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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

名フィル定期演奏会(春の祭典など)

2018年01月21日 08時38分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

そのプログラムに魅せられて昨日出かけたのが名古屋フィルの定期演奏会
金・土曜の2日連続で行われたようだが、田舎から出かけて普通に帰ることのできる土曜日の方を選んだ
会場は日本特殊陶業市民会館フォレストホール
最近は芸術劇場コンサートホールではないことが多いので疑問に思っていが、コンサートホールは
現在改修工事中とのこと
 

自分が興味をそそられたプログラム、前半は
ベルリオーズ 序曲「海賊」作品21
グリーグ ピアノ協奏曲イ短調 作品16

そして後半は
ストラヴィンスキー バレー「春の祭典」

全て生では聴いたことがない
聴きやすそうでロマンティックなグリーグ、少しばかり刺激的なストラヴィンスキー
今年はじめての生演奏会に期待は募る
チケットは当日券を求めた
以前、JRが人身事故のため蒲郡付近で立ち往生して予定されていた行事に間に合わないことがあったので
座席には余裕があるのを確認して、現地で購入する安全策をとった
嬉しいのか嬉しくないのか微妙なところだが、チケットはシニア割引があって20%ほど安くなった席がある
せっかくなのでそれを利用させてもらって、ちょいと良さそうな席を選んだ
(やっぱり素直に嬉しいとすべきなのかな、、)
でも席につくと、しまった、もう少し後ろのほうが良かったかもしれない、、とも感じた
前から11列目でめったに経験できるような席ではなく、座席表では良さそうな気がしていたのだが
どうもイメージとはだいぶ異なる この席だと音がブレンドされてなくて生々しすぎるかな、、などと少し不安も

生では初めての曲ということだから、まずは音楽を楽しむことに専念
関心は演奏の善し悪しと言うよりは、曲自体に向かう

ベルリオーズは結構好きな作曲家だ
ウジウジしていなくて、おおっぴらな開放感が好きだ
それにとても神秘的なロマンティックな「ロメオとジュリエット」の夜のシーン(だったかな)音楽も書き上げているし、、
このプログラムの「海賊」は確かレコードを所有していて聴いたことがあるはずだが全然記憶にない

音楽が始まるといきなり、、らしいな、、の印象
個性というのは自ずと現れるようだ
今まで聞いたことがなくて、途中から聞いてもショスタコーヴィッチの作品はなんとなくわかるように
ベルリオーズはベルリオーズはらしい
聴いてて幻想交響曲の舞踏会の楽章やら、冒頭の楽章、最終楽章を連想させるところがあって思わずニヤリとしてしまう
そんなに難しい音楽ではなく、まずは食前酒みたいな感じで聞き終えた

グリーグのピアノ協奏曲 今回のピアニストは小川範子さん
印象的な冒頭からスタートするこの曲は一般的には聞きやすい音楽だ
レコードでも度々聴いたりしている
しかし、それが却って悪い方に作用したのかもしれない
始まって直ぐに、あれっ、、と演奏に乗れないでいる自分を感じた
音が、、ピアノの音が、、いやオーケストラの音が、なにか遠くで聞こえるような、、(音量はあるのに)
なんと言って良いのだろう、曲がぐいっと直感的に把握されている気がしなかった
いやいや演奏のせいではないかもしれないとも考えた
ロマンティックな聴きやすい音楽故に、今の気分と合わないのかもしれない
例えば忠臣蔵がよく出来た物語だとしても、その世界に浸りきるまでは現代人にはフィットしないみたいに

この現代人にフィットするという感覚を実感したのが後半の「春の祭典」だ
冒頭の管楽器が何やら不思議な雰囲気を醸し出す
しばらくすると暴力的なリズムの饗宴があるのを知っているので、期待感も高まる
今でこそ期待してしまうこの部分だがパリで行われた初演の時には
聞きなれない騒音に近いリズムの連続に聴衆が退席してしまったというエピソードも
わからないではないな、、と思う
だが、この印象深い音楽、これをすんなり受け入れてしまっているのが現代人の耳
現代人はロックなどで同じような強烈なリズムとか音量に慣らされている
そしてそれが知らずしらすのうちに受け入れやすい気分とか標準になっている
だから、今これらの音響を聴いてもさほど驚きはない
ただこの騒音に近い音響は心地よい
この音楽は時間の経過をもとにした(ベートーヴェンのような)起承転結、まとまり、秩序という世界からなるものではなくて
ひたすら音響と言うものが中心となった音楽だと感じる
それはこの音楽がバレー音楽であって、本体は単独に演奏されるのではなくて
バレーのパフォーマンスを効果的に演出する音楽であったことに由来するかもしれない
そんなことを考えながらバレーしているシーンを思い浮かべると、この音楽はぐんとリアリティを持ってくる
人類がまだ動物に近かったような時期、まだ本能に左右され、自然に振り回されながらも
たくましく生き抜く姿を象徴するバレーの場面 
確かにバレーがあったほうがより効果的だし引き立つ気はする

今年最初の生の演奏会は「春の祭典」のおかげでいろんな連想が出来て大正解!
と言ったところ
次は宗次ホールでの「冬の旅」に触手が動くが、会場近くのポスター掲示板には
マーラーの5番のプログラムが、こちらも忘れないで、、というようにつぶやいているような、、、

 




 

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新城吹奏楽団 第86回定期演奏会

2017年12月10日 16時13分04秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

チケット代金 700円
電車等の交通費もかからず、一時間半しっかり楽しめる新城吹奏楽団の
定期演奏会に行ってきた

昨年初めて聴きに行って、そのときのプログラムはモーツアルトの20番のピアノ協奏曲の第2楽章
同じくモーツアルトのクラリネット協奏曲の第3楽章
そしてショスタコーヴィッチの5番の交響曲の大いに盛り上がる第4楽章、その他でとても感動した
上手い下手というのではなく、音楽してる、音楽に飢えてるみたいな感覚で
その時から次も行こうと決めていた

