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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

ベルリン・フィル、ブルックナー8番、メータ

2019年11月14日 08時57分47秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

数日前のウィーンフィルと全く同じ曲のコンサート(版は違うが)が
昨日、名古屋の芸術劇場コンサートホールで行われた
前回の関心の度合いは、ブルックナー8番、ウィーンフィル、ティーレマンの順番だったが
今回は順序が少し入れ替わってベルリン・フィル、ブルックナー8番、メータの順
今まで一度もナマで聴いたことのないベルリン・フィルの音色への関心が一番だ

肉体的、精神的コンディションを整えて全身で味わう準備をした
なにしろブルックナーの8番は聴く方も相当のエネルギーを消費する
全楽章で1時間半くらいだが、普通の前半後半に分かれたコンサート並みの総量を感じる
(ただし、不思議なのは長く感じないという点)

聴き終わったあとの印象、その思いつくままにあげていくと
この世界最高のオーケストラの凄まじさにぶったまげた
その合奏能力の凄さ、全体がフルで音を出しても濁らずにすべての音が
聞こえるような、それこそ職人たちの集合体の為せる技で
これだけの大勢の人が合わせるということの、そのレベルの高さには
ただただ圧倒された

音色は明らかにウィーンフィルとは違う
冒頭からそれは感じられた
コントラバス、ティンパニは主導するような重心の低い音色
全体でのフォルテもウィーンフィルのような輝かしさはない
しかし内在するエネルギー感は密度の濃さを感じさせる

音色はウィーンフィルが時に自然をイメージさせるような響きの部分があるのに対し
ベルリン・フィルは音の構造物を感じさせる
ブルックナーの音楽の建築的な部分が際立っているような気がした

この2つのオーケストラの違いは、
ウィーンフィルが歌劇場でオペラを経験しているメンバーで構成されているのに対し
ベルリン・フィルは純音楽を演奏することが多いことから来ているような気がする
オペラの登場人物の気持ちにスッと感情移入して効果的に演奏する
感情がたかまった時には自身もその渦の中に入ることをいとわない音楽家たち
登場人物はいい人間ばかりではなく、人間的な弱さを持っているがそれでも
なにか共感する懐の深さ(あるいはいい加減さ)を持つオーケストラの人々の集まりがウィーンフィル

一方ベルリン・フィルは北ドイツの風景を連想させる真面目なイメージ
ドイツは北と南では建築物の印象もだいぶ異なり、ブレーメンやリューベック、ベルリンは
明らかにミュンヘン(やウィーン)の醸し出す雰囲気とは違う
この真面目さが、重心の低い音を好み、音楽を音の構造物として捉えようとする傾向が
あるような気がした

人間の行うことは、同じことをしてもずいぶん違うものだと再確認したわけだが
どちらが良いか?は甲乙つけがたい
多分平均点ではベルリン・フィルのほうだろうが、ノッた時のウィーンフィルの
演奏も捨てがたそうな気がする

ベルリン・フィルは名人・職人が多くて強奏でも音がぶつからないが
各人はそれでもまだ余裕があるような気がしている
不意に、これがフルトヴェングラーの指揮だったらこの名人たちの奏者すら
余裕が無いほど演奏に夢中にさせたのではないか、、と頭に浮かんだ
フルトヴェングラーの指揮は聴いてる方も楽しめるが演奏してる方もスリルがあって
楽しんでいるのではないか、、と思ってしまう

話はフルトヴェングラーにそれてしまったが、とにかくベルリン・フィルは
凄いオーケストラということはわかった

メータでブルックナーの8番を聴くのは二度目だが
指揮台まで歩いていくメータは歩き方が少しヨボヨボして
かれがそれなりの年齢に達していることを実感させた

音楽はティーレマンがやったように静寂と緊張感を待って指揮を始めたのではなく
割と無頓着に始めた
そのためにその後の音楽への集中が心配されたがベルリン・フィルの音色で
それらの不安は気にならなくなった

メータは年齢がいっているし、この曲も既に数多く演奏している
その手の内に入っている感じが細かなニュアンスの変化として
ティーレマンの演奏よりは気づくところが多かった

いつもこの曲の一番の楽しみは第三楽章
徐々に瞑想的な世界になっていき、内的な時間経過は時間の存在すら
忘れるようなときがある
ここで気になるのが版の問題
それほど違いに詳しいわけではないが、聴きたい部分はどうしても気になる
ティーレマンはハース版、メータはノヴァーク版だったが
ティーレマンの方はクライマックスに向かうが急に弱音の挿入句があって
一気に輝かしい頂点には向かわない
ところがメータはの版は一気に頂点を目指す
最初レコード等で聴いてたのは一気に向かう方だったが
どちらが好みかといえば最近はモタモタしたところのあるところが
却ってブルックナーらしくて、挿入句のある方が好きとなっている

11月の主な行事(?)もあとは22日の京都太秦の聖徳太子像の見学と
あと一つ、同級生絡みのライブを残すだけ
しかし、今月はしっかり家計簿は赤字、、
赤字になることがわかると、やけくそ消費で赤字は増える
次は節約しなくては、、




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ブルックナー交響曲8番、ウィーンフィル、ティーレマン

2019年11月08日 08時26分37秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昨日の幸せだった時間(ウィーンフィルのコンサート)のこと

ブルックナー交響曲8番、ウィーンフィル、ティーレマン
この順番は適当にあげたものではなく、チケット購入に背中を押した力の順

ブルックナーの8番の交響曲は大好きな曲で、これがあるところならどこにでも
誰のでも出かけていきたい気持ちを持っている

ウィーンフィルはその音色を確認したかったため
昔聴いたヴァントと北ドイツ放送交響楽団のブルックナー8番の音色が
ふわっとして柔らかくブレンドされてとても気持ちよかったので、
その記憶の中にある音色と比較したかったため

