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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行った

2019年01月08日 18時10分00秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

やっと「ボヘミアン・ラプソディ」を見に行った
ずっと前から気になっていたが、何故か気が進まずほったらかしになっていた
でもアカデミー賞候補のニュースを聞いて、やっと重い腰を上げることになった
(アカデミー賞候補だから行くというのは少し屈辱的な気分だが)

クイーンはアルバムを持っているわけじゃない
たった一枚ベスト盤を持っているだけ
CDのライナーノーツや歌詞は字が小さいのでほとんど読まず
音から感じるものを楽しむだけになっていた
中心人物のフレディ・マーキュリーが同性愛者でエイズで亡くなったことは知っていた

映画を見て(音楽を聴いて)クイーンはコーラスグループなのだと改めて実感した
あのビートルズも一種のコーラスグループなのかもしれない(ビコーズなどの楽曲はその例)
クイーンも音色が似た声でハモり方がとてもきれい
そして歌いやすそうな声を張り上げるメロディ(フレーズ)は思い切り気分爽快
ベスト盤で知った楽曲がこれでもかと流れるので映画は退屈するところがない

ストーリーは大まかに知っている彼の生き様をたどっている
最終的な結果を知っているので段々気が重くなっていく(同性愛とかエイズとか)
創造的な人間というものは何かと引き換えにその力を得ているのかもしれない
ふとそんなことが頭に浮かぶ
そして人は有頂天になるような経験をしたならば、天狗になってしまうのも致し方ない
とも思う(ただしそのしっぺ返しは食うことになるが)

フレディ・マーキュリーがパキスタン系の人物でゾロアスター教に則って葬式が行われた
というのは、まるっきりイギリス人だと思っていたので少しびっくりした
だが彼のベースのオペラなどの教養は裕福な家庭からのものだろう
(歌いやすく大声で張り上げるのはオペラの影響がありそう)

歌詞は気にして聴いていなかったので、今日初めてそれぞれの曲の意味を知った
映画のタイトルの「ボヘミアン・ラプソディ」はあの有名な曲からだが
その曲も冒頭の歌詞があんな意味(自らの死を感じさせる)ものだとは知らなかった
この映画はこの歌から逆算して作ったのだろう、、と確信をもった

ところで、記憶に残ったセリフがあった
わかりやすい英語で自分でも聞き取れた
「I decide who I am.」
これはひたすらカッコいい、、
(でも、しんどそう!と根性無しは思ってしまう)




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「散り椿」(圧倒的に映像がきれいだった)

2018年10月02日 18時44分54秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

最近、いい映画を見ていない気がしている
ところがテレビのCMを見て行く気になったのが「散り椿」
迫力と緊迫感のある殺陣のシーンが気に入ったのでも
麻生久美子や黒木華がいいなあ、、などと思ったのではなく
(この二人なんとなく好きなんだけど)
そこに映る風景、映像がとてもきれいで情感豊かで
それを見るだけで価値があるに違いないと思った

冒頭の雪の降るシーン
松並木と思しき道、部屋から見える借景画のような庭
城、田舎の川と山、タイトルの散り椿などなど
セリフ以上に雄弁な映像
大きな音の場面がなく、音楽もシンプルにチェロが人の心を描いているかのよう

谷崎潤一郎が陰翳礼讃で取り上げたような昔の日本がそうであったような
光は乏しく仄暗いシーンが全編に渡る
そしてそこに映るひとつひとつの調度、風景の美しいこと

富司純子の役以外の女性が(麻生久美子・黒木華)があまりにも寡黙・従順・忍耐強くて
男の一つの理想かなと思いつつも、正直なところ少しリアリティを欠いた
(最近はドストエフスキーの小説の生命力と意志に溢れたキャラクターの方が好みになっているかも)
でも、最後は隠した思いの丈を叫べばいいのに、、と感情移入するはめになったのだけれど

こうした静かな物語はいい
昔の森田芳光の「それから」も静かな物語だった
衣擦れの音、サイダーのシューという音、奇妙な絶望感に満ちたバスの中の花火のシーン
百合の花の香ががそこかしこに漂うような暗い室内
見ている人の想像力を信用して過度に語らない
少しづつ暗示のような(これみよがしではない)演出

この映画の監督さんは黒澤明の映画のカメラマンを務めた方だそうだ
それで映像が素晴らしいのは納得したが
気になったのはこの映画の撮影場所はどこだったんだろうということ
よくもまあ絶妙なロケ地を探し出してくるもんだ、、とつくづく感心する

ところで、物語は、なかなかいい話だったが予告編の「ただ、愛のためにー」は
男には少しばかり恥ずかしさを覚えてしまうのだけれど、、、

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御園座で「ジークフリート」(愛知祝祭管弦楽団の演奏会形式による)

2018年09月03日 08時46分59秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

チケット購入は数ヶ月前、ずっと楽しみにしていた愛知祝祭管弦楽団の演奏会形式による「ジークフリート」
一昨年の「ラインの黄金」昨年の「ワルキューレ」に続く三番目の上演が昨日(9月2日)あった
会場はなんと御園座、いつもの芸術劇場のコンサートホールが改修中で使えないので
新しくなったばかりの御園座に白羽の矢が当たった

