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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

作曲側と聴き取る側のメロディに対する変化(進化?)

2019年05月12日 10時00分14秒 | 音楽

音楽は感情表現だと言われる
音は現れるとすぐに消えてしまい絵画・彫刻などの芸術とは違い
存在するのは個人の記憶の中にしかない
その記憶の中心になるのは音楽の三要素の中では多分メロディと思われる
情感たっぷりなメロディ、切ないメロディ、心地よいメロディ、人の想像力を喚起するメロディ
一般的に有名とされる曲はメロディに特徴がある

メロディを美しいとか良いメロディと感じるのは年齢によって変化する
速いテンポの曲に知られたものが多いベートーヴェンだがその緩徐楽章は
アダージョの作曲家とされるブルックナーに劣らずなかなか沈潜した、考えさせる
印象的なものがあり、若いうちは情に訴える感じものが好きだった

その中のひとつが弦楽四重奏曲一番の中の楽章で、一回聴いただけで記憶に残りそうな印象的なパートがある

Beethoven: String Quartet No. 1, BarylliQ (1953) ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第1番 バリリ四重奏団

 いい意味での効果的なフレーズ、多少感傷的な面に傾く傾向などベートーヴェンも若かったとも感じさせる

これが中期になると情に訴えると言うよりは、どこか考えさせるような音楽になっていく
楽譜の上での秩序とか成り立ち方の統一性を考えさせられるというのではなく
それを聴いた人の中に「考えさせる」という表現が適切な、何かを感じさせる
中期の弦楽四重奏曲のラズモフスキーの一番から第三楽章

ベートーヴェン 弦楽四重奏曲 第7番 ヘ長調 「ラズモフスキー第1番」 Beethoven:〈Rasumovsky〉 No.1

この楽章などは運命とか田園とか合唱、悲愴、月光とかでイメージされるベートーヴェンとは少し異なる印象を感じるのではないか

美しいメロディというのは、どういうものだろうと考えさせられるのが
最後のピアノ・ソナタ32番の第二楽章だ
冒頭のアリエッタは美しいか、、といえば、どうも普通の美しいという表現では収まらない気がする
メロディ自身が歳を重ねることはないのだが、それでもこれは良いこと・辛いこと・悔しいこと・やりきれないことなど
いろいろ経験してきたうえでの回想のような印象を聴く人に与える
それは肯定的な赤塚不二夫の「それでいいのだ」との肯定的な世界観や少しばかりの諦めも感じさせるよう
この不思議な静けさに満ちた音楽が変奏曲という形式で最後の彼岸に向かって流れていく

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 Op 111 バックハウス Beethoven Piano Sonata No.32

この曲は大好きでバックハウス、アラウ、ゼルキン、リヒテル、ウゴルスキー、ポリーニ、ケンプ、グールドなどの
CD(レコード)をその日の気分によって取り出している
この曲は二楽章までしかないが、トーマス・マンの「ファウスト博士」の中で
「何故ベートーヴェンは二楽章までしか書かなかったのか」という音楽学者の講演がかなりのスペースを要して書かれている
残念ながらトーマス・マンの文体は相性が悪く、よくわからん、、というところだが
トーマス・マンも32番のソナタには惹きつけられる何かを感じていたのだろう

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音楽を聴いて思い浮かべる絵画

2019年04月30日 08時53分43秒 | 音楽
連休中の暇に任せて、心にうつりゆくよしなしごとを、、、

音楽を聞いて連想する絵は何か?
との問いが、あるSNSであった
すぐさま思い立ったのがヴィターリのシャコンヌを聴いて思い出す絵画のこと

シャコンヌと言えばバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ二番の最後の楽章のそれが有名だが
ヴィターリのそれもなかなか感情表現が濃くて印象に残る
クラシック音楽に関心があった小泉純一郎氏もこのヴィターリのシャコンヌのことを
なにかの本で取り上げていた

Youtubeにはたくさんの演奏があがっている
その中の1つがこれ

T.A.ヴィタリ 「シャコンヌ」 演奏:漆原啓子


この濃厚な感情の音楽を聴いた最初の頃から頭に浮かんだのはこの絵画


ボッティチェッリの「シモネッタの肖像」
正確にはこの肖像を思い出したと言うより、この絵を描いているボッティチェッリの姿を想像したというところ
シモネッタ・ヴェスプッチはその当時(メディチ家が隆盛を極めたルネサンス期)の美女の一人とされており
残念ながら若くして亡くなってしまったが、メディチ家のジュリアーノの愛人(恋人)とも噂されている
その美人を朝の空気のなかでスケッチしているボッティチェッリが何故か頭に浮かんで仕方ない