ティーレマンは巷で評判の指揮者なのだが、彼の録音したものは持っていないので
お試しに聴いてみようとした好奇心から

大好きな曲だけに、新鮮に感じるために断酒ならぬ断聴してこの日を迎えた
ただ聴くだけでも大いに楽しむために精神的なコンディションづくりにも気を使った
座席に座って心の準備が充分でないままに始まってしまうのはもったいない
でもワクワクしながら待っていた自分の前を、時間ギリギリに来て終わったらさっさと帰った人がいた
自分はなんともったいない時間の過ごし方、、と思ってしまった

聴くという行為は、精神を集中して一音も聴き逃さず、音の表現するものを体験・考えると満足感を得やすい
今回もその態度で臨もうとしたが、果たして精神を集中して聴いていたのか
それとも川のせせらぎ、鳥の声、風の音を聞いてるときのような自然に身を任せているように聴いていたのか
ちょっとわからない
これブルックナーの音楽がそのようにさせるようで、ベートーヴェンの音楽を聴いているときとは明らかに違う

始まりと最後に腕時計を見ると、演奏時間は約1時間半だった
集中していたせいか、あるいは身を任せていたせいか、この時間は少しも長く感じなかった
むしろ短いような気さえした

聴き終わると印象は全体的なものと、その時その時の部分的な記憶に分かれる
部分部分は演奏のことであったり、曲自体のことであったり、連想の赴くままだ

ウィーンフィルの音は輝きに満ちた音だ
これは、確かに何かが違う
そしてそこで思ったことは、ブルックナーのはこの音を普段聞いて出来上がりをイメージして
作曲したのだろうということ
彼の理想の音はこのようなものだったのかもしれないということ
(ただ別の音色による表現も捨てがたい)
この音色からブルックナーが生活し、彼が普段目にしたウィーンの風景を感じられるような気がした
それと同時にこの輝かしい音は、神を讃えるために作曲したものだとの思いを強くした

結局のところ、ブルックナーは全肯定的な音楽を作りたかった
そのように思えてならない
この云いたいことがいっぱい詰まった音楽は、それ故に万人に理解されないかもしれない
でも、それでもこのように作らざるを得ない彼の表現意欲、そしてその形式は
少しばかり時代を超えているように思える

聴き終わた全体的な印象は、どうしても比較の上でのこととなる
今まで実演で聴いたこの曲は、メータとイスラエル・フィル、ヴァントと北ドイツ放送交響楽団、
朝比奈隆と大阪フィルだが、多分みんな今のティーレマンより歳が上だ
昨晩のティーレマンの音楽は、昔風でなく今風の音楽というよりは若い人が現在感じ取っている音楽
というような気がした(しかしティーレマンは現在60歳と知って驚いたが)

部分部分は差がなくても、聴き終わったあとで何年も残っているのは
年齢がいってるヴァントと朝比奈さん
それを思うと、ティーレマンがもう少し年令を重ねたら、どんな音楽に変わるかも
確認してみたいような気がする

音楽は音がなり始めるところからではない
ティーレマンが指揮台に立って音楽が始まるまでには計測不可能のような静寂があった
いつ始まるのかと緊張と不安が会場に漂う
息を潜め、みんなの耳が始まりを期待しピンと空気が張り詰めたその中から音楽が始まる
この効果はとても素晴らしい

これは音楽の最後でも同じことで
音が消えたらおしまいではなく
音楽は余韻という心の中でなっている音楽が終わったときが終わりなのだ

残念なことに懸念されたフライングブラボー(拍手)が二三人あったが
これをした人は冷や汗をかいたに違いない(非難の視線、空気を感じて)

コンサートが終わって半日になる
これからは記憶が整理されて、今感じていることと違うことが後々まで
残ることになるだろう

ところで、13日にはベルリン・フィルで同じ曲のコンサートがある
これを聴いたあとは自分はどんな記憶が刻まれるのだろう
これも楽しみ(聴くためのコンディションづくりは次回も頑張るぞ)



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映画「イエスタデイ」を見に行った

2019年10月14日 08時08分37秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

テレビで千曲川の氾濫や秋山川のそれを見て、被災した方々のこれからを思うと
少し落ち込みそうな気持ちになる
だからお気楽な投稿などは控えたほうが良いのか、、と思ってしまう
この感覚は多分多くの人がごく自然に感じること
確かにラグビーのワールドカップで初のベストエイトに勝ち進んだのは喜ばしいことだが
それを無邪気に間髪おかず、定番の心のない文章の投稿をする我が国のお偉いさんには
違和感よりも怒りを覚える人が少なくないのは理解できる

でも自分でも気になっているのは、台風以外のことがあるのも事実で
人は自分と関係ないところでは冷たい態度を取りうるものだ、、とも実感する

その関係ない話とは、、

ビートルズの音楽は好きだが実は「イエスタデイ」も「ロング・アンド・ワインディング・ロード」も
それほど好きな曲ではなかった
ところが昨日見た映画「イエスタデイ」で主人公の人物によるカバー(映画では初めて披露する曲)を
聴いたときは思わずうるっとなりそうになった

美しい、いい曲だ、純度が高い、、、
まず頭に浮かんだのはこの感覚
特に「純度が高い」は我ながら本質をついた表現ではないか、、と思ったりする
映画の半ばの作曲能力を競うシーンで主人公と争った人物が
彼(ビートルズの音楽)はモーツァルトで自分のはサリエリのそれだ、、と愚痴るところは
その適切な比較には大いに納得する