数ヶ月前、ネットで早々とチケットを手に入れた
早いうちだったので、「良い席」を優先的に回してくれたのだろうけれど
この席が前から7番目の中央
音楽を聴くのとセリフを見るのには「良い席ではないかもしれない」と思ったが
たまにはこのような席も良いかもしれないとそのまま手にした
そしていざ現場で座ってみると、やたら近い、、これが歌舞伎なら役者さんの表情も見えて
「良い席」なんだろうが、音楽はどうなんだろうと少し不安になった


4年をかけてアマチュアオーケストラによる「ニーベルングの指輪」の全曲演奏のこの企画
とても気合が入っている
演奏は上手い下手を超えてどこか熱っぽい、それだけじゃなく演奏会形式というものの舞台は
証明やら小道具だけでなく、会場で配布されるパンフレットもいつもかなり充実している

ストーリーをわかりやすく漫画で紹介したページもあリ、これをざっと読んでおけば
あまりセリフを気にしないでも聴いて(見て)いられる

と言っても、やはり歌っている内容は気になる
左右に縦に電光掲示板でセリフの表示があるかと思ったが(新国立劇場はそうなので)
今回の御園座では舞台のとんでもなく高い部分
自分の席から電光掲示板を見ようとするとかなり見上げなければならない
そうすると、今度は音楽に集中できない
困ったな、、と思いつつ、音楽に集中すべきか、、慣れに任せるか、、と最初は戸惑いがち

今回は予習しなかったが、昨年新国立劇場で飯守泰次郎の「ジークフリート」を体験し
大体のストーリーの記憶があるので、セリフをパット見ただけでどのような状況かが
何となくわかり、徐々に音楽に集中できるようになった

ところで、あれっ!と思ったことがある
歌い手さんの声が響かない、、
新国立劇場では歌い手さんの「声」の力そのものに驚いたものだ
大声を張り上げているわけではないのに、体が共鳴体のように増幅してどこまでも届く
その驚くような感覚が今回は殆どなかった
これは歌い手さんの実力によるものか、それとも会場の音響がデッドなせいかわからない
でも、明らかに違いはあった

歌手の中ではアルベリヒ役の歌い手さん大森いちえい氏が圧倒的な存在感だった
その独特な風貌と演技力、そして声の力で、「ラインの黄金」では間抜けな小人だったのが
時間を経過して筋金入りの悪になっていったのがわかる気がした

ジークフリートの見せ場、よくできたところは多分2幕
大蛇となったファフナーと戦うところ、森の小鳥たちと会話するところなど
メルヘンチックな味わいがあるが、この日の小鳥役は子どもたちがカラフルな衣装を着て登場
(歌うのは大人だったが)これは大いに納得がいったというかホッとした
恐れを知らない純なジークフリート、彼と会話ができる様になるのはあの子どもたちのような存在である小鳥
大蛇の血を舐めたから小鳥の会話を理解できるようになったとあるが、これが新国立劇場のような大人だと
なんだかしっくりこない、、この演出はこちらのほうが良かったかな

演奏はどうしても尻上がりにノッてくる事が多い
第一幕でも証明が赤くなり、ジークフリートが自分で刀を鍛え始めるところぐらいから急に音楽が
説得力を持つように感じられた
奏されたライトモチーフが体の中にどんどんと浸透していき、
一幕が終わったあとでも頭に中にいつまでも繰り返し繰り返し鳴っていた
(ヴァーグナーの音楽は時々こういうところがある)

3幕はヴォータンとジークフリートのやり取り
無邪気な孫が自分を乗り越えて行く、それに期待するヴォータン、、このあたりまでは良いのだけれど
新国立劇場でもそうだったが、眠っているブリュンヒルデが目覚めてからが、やたらと長い
ジークフリートを見守ったのは自分だたっとか、ジークフリートの求愛に直ぐに応じない理由を挙げてみたり
行きつ戻りつ、、、正直なところ、退屈する(ヴァーグナーの台本のくどさ、、みたいなものを感じる)

オーケストラの演奏はバランスの良いブレンドされた豊かな音色というわけにはいかない
でもそれを補ってあまりある熱さがあった
会場で見ていた(聴いていた)人も満足だったが、一番充実感を味わったのは一年かけて練習してきた
オーケストラのメンバーだったのではないか、、、(きっとそうだ)

これで4年越しの指輪の企画も残すところ「神々の黄昏」のみ
これは2019年8月18日に、今度は芸術劇場コンサートホールで行われるとのこと
ここまで来たら最後も聴く(見る)予定
何しろチケット代が破格に安い、、今回の席は4000円だった(これなら絶対に元は取れる)

ところで、会場で配布された音楽関係のたくさんのパンフレット
いつもの透明の袋に入っていなくて、そのまま渡されたので持ち運ぶに不便
ということで、指輪絡みのトートバックを購入した

