Nyancoin Bakery / 江都屋

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注文しづらいメニュー

2009年01月28日 07時01分53秒 | ヨタ話/写真
 
 料理名を考える人は、注文のしやすさまで考えているのだろうか。

 「もっちり黒豚とぷりぷりブラックタイガーのサクサクフライランチ~シャキシャキレタスと完熟うっふんトマトのサラダ添え(ザーサイ、コーヒーつき)」みたいなメニューを真顔で注文することは私にはちょっとできそうもないのである。メニュー名を考えついたなら先ずは鏡に向かいその名をあたかも注文するかの如く声に出し、鏡に映る自分の顔に語りかけてみる。ひとりの大人として、恥ずかしくなくその名を言えるようならばそれを採用すればよい。さもなくばボツ。お子様ランチではなく大人の食事なのだから、あまり擬態語や擬音語に頼らないで戴きたいものだ(お子様ランチ、というのも相当に恥ずかしい名前ではあるね)。

 その他の例として「土鍋炊きほっこり玄米シアワセ五穀ミックス」とか「キュウリのたたき(ピリ辛ッ)」などが挙げられる。いかにもそれ風、悪く言うなら、定番のおどけ具合に浸っている名付け方。こりゃいけない。注文するにも恥ずかしく、名前を言わずに、これとこれとこれ、みたいに指さして注文することになる。なんということだ。

 ちなみに今までで一番恥ずかしかったのは、豊島園のプールで注文した「ブルーハワイ」という青いシロップのかかったかき氷だ。豊島園のプールでブルーハワイを注文することはある意味、「もっちり黒豚」よりもずっと恥ずかしい(もっとも、今はベヂタリヤンなワタクシであるので、もっちり黒豚も注文しないのだがね)


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車内でジャンプ

2009年01月17日 10時20分37秒 | ヨタ話/写真
 朝の地下鉄が薄ら寒い。土曜日で人が少ないせいもあろうが、連結部にドアのないタイプの車両なので、前方いずれかの車両のどこかから風が吹き込んできているようだ。時折、髪が風になびく。

 そこで思い出すのは、走る電車内でジャンプした場合、着地点にズレは生じるか否か云々の話である。理論上は同じ位置に着地することになっている。車内の空気も一緒に動いているから、というのがその理由らしい。何となく腑に落ちないところがなくもないが、そこはまあ、この物質宇宙の法則として受け入れることとしようか。

 受け入れはするが疑問は残る。先の話はあくまで、空気漏れのまったくない密閉された状態での話だ。今朝のような隙間風の吹く地下鉄の車内ではどうなるのか。あるいはまた、隙間風いっぱいの築50年のあばら屋の居間で老婆がジャンプした場合、地球の自転がその着地点に与える影響はいかばかりか…などと考えていると夜も眠れなくなりそうだが今はまだ午前中なので何の心配もいらない。

 興味がおありのかたはこの件について夜通しででもお考えください。結論は特にお知らせ戴くには及びません。話が余計にややこしくなりそうなので。

 んじゃまたね

ぼぐらい(追記アリ)(さらに追記アリ)

2009年01月08日 03時55分44秒 | ヨタ話/写真
(注:この記事は勘違いが元で書かれています。)

 夜遅くに小説を読んでいて「薄ぐらい」という字の読みが一瞬わからず(いや、真夜中のことだもんで頭ボンヤリしてたのよ)、少し間を置いて、これは「うすぐらい」と読むのだなとわかったが、どうもしっくりこない。「うすぐらい」の「うす」はちょっと違う字で、「簿」は「ぼ」と読むのではなかったか。そうだ、これは学期末にもらう「つうしんぼ」の「ぼ」ではなかったかしら、これでは「ぼぐらい」と読めてしまうぞ、とかなんとか思いながらケータイで文字を打って変換してみる(職場にいるんで手元に辞書がないのだ)。なんと意外なことに「うすぐらい」の「うす」も、「つうしんぼ」の「ぼ」も、どちらも「簿」だったのである。こんなことに今更気づくなんて…。が~ん。

 読み方がわかったので無事に小説を読み進めることができるのはよいのだが、どうも腑に落ちないのは、「通信簿」の「簿」だ。あれはたしかに薄っぺらい二つ折りの紙ではあったけど、それを「簿」の字で表すのもなんだかなぁ…な気がするぞ。あるいはこの文字にはさらに深い意味合いもあるのだろうか。ナゾは深まるばかりである。ううむ。

… … … … … … … … … … …



*追記:Yahoo辞書で調べてみた。
    「書き付けをした薄い竹のふだ。帳面。」とある。ナルホドね、納得。

*さらに追記:ちょいと、とんでもなく勘違いをしていたようだ。今朝方、カノジョから俺の勘違いを指摘するメールが届いたのである。それでようやく気がついた。ついでに一気に目が覚めた。

 そもそも薄暗い場所で眠い頭で小さい文字の文庫本を読み、さらに小さい文字の携帯電話で文字の確認をした(しようとした)ところから勘違いが生じていたもので、文字を大きくするとよく分かるのである。

 薄ぐらい通信簿である。
 前者は草かんむりで、後者は竹かんむり。同じ文字ではなかったのだ。深まるナゾも何もあったものではない。

 ちょっとした確認ミスがさらに思考力を固着させてしまったようだ。いけませんな。

 (弁解するならば、その小説に「薄ぐらい」ではなく「薄暗い」と書かれていれば違和感なく読めたのにな、とも思う。必要な漢字は必要なだけ使って欲しいものだ。その作者なりの意図があってそう表記したのだとは思うのだけれど)

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あけま……

2009年01月02日 15時33分59秒 | ベジタリアン
 ……しておめで(以下省略)。時候の挨拶というのはやっかいなものですね。

 さて、今朝ふと思い出したことがある。小学校の頃に読んでいた雑誌にこんなような内容の記事があった。曰く-将来、地球の人口が増え続けると食糧生産のための土地を確保するのが大変になるであろう。人口が○○億人として、居住にあてるのが○○平方キロ、残りの土地で米と野菜(ほうれん草だかなんだか)を作り、豚(食用ですな)を飼い-云々。なるほど大変な状態になるのだなと思ったものだが、どうも腑に落ちない。豚肉とほうれん草と米飯のみの食事で延々と続いていく人生というものが想像つきにくかったのだ。もちろん今でも想像し難い。いったい何のための試算だったのかね。

 このテの計算をする人は、計算能力には優れているのだろうけれど、それに見合うだけの人生あるいは生活に対するリアリティを持ち合わせていないのだろう。だからこんな、イタイケな小学生の不安を煽る以外に何の役にも立たないデータがでてくるのだ。

 さて、そのアホタレ記事を読んでから30年ほど経ち、ベヂタリアンなんてものになってみると尚更、先のデータはまったく価値のないものに思えてくる。なんせ肉を食べる必要がないのだから、豚を "いずれ食糧とするために飼う" 必要もない(いちおう言っておくと、牛や鶏も)。あいた土地で他の穀物や野菜をもっと作れるぞ。よいではないか。土地や資源の有効活用であり、健康的であり、精神衛生上もよろしい。地球はまだまだたくさんの生命(人類含む)を養えるのだ。

 とまあ、こんなようなことを考えてみた。子供の頃から漠然と抱えていた不安はいくらか和らいだような気がする。せっかくの新年だものね、景気よくいこうではございませんか。てなわけで今年もよろしく。

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