今年のプログラムは

ベートーヴェンとブラームスの作品を中心にした構成
このプログラムを見ただけで、この演奏会が成功裏に終わると思われた
最後のブラームスの4番の最終楽章は金管が頑張る曲で
演奏者もきっと楽しいに違いなく、それを聴いてるこちらも感動することが予想できたからだ

覚えているうちに感想を
最初の曲「ゆう」は初演の文字がある
昨年も初演された曲があったが、それは調もリズムもハッキリしないような難解なイメージの現代音楽だった
今年の曲も現代音楽の響きだったが、昨年ほど難解な感じはしない
金管が頑張る部分があってもメシアンのような響きではなく、日本人の音色だと感じられた
時折ショスタコーヴィッチを連想させる部分があった
おいしいメロディのない音響・和音中心のこうした現代音楽も実はそれなりに楽しみにしていた
今の人間にしかわからない感覚は実は現代音楽しか表現し切れないかもしれないと思ったから

2番めのA.リードの「ジュビラント序曲」はとても音が良く鳴る音楽だった
最初の曲と比べると前に出てくる音の色彩・賑やかさがぜんぜん違う
どちらのほうが良いというのではなく、曲の個性の違いなんだろうが

2部はベートーヴェンの作品
「エグモント序曲」最初の和音からベートーヴェンの個性がきっちり現れている
真面目な音楽だが、それでも中間部は聴きやすいメロディがある
弦楽器があれば チェロが奏するところで、普通の編成の演奏に慣れていると
少し違った印象を持つが、そういうものと思えば特に違和感までは至らない
最後のほうでテンポは早まるパッセージのがあるが、他人事ながら少し心配してしまった
うまくやりきれるかな、、と(フルトヴェングラーの猛烈なスピードアップの演奏が記憶にあるので)

ピアノ協奏曲は、最初の出だしに部分で、管楽器というのは音程をキープするのと
小さな音で演奏するのは難しいんだなと実感した

第3部はブラームスの作品 
まずはハンガリー舞曲を4曲
1番は流石にフルトヴェングラーの演奏のようにテンポがとてつもない変化があることはなかった
その分安心して聴けた
有名な5番は、ふわっとゆっくり表情豊かに開始された
あっさり楽譜通りスピード感をもって始められる思ってたので少し印象に残った
(なるほど音楽の解釈とはこういうことか、、)

最後の4番の第4楽章
これは最初の音から音色が違った
熱気があるというか、充実しているというか、多分いちばん多く練習しているんだろうな
と勝手に想像した
この楽章はめったに主役になれない低音部を支える楽器群も主役になれる部分がある
フルートも緊張感たっぷりのソロのシーンも有る
弦楽器がないので部分的な音色は違うけれど、その弦楽器の編曲されたパートを
クラリネットが必死に吹く

音楽の感動ってなんだろう、、聴いててそんなことを考えた
クライマックスの冒頭のパッサカリアの主題がフォルテでみんなで奏される時
なんだか理由もなく涙が出そうになった
そこまで行くと後は勢いに任せて、のりにのって音楽は続く
おもいっきり吹いて、やりきって、幸せそうな奏者の方々、、

ということで、今年もおおいに満足
やっぱり生はいいな
来年も行こう、、 

 


 

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「プラハのモーツァルト」から連想したこと

2017年12月03日 14時42分35秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

地味そうな作品だから豊橋では上映されておらず、名古屋まで行かないと見られないかと
思い込んでいた「プラハのモーツァルト」
調べてみたらユナイテッド・シネマ豊橋でもやっていたのでさっそく出かけた

大好きなモーツァルトがタイトルに入っているので興味がそれだけでわくが
出かけようとした理由は、大きな画面でプラハの街並みとか雰囲気を感じてみたいのと
モーツァルトのキャラクターがどんな風に描かれているか興味があったためだ

モーツァルトが歓迎されたプラハはウィーンからはそんなに遠くないようで
日本からのツアーも組まれているし(ウィーンとプラハの)
電車もプラハ行をしばしば見かけた(旅した時)
BSの旅番組を見てもプラハは落ち着いた感じで、どんな雰囲気だろうと思ったが、、、

期待はあっさり裏切られた
映画にはプラハの街並みはほとんどと言っていいくらい出てこない
街の出てくるのは夜の暗いシーンばかり
太陽の下のドラマではなく光の足りない夜と部屋の中
ヨーロッパ人は部屋の灯というのは日本人みたいに明るいのを好まないのかもしれない
数年前のオーストリア・ドイツのホテルでも照明は決して明るいとはいえないものだった
(彼らに言わすれば日本の灯が明るすぎる、、というのだろうが)

興味のもう一つ、モーツァルトのキャラクターについては「アマデウス」がぶっ飛んだ
落ち着きのない人間として描かれていたが、同じように軽薄な人間として描かれるのか
と思ったが、映画は普通の感情をもった、ちょっとばかり(女性には)自制心のない人物として扱われていた

プラハはドン・ジョバンニの初演をした街で
序曲は上演ギリギリまで出来ていなかったというエピソードやら
フィガロの結婚が大受していて歓迎されていたところなどモーツァルトの好きな人間には
おなじみの情報が適度に挿入されている

この映画、プラハにいるモーツァルトが「フィガロの結婚」の上演を見守るところと
新作「ドン・ジョバンニ」を書き上げる過程を捉えているが、この実在の人物たち
サロカ男爵・スザンナを中心にしたストーリーは、実は「フィガロの結婚」と「ドン・ジョバンニ」
の物語そのものを地で行っている
サロカ男爵はフィガロにおけるスザンナの「初夜権」を狙う浮気心いっぱいの人物として
ただし、フィガロの時の伯爵より悪人ぽいイメージとして扱われ、この女好きの人物は
ドン・ジョバンニも連想させるし、結局彼の悪業は罰せられることになるが、
そのイメージとしては騎士団長が食事に誘う不気味なシーンや地獄に落ちるシーンが
ドン・ジョバンニの音楽で暗示される