書かれている言葉は「ニーベルングの指環」の最後のセリフ
Zurück vom Ring(指輪に近づくな」
そうそう危ないものには近づかないほうが良いってこと、、

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ついていけなくなった映画

2018年08月08日 05時38分52秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

悪いところが腰なのか股関節なのかよくわからないまま、相変わらずの状態
今後このままだとすると、いつまでも得意のダラダラ生活じゃまずい
少なくともこの状態に慣れるしかない、、と気張って(?)昨日映画に出かけた
その結果、慣れるようになったかといえば、、、、

映画は「ミッション・インポッシブル」
例のごとく場内が暗くなってからの15分間は予告編だ
いつも思うのは、人はこんなにも破壊願望を持っているのか、、ということ
予告編の大半は何かをぶっ壊している
車を使って、あるいは火薬を使って、あるいは自然の力を使って
大きなスクリーンに迫力あるシーンというのは、そうした方法しかないのか、、
確かに大音響と臨場感たっぷりの映像はそれなりに気をひく
でも、正直なところ、、もうついていけない感じだ

ミッション・インポッシブルもやはり何かを壊している
ストーリーもあれこれ二転三転して、登場人物や組織も多いのでよくわからないまま過ぎていく
でもなあ、、、
この手の映画についていけなくなった自分がいて、いちいち批判的に見ていた
殴り合いをして殴られたらダメージがあるので、すぐさま反撃なんかできないのじゃないのか
ビルから飛び降りたり車から放り出されたりしたら、擦り傷や骨折も考えられるが直ぐに立ち上がって走り出す
走っている時もあんなに全力で走ったら疲れるはずなのに疲れ知らずで彼はアンドロイドか
そんなふうに見るのは楽しもうとする気がないのだろう

なんだかな~
年令を重ねるということはこういうことかとも思ったが、
場内は結構シニア世代が多かった(火曜日のファーストショーでは当たり前か)

映画なんてエンタメなんだから、ただ愉しめばいいのだろうけど、それでもこの手の映画はもういいや、、という感じ

ただミッション・インポッシブルの舞台のパリ市街の風景は、それだけは楽しめたかもしれない
何十年も前に着陸前に窓から眺めたパリの町、それはまるで石で作られた町のようだ、、と感じたのだが
改めて、そんなことを思ったことを、思い出した
ちょっと前「セーヌ川の書店主」を読んだが、この映画もパリが主なる舞台だったとは、、少しばかり共時性の
働きがあったかも、、
でも、この手の映画は、もうそんなに見ないだろうな、、

それにしても、座ってて体の体勢を何度も変えなきゃならなかったのは、ちょいと辛かったな
このせいで集中できなかったのかも、、

 

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モーツァルト・北欧音楽・ベートーヴェン(宗次ホールで連想の旅)

2018年06月10日 14時06分22秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

以前は何も考えずに、ぼーっとしてることが得意だった
特に電車に乗っている場合などは、車窓から流れる景色を見ていると
過去のこと、季節のこと、景色から見える人々の生活や
今取り組むべきことなどが頭に浮かんでは消え、知らぬ間に目的地に着いてしまう
ということは珍しくなかった

東北新幹線で東京から新青森駅まで向かった時、それでも退屈するだろうからと
本を持参したが、結局本は読まずに景色をぼーっと見てるだけで、
それでいて何かしら密度の濃い時間を過ごせたような気がしたものだった

音楽を聞いている時も、最近はそれに触発される徒然なる思いに身を任すことが多くなっている
いや音楽を楽しむ事自体が、そうした思いつきを楽しむためのようなところさえある
まして最近は、レコードやCDの解説書を読むのが面倒になって(字が小さいので)
直接耳から入って頭の中で起きていることこそが大事で、前もっての情報や知識はむしろ余分なもの
とさえ思うことがある(半分以上は面倒だから手抜きしてるのが本当のところだが)

音楽を聞きている時(特にクラシック音楽)耳にしているのは、ある演奏家が解釈し再現した音楽なのだが
勝手に頭の中に浮かぶことは、演奏の質とか他の演奏家との違いと言うより、どちらかと言えば作曲家の思いとかを
想像することが多い

昨日6月9日、宗次ホールにでかけた
この日はモーツァルト・ベートヴェン他の弦楽四重奏曲のプログラムで、メンバーはデンマーク弦楽四重奏団

情報通でないのでこのメンバーがどのくらいの水準かどうかは知らない
そんなことはあまり気にならなかったのは少しばかりプログラムが魅力的だったから

モーツァルトのハイドン・セットの中の一曲と、ベートーヴェンの後期の作品132のイ短調の音楽ほか
ベートーヴェンののは第三楽章がリディア旋法による印象的な宗教的な感じがするし
最終楽章は第9交響曲の4楽章が合唱でないならば使われ可能性があったメロディの曲

最初はモーツァルトで耳慣らし
でもちょっと失敗した
最近名古屋に来ると大名古屋ビルヂングの「ビール博物館」という世界各国のビールが飲める場所に立ち寄って
軽く飲んでしまう
昼の2時からの演奏会ということで、眠くなると心配しつつも昨日も飲んでしまった