「ボヘミアン・ラプソディ」「ロケット・マン」ので伝記的要素の映画とは違って「イエスタデイ」は
今流行りの「パラレルワールド」の世界のこと
世界中が突然の停電に陥って、それをきっかけに「ビートルズが存在しなかった世界」に入り込むというもの
ご都合主義の内容だが、各種矛盾点をあれこれ取り上げるのは野暮なこと
まずは楽しんだもの勝ちと開き直った方がいい

この映画はビートルズが好きな連中ならいろいろ連想できるシーンが沢山ある(ルーフトップのライブなど)
先程の停電が起きて別世界に突入する時の画面に流れる音楽(音響)は、サージェント・ペパーズの
あの最後の重厚な音響で、それだけで何事か起こるのは想像できる

主人公が住む事になった世界はビートルズだけでなく、オアシス、コカ・コーラ(カム・トゥゲザーの歌詞に合わせて?)
タバコ、そしてハリーポッターの存在しない世界だ
これらのちょっとした欠けてる部分はイギリス風の余裕のあるジョークでサラッと表現される

この映画はクイーンやエルトン・ジョンのそれとは違って、シリアスな伝記的な要素はなく
また自作ではなく単に慣れ親しんだ曲をカバーしているだけにたいする主人公の葛藤が描かれているわけでもない
だから深さという点では物足りないかもしれない
しかし見終わったあとの感じは、あの二作よりもほのぼのとしたものを感じることができた

この映画は悪人が出てこない
唯一悪人らしき人物は女性のやり手のプロモーターくらいなもので、彼女はデフォルメされているので
非現実的で最初から、おちょくられている存在としてしか見られない

主人公と幼馴染の女性との関係は、まるでアニメの設定にもありそうなもので
両人のダメさ加減が普通の人っぽくてつい感情移入をしてしまう

でもこの映画の一番はやはりビートルズの音楽だろう
彼らの音楽は純度が高い
これに尽きる気がする

ビートルズの音楽が無かったら、、、と設定したのは、
実はこのようなパラレルワールドを面白おかしく描くためというよりは、
現在の世界が「ビートルズは知らない」という人々が多くなっていることへの皮肉ではないのか
と思ったりする

ショービジネスの世界と音楽的な完成度・純度の関係
できることなら、その両方がバランスよく成立していれば良いのだが
特に我が国のそれは、とても不安を覚える

 

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Metライブビューイング「ラインの黄金」

2019年09月01日 08時51分12秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

体調が悪いというのではなかった
期待していなかったこともない
でも感動しなかったMetライブビューイングの「ラインの黄金」
(ミッドランドシネマ8月31日上映)

8月18日の愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」の熱い余韻が残るうちに
おさらいの意味も込めて、電車賃を使って名古屋まででかけたのに、、

「ラインの黄金」は地味な作品だが、その後多用されるライトモチーフが初登場で
その場面を覚えておくと物語の理解が進むので、思いのほか面白い
少なくとも前の2回はそう感じていた(新国立歌劇場と愛知祝祭管弦楽団の生)

ところが昨日は悲しいくらいに心が震えなかった
それが何故だったのか、、を考えることがまさかブログテーマになるとは、、

まずはヴァーグナー独特のまとわりつくような、色彩的であり迫力のある音が
どうも感じられなかった
音量はそれなりなのだが、迫ってこない
これはデジタル録音のせいなのか、それともレヴァインの指揮のせいなのか
いぜれにせよ会場を包む空気感とか音圧というものが、過去2回の生とはだいぶ異なった

そう言えば、自分はCD音源で感動したことが無いかもしれない
夢中になって聴いたのはレコード音源のほうで、便利この上ないCDはどうも何かが足りない
映画で使われるのは上と下の領域の音がカットされているのだろうか
その詳しいことはわからないが、映画から流れる音楽は、音楽が主人公というよりは
「映画音楽」だった

ライトモチーフはもっと雄弁に、思わせぶりになってほしかったが
目立つモチーフだけがメリハリよろしく鳴っているだけで
これはレヴァインの好む音楽なのだろうか

もしかしたら画面に頻繁に登場する顔のアップがいけなかったのかもしれない
歌いながら顔の表情で心理描写しているのは凄いものだ、、汗もかいて、、
と思ったものの、その絵は本当に必要なのだろうか、、と疑問を感じた
この映画は音楽ドラマの流れが中心なのではなくて、出演者のパフォーマンスが
中心となって、音楽は背景でしか無いような、、そんな気がしてならなかった

登場人物のアルベリヒとローゲは、もう少し音色で性格を現してほしい部分があった
その歌い手さんの名前や実績は知らないが、世界の檜舞台の出るくらいだから実力者なんだろうけど

「ラインの黄金」は人間が出てこない
小人、神々、巨人、、しか登場しない
だが、この人間が登場しない設定こそが様々な解釈ができそうで面白いのかもしれない
指環の由来、指環にかけられた呪い、、それらは「ラインの黄金」を見てこそ理解できる
やはり4部作は全部見て理解可能なんでろう

昨日のラインの黄金で、続く物語は行かないことに決めた
来年の3月にはびわ湖ホールで「神々の黄昏」があるので、そちらの方は行く気満々だが

結局、生には勝てないということなんだろうか
でもレコード音源の音楽には時を忘れるほど感動することはあった
ただ、それも若い時ゆえのものだったのだろうか

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「ロケットマン」を見て

2019年08月30日 08時18分41秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

仮に大きな成功や偉大な作品を創造するためには、人知れぬ辛い経験や
どこまで経っても満たされぬ思いをしなければならないとしたら
自分はそうした誇らしい業績などよりは、何もなさないとしても
平和で満たされた生活を送ってるほうが良いかのしれない
そんなことをつい思いつく映画だったのは「ロケットマン」

