パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

モーツァルト・北欧音楽・ベートーヴェン(宗次ホールで連想の旅)

2018年06月10日 14時06分22秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

以前は何も考えずに、ぼーっとしてることが得意だった
特に電車に乗っている場合などは、車窓から流れる景色を見ていると
過去のこと、季節のこと、景色から見える人々の生活や
今取り組むべきことなどが頭に浮かんでは消え、知らぬ間に目的地に着いてしまう
ということは珍しくなかった

東北新幹線で東京から新青森駅まで向かった時、それでも退屈するだろうからと
本を持参したが、結局本は読まずに景色をぼーっと見てるだけで、
それでいて何かしら密度の濃い時間を過ごせたような気がしたものだった

音楽を聞いている時も、最近はそれに触発される徒然なる思いに身を任すことが多くなっている
いや音楽を楽しむ事自体が、そうした思いつきを楽しむためのようなところさえある
まして最近は、レコードやCDの解説書を読むのが面倒になって(字が小さいので)
直接耳から入って頭の中で起きていることこそが大事で、前もっての情報や知識はむしろ余分なもの
とさえ思うことがある(半分以上は面倒だから手抜きしてるのが本当のところだが)

音楽を聞きている時(特にクラシック音楽)耳にしているのは、ある演奏家が解釈し再現した音楽なのだが
勝手に頭の中に浮かぶことは、演奏の質とか他の演奏家との違いと言うより、どちらかと言えば作曲家の思いとかを
想像することが多い

昨日6月9日、宗次ホールにでかけた
この日はモーツァルト・ベートヴェン他の弦楽四重奏曲のプログラムで、メンバーはデンマーク弦楽四重奏団

情報通でないのでこのメンバーがどのくらいの水準かどうかは知らない
そんなことはあまり気にならなかったのは少しばかりプログラムが魅力的だったから

モーツァルトのハイドン・セットの中の一曲と、ベートーヴェンの後期の作品132のイ短調の音楽ほか
ベートーヴェンののは第三楽章がリディア旋法による印象的な宗教的な感じがするし
最終楽章は第9交響曲の4楽章が合唱でないならば使われ可能性があったメロディの曲

最初はモーツァルトで耳慣らし
でもちょっと失敗した
最近名古屋に来ると大名古屋ビルヂングの「ビール博物館」という世界各国のビールが飲める場所に立ち寄って
軽く飲んでしまう
昼の2時からの演奏会ということで、眠くなると心配しつつも昨日も飲んでしまった

最初は確かに聴いていた
聞き慣れた狩りのテーマのような音楽
モーツァルトはさり気なく書いているようでも、よく聞くとちょこっとした変化とか音楽上のアイデアが
幾つも感じられて面白いのだが、確かに最初はそんなふうに聴いていた
同じことは単純に繰り返さないのがモーツァルトだな、、などと
でも気がつくと音楽はいつの間にか第三楽章になっていた(時々確かに聴いているという意識はあったのだが)
この楽章は中間部に短調に傾く部分があって、それがとても切ないのだが、それに浸るということはまったくなくて
ほんの僅かな時間で元のトーンに戻る
この瞬間はモーツァルトらしい、、と思ったりするが、、後は夢の中か現実の中か、、いい気持ち


モーツアルトのあとは「北欧伝統音楽集」から
メンバーの一人が演奏の前に英語で演奏する曲の紹介をする
伝統的な美しいメロディ、ダンス音楽も、、、、
英語は部分部分しか聞き取れない  まずは聴いてみよう

これがなかなか面白かった
冒頭の音楽を聞いて急に頭の中に浮かんだのは、映画の「マクベス」の冒頭の三人の魔女が出てきたシーン
光の乏しい荒涼とした北国、草も緑というより冬の佇まい、、そこで聞こえる音楽は、確かに北欧を感じさせるような、、
すると連想は勝手気ままに羽ばたく、音楽がテンポをあげて様々な変化をしだすと不意に今度は
ショスタコーヴィッチやアルヴォ・ペルトも精神的にはこの様な北欧のメンタリティとか音楽的特徴を持っているのではないかと
そしてそれは何故か間違いのないことのような気がした
(こうした勝手気ままな連想が楽しい)
ということで、思いの外退屈せずに聴き終えられ、次の大曲に向かう準備はできた

ベートーヴェンの作品132番、イ短調のこの作品、実演で聴くのは2回目だ
一回目は義理の兄のおごりだったと思うが「イタリア弦楽四重奏団」の演奏会で
この曲がメインだったにもかかわらず、その前に演奏されたモーツァルトのK136の音楽が素晴らしくて
生き生きとしてしかも屈託なくて、印象はそちらの方しか残らなかった
だが、この曲を聴いたという記憶だけは残っている

後期の作品らしく、中期のような押しつけがましさはそんなに無い
第一楽章は寂寥感を感じさせる短いモティーフ
それに楽器を替えて歌われる美しい第二主題
この楽器間の受け渡し、音色変化が録音媒体ではよくわからないが、目の前で見てると
それだけではなく、メンバー全員の気合も感じ取れて圧倒される
日本的には歳を取ると「枯れる」という感じが評価されそうだが、ベートーヴェンの場合はそんなことはない
あくまでもトータルで構成的、起承転結のような趣は何時まで経っても変わらない
第三楽章のリディア旋法の印象的な音楽は、息も絶え絶え、、みたいな祈り
(ブルックナーのような神の賛美ではなく人としての祈り)
このあたりから(聴く方も)ノッてきたせいで音楽は聴いているのか体験してるのかわからない感じとなってくる
そしてフトこの作品が作曲されたのは約200年前
その作品を若い人たちが演奏して、それを聴いてる自分たちがそれなりに感動してるということは
一体どういうことなんだろうと考えてしまった
偉大な芸術は時を超える、、とかそういう定番の答えではなく、なんで人の心に訴えるんだろう、、と
答えのないような、どうでもいいような、、思いが頭の中を駆け巡る
そしてその連想に浸ること自体の充実感、、

ということで、昨日の勝手な連想の旅に出かけるのは上手くいった
だが帰りの電車の中はスマホでSNSをチェックで時間つぶし、
もっと余韻に浸るべきだった、、と今にして思ったりする
(もったいなかったかな)



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