たとえば今夜の夕食。米(「玄米をちょっと削ったおいしいお米」というのを最近は食べている)を一合、炊きあがったところにワカメ御飯の素とゴマ、粗塩、昆布の粉末を混ぜ込む。半分は夕食に、残り半分は明日の昼食用にオムスビにする(朝食は摂らない)。
フライパンに油。唐辛子を一本刻んで油に浸けておく。チンゲン菜を一株、適当に切ったものと、一口大に切った蒟蒻を炒め、そこへ水とき片栗粉+昆布粉末+粗塩+黒砂糖+醤油を投入。しばらく弱火で火を通す(それにより水とき片栗粉のとろみが滑らかになるんだそうな)。
と、いうようなのが今夜の食事だったのだが、やっぱり肉っけがないのは端から見ると寂しく感じられるのだろうか?ま、しかし食べてる本人にしてみれば実に美味いのであるよ。見た目は別に美味そうでもないけれど。
ところで、今日の昼間に仕事しながらぼんやり考えていたことなのだけれど、肉や魚を食べないと言うと「それは宗教か?」と聞かれるなんてのはベジタリアンの人々ならば一度は経験していることだろう。俺も一度だけある。実際に宗教の戒律によってベジタリアンになっている人もあろうけれど、俺の場合は宗教的なものとはまったく関係ないベジタリアンなのである。自身の健康のためと環境保全のため、動物愛護の気持ちもいくらかあり。そんなところ。
「宗教?」と聞く人の心にはやはり何かしらの恐れがあるのだろうか、なんて思う。自分の友人が肉を食べないような宗教に引っかかってしまったかもしれない、なんて。気持ちはわからんでもない。でもね、ちょっと視点を変えてみるとだね、「ちゃんと食べてあげることで成仏させてあげるのだ」とか「残したら罰が当たる」とか言いながら肉を食べるほうがよほど宗教者っぽいよな、なんて思ってしまったのだよ。いずれにしても、肉を食べたり食べなかったりすることを無闇に宗教と結び付けるのはやっぱり変だなあ、と。
以上、ただ何となく今日思ったことを書いてみたのみで、ここにはべつに結論も教訓もない。
* 別室ブログ(時々こっそり更新)
* mixi版 江都屋
ところで「感謝していただく」というのはまあ当然なのかもしれないのですが、私はどうも植物とか穀物だったらそのように思えるしそうしますけれども、肉についてはありえないと常々思うのです。
もちろん命であることにかわりないとも言えますが、そこに魂(のようなもの、と言った方がよいかもしれません)があるかどうかでやはり違ってくると考えています。
死にたくない!とか助けて!とかママはどこ?とか恐いよ…とか痛いよ!とかどうして?!とか。そういう魂を持ったものを殺した肉(ここまで羅列することもありませんでしたかね)を食べるのに「感謝」だなんて、クソでもお上がりになればヨロシイと思うのです。
どうしても食べたいというのならばそんなヒトにできることはただひとつ「謝罪」なのではないかと。
…急にアツくてすみません。主旨もズレてるしで(これゃ毎度か)。
しかしながら、菜食者でない人だって立派にたくさんの制約の中で暮らしているのです。でも、それに気付かないから「宗教ですか?」なんて言うのでしょう。
ベジタリアニズム(?)というのは、菜食による肉体的精神的な向上みたいな要素も含むひとつの知識体系であるという意味合いでならば、非常に広い意味で「宗教」っぽくもあるので、そういわれてもあながち間違いではないとはいえ、世間の人々が宗教という言葉を口にする時、そこには「おかしな考えを盲信する別世界に生きる人々」というニュアンスがありますからね、そのへんが問われてムカッとしたりする部分なんでしょう。
>Petsyさん
簡略化するのは難しいですよね。わかってもらおうとするほど言葉が多くなってしまいがちで。で、喋れば喋るほどキャッチセールスみたいになっちゃったりして。相手の誤解しているポイントがどこなのかがつかめれば話はけっこう簡単にできるのだけれど。
>ボージーさん
「感謝」ですませることができるのは、一般的にはパック詰めされた肉しか目にしないから、それは仕方のないことなんでしょう。敢えて驕った書き方をするならば、知識のない人に責任を求めてもしょうがないと、そういうことなんではないかと思います。
>kawauso999さん