エルトン・ジョンの半生をミュージカル仕立てにした映画だ
一年前の「ボヘミアン・ラプソディ」のフレディ・マーキュリーのような格好良さは
期待できない体型と容貌のためか、自分の他に観客は10名ほどだった

エルトン・ジョンは嫌いではなかった
クロコダイル・ロックで知ってから、「Border Song」「Sixty Years on」「First Episode at Hienton」
が収録されたアルバムを購入し、その繊細な感覚が好きだった

でも途中から聴かなくなった
アルバムジャケットがへんてこなメガネと賑やかな色彩のファッションに身を包んだころから
音は厚みが増えてきたにもかかわらず、訴えるものが無くなってきているようで
音楽よりはビジュアル面は先行したショービジネスのやり方にも違和感を感じて
聞かない、アルバムを買わないという形で抵抗をした

その聴かなくなった頃の出来事が映画の中心だった
彼の満たされぬ思い
ただ父親から当たり前のように褒めてもらいたかったり、抱きしめてほしかっただけなのに、それがされなかった
その傷を引きずりながら、ホモセクシュアルの世界に浸ってしまう
そのことへの嫌悪やらバレることへの恐怖からアルコールや薬に依存するようになり
徐々にそれらがないと作品制作やライブパフォーマンスをできなくなるのではと思うようになる

周りの人間は彼を金を生む機械として扱った
有名になると、あの冷たい父親でさえ一見優しく迎えた
父親は再婚して別の女性との間に子どもを作り、その子どもを当たり前のように抱っこした
そんなことが、ただしてほしかったのに、、別れる車の中でエルトンの流す涙、、

エルトン・ジョンの楽曲の中では初期の叙情的な歌が好きだ
それは作詞家のバニー・トーピンの影響が大きいと思われる
有名な「Your song」よりも「First Episode at Hienton」が何度も聴いた曲で
この曲は日本人の作品なら井上陽水の「いつの間にか少女は」の世界に近い
少女が女に変わっていく、、その切なさを、バニー・トーピンの叙情的な詞と
エルトン・ジョンの声とシンセサイザーが効果的だ
この曲をカバーしてYoutubeにアップしている人が多いが、その気持はよく分かる

この映画の中で無条件にエルトンを受け入れたのは祖母とバニー・トーピンだったかもしれない
だがちょっとしたいざこざでバニー・トーピンともしばらく離れることになる

エルトン・ジョンの歌を再び聴き出したのは、多分バニー・トーピンとの共同作業が復活した頃
「アイス・オン・ファイア」のアルバムは、以前の彼が戻ってきたという感じで
「メイド・イン・イングランド」もその方向性を進化させたようで、今でも時々引っ張り出して聴く

人生にはいろんなことがある
エルトン・ジョンはこのように乗り越えた(まだ終わっていないが)というこの映画
キリスト教的には「放蕩息子」のエピソードに繋がるかもしれない

冒頭で、つらい経験をしないで穏やかな生活をしていられれば、その方が幸せとしたが
現実的には人は生きているうちには必ずといっていいほど試練の時を迎えることになる
それを考えると、本当に必要なのは穏やかな環境ではなく
試練を乗り越える力なのかもしれないと考え直したりする
もっとも、その乗り越える力の源泉となるのは、幼いときたっぷりの愛情を受けた記憶なのだろうが

最近は音楽関係の映画がブームなのだろうか、予告編に「イエスタデイ」があった
ビートルズが存在しない世界に、ビートルズを知っている人間が迷い込んで起きるドタバタを描いた作品のようだ
予告編にはその他にも「CATS」もあった
これらは楽しみにしていくことにしよう
今年は「映画の秋」となるのかも

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愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」

2019年08月19日 08時25分38秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「時間あたり、ざっと1000円だね」
そんな声が近くで聞こえた
チケット代金が4000円で、演奏時間が下の画像のようだから
だいたいそのくらいの計算になる

昨日は名古屋の芸術劇場コンサートホールで行われた愛知祝祭管弦楽団の「神々の黄昏」
コンサート形式の演奏会
上演に4日もかかる長い長いヴァーグナーのニーベルングの指環の最後の楽劇だ
演奏する愛知祝祭管弦楽団は素人の集まりで、作品は長いし編成も大きいので
じっくり時間かけて年に一つづつ上演してきた
途中、芸術劇場のコンサートホールが修理期間にあたったので「ジークフリート」は
音がデッドな御園座で行われた

4年前のたまたま見た「ラインの黄金」が良かった
コストパフォーマンスが良かったけでなく、演奏もプロにはない熱気があったし
何よりもめったに聞けない音楽を(全曲を)聴けることがありがたかった
タンホイザーやパルジファルは聞けても指環は縁がないモノと思っていたが
本当にいいきっかけとなった

さて昨日の「神々の黄昏」
長いのは承知してた
話がスイスイと進まず過去を説明するダラダラと長い会話があったり、
男と女の言い争いも少しばかりくどくて、うんざりするところもあったが、
音楽に合わせての証明が光の色、その明るさの強弱がとてもその時の雰囲気を表して
それはもう一つのライトモチーフのようだった

昨日の演奏で強く印象に残ったのがブリュンヒルデを歌った人(基村昌代さん)
声が出るだけでなく、性格描写とはそういうことを言うのだろうか、、、と感じさせるような
歌い手と登場人物との一体化されたようで、ブリュンヒルデの怒りや悔しさ、喜び等が
聴いている方に感情移入ができて、最後の自己犠牲のところは圧倒的な必然性をもって聴くことができた
(シークフリートとヴォータンに対するものと)