最初は確かに聴いていた
聞き慣れた狩りのテーマのような音楽
モーツァルトはさり気なく書いているようでも、よく聞くとちょこっとした変化とか音楽上のアイデアが
幾つも感じられて面白いのだが、確かに最初はそんなふうに聴いていた
同じことは単純に繰り返さないのがモーツァルトだな、、などと
でも気がつくと音楽はいつの間にか第三楽章になっていた(時々確かに聴いているという意識はあったのだが)
この楽章は中間部に短調に傾く部分があって、それがとても切ないのだが、それに浸るということはまったくなくて
ほんの僅かな時間で元のトーンに戻る
この瞬間はモーツァルトらしい、、と思ったりするが、、後は夢の中か現実の中か、、いい気持ち


モーツアルトのあとは「北欧伝統音楽集」から
メンバーの一人が演奏の前に英語で演奏する曲の紹介をする
伝統的な美しいメロディ、ダンス音楽も、、、、
英語は部分部分しか聞き取れない  まずは聴いてみよう

これがなかなか面白かった
冒頭の音楽を聞いて急に頭の中に浮かんだのは、映画の「マクベス」の冒頭の三人の魔女が出てきたシーン
光の乏しい荒涼とした北国、草も緑というより冬の佇まい、、そこで聞こえる音楽は、確かに北欧を感じさせるような、、
すると連想は勝手気ままに羽ばたく、音楽がテンポをあげて様々な変化をしだすと不意に今度は
ショスタコーヴィッチやアルヴォ・ペルトも精神的にはこの様な北欧のメンタリティとか音楽的特徴を持っているのではないかと
そしてそれは何故か間違いのないことのような気がした
(こうした勝手気ままな連想が楽しい)
ということで、思いの外退屈せずに聴き終えられ、次の大曲に向かう準備はできた

ベートーヴェンの作品132番、イ短調のこの作品、実演で聴くのは2回目だ
一回目は義理の兄のおごりだったと思うが「イタリア弦楽四重奏団」の演奏会で
この曲がメインだったにもかかわらず、その前に演奏されたモーツァルトのK136の音楽が素晴らしくて
生き生きとしてしかも屈託なくて、印象はそちらの方しか残らなかった
だが、この曲を聴いたという記憶だけは残っている

後期の作品らしく、中期のような押しつけがましさはそんなに無い
第一楽章は寂寥感を感じさせる短いモティーフ
それに楽器を替えて歌われる美しい第二主題
この楽器間の受け渡し、音色変化が録音媒体ではよくわからないが、目の前で見てると
それだけではなく、メンバー全員の気合も感じ取れて圧倒される
日本的には歳を取ると「枯れる」という感じが評価されそうだが、ベートーヴェンの場合はそんなことはない
あくまでもトータルで構成的、起承転結のような趣は何時まで経っても変わらない
第三楽章のリディア旋法の印象的な音楽は、息も絶え絶え、、みたいな祈り
(ブルックナーのような神の賛美ではなく人としての祈り)
このあたりから(聴く方も)ノッてきたせいで音楽は聴いているのか体験してるのかわからない感じとなってくる
そしてフトこの作品が作曲されたのは約200年前
その作品を若い人たちが演奏して、それを聴いてる自分たちがそれなりに感動してるということは
一体どういうことなんだろうと考えてしまった
偉大な芸術は時を超える、、とかそういう定番の答えではなく、なんで人の心に訴えるんだろう、、と
答えのないような、どうでもいいような、、思いが頭の中を駆け巡る
そしてその連想に浸ること自体の充実感、、

ということで、昨日の勝手な連想の旅に出かけるのは上手くいった
だが帰りの電車の中はスマホでSNSをチェックで時間つぶし、
もっと余韻に浸るべきだった、、と今にして思ったりする
(もったいなかったかな)


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ラ・フォル・ジュルネ(5月4日に聴いたプログラムの感想)

2018年05月06日 10時15分18秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

5月4日は3つの公演を聴くつもりだった
しかし、ネット予約で会場が池袋のをどういう訳か選んでしまったせいで
有楽町と池袋の往復などでは時間的に2番目のプログラムを聴くのができず
諦めてそのチケットは池袋に行って、チケットを求めている人にあげて
チケットが無駄になるのを避けた

前日の後半から集中して聴ける態勢になりつつあったが心配事があった
というのは、夜型人間ではない自分は普段床に入っている時間に
ホテルを目指して歩き回っていたからで、結局寝たのは12時過ぎ
おまけにあまり良く眠れなかったので演奏中眠くなるのでは、、というのがそれだ

