「乗らないぞ
悪のレールの
口 車」
しかしだね、口車というものはその決意に関わらず、知らず知らずのうちに乗ってしまっているものだったりするのだよ。それだからこその「悪のレールの口車」なわけでね、それに乗せられないためにはどうすれば良いのかという点がすっぽりと抜けているね。こうした標語の類いのものには実用性だとか具体性というものは求められていないのだろうか。語呂の良さげな言い回しを街の彼方此方に置くことで一種の結界を設けようという思想なのだろうか。なるほどそれならばむしろ実用性や具体性をあえて省くということも一つの方法ではあろう。なんてね、そこまで考えられているとはとても思えぬ。街を汚す以外に何の役にも立たぬこのテの標語看板は法律で禁じるべきではなかろうか…と、時々思う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/9c/e3b151147f79db3c2fc82e2321715dbd.gif)
アルコール飲料を飲まなくなってから約二週間経つ。いや実際はもっと前からではあるが、アルコール飲料に対する気持ちの明確な切り替わりを自覚してからそれくらい、ということ。では前回の記事「酒をやめる」の続き、あるいは補足。
「鈍行列車の旅」とかの類のテレビの旅番組なんかでは、旅をしているタレントさんが温泉宿なんかに泊まって「おつかれさまでした~」とか言いながら小さいグラスのビールで乾杯する場面が必ずと言っていいほど映される。この正月休みにもちらっと見た。これを見ると何となく、疲れたらビール、みたいに思ってしまうね。心に刷り込まれてしまうね。そんな何気ない一つ一つの場面が無意識的に作用して、一仕事終えたらビール♪となってしまうのかもしれない。まあたしかに、一仕事終えてのビールはうまかった。でも飲まなくてよくなってみると、ああいう場面が必ず映されることに、「悪意なき悪習の伝播」というような言葉が心に浮かび、複雑な気持ちになる(やめたからこんなことが言えるのだ。多くのお酒を飲む人を悪者にする意図はない)。
前回の記事に書いたように、酒をやめられるものならやめにしたいと思ったのは、昨年の初夏頃(だったと記憶している)から数度、飲酒について彼女と話したことによる。その彼女も十年ほど前までは酒を全く飲まないわけでもなかったとのこと。しかしある時を境に、飲まずにいることを決めてみたら飲まずにいても平気だということが分かり、今に至るということだ。始めのうちはその話を聞いても、とても俺には耐えられないと思った。飲酒は悦びだったのだ。悦びであるが溺れやすいものであるから節度が必要で、ときに我慢することも必要。そんなこんなで休肝日を設けてみる。最初は渋々だ(先の記事では「軽い気持ち」と書いたが、渋々でもあったのだ。渋々ながらも軽い気持ち)。休肝日の翌日は却って酒量が増えたりもしたが、しばらくすると飲まなくても大丈夫な日が増えてきた。リバウンド(というのかね)も抑えられてきた。ずいぶんコントロールできてきたと自分でも思っていたけれど、まだまだ甘かった。たまに「肝試し」と称してビールやチューハイを飲むのがやはり「悦び」だったものね。だから忘年会などでは調子に乗ってスイスイと飲んでしまうのだね。というか、そういう場で飲まずにいることは耐えられない、のだ。まったくコントロールできていない。
飲酒には、それにまつわるいくつかの思い込みが存在する。社会が個人に植え付けた固定観念がある。それゆえに、飲まなければならないようになってしまう、…らしい。体質的にアルコールを少しでも摂取すると命に関わるような人ならば運良くその罠から逃れられるのだが、たとえば俺の場合、けっこう飲めてしまうのだ。これがかえって良くなかった。飲酒を良しと(あるいは必要悪と)する集団思考にこれほど都合の良い体質はなかろう。誰が騙すでもない、自分で自分を騙し、毎夜毎夜とアルコオルを摂取し続ける。気づくのがやや遅すぎた感もあるが、まあよかろう。これから立て直せば良い。
(この話題についてはたぶんもう少し書くことがあると思うので、まだまだ続く)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/9c/e3b151147f79db3c2fc82e2321715dbd.gif)
*リンク:疋田智の「週刊 自転車ツーキニスト」-朝のワイドショーにとほほ……の321号
自転車は車道のどちら側を走るべきか。これは簡単、と言いたいところだが意外と知られていないのだね。自動車と同じく左側を走ることになっている。
ところがなぜだか当然の顔をして車道の右側を走る人々が存在する。エンジンがついていないから「クルマ」ではなくて「歩行者に毛の生えたようなもの」というような認識なのだろうか。道路交通法上、自転車は「軽車両」であって、立派な(かどうかは知らんが)「クルマ」なのだ。まいったか。だから左を走るのだよ。決まりヲ守ラナイト怒ラレルからそうするのではない。車は左、の我が国の道路では右側通行をすると自分や周囲に生命の危機が生じるのだ。ちょっと考えれば分かりそうなものだが、逆走をする人々にはおそらく、多くの悩みがあってそこまで気が回らないのだろう。そうに違いない、うんうん。
さてその逆走自転車が個人レベルでのことならば単に「迷惑なやつだなあ」ですむのだが、公共の電波で逆走を勧める人物がいたのだという。文頭に記したメルマガ疋田智の「週刊 自転車ツーキニスト」-朝のワイドショーにとほほ……の321号を読んでいただきたい。なんとも情けないことだ。涙も乾いてしまいそうだ。まさかテレビの朝ワイドの司会者ふぜいの言うことを考えもせず真に受けて「あらいけない、これからは右側を走らなくっちゃっ」なんて人々がそう多いとも思えないが、その番組の視聴者の数パーセントでも真に受けたとしたら…?どうなるんだろうね?