この歌とか声による性格描写で、不意に思い出したのが劇団四季の「エビータ」のヒロインのこと
「アルゼンチンよ泣かないで」はしっとり歌い上げる曲だが、エビータ自身は上昇志向の強い
いわば気のつようそうな女性、その気の強そうなところは劇団四季のきれいな歌声(声の質)では
感じられなかった、、エビータはもう少し癖のある人のほうがリアリティがあったかな
などとぼんやりと頭に浮かんだ

音楽を聴くということは演奏の比較をしているのか、
それとも作曲家の意図したものを探そうとしているのかと考えることがあるが
何回も聴く曲は自ずと演奏の比較ができるが、めったに聞けない曲はどうしても関心は
作曲家の意図とか考えたことの方に興味が湧く

ヴァーグナーのライトモチーフによる音楽
昨日はその音楽が、まるで「映画音楽」のように思われた
音楽が過度に表に出るのではなく、物語の進行に対して効果的な説明をするような、、、そんな感じだった
会場で手渡されたパンフレットの指揮者の文章の中にも、それを意図していると言うような表現があったが
多いに納得した次第

それにしても、驚くのはヴァーグナーの馬力
全部を上演するのは4日間かかる
それだけでなく彼は中断をはさみ指環の作曲に20年近く時間をかけてきている
それだけで呆れるが、20年かけても統一感のあるようにした仕掛けに驚く

ニーベルングの指環は「ラインの黄金」から始まるが、指環の物語のそもそものきっかけが
アルベリヒがラインの乙女にからかわれ、その仕返しにラインに沈む黄金を持ち去って
指環を作ったことからスタートする
この指輪は愛を断念した者が持つと世界を支配する力を持つとされる
この大事な指環をアルベリヒはヴォータンの策略により失うが、そのときに指環を持ったものは
死に迎えるとの呪いをかける

この最初に登場したアルベリヒが最後の最後になってまた登場する
アルベリヒ本人も登場するが、より重要な人物はアルベリヒの息子としてのハーゲン
結局彼が長い間の仕返しをすることになる
つまりジークフリート(ヴァータンの孫)の殺害というかたちで

ニーベルングの指環は長い
とても長い
長い作品は小説でもそうだが、最後に独自の達成感とかカタルシスがある
神々の黄昏でも今まで聴いてきたライトモチーフがいろいろ散りばめられて
過去を振り返ると同時に、きっかけとなったラインの乙女のライトモチーフも現れる
そして、最後に、、、これで長いお話は、、、おしまい、、と余韻のある終わり方をする

この終わり方、とてもいいのだけれど、より効果的に感じるのは4つの物語を
時間を開けず短い期間で聴くことだろう
ニーベルングの指環の世界にどっぷりと浸って、記憶が自分の内部に蓄積され
それが忘れられない状況で最後を迎える
それが一番の聴き方なんだろうと思う

ところで、先日の中日新聞の広告にMetライブビューイングアンコール上映の広告が載っていた
なんと「ニーベルングの指環」が連続4日間で上映されるようだ
一気に聴いたほうが、、と思いつつ、その馬力は今はないかな、、ということで
ただいま検討中




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「東京裁判」を見て

2019年08月13日 06時07分39秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

パンフレットを購入するなどということは珍しいことだった
いつもなら見向きもしない
でも今回はいろいろ確かめたいことがあって1000円の出費を決心した(大げさな)

名古屋シネマテークで上映された「東京裁判」
上映時間は4時間を超え、途中で休憩タイムが挟まれる
30分ほど前に会場に着いてチケット購入
良い席を確保しようと思ったら、何のことはない席はだいぶ詰まっている
良い席どころじゃない、、とりあえず座るところを確保しなきゃ、、と最後部の席で我慢することに

映画は古い画像を4Kデジタル・リマスターを施したもので、想像以上に見やすいものだった
名前はよく知られている「東京裁判」
だが、その中身はよく知らない(自分は)
不公平なものだったとの一部の人の意見もあるが、とりあえず映画の流れに身を任せる

西欧の裁判の形式が当時の日本には珍しかったようで、しかも裁判官は外国人、被告は日本人で
言葉のやり取りでなかなかうまく進まない
(同時通訳の機械も数回経てから導入されたとか、また通訳への不満もあったようだ)
ここで興味深かったのは被告には弁護士がつくが、この弁護士がアメリカ人で
敵国として戦った相手に対して、法の精神に則り、心底被告の立場で議論を挑んだことで
「公平であること」とはどういうものか、、と考えさせられた

裁判は平和に対する犯罪、戦争に対する犯罪、人道に対する犯罪、
いわゆるA、B、C戦犯に対する事実確認からスタートする
(戦争に対する犯罪の戦争の法規または慣例の違反などという概念自体が当時の日本人の間にあったかどうか
  と映画にはコメントが入った  多分、何も知らなかった素人集団が大半であったと想像される)
A級の平和に対する犯罪は新しい概念で、その概念を用いて過去を裁くというのはいかがなものか
そもそも戦勝国が敗戦国を裁くことが公平であり得るのか、、との疑問があげられたが、裁判長は取りあげず
裁判は進められた
平和に対する犯罪とは戦争を起こしたこと、計画したこと、止めなかったことに該当して
この一つ一つを丁寧に(戦争への過程を)事実確認をしていく
満州への進出(それは植民地政策ではなかったか)とそこで起きた(起こした)事件
戦争に至るまでの会議の記録(御前会議とか)
宣誓布告なしでの真珠湾攻撃が奇襲作戦だったのか否か、、
そして天皇の戦争責任は、、、

