Nyancoin Bakery / 江都屋

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8月6日に広島で考える

2007年08月06日 23時53分43秒 | ヨタ話/写真
 
 仕事しながらラジオを聴いている。広島ローカルの番組はやはり、原爆投下のこの日はそういう話題で、普段とは構成を違えて放送している。ほかの地域ではさほど話題にはのぼらないと聞く。それでいいのか?という思いと、まあそういうものだろうという思いの両方が俺の中にある。「"しょうがない"発言」を肯定するわけではない。あれはあれで、どのような文脈での発言かを理解しなければいけない。闇雲に非難するのもいかがなものか。

 多くの人が核兵器を非人道的な兵器であると見なす。いやまあ、兵器に人道的も何もなかろうけどね。核兵器に比べたら、拳(こぶし)の方がまだマシだろうか。少なくとも殴った側も痛みを感じる。しかしそれにしてもその本質に変わりはないのであって、つまるところ問題は、暴力でもって他者を支配しようとする、あるいは逆に、支配されることから逃れようとすることから争いや諍い、抗争、戦闘そして戦争が引き起こされるのではないか。個人個人の心にあるその思いが争いを引き起こし、より強い武器を欲し、その結果が核兵器なのではないか。

 俺の個人的な話。昨日の日曜日、訳あって休日出勤した。周りに誰もいない。一人で仕事をする。とっても楽なのである。平日には手のかかる人がいて機械の使い方を丁寧に丁寧に(何年同じこと言わせんだよ、とか思いながらね)教えながら自分の仕事もするのに比べて休日出勤の気楽さよ。あるいはその人とは別に、どうしても気が合わず、その姿を見るだけでむかつく、という人もいる。仲が悪いわけではないんだけどね。その人も休日にはいない。たまには休日出勤も悪くないよなとも思うが、俺が普段いかに周りの人を悪く思っているかを自覚してしまって、ちょっと自己嫌悪に陥ったのも事実。でもこういう気持ちは多かれ少なかれ誰の心にもあるでしょう?

 で今日、ラジオを聴いたりしながら思ったのは、そんな個人個人の他者に対する悪感情がつもりつもっていくことで終いにはその集まりの集団意識?とかいうものが戦争を引き起こし、どこかの地域が壊滅しても"しょうがない"ところにまで暴走させてしまうんではないかしら。ここでいう"しょうがない"というのは、文字どおり、誰もそれを止めるだけの力を持てなかったということ。だから、どの国がとか、軍部がとか、エンペラーがとか、なんだかんだ、どこに責任があったとかいう議論は不毛なんではないか。核兵器も、戦争も、内戦も抗争も差別もイジメも村八分もなにもかも、けっきょく個人個人の心の持ちように原因があったのではないか。戦争当時に生きていた人たちを責めているのではない。これは昔々から今現在に至るまで同じなのだ。

 (つづく)