ボッティチェッリの描く女性の顔はこのシモネッタに似たパターンが多いので
彼は単なる対象としてのシモネッタというより、彼自身もシモネッタにある感情を持っていたに違いない
と勝手に思い込んでいる(知らえぬ恋は苦しきものを、、)

ところでYoutubeにはヴィターリのシャコンヌの動画が沢山アップされているが
男と女の演奏では曲に対する共感の度合いが女性の方が強いように思われる
冒頭から女性は内側から湧き上がってくる情念のようなものを感じさせる(小さな子でも)が
男性は変奏曲形式であるこの楽曲をどこか冷静に眺めているような印象を持つ

ということでこの曲に関しては女性の演奏するもののほうが好きかな
(オイストラフの演奏で知ったので、この演奏も好きだが)

続いて音楽を聞いて思い浮かべる風景は、、
となると、昔からヴァーグナーのジークフリート牧歌を聴くと
青空の下、緑の麦畑がそよそよと風になびく風景が浮かんでくる
この頭の中の風景は1976年にバイロイトに行ったとき祝祭歌劇場の近くで
見かけたものとそっくりだが、その時まで見たことのない風景だったのに
なんで見たこともない光景が頭に浮かぶのか、、と不思議に思ったものだった
(残念ながらその緑の風景は現在は住宅等が建っていて見られない)

音楽を聴いて連想する風景ではないが、風景と音楽のミスマッチみたいなのが
ベートーヴェンが田園を作曲したとき散歩していたとされる道だ


このハイリゲンシュタットの寂しい小さな川沿いの道からは「田園」を全くと言っていいほど想像できない
その場所に行ってみないと作曲家・作品の本質の理解ができないと言われるが
これは思い切り例外のような気がする
(この風景からあの楽曲をつくるベートーヴェンの凄さを再確認する)

しかしこの道(ベートーヴェンガッセ)ではなく、ハイリゲンシュタットの村の道とか建物の風景を
皇帝の二楽章を聴くとなんとなく思い浮かぶのは、これもまた不思議な気持ち

以上、徒然なるままに日ぐらし、心にうつりゆくよしなしごと、、、
それにしても、思い浮かぶことは、なんで脈絡もないのだろう  
人は無意識に想像以上に支配されているってこと?

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終わった感じがするのはフルトヴェングラーの演奏

2019年02月24日 09時22分07秒 | 音楽

秋になると聞きたくなる曲(クラシック部門)という調査があると
なぜか上位を占めるのがブラームスの交響曲第4番
晩年の作品で、寂寥感を感じさせる音楽というだけでは説明がつかない
万人をそう思わせる何かがある

録音媒体を通じてしか体験できない田舎の人間は、
この曲を高校時代にカラヤンの指揮(ベルリン・フィル)のもので聴いた
全く同時期にマーラーの9番の交響曲もバーンスタインの指揮(ニューヨークフィル)
のレコードを手に入れた

当時はマーラーの方を繰り返し聴いた
特にベルクが高評価した一楽章を、気分の変化の多い感情の爆発のような音楽が
高校生のエネルギーに満ちた生理的なものとマッチしてとても好ましく思われた
一方ブラームスの方は最初の楽章の少しセンチメンタルな主題のせいもあって
どこかなよなよとして、言いたいことがストレートに出ていないもどかしさを感じたりして
男らしくない、、とまで感じてそれほど頻繁に聴いたわけではなかった

ところが最近はレコードやCDを取り出して聞く回数は全く違ってきている
そしてその理由も高校時代とは反対の理由で、昔は肯定的に思われた感情表現の爆発が
今では少し恥ずかしいとか、ストレートに表すものではないとか、もう少し抑える方が良いとか
そんなふうに感じるようになっていて、ブラームスの古典的な様式の中に密かに込められた思いのほうが
上品で、いろいろ経験してきた身にはしっくり来るような気がしている
そしてこれは、源氏物語で交わされる歌の評価とも似たところがある
つまりあまりにもストレートな表現は少し下品で、、好ましくないように思えてしまうのだ