朝早く聴いたのがこのプログラム

今回のラ・フォル・ジュルネの演奏会、購入したプログラムの演奏家はみんな知らない
評判の演奏家か、これから勢いが出る人なのか、それとも演奏活動始めたばかりの人なのか、、
良く言えば偏見なしに聴ける状態で臨めるわけだ
最初のマズルカの音を聴いてまず驚き気づいたのはピアノのタッチ(打弦)の強靭なことで
この人はロシア系の演奏家に違いない、ロシアのピアニストの音だと感じた
(プログラムの冊子の演奏家の説明は読んでなかった)
強靭なタッチはまるでピアノを壊すのではないか、、とさえ思うようなことになったが
昔名古屋で聞いたアシュケナージのピアノもそんな風に感じたのを思い出した
彼らはピアノと仲良く戯れると言うよりは力づくで音を鳴らしきる感じ
音が沢山重ねって盛り上がるところは全部が全部きれいに鳴り切っているかと言えば
少しばかり力任せで濁ってる(?)ようなところもあった印象
ただどういう訳か、この人の演奏で感じられる感情の濃さはドストエフスキーの小説の登場人物の
生命力に通じるものがある、これがスラブの血なのか、、とも勝手に連想
ところでピアノの音色は個人的にはロシア系は少し苦手な感じ
この人アンドレイ・コロベイニコフは、もしかしたらベートーヴェンの32番のような曲は
演奏しないのではないか、、とも根拠のない連想が浮かんだ
ピアニストはショパンを弾く人とそれ以外の人と言われるようだが、この人はショパンを弾くタイプなのだろうと想像した
プログラムで案外面白かったのはラフマニノフのコレルリの主題による変奏曲
多彩なピアノの音色を駆使してロマン的な世界を作り出している
しかし、途中から長い曲だな、、との少し飽きる感じも、、
そこで改めて感じたのはベートーヴェンの一曲をまとめる力の凄いという事実
この曲の終わり方はどんなふうなのだろうか、、と興味が湧いたがなかなか終わらず
思いのほか中間部ほどの充実感はない終わり方、、
しかし、何よりもピアノのタッチが強靭だったという印象は後々まで残るだろう

この日2番目のプログラムは

大好きなモーツアルトをメインとしたプログラム
ドン・ジョヴァンニの序曲が始まるやいなや
あれっ、との思いが
最初の音の低弦があまり良く聞こえない
席のせいなのか(前から5番目)演奏のせいなのか、どっちなんだろう
オーケストラは3日のエロイカと同じで指揮者が違うがどうもオーケストラの音が違う
エロイカのジュリアン・ラクリンの方が今回のラルス・フォークトよりもとんがった音色
自分の好みとしては音楽をより楽しめるこちらの方が好きな感じ
メインの「プラハ」は39.40.41番の交響曲よりも好きと感じる時がある
変化に富んだ音楽でリズムの生き生きとしていること
楽器間の受け渡し、会話、モーツアルトの音楽的アイデアがいたるところで聴き取れて本当に楽しい
でも心配した睡魔が、、、

ということで今年のラ・フォル・ジュルネは終了
音楽を聴くのには体調や聞く態度の慣れも必要なんだと改めて感じる次第
しかし、これらの印象は何年後どのくらい覚えているだろうか
(覚えていそうなのは、冬の旅のピアノ演奏が良かったことと、
 アンドレイ・コロベイニコフのタッチの強靭だった印象かな、、)

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ラ・フォル・ジュルネ(5月3日に聴いたプログラム感想)

2018年05月05日 09時10分08秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

何年か経過した後、何を覚えているか、、その時感じたことがそのまま記憶に残っているか、、
年齢のせいもあって、なかなか自信のない事柄だが、とりあえずせっかくお金と時間をかけて
東京まで出かけたのだから、忘れないうちに備忘録として残すことにしよう

一冊の本を読んで2.3箇所覚えていれば、それで良しとの話があるが、この考え方はとても安心できる
昨日一昨日の出来事も、結局は2.3の記憶しか残らないかもしれないかもしれない
でも、それはそれで仕方ない

一昨日、昨日とラ・フォル・ジュルネ2018に出かけた
幾つかの会場に分かれていたが自分が出かけたのは東京国際フォーラムで行われた方
一昨日の3日は4公演、昨日の4日は2公演(ちょっとした手違いで1公演は聴けなくなってしまった)
約一時間以内の演奏会で料金も抑え気味のこの催し、ネットで予約して気になるプログラムを選んだ
選ぶのは演奏される曲、プログラム主体で演奏家の良し悪しではなかった
というより、最近は以前のようにレコード芸術のような本は読んでいないので、演奏家等の情報がほとんど頭の中にない
演奏家の情報がないので演奏の聴き比べと言うより曲そのもの、どのような思いのこもった曲なのか、、
と言った方面に関心がいく

最初に聴いたのは

ベートーヴェンの英雄(エロイカ)がメインのプログラム
この曲はラ・フォル・ジュルネの一番最初の年、テーマがベートーヴェンの時
やはり一番最初に聴いた曲だ
その時聴いて覚えている感情は「これを作曲し終わった時のベートーヴェンは嬉しかっただろうな」
という妙な思い
野心に満ちた作品を力づく、奔放な想像力で見事に作り上げた達成感はどんなものだったろうと
いかばかりのものだったのか、、と思っりした
さて今回の演奏、まず気になったのはテンポが速かった
1時間以内で2つのプログラムとなれば、それは予想されたが、想像以上に速かった
最近はこのくらいの演奏が多いのかどうかは知らない
その他で気になったことは管楽器の音が目立った
そんなに大きくない編成のせいなのかどうかはわからないが、普段よりもフルート・オーボエがよく耳に入った
それとティンパニの音  これもまるで音程楽器のようにメロディの一部のように、しかも乾いた音で大活躍
体全体で指揮する若い指揮者で、若さが要求するテンポとか音色感なんだろうか、、
でも少し残念なのは音楽よりは記憶に残っているのはこうした些細な事柄、、まだ聴く態勢ができていなかったのか