これらは現代史を何故かよく学ぼうとしないこの国の教育方針(?)で
よくわからないことが多いが、折につけ読んだ各種の本で、だいたいのことはわかる
そして先日のNHKスペシャル「御前会議」を見たばかりなので
戦争に至るまでの経過とか裁判で扱われている内容がわかる
天皇に結果責任として戦争責任があるか、統帥権があるというものの結果的に認可するだけの天皇に責任はあるのか
そのあたりは国民としても難しい判断かもしれない
この難しい判断は、裁判の主役となる裁判長や検事の間でも分かれていたようで
太平洋戦争後の複雑な世界(共産主義国家ソ連・中国の台頭)を前にして、日本の国民感情を踏まえた現実的な統治とか
その後の彼の国等への対応を考えれば、責任は負わせない方向に進めたがっていた方向に舵は取られたようだ

裁判は公平なものと認識されそうだが、現実はその時の社会情勢に大きく左右される
自由主義諸国対共産主義諸国、核兵器保有国の存在、エネルギーの問題
これらは通奏低音のように裁判の判断に影響していく
人間社会で起きていることは、純粋な条件下での科学の実験とか思考に沿わないものだ

この映画の冒頭、被告人に対し罪状認否が行われたが、被告人全員が「自分は無実である」と宣言した
彼らの立場に立てば、そうだろうな、、と思いつつも、それならばあの戦争は誰の責任だったのかと少し怒りを覚えた
よく日本は「誰も責任をとらない国」と言われる、最終決定をしたのが誰なのか曖昧なシステムになっているせいで
裁判などの因果関係を基に考えていく硬直しているシステムでは、日本人のメンタル(傾向)に追いついていか無いのではいか
不意にそんな気がした

映画の最初の部分で、戦争に対する概念の対立、法的には戦争は禁止されていない、、、などという下りは呆れてしまったが
それらは法の専門家が頭でっかちになって言い出している概念で、実定法ではそのようなものかもしれないが
生き延びる方法を頭で考えるサピエンスとしての存在の人類が選択する自然法的な考えとは相容れない
精緻に定義しているものよりは、なんとなく違っている、、と感じているものを大事にする世界が必要と個人的には思う
そのための判断基準を磨くために美とか芸術がある(世界のエリートは何故「美」意識を鍛えるのか、という本があった)

この映画には「南京事件」の映像も出てくる
犠牲者の人数の違いはあるようだが、そこで行われた残虐なことは間違いが無いようだ
(これは「南京事件を調査せよ」清水潔の調査報道でも明らかにされている)
あの時代はみんなが狂っていた
そして、その狂っていることを狂っていると言えなかった時代
それは「空気」となって支配する

話はいきなり飛ぶが、名古屋までの電車のなかで読んでいた本「従順という心の病」 のなかに
ある支配されている世界の中で、攻撃的な思想は賛同して更に先鋭化するグループがあり
次になにも感じず見て見ぬふりをする多くの人がいて、3%の人たちは反対の意見を表すとあった
これを今の日本に置き換えると、利権がらみで得する人たちや、
自分の不安な存在根拠を確かめるために弱い者、他の民族の人を過度に貶める人たちの存在、、と、
それを見て見ぬふりをする多くの人たち
そしてSNSでそれらの行動を批判する人たちの存在を直ぐ様思いうかべることができる

1%の裕福な人が大半の富と、最終的には政治の方向性を決めている現在
でも同様に3%の人たちが、なにか変だぞとか、おかしいぞと声を上げるのも現在
その真中にいる人達がどちらにシンパシーを感じるか
それが問題となっていくが、その判断材料としての「過去の歴史」の把握は必要と思われる

ただ現実の歴史を探っていくと、欧米諸国のえげつなさも目につく
歴史は単純な出来事によって一直線に進むのではなく、「応仁の乱」にあったように
いくつもの要素が複雑に絡み合って解けない状態になってしまうものだと実感

ところでこの「東京裁判」は昨日の名古屋の劇場は多かったが、どのようなタイプの人が見に来ているか
ところどころ耳にはいる会話では「主戦場」の言葉が聞かれた
タイプとしては「主戦場」を見たいと思う人が「東京裁判」も見たいと思うようだが
願わくば「主戦場」の主張と反対の立場の人、いわゆる歴史修正主義者とかネトウヨと言われる人も
我慢して4時間の苦行にトライしてほしいものだと思う

東京裁判は戦勝国が敗戦国を裁く不公平なものだったと言われる
でも「敗戦」という事実は、具体的にはこういうものだ(こういう事態を招く)ということ
加藤陽子氏の「戦争まで」だったかには、敗戦ということは「憲法を変えられてしまうこと」とあった(ように思う)

ところでせっかく1000円出して手に入れたパンフレットだから、しっかり読まねばもったいない
興味ある人物は「重光葵」
なにか関連本でどういう人物であったか、調べてみよう



 

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アンコール上映の「主戦場」を見に行った

2019年07月07日 20時10分07秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

名古屋に行くのは土日がいい
最寄りのJRの駅から名古屋往復はウィークデイは1960円、土日は1640円で
電車賃が320円も違う
最近はこの手の細かいことに気がつくようになって、ヨーグルトなどは
売出しの安い時しか買わなくなっている

今日名古屋にでかけたのは映画「主戦場」を見るためだ
慰安婦問題を真正面から取り上げたドキュメンタリーで
昨日からアンコール上映が始まっている
日本の慰安婦問題を取り上げているが殆どが字幕入りの英語だ
しかもそのテンポは速い

先日見た「新聞記者」と観客層は被るかもしれないが、今日のほうが年齢層はバラバラで
比較的若い人もいた(今日は日曜で、新聞記者のときは平日の昼の時間だから仕方ないか)

ドキュメンタリー映画は退屈になることが多いが、この映画は退屈することはなかった
とても見通しの良く論点が整理された、まるで補助金申請のプレゼンのような(上手な論文のような)
まとまりの良さだった