ただ少しばかり残念なのは、このサロカ男爵は単に悪いやつという女好きであったこと
歌劇のドン・ジョバンニは確かに悪いやつだが、それでも相手(女性)が嫌がるようなことはしていない
伊藤詩織氏の「Black Box」ではないが、合意の上かそうでないか、、は
歌劇のドン・ジョバンニは、どこか仕方ないやつだ、、とか困ったやつだ、、と呆れながら思ってしまうが
この映画のサロカ男爵は「パワハラ」「セクハラ」のオンパレードで、地位を利用して
人を支配しようとしているところなんぞは、つい最近の何処かの国の誰かとそっくりだと連想したのは
自分だけではなかっただろう

それから、どうでもいいことだがモーツァルトが楽譜を書いているシーンには少し疑問を覚えた
モーツァルトの自筆楽譜を見たことがあるが、とでもきれいで、何よりも相当なスピードで書かれている
音楽は既に出来ていて楽譜はその音を紙の上に移すだけの作業で、その息吹みたいなものを
楽譜から感じるが、映画ではベートーヴェンみたいに考えて作曲するようで
わかりやすいけれど、ちょっと違うぞ、、とチャチャを入れたくなった

この映画はストーリーのせいもあるが、一般的な予告編で見られるように火薬をぶっ放して
興奮させるというのではなく、それなりに映像を覚えておいたり、その意味を考えないと楽しめないものになっている
だが、この様に見る側の想像力を前提として進めてくれたほうがかえって見えないもが見える気がする
説明過多とか、わかり易すぎるものは、、面白くない、、
 

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「アッシジの聖フランチェスコ」(全曲)びわ湖ホール

2017年11月25日 17時59分53秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

11月23日の勤労感謝の日、滋賀県びわ湖ホールに出かけた
目的は、これ

オリヴィエ・メシアンの大作「アッシジの聖フランチェスコ」の全曲日本初演を聴くためだ
(正確には東京で初演は済んでいる)
13時スタートで18時30分が終演予定となっている長い作品だ
実はこの曲の小澤征爾が指揮したCDはもっているが、最後まで聴けずにいる
スピーカーを前にしての数時間は今の自分の集中力からすると、とても無理なので
いっそ現場で聴いてしまえと思い立って出かけたのだ

この曲の楽しみ、というかメシアンの音楽を聴く楽しみは「鳥のさえずり(音楽)」が聴けることだ
メシアンの「世の終わりのための四重奏曲」も「クロノクロミー」も「峡谷から星たちへ」も「鳥のカタログ」も
鳥が主役になっている部分がとても気持ちがいい
この曲の冒頭もマリンバが鳥たちのおしゃべりを連想させるフレーズを繰り返す
それだけで自分はいい気持ちになるのだが、ちょっと気が進まない部分もあるのも事実
金管の荘重な「メシアントーン」のような部分は、ワンパターン化していて
(それ故にキリスト教の何かを示しているのかもしれないが)これはCDで聴いていても
退屈さを感じてしまう
現代音楽という分野に属するこの音楽技術の面ではリズム・色彩・旋法・クラスターなど
素人にはわかりにくく難しいことに取り組んでいるらしいが、そういう難しい話は横において
今回はひたすら鳥の音楽を聴くつもりで足を運んだ

当然のことながら鳥の鳴き声が出るところは無条件に楽しめた
難しく考えることも、無理やり集中することもなく、ただ浴びるように鳥の音楽を体感するだけ
それだけで十分なのだが、それでも生を聴いていると、それ以外にほっといてもいろんなことが思い浮かぶ 
多分これがフランチェスコのモチーフなんだろうと思われる旋律が何度か現れて、その色彩も表情も
登場する度に変わっているが、これはヴァーグナーのライトモチーフの応用かな、、
だとしたらヴァーグナーのほうがリアルで生々しいな、、とか
メシアンの以前の作品「トゥーランガリラ交響曲」で使われた金管のテーマが出てきたようで、
これは何の意味だったのだったろうかとか、
また一幕の終わり部分では皮膚病患者に口づけをする時に 「トゥーランガリラ交響曲」の「愛のまどろみ」の
絶妙なハーモニーが出てきてうっとりしたり、、、
大編成のオーケストラに大規模のコーラスも舞台上に並んでいるがコーラスは歌詞を歌うというよりは
音楽の陰影とか空気・雰囲気を呼び起こすものとして使われていて効果的だな、、とか

昨日は京都に紅葉狩りで音楽のことは少し頭から離れてしまったが
2日経った今日(11月25日)の時点で忘れずにいるところを抜き出すと
2幕では天使のノックの部分がストラヴィンスキーの「春の祭典 」のように聴こえた
ベートーヴェンの田園の雷のような音楽的というよりは騒音に近い
そして現代の大音量のロックに近い印象で、これがまさしく現代音楽ということを彷彿とさせた
この騒音に近い「春の祭典」のような音楽は三幕でも再現され、この時は「春の祭典」ではなく
ブルックナーの9番の交響曲の第2楽章のスケルツォが頭に浮かんだし、そのことでブルックナーは
現代的な音楽なのかもしれない、、とブルックナー大好き人間は想像してしまった 
この日の圧巻は、鳥の音楽が聴きたかった自分が満足した「鳥に説教する聖フランチェスコ」の部分で
クロノクロミーみたいに数分間にわたって鳥のさえずりが延々と続き
音符で書くと多分とっても複雑な楽譜になっているだろうが、音にしてみると(自分の耳には)心地よく感じられた
この部分はメシアンの鳥に対する告白とか愛みたいなものに違いない、、と頭に浮かんだ
そしてメシアンのもう一つの愛の対象は「キリスト教」
自分は少しばかり教会に通ったことがあるが、結局キリスト教徒になれなかったので
この様に無条件に受け入れることが出来ない
だから聖書の言葉も天使のメッセージも思い込みの世界のひとつ、、なんだろう、、と
一歩引いたところに立場を確保したが、それでもメシアンの真剣さ・ひたむきさにはうたれるものがあった
このオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」はマタイ受難曲よりも切実な「パルジファル」よりも
儀式に近い祭典音楽のように感じられた(音楽体験というよりは儀式・祭典として演奏される方が良いかもしれない)

