの誰にも?
どうか誰か この苦境から助けておくれ さもないと本当に死ぬほどうらむぞ

娘っ子か可愛い女房がひとり パパゲーノは欲しいんだ
ああ やさしい小鳩がいてくれりゃ おれはまったく大喜びさ

誰も俺を愛してくれないなら わが身をこがして死ぬまでよ
それでも女性のくちびるがキスしてくれたら そうしたら俺はきっとまた元気になるさ

この歌の後もセリフで馬鹿馬鹿しい楽しいのが続く
そうして楽しい気分になってレコード6面までくるといよいよ最後のシーンとなる
真面目な主人公タミーノは我慢して努力して目的を果たすのだが、横着者のパパゲーノは
せっかく目の前に現れた恋人候補のパパゲーナが直ぐにいなくなって希望を失い
もう生きている価値がないとさえ思うようになる
こんなことなら1.2.3と数えて首を吊ろうとするが、そのカウントも本気なのかどうか、、
誰かが助け舟を出してくれないか、、と期待しながらゆっくり小さな声で、、数える
でも、ついに誰も助けにこず3となった
この瞬間に現れるのが今までのふざけた気分を覆すパパゲーノの心情を表す悲しい雰囲気の音楽
その効果的なこと
だがそれは一瞬のこと
音楽は一気に明るい大団円にむかう
横着者のパパゲーノにもまるでプレゼントのようなパパゲーナが現れ
「生きていていいんだ、、」と肯定的な結論にいたる

そう、とても肯定的な結論だ
良い人も横着な人も生きていていい
それは、赤塚不二夫の「それでいいのだ!」を連想させるような
おおらかなホッとする結論だ

この魔笛、台本が楽しいから楽しいのか、、といえば、多分違う
モーツァルトのキャラクター描写の的確さ、感情のコントラスト、勢いにのった時の音楽の進行、そして晩年特有の静謐さ
それらがあってこそ楽しい世界が実現される
こんなとんでもない物語でも人の心に響く様に美しい音楽が可能なのがモーツァルトの不思議なところだ
「魔笛」を聴いたゲーテが、その第二部を書こうとしたらしいが、その気持は分からないでもないな

ところで、聴いたのはレコード盤
少し反っていたので妙な雑音が入ったが、中身がギュッと詰まった音はレコードしか味わえない
多少のノイズよりはこちらの音を選んでしまう


 

 


 

 

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孤独な音楽

2017年12月29日 09時12分43秒 | 音楽

年の最後(の方)に聞く音楽として最適かどうかはどうかは疑問だが
季節的にふさわしいクリスマス・オラトリオよりも聴きたくなったのが

バッハの「フーガの技法」
タイトルどおりバッハの作曲技術の対位法のフーガの集大成の音楽だ
この音楽は楽器の指定がされていないのでどんな編成の演奏もあるが
自分が持っていたのは、この写真のCDの他にヘルムート・ヴァルヒャの演奏するオルガンによるものがある
最近の気分はこちらの室内楽版に触手が動いた

CDの一枚目は弦楽器による演奏
2枚めになって木管楽器が入って少し音色が豊かになる
しかしなあ、、そこで連想とかいろいろ思いついたが、それは以前から感じていたことでもあった

この音楽はとても孤独感を感じる
テーマはどちらかと言えば同じように対位法の技術を発揮するバッハの「音楽の贈り物」のような
魅力的なメロディではなく、のちのちの発展の可能性を考えて作られたような旋律で
これをちょっと聴いただけでは良い(一般受けする)音楽とは思えない

そして、本当に久しぶりにこのCDを聴いて改めて感じるのが、バッハはこの曲を聴いてもらうことを考えて
作曲したのだろうかということ
これらの音楽を聴いて実感するのは、闇に向かって、または何もない空間に向かって1人でとても整然とした
秩序だった音楽空間を作り上げているということ
とんでもなく頭の良い人が、ありとあらゆる可能性やら秩序を考えながら、頭の中で思索したことを表現したものだが
これは一歩間違うとプロの人にしか理解されないような現代音楽に似ている
わかりやすい音楽だけが良いのではないし、人間の作り上げたものの技術的な完成度を考えるとこの音楽は
空前絶後のものかもしれないが、そして時には非常に魅力的に感じるが、それでも自分は時にこの孤独に耐えられなくなる
だからというわけでないが、バッハが一時期人々から忘れられていたとか支持されなくなったというのはわかる気がする

聴く人がいないかもしれない、でも、その中で孤独の作曲の作業をコツコツと続ける
この行為と似ているのがグレン・グールドの演奏するバッハの音楽だ
その集中力のすさまじい個性的な音楽は、解釈の多様性と言うよりは、演奏が呼び起こす孤独な心の風景が
聴く方にとって辛くて、安易に聴く気になれないでいる
グレン・グールドも聴く人という存在を考慮に入れず自分の為に、自分の思いついたことを、表現する(録音で)
彼が残した(ビートルズと同じような)録音としての作品群は、このメンタリティをより強調することになっている

何かしらすごいな、、と感じながら、少しつらいので聴けない孤独の音楽がバッハの一部の音楽とグレングールドの音楽
今は年齢を重ねたから以前よりも彼らの孤独感を理解できるような気がしないでもないが
それでも、かなり気分が安定していないと聴けない、、かな

でも、よく考えるとこの投稿も誰も見るとは限らずに好き勝手なことを書いているのだから
同じようなものか、、、


 


 

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