慰安婦問題については、映画の中にあるように日本人は(自分も)あまり詳しく知らないことが多い
その理由がある時期の政府の方針から来ているのはわかったが、どちらの立場に立つにせよ
どうも感情的な対立ばかりが目立って、お互いが冷静な対話ができていないのが現状だ

ただ通して見ると(それが狙いだったのかもしれないが)歴史修正主義者、慰安婦問題などなかった
と口にする人たち(杉田水脈・櫻井よしこ・ケント・ギルバート、、、)は自分たちに都合の良い情報は
独自解釈で大声を上げるが、相手側の言い分には耳を貸さない、、読もうともしない、、傾向がみられた
そして、あの状況に置かれたひとがフラッシュバックのように踊ってくる屈辱感や嫌悪感に対する想像力・共感力が
全くと言っていいほど感じられなかった
奴隷という言葉一つをとっても、足に鎖をつけられて自由がないのが彼らは奴隷としているが、現実的には
自分の判断で自由に何かをできない状態は奴隷状態と言える

この映画を見て内容とは少し別なことに不安を覚えた
それはこの骨格のしっかりした作品は日系アメリカ人が作り上げたもので
ここまで精緻な作品を今の日本人が作り上げることができるのだろうかということ
社会的・政治的な空気とか情に訴えがちな日本的演出が直ぐに頭に浮かんで
日本人の感性ではできないのではないのか、、、そのような気がしてならない

一気にいろんな情報を目にしたので頭の中が整理されるのにはもう少し時間がかかるかもしれない
でも、この映画は最近見たなかでは出色のものと言える
不意に以前読んだ「天皇機関説事件」を思い出したが
現在がいつのまにか戦前になってしまわないようにと願わずにはいられない
(今はそんなふうに感じさせる空気を感じてしまうのだ)





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豊橋交響楽団定期演奏会 〜豊響 マーラーに挑む〜

2019年06月02日 18時14分38秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

ゆっくり出かける予定だったが、なんとなく気が急いて早く会場に着いた
豊橋交響楽団の定期演奏会

パンフレットにあるように今回はマーラーに挑戦
プログラムは

なかなか意欲的だし、いわゆる名曲も入ってサービス精神に富んだものだ
これを1500円で楽しめるというのだから、節約家(ケチ)にはとてもありがたい
入場時にもらったパンフレットには8月にまた魅力的なプログラムのコンサート(ショスタコーヴィチの5番など)が
これまた破格の価格であるようで、これも見逃す手はない

敢えて予習していかなかったコンサート
音楽を聴いていて部分部分でいろんな連想が浮かぶが、それこそが音楽を聴く楽しみかもしれない
ということで、気がついたことなど思いつくままに

音色はチューニングの時点でおおよそ想像がついたし、その想像を越えるものではなかった
チューニングの音で今でも覚えているのはパリ管弦楽団だ
これは今具体的にどう違ったのかは説明できないが、なにか違う、、とその時強く感じたことだけは覚えている

今日の感想はメインのマーラーの一番で
冒頭、みんなが聞き耳を立てている中、管楽器は音程が安定しにくいので奏者の緊張感は如何ばかりだったろう
のってくると勢いでなんとかなるだろうが、大変だな、、とちょいと可哀想に思えた

数ヶ月前にこの一番「巨人」は名古屋で京都市交響楽団で聴いているので多少耳が慣れて
前回よりは細かい部分まで聴き込めたかもしれない
(音色は京都のほうがだいぶ上級な感じ)

第一楽章に「さすらう若人の歌」の第二曲のメロディが出てくる
不意にフルトヴェングラーの指揮したフィッシャー・ディスカウの歌う演奏を思い出した
フルトヴェングラーとマーラーは意外な組み合わせだが、この曲は以後の曲のような急激な気分の変化はなく
青春の一時期の音楽として、処女作の初々しさもあって、フルトヴェングラーの深々としたオーケストラの伴奏が絶妙で
何度も聴くのがもったいないような演奏だ
「巨人」の復習はしなくても、「さすらう若人の歌」は久しぶりに聴いてみようなとの気になった

一楽章が終わる頃、二楽章はどんな曲だったかな、、と思い出そうとしたが
何故か頭に浮かんだのはショスタコーヴィッチの5番の二楽章
焦って思い出そうとするが、ダメなときはダメで結局は思い出せずに始まるのを待った

第三楽章は「コガネムシ」の歌とよく似たメロディが奏でられる印象的な曲
この楽章も「さすらう若人の歌」のメロディが聴ける
トリオが終わって再びあの「コガネムシ」のテーマが奏でられた時、その音程は最初とは違っていたが
伴奏が不意に楽器の音ではなく人の声(男声)による合唱のように聞こえた
そしてそれはすごく効果的だった

効果的だと感じたのは第4楽章のクライマックス
大いに盛り上がってみんなでフォルテシモで絶叫するところ、そこで出てきたティンパニーの音が何と効果的なこと
前回はこの部分が気になるということはなかったが、ティンパニー奏者はやりがいのあるところかもしれない

長い交響曲としてセットで扱われるマーラーとブルックナー
自分はブルックナーのほうが好きで、最近はマーラーの音楽はこうしたナマを除いて殆ど聴かない
でもこの一番はこうして聴いてみると若い一時期しか書けない疾風怒濤のような趣のある曲で悪くない
この音楽は演奏会の現場を知っている、いい意味で演奏効果を知っている人が作った曲だと感じる
(マーラーは指揮者だったので、演奏効果の何かを知っている)
賢いマーラーが作った一番はこうだが、どんくさいブルックナーの一番は響きが交わるという文字通りの
交響曲で、復習はブルックナーの一番を聴いてみようか  とも思ったりした