そうだ、もう一つ思い出した
第一幕の最後の天上のコーラスみたいなところ、まるでパルジファルみたいだった

実は始まる前は、楽しみにしていたものの寝てしまうのではないかと心配していた
鳥の歌以外のレシタティーヴォのような会話の交換
パターン化した金管の荘重な響きは、もしかしたら長いことは耐えられないかもしれないと思ったのだ
だが、さすがライブのなせる技  その心配は無用となった
退屈しなかったことの他にもう一つ気づいたこと、それはびわ湖ホールの椅子は
長いこと座っていてもお尻が痛くならないことだ
10月に「神々の黄昏」を見た(聴いた)新国立劇場は途中でお尻が痛くなって
姿勢を時々変えたくなったが、今回はそんなことはなかった 

それからもう一つ、熱心なキリスト教徒であったメシアンは最後は「神の栄光」を
なんとしてもフォルテで表現したかったに違いないと感じたが
そこから連想は羽ばたいて自分の大好きなブルックナーも最後は「愛する神に」
フォルテで肯定的に終えたいと思ったのだろうと根拠のない連想をしてしまった

ところで、びわ湖ホールで配られたチラシに来年「ワルキューレ」が上演されるとあった
これで味をしめて、足を運ぶ、、ってことになってしまう、、かな
「ワルキューレ」より「トリスタンとイゾルデ」か「パルジファル」の方が良いのだが 

 

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「冬の旅」

2017年11月12日 08時24分35秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

先日、生ゴミを出しに指定場所に出かけた時、二羽のからすを見かけた
その刹那、シューベルトの「冬の旅」の中の「からす」の一節が頭に浮かんだ

Eine Krähe war mit mir
Aus der Stadt gezogen
Ist bis heute für und für
Um mein Haupt geflogen

比較的覚えやすいドイツ語で、この部分だけは覚えている(ここしか覚えていない)
そしてメロディも歌いやすい
その日の夜には「冬の旅」のレコードを聴こうとその時に決めていた 

夜に棚から引っ張り出してきたのが

ハンス・ホッターの歌ったものだ

実は「冬の旅」はそんなに聴く気になれない曲だ
シューベルトはあまり好きじゃないとか、作品が好みでないとか、出来が悪いとか、歌手に問題があるとか、、
そういったものではなくて、聴かない理由は「落ち込む」からだ

音楽を聴いて落ち込む
そういったことはあるもので、何十年も前にこのハンス・ホッターの歌う「冬の旅」の全曲を
聴き終えた時は、ひたすら疲れた記憶がある
ハンス・ホッターの歌はモノトーンの音色で、何か気の利いた演出があるわけでもない
ただ淡々とあの深い声で歌うだけ、ただそれだけ
しかし、その淡々と当たり前に歌われる歌が終わりの方になるに連れ「孤独」というものが
一種の狂気じみたものとさえ感じられ、救いのないような気分させられた
この記憶があるために安易に聴こうという気にはなれないでいた

全曲のなかには長調で書かれたホッとするような曲もある(菩提樹・春の夢)
でも直ぐに短調に傾き、この2つの対比がハンス・ホッターの歌では
明瞭でないため(フィッシャー=ディースカウは音色変化がもっとある)
どうしても基本となる暗さの印象が強く残る

曲を通して聴いた絶望感
音楽体験が楽しいものばかりではないことを実感したわけだ
それでレコードジャケットを見るたびに、あの「絶望感」が頭をよぎり
どうしても避け気味になっていた

ようやく聴く気になったハンス・ホッターの「冬の旅」
いざ聴いてみると、今度は少し違った印象をもった
以前より人生経験を積んだせいもあるだろうが、この孤独感にも耐えられるような気がしたのだ
これも耐えなければならない試練の一つ、、、みたいな
今は少しばかり客観的に見られる(聴けれる)ようになっていた
こうして比較すると若い時の落ち込むほどの聴き方・感じ方というのは
ある意味たいしたものだと少し呆れてしまう
その時は全身全霊で何かを感じていた

しかし、そのように全身全霊で何かを感じることは時間とともになくなっていく
感じることのかわりに、考える事から得られるものが優先的になっていく
そしてそれが当たり前になっていき、それが知恵といわれるようになっていく

若い時の(もしかしたら今で言うVRに近い)聴くことによって得られた体験は
単なる聴いたという経験では収まらない事になっている(少なくとも自分の中では)
この「冬の旅」以外にも、カール・リヒターの指揮する「マタイ受難曲」の中で
キリストが息絶える場面には、まるで自分が刑場にいたような錯覚を覚えて
口の中も、喉がからからになった
おそるべき思い込みとか想像力、いまならそこまでいくことはないので多少の羨望感をもって
過去を振り返ってしまう

今になって「冬の旅」はようやく普通に聴けるようになっているかもしれない
でも、昔感じた「絶望に近い孤独感」の記憶は消えることはない(だろう)
何度も聴く気にはなれなくてもこのハンス・ホッターの「冬の旅」はやはり凄い
今度聴く気になるのはいつのことだろう
(もうそんなことはないかもしれない、、でも、それでも十分だと思っている)

 

 

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新国立劇場の「神々の黄昏」

2017年10月06日 08時21分30秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

「ラインの黄金」から一年後の去年の秋は「ワルキューレ」
そのまた一年後の今年の夏は「ジークフリート」
そして、その数ヶ月あとの「神々の黄昏」
飯守泰次郎さんが進める「ニーベルングの指環」のプロジェクトは自分の中では
この秋の10月4日で終わった

待ち遠しかったこの日
でもスタートがいつもの14時からではなく16時から

おまけにとてつもなく長い
これでは田舎からのお上りさんは、東京に宿泊するしか手はない
翌日は地元で用事ができたので、ホテルで寝るだけで直ぐに帰ることになった

それにしても、長い!
特に第一幕、2時間ほど延々と続く、そのため心配したとおりお尻が痛くなってきた
だが隣の人もいるので自分勝手にゴソゴソできず、正直なところ後半は少しきつかった
音楽は相変わらず雄弁、物語の背景を3人の運命のノルンが話す
人はここで大枠のストーリーを再確認することになるが、スッキリ明確にいかないで
何度も行ったり来たりするところがヴァーグナーらしい
2時間もの音楽と台本を書ききったヴァーグナーの精神のスタミナ(しつこさ)は、
日本人には少し驚きを覚える(やっぱり彼は怪物だ)