二番目は

ピアノの夜想曲をテーマとしたプログラム
夜想曲の元祖といわれるフィールドとショパンの予想曲を交互に並べたもの
この時間帯のプログラムはやばかった
合間の時間に昼ごはんとビールをネオ屋台村でお腹に入れたものだから眠くて眠くて、、
最初のフィールドを聴いてショパンを聴いて、、、
フィールドは叙情的な面もわかるが、名を残した作曲家と比べて尖る才能にかけるような普通の印象
ショパンのほうがセンスが良いというか、どこかちょっと違う感じ
でも、眠くて、、よく覚えていない(ほんと失敗、、でも良いか、こういう楽しみ方も)

三番目は、大好きなモーツァルト

一番の楽しみはK304
その第2楽章のさらっと流れていく悲しみ、、その美しさ、、これがどんな風に演奏されるか
そこは聞き逃すまい、、と思っていた
この曲は第一楽章からヴァイオリニストは気合が入っていたように感じた
細めの小柄な女性で、音色も豊かな方ではない
でも気持ちと言うか情熱というか、、どこか熱いものがヴァイオリン・ソナタはピアノとヴァイオリンとの
対話とか競争なのだとも感じる瞬間があった
ヴァイオリニストは曲に沿ってとても自然にまるで踊るように身体を動かし
場所を移動して、ピアノとの対話を繰り返す
その瞬間、、モーツァルトはいいなあ、、といつもの感覚が頭をよぎる
そして2楽章の冒頭、、モーツアルトの母がなくなった時に作曲されたということを
フト連想させる淋しい、美しい瞬間、、そこには思わずわかっていても涙が出そうな自分がいた

一日目最後は冬の旅

開演前にネオ屋台村での時間つぶしでお話した女性が、この歌手はイケメンで
女性は楽しみにしてると思う、、などと言われたものだから
始まる時は興味半分にご尊顔をちょっと注意して見てしまった

一曲目の「おやすみ」が始まるとピアノが心地よい
これこそは高校時代に音楽の時間に教師が演奏したのを思い起こさせる
宗次ホールで聴いた冬の旅は高橋悠治のピアノでとんがって違和感があったが
今回は本当に曲の流れとか歌詞、雰囲気に沿って、まるでシューマンやヴォルフの曲の
伴奏みたいに雄弁に、しかも出しゃばらず心地よかった
で歌手の方はと言えば、何よりも驚いたのは声量 声の大きさ
ドイツリート、しかも失恋のせいでの冬にさまよう男の絶望に満ちた内容というのに
この元気は馬力のある歌は、、ちょいと驚いた
この主人公の悩みは、いつか時とともに忘れられる一過性のもの、、
しかし確かに生きている若者の肉体的な苦痛を伴う悩み、、みたいなものが感じられた
短調の多い曲の中で「菩提樹」とか「春の夢」などはホッとさせる安らぎを感じさせる、
そして中間部は声の音色を変えて、、レコードのフィッシャー=ディースカウもこんな風にやってたな
とつい思い出した
でもこの「冬の旅」は伴奏のピアニストがとても気に入った

ということで、自分にとっての一日目終了
聞く耳になるのは少しばかり慣れが必要だったのかもしれない
後半は前半よりも集中できた気がする





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このタイミングでの「ペンタゴン・ペーパーズ」

2018年04月01日 17時49分06秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「ペンタゴン・ペーパーズ」を見に行った
この映画を見に行った人は、この一月の間に日本で起きた朝日新聞がスクープした
森友学園の公文書改ざん事件をつい連想してしまうだろう
当然ながら自分もその1人だ

日本の事件は、朝日新聞が森友学園との決裁文書が改ざんされていることを確認したとスクープした件で
この記事の内容が本当のものか、フェイクなのか疑問に思うのは当然で
朝日新聞の証拠は見せずに「確認した」の表現が憶測を生んだ
仮にこのニュースが真実であったとしても、これはおそらく内部告発によるもので
その場合は国家公務員の守秘義務に違反する、国家に損害を与えるなどのややこしい問題もは発生し
簡単には収まらないことも予想された

この映画も状況はそっくりだ
アメリカ国防総省(ペンタゴン)は泥沼化したベトナム戦争の詳細で客観的な文書を作成していた
その内容は、公にされているものとはまったく違っており衝撃的なものであったが
ある人物が文書をコピーしメディアに届けた(ニューヨークタイムス)

このネタと同じものが映画の舞台となっているワシントン・ポストも手にすることになったが
これをスクープとして扱って良いかどうか、、を悩むことになる
それは冒頭にあげた朝日新聞の例と同じく、国家秘密を暴露することは国家に損を与えることで
司法から違法との判断を受ければ新聞社の存在は保証されず、そこで働く人たちも路頭に迷うことになる

ワシントン・ポストは地方新聞で経営も脆弱
その為に他企業とか銀行とかに資本調達を要した
そしてこの新聞社のオーナー(最終決定賢者)は政権と食事をしたり誕生日会、結婚式などにも出席し
友達付き合いもしていた
友達付き合いをしていた人びとを裏切ることになる、、、もし、司法の場で違反の判決を受けると
企業としての存在が確保されなくなる、、、どうすべきか、、、