ナマは熱気が一番
そしてそれを楽しまなきゃ損
批判的に聴くより楽しんで聴こうとするほうがずっと得だ
この日、アンコールがサービス精神に溢れた選曲だった
マーラーが一番の交響曲の中から自ら削除した楽章の「花の章」が演奏された
解説書では読むことがあっても聴くことはなかったので、これはありがたかった
第一感、7番の「夜の歌」の中間の楽章みたいだな、、、そんな気がした

ということで、ひさしぶりに充実した日曜日の過ごし方となった

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宗次ホールでベートーヴェンのラスト・ソナタ(伊藤恵ピアノリサイタル)

2019年04月14日 10時34分23秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

コンサートやリサイタルを聴きに行く一番のきっかけはプログラム
そのうち演奏者も追加されるかもしれないが、今のところは
演奏される曲目に関心があるかないかでチケット購入を決めている

昨日宗次ホールにでかけた
プログラムは大好きなベートーヴェンの32番が入っている

演奏者は伊東恵さん

このベートーヴェンの32番のソナタは生で聴くのは(多分)通算三回目
その1つは同じ宗次ホールでイェルク・デームスで2年前に聴いた
だいぶお年を召していらしたし、ウィーン三羽烏のなかでもグルダほど有名ではないので
大好きな曲(32番のソナタ)が聴ければいいやとさほど期待していなかったのだが
これが期待以上の大当たりですごく良かった
何よりも驚いたのはイェルク・デームスの奏でるピアノの音色が今まで宗次ホールで聴いた
誰の音とも違って聞こえた
馥郁たる柔らかな品のいい音、、
前半の休憩時間にピアノがいつもと違っているのかと舞台の前まで確認に行ったほどだ

そして年齢を重ねた人の奏でる音楽は懐が大きく、なんとも言えない満たされた感じがしたものだった
この記憶は今でも残っているので、昨日の伊東恵さんの演奏もまず最初に気にしたのは音色だった

最初は同じように柔らかい音、、と思ったが直ぐに現代ピアノの強靭な打弦の音の印象に変わった
前半のプログラムのベートーヴェンの30番のソナタは、30.31.32とセットにされてCD販売されるが
いずれも中期のような劇的な音楽ではなく、どちらかと言えば回想を含めた幻想的と表現される音楽
冒頭も穏やかでイメージのベートーヴェンらしくないようなテーマ
そのままのイメージで演奏が進むかと思いきや、生の演奏の印象の凄さは良い意味で裏切られた
なんとこの曲が中期のような中身が凝縮したような、確かに熱情を作曲した人の曲だと感じさせるような
音楽の印象に変わった
そこには何か戦いがあるような、、まだ枯れていないベートヴェンの馬力とか1つの作品を統一感のあるものに
まとめきる力が依然としてあることを自己主張しているような音楽だった
32番と同様な静かな変奏曲の第三楽章でも枯れた感じではなく、まだ気力が息づいている感じ

この印象はメインの32番でも同様な印象で、第一楽章のフーガのところは過去の名人たちが
構造的な充実感を際立たせる多声部的な演奏というより、若い人が何かに挑んでいるような
肉感的な、筋肉量の多い、熱気に満ちた音楽だった
その印象はあの大好きな別世界を思い起こさせる第2楽章でも同じで
最後の高音部のトリルの部分も、また回帰するような鐘の音を連想させる音形(この部分が好きなんだが)も
年齢を重ねた人の振り返りのような音楽とはなっていなかった
と言ってもそれが不満というのではなく、これもあり、、というのが音楽であったり生の演奏なのだと思うことにした

伊東恵さんはこの宗次ホールでシューベルトの21番のソナタを聴いたことがあった
その時は今回以上のパフォーマンスだった
特に第2楽章の時が止まるかのような響きに惑溺するような箇所は、ロマン派の真骨頂のようで
その楽章が終わったあと、フッと緊張感から開放されたような瞬間は今でも覚えている
ベートヴェンの32番も同様なこの世とは思えない高みに向かっていく音楽だが
シューベルトほど響きに惑溺はしない、、もう少し理知的な構造的な秩序に対しての挑戦がある
構造的な取り組みと言ってもバッハほど理屈っぽくはなく、その中にも感情の変化も奇跡的なバランスで表現されている
現時点では伊藤恵さんはシューベルトの方が素直に共感できているのではないか、、とも想像した(勝手に思ったりした)

実は今回のリサイタルはプログラムだけでなく伊藤恵さんだから来てみようというのもあった
以前、彼女がNHKFMで渡辺徹とコンビを組んでクラシック啓蒙関連番組の出ていたことがあったが
おおらかな、優しい、ちょっと心配させるような天然系の雰囲気が言葉の端々から感じられて
無条件にこの人はいい人だ、、と思ったりしたものだった

この本当にいい人だな、、と感じさせることが昨日もあった
最後に聴衆に向けて挨拶があった(そんな事してくれなくても文句は言わないけど)
そこで彼女はこのベートーヴェンの32番のソナタを半年前から勉強していて、演奏会では3回目の披露となる
そして弾くたびにまだまだという思いが募ると、、バカ正直に口にした
言わなくてもいいことを言ってしまうところが、イメージしたとおりの人で思わず笑ってしまったが
そこで納得した事もあった
それは彼女の今回の演奏が回想的なイメージよりも戦いのような印象に終始したのは
実際にこの作品の真正面から取り組んでいるせいなのだ、、右も左も、前も後ろもわからない
とりあえず目の前にあることを乗り越えていくしかない、、、といったような
まるで若者の疾風怒濤のような経験をしているからに違いない、、、
そしてそれはきっと間違いないことだろう、、とも勝手に決めつけてしまった

彼女は死ぬまで演奏し続けるといった32番
もう少し時間を経過したら聴いてみたいものだ




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