一応レコードで予習しようとしたが全部まではいかず、結局本番を楽しむことにしたが
一幕はだいたいストーリーは分かっていた
音楽自体は歌手陣が誰で、どのくらいのクラスの人か情報に疎いので偉そうに言えないが
フト感じたことを言えば、ブリュンヒルデが最初に声を出した瞬間、それまで声を出していた人たちとは
何かが違う(透明度とか訓練の度合いとか)と根拠のない印象をもった

この「神々の黄昏」のヒロインであるブリュンヒルデに対する共感、感情移入は
第2幕はもっとハッキリしたものになる
それはこの役を演じたペトラ・ラングの性格描写の凄さかもしれない
ここで見られるジークフリートとの夫婦喧嘩みたいなものは、一般家庭でもよくありそうな
というか、世間にいそうな女性の怒りみたいで、すごくリアリティがあった
おまけにノートゥングを突き立てて、横で眠るブリュンヒルデには手を出さなかった
というグンターに化けたジークフリート(記憶を失っている)は、最近不倫騒動で
「一線は超えていません」とか「男女の関係はありません」といったスキャンダラスな芸能ネタを
連想させられて、いつの時代も、どこでも似たような事件とモラルに対する要求(貞節)があるものだ
と変なことに納得した

「神々の黄昏」は演奏、パフォーマンスの良し悪しを批評・比較できるほど聴いていないので
実演では音楽を聴いているのか、筋を追っているのかわからないところだが
第3幕でラインの乙女たちが出てきたのは、このニーベルングの指環の一番最初のシーンを
回想させられて、しかも、回想することによって物語の統一感がしっかり出て、
そして物語の主役は「権力をもたらす呪いをかけられた指環」であることがわかった
そして物語の一番最初に登場したもう1人の人物アルベリヒも、今回の演出では最後に
ヨボヨボと登場し、これまた物語に余韻を与えた
(このアルベリヒは結局、どんなことになったか、、自分はよくわからなかったが)

こうした楽劇とかオペラは声が良い、声量があるだけでなく演ずる役の性格を想像させる様な
ニュアンス(演技と歌い方)が必要だが、策士ハーゲン役に佇まいや声の質、
勢いだけで屈託のないジークフリート役の若々しい様は、それぞれの歌い手さんがその道では
評価を受けているのは納得できるものだった
(ハーゲンはアルベルト・ペーゼンドルファー ジークフリートはステファン・グールド)

さてオーケストラの演奏は、、、
特に気になることはなかったから可もなく不可もないというところかもしれないが
大音量だな、、と変な記憶だけが残った
盛り上げるには大音量だが、ちょっと必然性のある流れとかニュアンスとは違うような
(と言ってどこがどうのとはよく分からなくて、ただそう思っただけなのだが)
もう少し踏み込んだ演奏はやりようがあるような気がしたが、それは西欧人と日本人の
元々持っている違いによるものかもしれない

最近「ニーベルングの指環」は日本で多く上演されるようになっているらしい
この物語の権力求めての策略や、それを求めることがもたらす運命、そしてその犠牲者等は
現在の政治の世界のドタバタをまるで暗示するかのようだ
だからこそ、読み直しの演出が幾種類も出てくるのだろう
しかしプロトタイプの神話的要素の「ニーベルングの指環」の方が
想像力を刺激して、面白そう、、、(だが、もう生で指環を見ること聴くことはない、、かな)
 

 

 

 

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「京都 冷泉家 七夕の雅宴」から連想することなど

2017年07月09日 08時47分48秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

里芋の葉っぱに溜まったつゆを集めて墨をすり
その墨で短冊に願い事を書いて笹の葉に飾る

こんなのんびりしたことを、そのまま実際に行ったかどうかどうかは
覚えていないが、短冊に勝手な願い事を書いて真似事をしたことはある(保育園とか家で)

七夕は、子どもたちにとって愉しい行事の一つなのかもしれない
いや親にとっても微笑ましい思い出に残るイベントに違いない
下手くそな字で屈託のない、とんでもない願い事を見るだけで
どこか幸せな瞬間を感じることができる
このような時間は、その行事がどのような目的で行われるようになったか
本来の目的以上の役割を果たしているんかもしれない 

今年の7月7日金曜日 珍しい七夕の行事を見に行った
ところは名古屋市の芸術劇場コンサートホール
行われたのは

京都御所の北に住まいを構える冷泉家の七夕の行事だ
冷泉家は「小倉百人一首」を選んだ藤原定家の孫の藤原為相に始まる「和歌の家」
数年前、一般公開された時に立ち寄った事があるが、
その家のしつらいのこだわりや品のいい事、そしてお蔵にはとても需要な文化財が
保存されていることなど、この家の関係者から話を聞いてぼんやりと覚えている

京都はいつ行っても興味は尽きないが、最近の自分の関心の方向は「侘び寂び」よりも雅の方
どうしても真似出来ないような、京都にしか存在しないような
ちょっとした気の利いた美的ポイントとかこだわり
それはきっとお公家さんたちのセンスから来ているものだと勝手に思い込んでいて
今回も、その公家さんたちの行事はどんなものか、、の興味から足を運んだ

