バカ犬

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裁判員制度って

2009-05-24 | Weblog
裁判員制度が始まった。「常識ある市民の目線での裁判の実行」なんていわれている。

でも、本当にはどんな目的でこの制度が始まったのか、今となっては皆目分からない。メディアは裁判官に選ばれた人の反応を、賛成と、反対にわけて公平かのように報道しているだけだ。当初の目的については、今や全く触れていない。

僕は裁判に付いては全くの素人で、大学の教養の頃の「法学」以上の勉強はしていない。そんな素人の目から見れば、凶悪犯罪を含む事件の無罪、有罪を確定し、さらに死刑を含む量刑まで裁判員と裁判官一緒になって、一審を行うという今度の制度、その必要性がどこにあるのか全く分からない。

確かに一般常識からは考えられない判決に過去出くわしたことはあるものの、では今度のように一般市民が参加することで、そうした判決が防げるという保証もない。

逆に、法律の基本である「罪刑法定主義」という正義の概念のないまま、一般市民が検察の述べ立てる証拠と、弁護側の反論だけを聞いて、正確な判断が短期間にできるとするには危惧のほうが大きい。しかも、多数決だと聞く。

日本人の性向を見ると、横並びで、自分の意見はあまり積極的に打ち出さない、もしくは打ち出せないという特徴に目が向く。

会社の会議とか、大学のゼミとか、地域社会の会議だとか、自分の立場を明確にせざるを得ない立場に置かれたとき、最初にやることは、隣の人とか、先輩とか、発言の多い人の意見を聞いて、それに対する賛否を消極的に行っている姿が容易に浮かび上がってくる。

グループの中で、自分の立場を明確にして、議論を戦わすって姿はあまり見たことがない。何しろ、今までの教育では、ディベートということすら体験した事のない人ばかりだ。

もしこの仮説が正しいとしたら、裁判官がいくら頑張っても、結果としてはその場で、偶然イニシアティブを取った人の意見が主流となって、感情的な判断、触れ巾の大きな判断が大手をふってまかり通っていくように思えてならない。

裁判員自身のその裁判に対する経験は、けして次の裁判に生かされていく事はない。何しろ、生涯の守秘義務が、そんな経験を継承する道を絶っている。その裁判は本当に、一回こっきりの判断なのだ。

裁判所は、やってみて、問題あれば直していけば良いなんていっているが、それはとんでもない話だ。

こんな裁判で、一生を決められてしまう容疑者にとっては、この裁判員制度は恐ろしいものになってしまう。控訴しか道がなくなるわけだから。

ちゃんとした教育と、判例研究とか、先輩からの指導・経験に裏打ちされた公正な裁判にしていくことが大切であって、国民に難しい審判の片棒を担がせて、民主かされた裁判ですと言い訳されても困るのだ。

うがった見方をすれば、国は、裁判員の形成するその場の空気を利用して、彼らの意図する方向に国の世論合成を狙っているのではないかとも思えてくる。即ち、その場の空気を牛耳ることのできる人を一人確保できれば、8割がた、その裁判の結論を誘導することができるからだ。そうした判決を積み上げていけば、自ずと、ある価値概念が世間に出来上がっていくにちがいない。社会心理学の実験でそれは実証済みの行動指向なのだから。

この制度に賛成で、積極的な人には、こうした危惧をどのように見ているのか知りたいものだ。