音楽は感情表現のひとつだが、感情の面が表に出すぎると、情に訴えてわかりやすいかもしれないが
最近はどこか引いてしまうところがある
チャイコフスキーの音楽とかシューベルトの晩年のピアノソナタは、聴いてるその時は良いかもしれないが
あとで少し恥ずかしい気がしてならない

人生を重ねるうちにいろいろ感じ方や好みも変わってくると実感するのだが
このブラームスの4番の交響曲は、変奏曲形式の第4楽章がとても変な終わり方をする
それは「終わった感じがしない」と感じることで、何度か聞くうちには多少なれたが
それでも何時もどこか中途半端な終わり方だな、、と思っていた
これは自分だけの感じ方ではなくてコンサートを主催する立場になっていた知り合いも
この曲の終わり方は変だとこぼしていた

しかしこれも何故だかわからないが、フルトヴェングラーの指揮する音楽だけは終わったと感じる
それは必然の流れ、終わり方、、と感じる
音楽を聞くということは耳を通して受動的に感じているのだが、フルトヴェングラーの場合は
聴いている音をきっかけにして頭の中でその音楽に参加しているような気分になることが多い
フルトヴェングラーは音楽は聴衆との共同作業との言葉もあるが、
録音媒体を通してでも音楽への参加を感じさせるような、、音楽を聞いていると言うより
何かを体験したという感じが聞き終わったあと残る

ということで、やっぱり不思議な指揮者のフルトヴェングラー
それにしても、何故彼の演奏だけ終わった気がするのか、、、不思議だ

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今年最初に聴いた曲は、、

2019年01月01日 10時26分18秒 | 音楽

毎年、最初に聴く音楽は選曲に悩む
その良し悪しで1年の音楽生活が左右されそうな気がして

悩んだ末選んだのは

プーランクの室内楽曲集のなかから、フルート・ソナタ
新しい時代の曲だが、小難しいことはなく冒頭の印象的なメロディでつかみはバッチリ
なかなか楽しく聴ける
不謹慎なことだが、聴いている最中に次に聴く曲を思い浮かべていた
フルートつながりでモーツァルトのフルート四重奏曲がいいかな、、
ということで、レコードの方で(CDも同じ演奏を持っているが)聴いた

最初のK285のイ長調の針が落ちた瞬間、何という生き生きとした生命力にあふれた音楽が始まったのかと
かすかな驚きを覚える
この曲は聞き流しても心地よいけれど、耳を澄まして聴いても楽器間のやり取りとか会話が
完璧というしか表現しようのない形で進んでいく

ということで、今年はじめの選曲は成功した、、、という感じ
これで次からはお気楽に選ぶことができる
(今は静かだが、今日はそのうちに、、、)

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第九を聴きながら頭に浮かんだこと

2018年12月06日 08時46分13秒 | 音楽

電車に乗るのが好きだ
車窓に流れる風景を見てボーッとしたり、脈絡もなく浮かんでは消えるいろんな思いに身を任せる
この時間は本来の自分自身との対話のようで、時に大いなる気分転換をもたらす

音楽の生演奏を聴いている時も、勝手気ままにいろんな思いが頭の中をよぎる
多分一番いいのはその演奏に集中できて、耳に入る音が物理的な楽器の音ではなくて
頭の中にある楽器が鳴りだすような、ただただ音楽の流れに身を委ねるような感覚を持てること
そうした瞬間は一瞬のことであっても、まるで永遠のような気さえする
だがいつもいつもそうした感覚になれるわけではない
大概はとりとめのない思いが浮かぶ
まるで電車の窓から風景を見ているときのように

昨日の演奏会 「悠久の第九」 セントラル愛知交響楽団

これは演奏中に様々な思いが浮かぶタイプの体験だった

年末は第九の季節
でもベートーヴェンは聴くには覚悟とか勢いとか、そういったものがないとなかなか気が進まない
少しばかり押し付け気味な印象が、どうしても二の足を踏ませてしまう
ベートーヴェンで押し付けがましさを感じないのは後期のピアノ・ソナタ(30.31.32)とか
弦楽四重奏曲(12.14.15)などで、これらはいつでも聴きたくなるのだけれど