プログラムは、蹴鞠、雅楽演奏、和歌披講、流れの座の大きく4つに分かれている

これらの一つ一つを解説できるほどの力量や知識はないので 
いつものように現場で、空想や想像が羽ばたいたこと思いついたことなどを
そこはかとなく書き綴れば、、、

蹴鞠
何よりも印象に残っているのは、登場した人たちの衣装のきれいだったこと
濃い色ではなく、今で言うならパステルカラーに近い色
その一つ一つが品があって、照明にあたって本当にきれいだった
蹴鞠は数人で行うサッカーのリフティングのようなもの
あの衣装と靴では、やりにくいだろうな、と思いつつ
昔の人もやり始めると夢中になってしまいそうなこの行事
ハマって練習をする人たちがあの時代にもいただろうな、、、などと思ったりした
会場は狭く演技者には少し可愛そうな環境だったが
慣れるに従って少しづつ空気のない鞠は地上に落ちずに
ポンポンと掛け声にのって宙を舞った

雅楽
お祭りには録音されたものを聴くことがあるが生は初めて
11人で奏される音楽は、音を出しっぱなしというかリズムがない
旋律すらも感じ取れない
笙とか篳篥、太鼓、琵琶、琴が西洋音楽とは明らかに違う決まりで
時間の経過を表現する
(フト、モーツァルトの生き生きしたリズムと言うのは、
 なんと表現力豊かなのだろうと思ったりした)
短い最初の曲、なぜだか知らないが雅楽という割には
この音楽は遠いペルシャに近いものを感じた
それは音色なのか、あるかないかわからないメロディーのせいかわからないが
根拠なくきっとそうに違いないと確信した(単なる思い込みだろうが)
次いで長い曲が奏された
音楽はなりっぱなしのリズムはないのはずっと同じだが
今度は少しばかり聴きやすい
琴が印象的な分散和音のようなフレーズを、遠慮気味に時々奏する
最初は小さな音で、それから徐々に大きく存在感を持って
そのゆっくりゆっくり進むさまの効果は音楽的で
まるでボレロの様な感じ (音楽的効果については洋の東西を問わず似ているってことか)

和歌披講
8人の人が左右に分かれて座る
テーマに沿って歌われた和歌をゆっくりと音読する
いや音読というより歌う
マイク無しでゆっくりと、まず1人が上の句を歌うように音読する
その旋律はその人の独自のメロディなのか決まりがあるのだろか
ついで 他の人も声を合わせて下の句の一部(?)を歌う
それは単なる斉唱かメロディーが存在するのか、よくわからない
ただ即興で合わせるということも難しそうなので、何らかのきまりはあるのだろうか
と素人は心配してしまう
和歌は本で読んだりすると単に57577の歌に過ぎず、その歌の意味をあれこれ想像するが
こうして音として表現されると、意味以外のなにか(リズムとか流れの良さとか)が
重要なのかもしれないと感じる
それにしても、のんびり歌い、それを楽しむ事のできる事のできる気持ちは
ちょいと羨ましいかもしれない

流れの座
和歌は、のんびりしているだけではどうやら収まらないらしい
和歌披講についで行われたのは、即興で和歌を作ること
七夕の行事なので左右4人づつに別れた舞台の中央に
天の川を連想させる縦に長い敷物が準備された
それぞれの「うたいびと」は与えられたテーマにそって
これまた優雅に墨をすって、短冊に和歌を書き、それを扇子に載せて
対面に座る「うたいびと」に手渡す
受け取った「うたいびと」はその歌の返しを即興で行う
これも全体的には音のない静かななかで行われる
七夕の行事とはいえそれは本来は旧暦の行事
この静かな行事を想像力頼もしく秋の虫が鳴き始めて、
月も三日月で、暑いとは言え時に涼しい風が吹く様子を連想しながら
この舞台を見ると、その趣は一気にこの行事の趣味の良さを実感する

全ては静かなうちに行われる
音のない音楽のなかで、聴こえるのは虫の声、風の音、文字を書く音、衣擦れの音、
昔の人達は、こうしたことを「趣のあるもの」として大事にした
その判断と感性は、もしかしたら今の時代こそ大事にすべきかもしれない

歌の即興はとても難しそうなので、お公家さんは歌の勉強を常々する必要があったのだろう
だからこそ「歌の家」の冷泉家のような存在が必要だったに違いない
この歌のやり取りだが、ある面人物評価のチェックポイント人もなるのではないだろうか
まずは歌の視点、詩的空間(時間)の存在の認識とその表現技術、過去の歌への理解
(なんだか夏井いつきさんの言い分に似てきたぞ)
それらはいわゆる教養としての分野のことがらでお公家さんには必要とされ
これらが上手くできないと無粋な人(それから連想されることとして)判断を間違えやすい人
との烙印を押されてしまうのではないか
物事を判断するのに損得だけでなく、美しいいかどうかといった審美眼が必要とする考え方は
今こそ、判断基準にしてほしい、と思うのはないものねだりだろうか

ということで、あの現場で勝手気ままに思い浮かんだことはこんなこと

それにしても、衣装はきれいだったな、、
一番印象に残ったことは実はこれだったかもしれない
(だから葵祭を見に行きたいと思うのだろうか) 


 

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ブルックナー交響曲第3番(名古屋ブルックナー管弦楽団コンサート)

2017年06月19日 08時32分37秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

何年ぶりだろう
おそらく10年は超えている
むかしはオーケストラのコンサートと言えばここばかりだった
ショルティのウィーンフィルも、シノーポリのニューフィルも
確かここで聴いた

先日の名古屋での演奏会形式によるワルキューレの際に
とても魅力的な印刷物を手渡された

まず目を引くのがプログラムでブルックナーの交響曲3番(第3稿)となっている
詳しく見るとオーケストラの名前が、名古屋ブルックナー管弦楽団
ブルックナー好きの自分とすれば、これだけでチケットお買上げというところ
そして会場が、懐かしい以前の名で言えば金山市民会館 (現在は日本特殊等業市民会館フォレストホール)

会場は自由席、料金は1000円
リーズナブルな価格なので、今まで経験したことのないような良い席を確保した

メインのプログラムが女性には好かれないと思われるブルックナーだったし
マニアしか受けない3番だったが意外や意外、女性の数は多かった
(このオーケストラの関係する方々が来てたのか、、、) 

