紅しょうがの残日録

いい加減でアバウトで(^^♪

シタミータ

2024年02月28日 00時15分24秒 | 日記

下見板(したみいた)という建築外壁板張り工法の名前です。昔からある伝統工法で現代でもたくさん残っており、市街地では耐火基準の規制で板張りは出来ない地域も多いが、そうでない所では今でも使われます。

これはあるお寺の外周の塀です。見事なものです。お城の天守で姫路城みたいに白壁ばかりもありますが、熊本城・松本城など黒い板張りの部分が下見板であります。

横向きの板を下の板に少し重ねて上方へ張り上がっていくように見えます。これは壁に降りかかる雨が下に垂れ、板の継ぎ目で内部に入らないためです。板が下を見ているようなので「下見板」かな。

そして40cmくらいの間隔で縦方向に角材で押さえつけています。しかし単なる角材では、板の重ね合わせ部で段ができているため、下の板とに細長い三角のすき間ができてしまいます。そのため抑えの角材は板にぴったり合うように細い三角の刻みを入れています。ちょうどノコギリの歯の様にですね。

このノコギリ状で縦方向の押さえ角材(押縁)を簓子(ささらこ)といって、こういう工法の板張りを簓子下見(ささらこしたみ)というのだそうです。

今まで説明のため「横板を這ってから角材で押さえる」と書きましたが、実は張る前に、幅一間(けん)くらいの単位で、簓子(ささらこ)の枠組みに板を貼り付けパネルとし、それを壁に取り付けるのだと。上の写真で縦材6本目で角材が二重になっていますこれがパネルの境目であることを示しています。下見板と縦角材の固定にくぎなどは表から見えません。パネルと足て造る際、裏側から釘で止めているのでは。

 

 

 

 

以下は別のお寺にある鐘楼(鐘つき堂)の下部です。かなり立派な下見板張りで押さえの縦角材(簓子:ささらこ)は10センチ近い太さです。

 

鐘楼の四方の角は押さえ縦角材がなかなか工夫されています。

 

石積みの上に土台木を置き、銅版の水切り、飾り板など豪華な作りです。

 

立派な鐘楼の外観を紹介します。入母屋式屋根で高欄付きの2階に梵鐘があります。上記下見板は一階部分でよく見えませんが。

屋根瓦が桟瓦です。おそらくは本瓦葺だったものを補修の際変更したんでしょう。

鐘を突く棒です。「撞木:しゅもく」。材料は棕櫚(しゅろ)の木などが良いのだそうです。

 

入母屋屋根の軒先の隅には風鐸がぶら下がっています。いいねぇ・・

    以上

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大手黒門 発掘調査

2024年02月19日 15時38分52秒 | 日記

街中の何でもない小さな空き地をほじくっています。

(エクスプローラの調子が悪く、画像の整理が思うように行きません)

ここにはかつてあった城の大手門の址です。明治維新に廃城になり建造物は破却、濠は埋められ、土地は売り払われて住宅などが建てられ、城門の面影はありません。

 

城門址近くを歩いてみました。城は台地の上にあり、周辺は昔は田んぼなどで沖積地。湿地等もあったのでしょう。その湿地を要害として、台地に城郭部と侍屋敷‣商人地まで含めた城下町を「総構え」として外堀で囲み数か所の小さい城門を設けてる。

この中で城郭部(本丸、二の丸、東の丸、三の丸などが城の中心部)を取り囲む内堀がいくつかあった。この内濠で三の丸と城下町の出入りをするのがこの大手黒門で。

大手門近くの三の丸跡の台地の端。左側が城郭内の台地、右側は低い土地であり、この境に濠があったが今は埋められている。

これは右側が三の丸城郭。左が城下。ここにもかつて濠があった。

三の丸内は静かなさびれた住宅地になっているが、古い住宅や植え込みが多く風情がある。

向こうに見える三角屋根は城下の街で、手前に濠があり、大手門で出入りしていた。

これは大手門前の城下町側から大手黒門跡地。向こうの住宅地が三の丸です。道路が向こうに向かって屈曲しています。

これは大手黒門の「桝形」広場を挟んで二つの城門が一直線でなく、防御の目的から食い違いを持たせていたためです。

これは大手門から出て行く通り。左にあるのは寺院です。北へ向かい城下町を出る時外濠を出るため「追羽門(おっぱもん)」があり、そこを出ると東海道池鯉鮒宿や名古屋、京都へ向かうわけです。

立派な山門です。

大手黒門発掘調査地。

大手黒門から埋め立てられた濠、の発掘。ここに見える石積みと基礎の胴木は廃城後、埋め立てられた濠の土地に宅地造成のためのもの。

 

 

 

 

濠を埋める時瓦礫を捨てたのでそれが出てきて、そのあたりが濠の底であることがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長い時代の間にはしばしば地形の改変が行われる。この大手門の「桝形」すなわち門を二段構えにした防御用の小広場で最初からあったものでなく、ある時代に濠の中を埋立てて造ったらしい。

これは弥生時代の「方形集溝墓」の溝でこれの発見で、少なくともここは城門を作る以前からの台地であることがわかる。

発掘された埋蔵物。

 

 

 

 

 

下駄^^

      以上   

 

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