先日のフルトヴェングラーの「運命」を聴いて以来、ちょっとばかりベートーヴェンモードになっていて
たまにはいいか!と当日券のある上記のポスターの演奏会に足を運んだ

第九の生で聴くのは今回で3回目
1回目は新城市の文化会館で東京フィル、田中良和の指揮で合唱団は市民の方々
その当時流行った「第九を歌う会」の流れに沿ったもの
この演奏会で覚えていることは田中良和の導き出す音がとても清潔なスッキリした感じであったこと
まるで小澤征爾のそれのよう、、とその時感じたのは今でも覚えている
2回目は浜松アクトシティでロリン・マゼールとどこかのオーケストラ
多分、この施設のオープニングの祝祭的な意味もあったんだろうが、この演奏会のことは
悲しいくらいなんにも覚えていない
マゼールとの相性が良くないのか、、ただ、無理やり思い出そうとすると、冷たい音楽だな、、
といった印象があったような、、

そして3回目の昨日
プログラム前半のベートーヴェンピアノ協奏曲で耳慣らしはできて、集中しやすい環境はできた
聞き手ばかりだけでなく奏者も、どこかしら勢い込んでいる感じ
冒頭の神秘的な和音から、鋭い音型のモチーフが奏される
フルトヴェングラーの闇の中を音がストンと落ちるような印象を与えるのとは違ってスピーディーな感じ
この指揮者はこの感覚で行くのか、、と、なんとなくわかったような気がする
オーケストラは前半のプログラムの4番のピアノ協奏曲よりも練習が充分にされているような
自発的な、自分のものになっている感じがした

生の演奏は時に意外な部分とか音が印象に残る
昨日はファゴットとホルンが、楽譜にはそう書かれているのか、、と感じさせるような瞬間が幾度かあった
そのうち気ままな連想が浮かんだのは、、この曲はブルックナーの8番に似ているな、、ということ
第2楽章のスケルツォ、第2楽章のアダージョ、第4楽章の全部をひっくるめた終わり方などは
この曲がお手本になっているのだ、、、とつくづく感じた
でも、そのニュアンスはだいぶ違う
ベートーヴェンは人間讃歌だがブルックナーのそれは交響楽という音の建造物による
響きの中に快感をもたらす音、、そのもの、、

話はベートーヴェンに戻って、第一楽章の途中のフレーズでフルヴェングラーならここはもう少し
絶妙なニュアンスで音出ししたのにとか、あのバイロイトの演奏はこのあたりから気合が乗り始めて
それ以後はスピードアップするのだが、それは音楽的に必然なんだな、、とか
ついついフルトヴェングラーのレコードと比べていた

この比較は第2楽章でも同じこと
木管楽器が表に出たり入ったりする音型のところは、もっと立体的のほうがいいとか
でもこの楽章の若さに溢れる演奏は、なかなか良かった

3楽章になって合唱団が舞台に現れた
登場に拍手がなされたが、曲全体の集中が途切れそうで、自分的にはあまり肯定的とは言えないかも
3楽章は、押し付けがましくないベートーヴェンが感じられる
内生的な考えるアダージョで、最近ではこの楽章が一番の楽しみになっている
だが、ここでもついついフルトヴェングラーと比較してしまった
フルトヴェングラーの演奏は音を慈しみように、ゆっくりと深く流れ、指揮という行為のもとに音楽があるのか、
それとも音楽はもともとある形で勝手に流れているのか、そして忘我としか表現のしようがない一瞬を
今回は味あわせてくれるのだろうか、、と
でも名人芸のような奇跡的な瞬間は訪れず、若い音楽家の音楽解釈の一つのパターンとしてこの楽章は表現された
フルトヴェングラーの指揮によるファンファーレのあとの寂寥感は、それを望むのは酷なことか、、、

第4楽章
ベートーヴェンは晩年になっても枯れるということはなく、力技で全体をまとめる力があったり
それを望んでいるのだと改めて感じる
前の楽章のテーマの否定、それではなく肯定的なあの歌を、もっと、、とするストーリー展開は
ブルックナーのまとめ方よりはわかりやすいかな、、とまた気ままな連想がチラチラ訪れる
フルトヴェングラーの第九の印象の残る2つの部分
歓喜の歌がいつ始まったのかわからないような最弱音から奏される効果
そしていつまで続くのかと思わせるような合唱のフェルマータとその後のトルコ軍の行進のようなテーマが
これまた最弱音から始まる、、この圧倒的な効果 これはレコード作成の時に講じられたものとの説もあるが
いすれにせよ、その効果は、一度聴いたら忘れられない