以前ある場所で、菜食について「おいしいものを我慢してまで長生きしたくはない」という意味合いのコメントを読んだことがあります。でも、菜食を選んだ人はすでに肉を食べる事に悦びを感じないので、我慢はしていないんですよね。そのあたりに世間の人々の菜食に対しての大きな誤解があるんでしょう。
ただわかっているのは、皆ハッキリとは知らなくともウスウスは知っているのだということです。実際自分がそうでした。当時は「もっとこの目の前のお肉について考えてしまったらきっともうたべられない生活になってしまうのだ」と考えていました。
せめて「感謝」すればよかろうと私も思っていましたが、だんだんとそれが知っているのに誤摩化していると意識するようになってしまい「謝罪」に変わっていきました。
謝罪してまでもそれを食べるというのはしんどいものでそれが続くはずもなく、そうなってからは「こんなしんどい気持ちで食べなくてもいい」ということに気づき食べなくなりました。
だからといって、そういう頃の自分に誰かからいきなり「こうでこうで、こうなのだよ」と教えられたとしても、もしかしたら反発していたかもしれないと思います。それがどんなにやんわりで優しく正しい言い方であったとしてもです。
反発するのは即ち、そこにイタイ部分があるからですけれどもね。ウスウス知っているくせに食べているとか、そういう部分が。
他人を変えるのは難しいことですよね。難しいというよりも殆ど不可能なことだと思っています。そしておこがましいことであるとも。皆それぞれが自分の中での判断基準を持って生きていて、その基準が概ね正しいと思っているわけですからね。もちろん私も含めて。
もしも他人を変えたいと思うなら自分が変わらなくては無理なのでしょう。
本心で言えばもっと広まって欲しいというところではありますけども、口に出して言うということは殆どありません。できることと言えば「食べないこと」しかないのかもしれません。(あと祈ること?!そんなこと言ってるから宗教呼ばわりされてしまうのカモですな)それですら食べるヒトからするとイタイところを刺激されているのでしょうけれどもね。
ただおっしゃるように絶対数の問題でもあって、これが増えていけば自然に気づいて自発的に食べなくなるヒトの割合も増えると思いますし、希望的観測によればそれは増えていると思っています。
そう言いながらもついついweb上に自分のページを持ってこういう情報を流してしまう。MATRIXのモーフィアスとかトリニティとかのような思いではありますな。
ならばこのようにブログやチラシ、掲示などで自分のスタンスや考えを提示しておく→誰ぞがそれを見る→考える→一丁やってみっかという気になる。
ここには押しつけも、うっとおしい説得も、図星の指摘による立腹もなく、あるのはただ提示する方とそれを見る方各々の自主性のみです。
インターネット上であればチラシなどよりもさらに多くの人間に長い期間なおかつ広範囲にわたって「掲示」しつづけることができますものね。このような意味においても、理想的なツールであると考えています。
現在のようにインターネットが急速に普及したのも単なる偶然ではなくて、そういう平和ツールとしてつかってよネーという何かの意思が働いているのかもしれませんね。
(しまった。変人に見られるのはどちらにしても同じだ)
たしかに、この「ブログ」というものの存在を知った時には、これだ!と感じましたからね。その当時は自分がベジタリアンになるとは思ってもいなかったけれど。
ほんと、どーせ使うなら「平和ツール」として使いたいもんです。
いつもお世話になっております。
ところで、
>「ちゃんと食べてあげることで成仏させてあげるのだ」とか「残したら罰が当たる」とか言いながら肉を食べるほうがよほど宗教者っぽいよな
まったくそのとぉーり(-.-)bだと思います。
同感でございます。
やはり、理由付が必要なのでしょう、肉を食べるには。あるいは、何も考えずにただ単にそこにある一つの食材であると思えば何も心を痛めることなく口にできるけれど、やっぱり何か気づいているんでしょう。
10年ぐらいあとが楽しみです。菜食はもっと広まっていることでしょう。