*トラックバック→物欲覚書、あるいはモノ申すチャンネル 哀の無知(2008/1/10)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/9c/e3b151147f79db3c2fc82e2321715dbd.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/3b/3c20e2b3c56bf5042427a90d60e612b6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/07/bfd46190311fc00cfb9e7aeeaced536f.jpg)
で、昨年の11月15日付の記事のコメント欄で、お正月の神社での焚火の呼び名を見てくると書いたことをこの場に行ってから思い出し、忘れないうちに写真に納めてきた。お焚上げ、というのだそうだ。なるほどなかなかきれいな名前だ。
神社の人が火を管理しているのだが、参拝客がてんでに持ってきた昨年の破魔矢やらお守りやら達磨やらを勝手に投げ込んでいくので、火勢にムラがあってけっこう楽しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/d3/6c8c1087fa71c48335b0a76ae79dd4c9.jpg)
真夜中なのに大繁盛だね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/9c/e3b151147f79db3c2fc82e2321715dbd.gif)
この年末年始、酒を飲まずに過ごしている(年明けの祝いの席で二度ほど口にはしたけれど)。どうやらこれで飲酒の習慣から抜け出せたように思えるので、新年の抱負とかいうことでもないのだけれどここで言っておこう。酒をやめることにしました。
話の発端は昨年の秋にさかのぼる。俺がアルコール飲料を口にしない日がないことを彼女が心配し、週に一度くらいは休肝日をつくったらどうかと勧めてきたのだ(俺の飲酒について話はそれより以前にもあったが、今回のヤメ酒につながるものとしてはこの時期かなと思う)。なるほどたしかに、自分では飲酒をコントロールしているつもりではあったが、飲まない日がないというのはよろしくない。あまり心配をかけるのもなんだし、休刊日くらいつくれるところを見せて安心でもさせようかということで週一の休肝日を始めてみた(実は自分でもうすうす危機感を持っていたので、この軽い気持ちは表面上のものでもあったのだが、それに気付くのはもう少しあと)。
さて、そうは言っても週に一度となると曜日が決まってしまう。たとえば土曜日と決めてしまうと、毎週決まって土曜の晩に酒が飲めないということになってしまう。それはつらい。てなわけで休肝日を五日に一日ということにしてみた。そうすると、たとえば月曜日に飲まず、火水木金は飲んで、土曜に飲まず、日月火水飲んで、木曜飲まず、のように週ごとにずれるのであまり悲しくはない。これで数週間やってみた。ある週気紛れに、そのローテーションからいくと飲んでも良いとされている月曜日に飲まずに過ごしてみた。火曜日も飲まず。水木は飲んだのだったか、金土はまた飲まず。飲まなくてもつらくない。その調子で飲まない日を増やしてみるようにしてみた。そして11月ころには週に一度だけ飲むというくらいのペースになっていった。ずいぶんと飲酒をコントロールできるようになったと感じたものだ(実際はまだまだだったのだが)。
12月。忘年会や友人宅で飲酒する機会が続き、またまたコントロールを失いかける(せっかくうまくいきそうだったのにとも思うが、飲酒のコントロールはたやすく崩れてしまうものだと実感するにはちょうど良い時期だったかもしれない)。忘年会の明くる日、また彼女と俺の飲酒について話す。アルコールというのは本質的に麻薬と同じである。酒を飲んでいない素面のときの俺を彼女は当然のこと知っている。その俺がなぜ、アルコールという薬物を飲まなければいられなくなるのかわからない、と彼女は言う。理解しようともするけれども、やはりわからない。俺自身もそれを薄々感じながらも気付かぬふりでこの十年ほどほとんど毎日酒を飲み続けてきた(二年ほど前、数カ月間飲まずにいたことがあったがそれもほんの少しのきっかけで酒飲みに戻ってしまった)。もうこれ以上、飲酒をコントロールできるフリをするわけにはいかない。まだ肝臓やその他の臓器を壊してはいないが、いつそうなるかは知れたものではない。いやいや、問題は体だけではなく、心の持ちようの問題でもあるのだ。アルコールを飲まずにいられない(いられなかった)状態はやはり、不健全ではある。
ということで、決意がゆるがぬよう必要な知識も得るべく「禁酒セラピー」なんて本も読んでみたりして、そうこうするうちに本当に飲まなくても平気になってしまった。我慢して飲まないのではない。飲酒それ自体を幸せと感じる理由がなくなってきたのだ。だから、もう飲まなくてもいい。休肝日をつくったらどうかと勧められた時にはこんな風になるとは思ってもみなかった。それは彼女にしてもそうだったろう。歯車がうまく噛み合ったのだろう。うまいことアルコールの罠から抜け出せたようだ。感謝感謝。
ところで、酒を飲まなくなることで人生の楽しみを一つ無くすという意見があるが、それは真実ではない。逆に、アルコールに左右されない人生を踏み出せるということで、俺はひそかにワクワクしていたりもするのだ。
(この記事は単に、一人のベジタリアンである私、江都屋黄金丸が個人的に酒をやめるに至った経緯を書き綴ったものです。
"ベジタリアン"カテゴリーに入れてはありますが、ベジタリアン必ずしも"酒を飲まない人"ではありません。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/9c/e3b151147f79db3c2fc82e2321715dbd.gif)