この日のプログラムは

今まで聞いたことのないベートーヴェンの劇音楽「シュテファン王」Op.117 序曲
次にブラームスのドッペルコンチェルト
そしてメインのブルックナー交響曲3番

ベートーヴェンは作品番号が後ろの方だからどんな曲かな?
と思いながら耳を傾ける
冒頭は「彼の音楽らしい」スタート、だが直ぐに木管の親しみやすいメロディーが続き
全体的に作曲技術が確保されて職人さんの作品といったところ
前座の曲としてアイスブレイクは上手くいった

ブラームス、、、
この曲はCDで聴いたことがあるはずなのだが、記憶にない
(聴いたことがあるようなフレーズがあったので)
第一楽章のちょっと大げさな主題
だがモゴモゴ・ウジウジと進められていくような音楽の印象
テーマが勇ましい割には何故かそんな風に感じてしまう曲だ
結局、最後まで楽しめず  少しつらい時間
ブラームスは4番の交響曲やクラリネット5重奏曲はいいけど
あとはどうも相性が良くない
(バイオリン協奏曲もなかなか通して聴けないでいる)

でもこの日のお楽しみは生で聴いたことのない3番
眠気を振り切って気合を入れて音楽に向かう
弦が細く刻みブルックナーらしいスタート
冒頭のトランペットは緊張するだろうな、、
でも、やりがいがあるというか目立って嬉しい、、、
そんなことを思いながら聴く

音楽は自然に流れるというよりはブツブツと途切れて
話があちこちに飛んでしまっているような装い
大音量のあとの静かな応答のフレーズ
なるほどオルガン的発想とはこういうことをいうのかもしれない
だが、この大音量の心地よいこと
難しい感情を込めたり流れの必然性というのではなく
単に大きな音を出すという生理的な心地よさ
ブルックナーの音楽を聴く時は、特に生で聴く時は、そのように感じることが多い

この初めて聴くだけでは何処にいくかわからない音楽
このスコア献呈されることになったリヒャルト・ヴァーグナーは
(2番と3番のどちらが良いか聞かれた)
すぐさまブルックナーの才能を感じ取ったのだろうか
そうだとしたら、仲間内の擁護はあるかもしれないが、やはり素人との捉え方は違う

アダージョの作曲家と言われるブルックナー
第二楽章は初稿ではかなりいろんなことをやっているが
この日の3稿では初稿の無鉄砲さはなくまとまっている
曲のはじめの大きな旋律を聴いた刹那、4年前リンツから聖フローリアン修道院に
向かったバスの車窓から見た穏やかな風景・自然を思い浮かべた
そこはブルックナーがいつも見たであろう風景だ
このオーケストラの人々もあの風景を見たら、一度経験したら
きっと違う音楽を演奏したに違いない
そういう機会があればいいのに、、などと思い浮かべた

自分は大いに楽しんでいたが、やはり何処に向かうかわけの分からない音楽
途中で逃げ出した方々もチラホラ見かけた(仕方ない、慣れないとキツイだろうから)
実際のところ、この曲は生でないと通して聴けない
CDやレコードでは楽章ごとに聴くしか出来ていない

オーケストラはプロではないので音色に潤いとか、細かなニュアンスなどは
望むことは出来ないが、それにも勝る熱気とか音楽に対する愛情みたいなものは感じた
だから最後の最後に、あの第一楽章のトランペットの主題が回帰された時は
わかっていても感動した
それはブルックナーがこうしたかったということと、
奏者も目一杯やったという充実感・幸福感をこちらも 感じさせてもらったということだ

会場では近場・近日に行われるコンサートのチラシが手渡されるが
次は何にしようか、、
7月7日に芸術劇場コンサートホールで行われる冷泉家絡みのけったいな行事も面白そうだが、、

 


 

 

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名古屋で「ワルキューレ」

2017年06月12日 19時54分39秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

6月7日(水)は東京新国立劇場で「ジークフリート」
日曜日の6月11日は名古屋芸術劇場で「ワルキューレ」
順番は入れ替わっているが、長い長い「ニーベルングの指環」の音楽を堪能した

名古屋の「ワルキューレ」は演奏会形式で、歌手が突っ立って歌うだけでなく
若干の動きや照明の変化など、退屈にならないように気遣いがなされていた
しかし、長い

座りっぱなしでお尻が痛くなるかと心配したが、なんとか切り抜けられた

この演奏会形式のニーベルングの指環は昨年の「ラインの黄金」が
とても楽しかったので、楽しみにしていた
長大なプロジェクトを実行しているのは愛知祝祭管弦楽団という素人の方たち
でも昨年はそんなことは気にならずにしっかり楽しめた(チケットも安かったし)

今年は数日前にプロのオケ、及び世界的な歌手の演奏(ジークフリート)を聞いた直後だったから
その記憶が残っていて、ついつい比較するところがあって、この「ワルキューレ」は
少しばかり損な役割だったかもしれない

国立のジークフリートの歌手たちの圧倒的な声、音量・音質・ニュアンス・余裕が
日本人の体格では少し追いつかないかな、、と感じられた、、、
でも楽しめなかったということはなくて、ただそんな風に思っただけのこと
(個人的にはジークリンデの人が良かったな) 

特に印象に残ったのは第3幕
夫婦喧嘩のシーンが長く、説明も多く持て余し気味の第二幕の鬱憤が
一気に開放されたように、冒頭のあの有名な「ワルキューレの騎行」から
音楽は急に熱気を帯びてきた
そこからは一気呵成という感じ
音全体が美しいとかバランスが良かった良かったとか言うのではない
そんなことは気にならなかった
ただただ、物語の世界を楽しむことができた

だが、途中変なことを考えた
自分はこの人気の「ワルキューレ」という出し物よりも
地味な「ラインの黄金」のほうが好きかもしれない、、、と
「ラインの黄金」は劇中に聴き応えの歌があるわけではない
でもライトモチーフ(示導動機)の活用が他の作品群より徹底されていて
音楽が暗示する、あるいは説明する部分が雄弁で、、
おまけに巨人とヴォータンが言い争っている時、
急に登場するエルダのシーンの効果的で美しいこと、、 

