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トリオフォー&素人の乱シランプリそして場所っプ山下陽光の日記bashop77@yahoo.co.jp

神田古書会館で開催中のガリ版展にいってきた。

2004年10月18日 00時44分58秒 | 場所っプ
今日は晴れてて気持ちが良い。
古書会館へ行く。
貴重な資料をガラス超しにみながらため息。
ではなく、昨日書いた「パソコンで見てもわからない奥行き」を見たかったんだけど、綺麗すぎて、浮世絵や、レストランとかスシ屋とかに額縁に入って飾ってあるもののようにしか見えない。
なんだかしっくりこない。

しかし、展示の中央でガリ版の実演を黒船工房の佐藤さんが実演してて、それを見ると、ここにあるものが、この手順で行われたものであることに気がつかされる。

今回の展示はガリ版業界を大きく二つにわけると、創作派と複製派にわかれる。
創作派の展示がおおかったように思う。

創作派は文字どおり、自分で考えた(描いた)絵である。
複製派は原稿やネタがあっていかにそれに近づけて再現できるか?である。

昭和堂月報という昭和謄写堂というガリ版の会社が出していた社内報があってその社内報はガリ版で刷られていて、その昭和堂月報のクオリティ-の高さが物凄いもので、本とコンピューターが御デマンドで出版している「昭和堂月報の時代」にその当時の事がくわしく記されている。

会場には「ガリ版文化史」や「ガリ版文化を歩く」の著者でもありガリ版ネットワークを主催する志村章子さんも来てて、話しをする事ができた。

一言でガリ版を語るのはとても難しいけれど、ガリ版とは手書き原稿をそのまま製版出来て、それを複数に刷る事ができる道具である。

ガリ版が成長したものがプリントゴッコである。
プリントゴッコはペンで書いたものをピかッと光らせて製版してインクが乗る部分と乗らない部分が出来て絵の具を流して手作業でプリントアウトしていくんだけど、ガリ版は電気を使わないからピかッと光る事もなく、鉄のペンで油紙のようなものを削ってインクが乗る部分と乗らない部分を作ってその油紙のような原紙とよばれるものを枠にはって上からローラーで刷って紙にうつすんです。
ただコレだけの事なんだけど、物凄い哲学とこだわりが生まれて、ガリ版の文化の華が開いて、その技術と哲学と美学が込められたのが、昭和堂月報です。

昭和堂月報の話を志村章子さんにしていたら、いともかんたんにガラスケースの中から「昭和堂月報を取り出して見せてくれました。
「すごい、凄すぎる」
という感動と共に、「偽札を持っている気分」だった。

本コが出している「昭和堂月報の時代」に今自分が目の前で実際に触れている「昭和堂月報」の創刊号が完全復刻として収録されているんですよ。

今目の前にあるオンボロの紙ペラと家にある「完全復刻」された付録と全く同じなんですよ。
ただ目の前にある今触れている紙は時間と一緒に過ごしてきただけあって重厚さや本物感はヒシヒシと伝わって来るのですが、上手く説明出来ないので、逆あるある話として例えるならば、
「ここがブルータスに載ってたロータスかぁ」というテレビで見た事ある。という感じではなくて
変な違和感がありました。
今の技術で一枚の紙と全く同じような紙を作る(印刷する)のはとても簡単な事で、コンビニでカラーコピーすれば、なんとなくそれらしいクオリティーのものが複製される。
複製や復刻が良いとか悪いという事ではなくて、物凄く変な気分になった。
偽札は実際に持ったことがないから気分になったとしか言えないけれど、唯一似てる雰囲気で言うならば、じゃましマンの家に始めて遊びに行った時にクリーム(ワイレア)の女子高生の切り抜きをカラーコピーしてクリアファイルに入れてある物を見た時に、本物の雑誌のクリームよりもエロく見えた感覚に近かった。

古書会館の地下では早川義夫ワールド炸裂で古書市をやってて、俺、散歩と雑学とコーヒーとあとはなにが好きだって言えばいいんだっケ?という人がたくさんいて、値段が高くて手がでないけれど良書ぞろいでした。
志茂太郎がやっていた中野のアオイ書房が出していた「書窓」が売っていた。感激して立ち読みをする。

志茂太郎はアンチガリ版だったらしい。手書きの文字は印刷物とは認めない。と言ってたみたい。「美しい書物」をスローガンにして新品の綺麗な活字で作られた「書窓」を初めてナマで見た。
今の目で見ると「書窓」も「昭和堂月報」も美しさでは何も変わらない気がする。
「昭和堂月報」は活字にどれだけ近付けるか?というテーマがあったように思う。
しかし、俺達は活字ではない。という強固な意志が見えてくる。
つまり活字に近づく程上手い無個性な文字を手書きで書きながらも「活字はアンチ」
という精神が特に草間京平にはギンギンにあったみたいでおもしろい。

とにかく目がさめる1日でした。