第九はプロの人の安定した演奏もいいかもしれないが、この演奏会(市民合唱団による)のような
その日のために気張った演奏もその勢い・熱気に負けて全体として何かを感じることはできる

ということで、聴いてる最中はあれこれいろんなことが浮かびすぎたが、それをも含めて
久しぶりの第九は、、なかなか楽しかった、、というところ
それにしても、思うのはフルトヴェングラーの第九の凄さ
(でもこの演奏(1951年 バイロイト祝祭管弦楽団のレコード)は何度も聴けないでいる
 聴き直したら今度はさほど感動しない自分がいたり、その感動自体が錯覚だったのだ
 とがっかりしてしまうのが怖くて)




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1936年と1947年の演奏の聴き比べ(フルトヴェングラーの運命)

2018年12月04日 08時34分06秒 | 音楽

今ではそれほどでもないかも知れないが、クラシック音楽の権化みたいなのが
ベートーヴェンの5番目の交響曲
冒頭のモチーフの徹底的な使用法というよりも、苦悩を乗り越えて勝利に至る過程を
連想させるようなストーリーがわかりやすいようで、音楽の先生もそう言っておけば大丈夫
みたいなところがあったのではないかと、フト思ったりする

この「運命」と名付けられた交響曲
いざ聴こうとするには少し抵抗感がある
あまりにも押し付けがましくて、しつこくて、上から目線で、、、
とにかく聴く気にならない、、ことが多かった

ところが、先日東京で安く仕入れた中古レコードのフルトヴェングラー全集の中の
ベルリン・フィルとの1947年の演奏を何気なしに聴いてみたら、これがとても面白かった
最初はフムフム、大げさっぽいこういう時代がかった演奏は今の感覚とは少し違うかな
くらいに余裕もって聴いていたが、途中からこの指揮者の場合にはよくあるように
音楽の圧倒的な奔流の中に引き込まれてしまった

押し付けられたような、上から目線の感じはしない
むしろ演奏者がお互いの立場をわきまえて、効果的に会話をしているような
それもムキになって、そしてそれを楽しんでいるに違いなみたい
ベルリン・フィルの音は深く重い
楽譜は同じでも出てくる音はこれほどまでに違う
オーケストラは慣れている曲なので曲のツボのようなところは、興に乗った感じで
それがまるで自分の頭の中の楽器が鳴るように響く
そして、以前は気づかなかった休止のあとの間の いつ音が出るのか、、と待つ間の緊張感
これがとても効果的で、とにかく、、あとは一気呵成に聴いてしまった

すげーなー!
フルトヴェングラーを聴いたあとについ出てしまう言葉がまたもや出てしまった
そのあと考えたことは、もっと若い時のフルトヴェングラーの演奏はどうだったんだろうか?ということ
フルトヴェングラーにハマる人がついしてしまう同じ曲の他の演奏との比較を、
今手元にあるものの中でしてみようとCDの棚をい探ったら1937年のベルリン・フィルのがあった
まだ戦前の演奏だ
しかも音質の比較もしやすい同じベルリン・フィル
早速、かけてみた
あれっ、音が違う、、
スタイルは似ているがベルリン・フィルの音が1947年もののみたいに重くない
それよりはもっとハリがある
ちょっとウィーンフィルみたいな艶がある(少し感じは違うけど)
若さ、、フト浮かんだのはこの言葉、
この時、1886年生まれのフルトヴェングラーが50歳台の一番気力も馬力もあった頃で
まだ彼には戦争の暗い足音は現実には感じられていないかもしれない
ただ単純に音楽に一心に向かう感じが見て取られた
ベルリン・フィルの艶のある音もそうだが、途中のちょっとしたアイデア、ニュアンスは
やっぱり普通じゃない才能を感じさせる

1937年の演奏は悲劇的な要素がない
音楽的な統一感とか効果とか、そうしたことが全面にでて、いい演奏を聴いたという感じ
ところが1947年のはとにかく重い
音が重いというよりは、そこから感じさせる何かが圧倒的にちがう
この約十年間に戦争があったのだが、この戦争の経験、彼と演奏者の心にもたらした心境の変化が音に現れている
演歌歌手がヒット曲を歌い続けて、嫌になるほど同じ曲を歌って、その上で名人芸のような自分のものになっているすがたを
つい思い出してしまった
(ポール・マッカートニーでも何十年前と違うのだが、彼の場合は熟成と言うよりはライブ現場の差のような気がしてる)
人生経験は音楽表現に現れるものだ、、とつくづく感じる