映画なので(実際の話らしいが)最終的には落ち着くところに落ち着くが、映画の上だとしても司法が
キチンと判決を出したのは、仮に今の日本に置き換えると果たして司法がこの様な結論を出しうるか疑問を覚えてしまうので
少しばかり羨ましく思ってしまった
それと競合するメディアが日本のような読売・産経新聞の朝日新聞に対する態度とは違って
普段は競争相手だが、この事件に関しては国民の知る権利を共同して訴えている

繰り返すが映画の上とは言え、羨ましい
現在の日本のメディアのお偉いさんは政権と定期的に食事をして「同じ釜の飯を食う」関係になっている
そうすればどうしても情が移り厳しい記事・放送はできなくなる
日本独特の記者クラブの存在も馴れ合いの素地をつくっている
そして記事は「発表報道」とか「うちわのある意図をもったリーク」が元となる
果たしてそれが真に人びとに益するものか、、、

この時期、このタイミングでこの映画が日本で上映されるのはあまりにも偶然の一致
そこにはある種の啓示があると思いこんでしまうのも無理からぬ事だ
だが、映画を見に来ている人は年配者が多かった
若い人は今日見た限りでは多くない、、これが少し心配

ところで思いっきり話は飛ぶが、映画の中でトム・ハンクスの演じる人物が
机の上に脚を載せてるシーンが多かったが、なんかみっともないな、、と思うのは自分が
日本人だからだろうか、、
俳優さんや大統領も座ってインタビュー・対談に応えるとき脚を組んでるのを見かけるとき
少し嫌だな、、と思ってしまうが、、あれはあちらでは当たり前のことなのかな、、

映画の評価としては、、言いたいことはわかるけど、イマイチかも知れない
(自慢じゃないが俳優さんは殆ど知らなかった)





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ジーザス・クライスト・スーパースター(受難のミュージカル)

2018年03月09日 19時38分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

パッション(passion)といえば日本人は多分、熱情とか激情とか熱中を連想する
だがこの言葉にはキリストの受難の意味もある
熱情とか激情が結局は受難につながりそうなのは、なんとなくわかるような、わからないような気がするが
今日豊橋市の「穂の国とよはし芸術劇場PLAT」で行われた劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見に行った

ポスターの文字にあるようにキリスト最後の数日間の物語をミュージカルにしたもので
バッハのマタイ・ヨハネ受難曲のロックヴァージョンみたいのものだ
このジーザス・クライスト・スーパースター」を見る(聴く)のは二度目だ
一度目は会場は忘れてしまったが確か名古屋(今池の方のような気がしてるが、、)

なにしろCatsを見てアンドリュー・ロイド=ウェバーの音楽にぞっこんとなって、彼の作品なら
なんでも見ようとオペラ座の怪人はもちろんのこと、スターライト・エクスプレス
エヴィータ(映画で)などを四季の会の会員になって見たのだった

しかし、残念なことにこのミュージカルはあまり覚えていない
僅かに覚えていることと言えば、キリストが悩み多い普通の人間風だったということと
最後の方のシーンで舞台と一切関係ない人物が、ジーザス・クライスト・スーパースターのテーマに沿って
キリストの行いを覚めた調子で歌っていたこと  位のもの
大好きな音楽もこのテーマしか頭に残っていなかった

記憶がないだけに初めてのように新鮮な気持ちで見られたが
この物語はパッション(受難)で、バッハのマタイ・ヨハネ受難曲で
あらかたのストーリーを知っているので物語の進行は(歌詞が日本語のせいだけでなく)
すんなり入っていけた
でも音楽はロックでその歌(歌詞)の部分を意味を聞き取りながら聴こうとするのと
バックの音楽の掛け合い等をしっかり聴こうとするのとは、両方うまくできず
どちらをメインに聴こうかと少し迷ってしまった

忘れていたと言っても、やはり少しは思い出すことはあった
ジーザス・クライスト・スーパースターのテーマだけでなく、時々流れる優しいテーマも
耳に馴染んでいて、それが女声で歌われると本当に癒やされるような気がした

場面はマグダラのマリアが高価な香油をかけるシーン
ユダが裏切るシーン(しかし彼は悩んでいる)
ペテロの否認(鶏が鳴く前にキリストなどは知らないと3度否定するという話)
エリ・エリ・レマ・サバクタニ『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』
民衆が十字架につけろと叫ぶシーン
これらは、実際のところバッハの受難曲で知ってたから、ついついそれらと比較してしまったが
ヨーロッパでは受難の劇がイースターには上演されるらしく
(ノイシュヴァンシュタイン城近くのオーバーアマガウでは10年に一度村人総出の劇が上演されるとか)
心底、様々な判断の基本としての精神の持ち方まで影響しているのだろうと思ったりした
このヨーロッパ人に根付いた感覚というのは日本人にとっての忠臣蔵みたいなものかもしれない
(自分は忠臣蔵は好きではないが、みんな知ってるという点で)