しかし「ワルキューレ」も美しいシーンが有った
ジークリンデがジークムントの子を宿していると知らされ
たった一度だけ奏される「救済の動機(喜びの動機)」が登場した時は
その効果的な美しさに思わずぐっと来た
有名なヴォータンの愛する娘との別れの歌よりも個人的には
このたった数秒間の音楽が印象に残っている
(この動機は「神々の黄昏」でも最後の最後に登場する)

それからライトモチーフではジークフリートのそれがかっこいい
恐れを知らずに火の囲いを乗り越えて来るのは(次の物語の主役は)
「ジークフリート」と暗示させるのだが、わかっていてもゾクゾクする

この演奏会はとてもコストパフォーマンスがいい
今回の席は普段なら高くて絶対座れないような1階のとても良い席を手にした
ただ困ったことがないではなかった
それは字幕が表示されるところがかなり上の位置にあったので
舞台を見るのとストーリを文字で追うには
視点の上下移動を頻繁にしなければならなかったこと
(でも贅沢な悩みだな、きっと)

次の「ジークフリート」は来年の9月と会場のポスターにあった
ジークリンデがジークフリートを産み落として成人になったところから始まるので
この1年以上の間隔は、その時間経過を考えると待ち遠しいけど良いものかもしれない

ということで、次もいくつもり
ただし、選べれるなら席は2階席のほうがいいかもしれない

 

 

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「ジークフリート」(新国立劇場)

2017年06月10日 09時31分36秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

長い長いヴァーグナーの畢生の大作「ニーベルングの指環」
その第3番目の演目「ジークフリート」を6月7日(水)新国立劇場見た(聴いた)

愛知県の田舎にいると指環を見ることはないと思っていたが
一昨年ちょいと足を伸ばして飯守泰次郎さんの「ラインの黄金」を見て
それが思いの外面白かったものだからこのチクルスを全部見ることに決めた

最近はオペラとかリートとか歌詞のあるのもは、老眼が進んで
文字を追いながらレコードやCDを聴くのがしんどくなっていて
ストーリーを追わずとも聴ける純音楽の方が楽でいい

と言っても折角の機会、持っているカラヤンの「ジークフリート」で
少しだけ予習した
ただあまり予習しすぎると現場での感動が薄れるかもしれないので
純音楽を聞くように歌詞は無視して音楽のみに耳をそばだてた

予習という点では もう一つ「ジークフリート」の公式HPの飯守泰次郎さんの
ピアノを使ってのライトモチーフの解説を見た(Youtubeにアップされているもの)
これがなかなか役立つ
ライトモチーフを知っているだけでストーリーの行間に流れるものが
理解できる(今流行の言葉を使うなら、ストーリーを忖度できる)

会場で始まる前、オーケストラの人たちがそれぞれ自分のパートのおさらいを
しているのが てとも気分を盛り上げる
それぞれがライトモチーフを演奏する
ファーフナーや魔の火、ノートゥング、運命、ワルハラのそれなど
バイロイトのように数分前のファンファーレはなくても
直ぐに行われるパフォーマンスに期待が高まる

このシリースは3回目となるのでだいぶ慣れてきた
歌詞が舞台の左右に表示されるが、大きな視点の移動をしなくても
さっと内容だけ理解して、舞台に集中して筋を追うことができる
最初に感じた歌手陣のパワフルな歌声も
今回はそれに圧倒されることなく、むしろストーリーをより効果的に
支えているものとして、つまり音楽の一部として聴けた

こうした楽劇とかオペラを見る時、音楽を聴いているのか
それとも筋を追っているのか、、時々わからなくなる
ライトモチーフの雄弁さを感じる時は明らかに音楽を聴いているような気もするし
興味はストーリー展開の方に支配されるようだし
結局はヴァーグナーの言うような総合芸術としての全体を感じているのかもしれない

あまりストーリーの予習をしなかったお陰で(?)舞台は面白く見ることができた
次はどうなるのか、、そんな興味がずっと続いた

特に「ジークフリート」ではダイジェストで使われる「森のささやき」のある
第二幕が大蛇の退治や叙情的なところもあり興味深かった
(この物語は メルヘンなのか神話のプロトタイプなのか)

物語は上の画像のように長い
第三幕もヴォータンの行く手を阻む試練も、自ら鍛え上げた剣で
ジークフリーは乗り越えて行く(ヴォータンのは内心喜ぶ)
そして炎に包まれ眠っているブリュンヒルデを発見
そして彼女の目を覚ます
その時に今まで知ることのなかった「怖れ」というものを知ることになる

このあたりのストーリーはパルジファルの場合にも2幕での
クンドリーとの関係で「同情を知る」という過程に似ていて
ヴァーグナーの定番のようなものかもしれない

そこまでは良かった
しかしそこからが長かった
ブリュンヒルデが目覚めてからジークフリートと運命をともにしようと
決心するまでが、話が行ったり来たり、、なかなか前に進まない
(まるで女性が焦らしているような、、、、)
少しこの部分長すぎるよな、、ヴァーグナーの脚本家としての限界って
こんなところにあるのだろうか、、、と思ったりした

結局、やはり筋を追っていたのかもしれない
指環は「筋を追う」物語なのかもしれない
だからこそ多様な読み替えの演出が後から後から生まれてくるのだろう

でも音楽がなかったら、ライトモチーフの複雑な感情を暗示させるものがなかったら
ここまで楽しめたかはわからない

歌手陣はヴァーグナー歌いで著名な方たちらしい、最近はレコード芸術等の雑誌も
読むことはなく、情報に疎い
その分偏見なしに目の前のものが良いか悪いか、好きか嫌いかが判断できる
この意味では評判通り歌手陣はすごかった、、、と思う

指環は残すところあと「神々の黄昏」だけになっている
ここまで来たのだから、今年の秋も見る(聴く)つもり
話が全部終わって、今まで奏でられたモチーフがいくつも登場し
振り返って、黄金が元のようにライン河にもどるそのシーン
つまりは大団円に向かうその音楽の効果はどんなものか、、、早く知りたい 
ヴァーグナーは天才か、人の心をつかむ怪物か、、、

 

 

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