ということで、思いの外楽しんだ「運命」の聴き比べ
それにしても、やっぱり出てしまうのは「すげーなー!」の一言
ネット上で「生きていたら聴きたい指揮者は誰ですか?」という問いがあったが、当然フルトヴェングラーと答えておいた
彼のお墓には二度もお参りしたことだし、、、

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「ホヨトーホ」と「ホ・ヘホ」

2018年11月13日 21時03分36秒 | 音楽

「ホヨトーホ」と聞いて直ぐにワルキューレを思い出すのはヴァーグナー好き
例のワルキューレの騎行で使われるワルキューレの乙女たちの掛け声だ

ならば、「ホ・ヘホ」と聞いて思い出すのは、一体何か、、、
ポール・マッカートニー好きなら直ぐに思い出す「バンド・オン・ザ・ラン」の中の一曲
「ミセス・ヴァンデビルト」で使われる掛け声だ
この奇妙な掛け声は、「ピカソの遺言」の中でも回帰的に使われてとても効果的だ
もっとも「ピカソの遺言」のでは「ジュエット」というこれまた印象的な言葉(メロディ)も回帰する
そしてその事によるアルバム「バンド・オン・ザ・ラン」全体の統一感は「サージェント・ペパーズ」とか
「アビーロード」の統一感を連想させる

バンド・オン・ザ・ランの最後の一曲「1985年」の壮大なクライマックスが終わったあと
「バンド・オン・ザ・ラン♫」と歌われるのは、これまたとても効果的
ということで、先週木曜日のポール・マッカートニー名古屋ドーム公演の印象が心に残っている

ほんと、あれは良かったな

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ブルックナー8番の初稿版と申請書類

2018年10月06日 18時36分02秒 | 音楽

「芸術の秋」のせいではなく、エアコンのない二階でも無理せずに音楽が
聴けるようになったので、最近レコードやCDをよく聴いている
今日取り上げたのは

シモーネ・ヤング指揮のブルックナーの交響曲8番の初稿版

ずっと前に手に入れていたが、手をつけずにいた
聞き流したり、何も感じずに時がすぎるのがもったいないので
気合がノッてきてその時がくるまで取っておいた

自分が指揮する能力があったなら、この交響曲の第3楽章をやってみたい
25分くらいの曲だが徐々に沈潜していき忘我に至るようで
大音量のクライマックスは生理的にとても心地よい

ところで、このCDは版の多いブルックナーの初稿版で、普段演奏会に使われるのとは大きく異なっている
だから当然聴いた印象も異なる
普段の演奏会の版(ハース版・ノヴァーク版)は起承転結が明確で見通しも比較的スッキリして
最後の最後で全楽章のテーマが一同に揃って奏される力技も後期ロマン派の到達点みたいなところがあるが
この初稿版はもっと素朴な印象

この初稿版を聴くといつも連想するのが、補助金の申請書類の元原稿とブラッシュアップされた原稿との違いのこと
気合が入って熱っぽく思い込みの多い最初の申請書類が、第三者の目からアドバイスを受けて筋道が整理され
とてもスッキリしてわかりやすくなっていく様が初稿版からの変遷によく似ている気がしてならない

聞き慣れた耳には劇的な現在使われている版のほうがまとまりが良く感じるが
ブルックナーが考えたこと、求めたものはこんなに劇的でスッキリしたものだったのかは
少し違うかもしれないとも思う

初稿版にはところどころブルックナーの故郷のリンツ郊外の風景を思い起こさせるところがある
だが通常の版は濃厚な音響からなる音の構築物
どちらがいいかは、その時時の気分で違ってきそう
でもこの初稿版はほとんど演奏会にのぼらない

どうやら東京の方ではこの初稿版により演奏会があるらしいけど、
この地方ではそういう話は耳にしない
どこか中部地方でやってくれないかな、、
(愛知祝祭管弦楽団が「ニーベルングの指環」が済んだら取り上げてくれないかな、、、と思ったりする)