音楽ではなく、少し物語の方に話は行くが、結局のところ民衆がキリストに望むものは
魂の救いではなく現世的な利益、病気を直してほしいとか、目が見えるようにしてほしいとか
歩けるようにしてほしいとか、、つまりは奇跡を起こして欲しい
そうすれば信じることができる  といった様相
しかし、キリストは何時までも生きられない、いなくなったら実現されないような解決は
解決ではない、そこで冷たく言い放つ「自分でやれ!」と
この部分はなかなか面白かった
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中の有名な大審問官の場面を連想させる
スペインにフト現れたキリストを大審問官はキリスト本人だと自覚しているが
もう彼(キリスト)の役割を果たすものはない、すでに自分らが現世の幸福を感じさせることを行っている
「人はパンのみにて生きるにあらず」と言ったところで現実の人間というのは
手っ取り早く現在の幸福を望んでしまうものだ、、そして人はあまりにも弱い
この弱さを描いたシーンがペテロの否認だが、バッハのマタイ受難曲でもこの部分は一種のピークで
レシタティーヴォが悲痛な音形で語られた後、瞑想的なヴァイオリン伴奏のアルトのアリアが
歌われるが、このミュージカルでもこのシーンは印象的なのもだった
その他にも裏切った人間的なユダが(多分)地獄に堕ちる(吸い込まれる)時の、
少し寂しげな女声のコーラスは地獄に落ちるとしてもどこか同情してるような思いを人に呼び起こす
もので印象的なものだった

ところで全体を振り返ると、もしかしたら今日一番印象に残ったのは「声」かも知れない
声量と息の長さ
これにはびっくりした、どこかにマイクを付けてるかどうか知らないが
声は有り余るほどの声量だった
そして息の長い事、ひとつキリストが大きな声でずっと音を引き伸ばすシーンがあったが
こちらがハラハラして(心配して)しまいそうなくらい長いシーンだった
そして音程が急に高音に変わって裏声となる箇所も少なからずあって
その音程の変化についていってる(当たり前か)プロの仕事ぶりというのはすごいな、、
そしてコーラスの効果的なこと、、

開演時間は金曜日の2時からということで、この時間に来られるのは劇団四季のターゲットとは思われない(?)
ちょいとお歳を召した方が(自分を含めて)多かった感じ





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「冬の旅」宗次ホール

2018年02月12日 08時39分51秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

森進一ではなく、シューベルトの方の「冬の旅」を名古屋の宗次ホールまで聴きに行った
有名な楽曲だが「冬の旅」はレコードでもめったに聴かない
昔ハンス・ホッターの歌うレコードを聴いてその孤独なモノクロの世界のやりきれなさに落ち込んでしまったからだ
でも、もっと昔の高校の音楽の授業では冒頭の「おやすみ」を歌ったときは気分良く歌っていた
ピアノが表情豊かに伴奏して、イタリア歌曲の声を張り上げる心地よさとは違う種類の快感を感じていた

少し前、急にこの曲を聴く気になって幸いカビの被害がないレコードをかけた
すると、昔聞いたときのような絶望感、やりきれない思いは感じない
むしろなんと表現していいかわからないが、美しさみたいなものを感じるのだった
今なら聴けるという気分になった時知ったのがこの演奏会だ

歌うのは男性ではなく女性(メゾ・ソプラノ)
この歌い手さんの情報は自分には全くない(最近の音楽界の情報はCDを買わないから手に入らない)
歌い手がどうのこうのというより、その時が楽しめればそれで満足、、
という気持ちでどんな演奏会も集中することにしている

高校で習った「おやすみ」が始まる
いきなり、あれっ!と感じる
ピアノの音が何か予想と違うような、、
自分の頭の中ではもう少し軽い音を予想していた、しかし、実際の音は重い

結局のところこの違和感(こうした発見が実演の楽しみなのだが)は最後まで消えることはなかった
「菩提樹」でも、一瞬の明るい感じを見せる「春の夢」でも、また「からす」でも表情豊かな
高い音程のメロディはどこかゴツゴツしていた
自分の希望としてはピアノ伴奏は歌にまとわりつくような、それでいて物理的な音ではなく
自分の頭のなかの楽器がなってるような錯覚を起こしてくれる演奏を期待してた
(この感覚はヴォルフの歌曲をフィッシャー・ディスカウの歌うレコードのバレンボイムのピアノ伴奏で感じる)

最後の辻音楽師(ライエルマン)でももう少し虚無的な印象が残る伴奏はできるのでは
と思ったが、この人(高橋悠治)はこの演奏スタイルなのだろう
今回のピアノは伴奏というより二人がそれぞれ主張してるような気がした
そこで、これは自分だけが感じることか、、と思ったが、この演奏会のポスターを改めて見てみると
「あえて洗練を避けた無骨なピアノ」という文字が書いてある
やっぱりそうなんだ、、錯覚とか思い込みでもなさそうなので少し安心したが
それでも好みとしては、普通のピアノが良かったな、、が本音

歌い手さんの方は特に気になるところはなかった
メゾソプラノでも変じゃない
歌が進むに従って徐々に集中が高まり、熱気を帯びていくのは生ならでは
しかし、今秋はピアノが気になって仕方なかったな

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