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ホワイト・アルバム

2018年09月30日 15時53分24秒 | 音楽

台風24号はまだこの地区には来ていない
午後9時位から雨風ともに注意が必要になるらしいが
今のところ安全ということで晴耕雨読に勤しもうとしたが
気分に乗れず、音楽の方に切り替えた

ポール・マッカートニーの購入したばかりの「エジプト・ステーション」
を聴き始めたが、このCD録音が良いのか音圧が高い
最近はクラシック音源ばかり聴いてるので、ロックの音源はこのくらいなのかもしれないが
妙に馬力のある、中身が詰まった音という感じ

ポールの声は低くなってきている
前回「エジプト・ステーション」を通して聴いたあと「オフ・ザ・グランド」を聴いたら
その声の違いにびっくりした
やはり年々声が低くなるのは仕方ない
今度のライブは5年前みたいに歌えないだろうな、、それも仕方ない

エジプト・ステーションから数曲抜き出して聴いたあと引っ張り出したのが

レコードの「ホワイトアルバム」
どうやらこの2枚組のアルバムが出てから50周年ということで、他の音源が入った記念盤が発売されるらしい
(今のところ購入予定なし)

レコードの4面あるうちでよく聞くのはやはり最初の方
2面以降にも「セクシーセディ」「マーサ・マイ・ディア」「ブラックバード」「マザー・ネイチャーズ・サン」「ロッキー・ラクーン」
「ヘルタースケルター」「アイウィル」などの小品(?)も好きだけど
この一面のできはさすがというところ

特に「ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル」から「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」
そして「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」への繋ぎ、流れがとても好きだ
スペインギターの音から始まる「ザ・コンティニューイング・ストーリー・オブ・バンガロー・ビル」は
歌いやすそうだし、繰り返すコーラスは歌う快感に酔えそうだし、このコーラスの終わりに次の曲のスタート合図が入って
ピアノの音が鳴ったと思ったらジョージ・ハリスンの名曲が始まる
この繋ぎがとても音楽的でここだけでもゾクゾクする
この曲の泣くようなギターを演奏しているのはエリック・クラプトン
ギターも良いけど、ポールのベースも好きだな(ジョージ・ハリスンの歌も良い)

この熱気のある曲が終わって静寂が訪れると、ジョンの孤独な音色の声で
シンプルなギターの伴奏で歌い始める
この効果も好き
単なる曲の連続なのだけれど、必然性とか効果とか、彼らは本当に才人の集合だったと感じる

ビートルズが解散した時、ポールは28歳
ジョンはもう少し年上だったが、この年齢であのような音楽的なことをなしえていることに
今更ながら驚く

でもさすがのビートルズも今の若い人たちには懐メロ
感覚的、肉体的欲求にはフィットしないのかもしれない
こちらは今のラップの音楽には興味がなかったり、ついていけないでいる
徐々に感性が鈍くなって新しいものを受け付けなくなっているようだが
これは仕方ない、、
ヘッセの言うように、年令を重ねたものは振り返って過去を楽しむ権利があるのだから




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ジークフリート

2018年08月29日 20時28分36秒 | 音楽

9月2日 日曜日には名古屋の御園座で演奏会形式による「ジークフリート」がある
アマチュア・オーケストラ(愛知祝祭管弦楽団)による気合の入った企画で
一昨年の「ラインの黄金」昨年の「ワルキューレ」に続いての三番目

昨年東京の新国際劇場で楽劇の方のジークフリートを見た
1幕、2幕は面白かったが、3幕になってなかなか終わりにならず
いつまでも行きつ戻りつみたいなで飽きてしまったが
今度はどうかな、、楽しみ

いつもは少しは予習のつもりでレコードやらCDを聴くが
オーディオセットのある二階はエアコンがなくて、とても聴ける状態じゃなかった
それに段々生でないと集中が続かなくなっている

ただ心配なのは、ずっと座ってられるかなということ
腰と股関節の状態が良くなってきたとはいえ、イマイチなので!
座り心地という点では東京の新国際劇場の椅子よりはびわ湖ホールの椅子のほうが
ずっと良かった

時々練習風景がツイートされているが、それに涙ポロリというところがあるみたいなことが書かれていた
とにかく楽しみ、、
前の演奏会では幕の前にバイロイトみたいにファンファーレがあったが、今度もやるのかな
道中、変な天気になりませんように、、

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